第二部 7.惑う蝶の夢  -永遠の闇の国の物語-

 ゆらゆらと揺らめくオレンジの灯火が作り出す陰影に、誘われるように吸い寄せられた小さな蛾が、その翅に炎を燈してジジジ…ッと燃えながらポトリと落ちてしまった。
 その儚げな姿に双眸を細めていたユリウスは、眉間に皺を寄せて、見るからに不機嫌そうに歯軋りしているのだろう、自らの主に目線を移すと事の成り行きを今一度確認した。
 遠い昔から密談に使用されていたらしい狭い広間は、黒天鵝絨に全面の壁を覆われ、入り込むべき入り口すらも、内からも外からも見つかり難い仕様になっているようだ。なぜならそれは、この部屋のいたるところに秘密の通路が隠されてあるからに違いない。
 ユリウスはひっそりと値踏みし、殊の外落ち着いた仕種で鼻に皺を寄せたようだ。

(なるほど、これならば少々の声も外には漏れぬだろうよ)

 驚くほど厳重な設備は、現在、沈黙の主の居城となっている朽ち掛けたラスタランの城よりも上等で、戦場で魔物どもに皆殺しの番人と恐れられているユリウスは、その完全に外界から遮断するような鉄仮面の裏に感情をひっそりと隠すと、忌々しそうにニヤッと口許を歪めた。

(…何時の間にこれだけの改修をしたのか。はてさて愚問だが、この豪奢たる砦で何を企む?)

 忌々しそうに舌打ちする沈黙の主の傍ら、本来ならば影のように自分が寄り添っているはずの場所にのうのうと陣取って、さも真摯に眉を寄せているセスを見詰めながら、それでもユリウスの感情が揺れることはない。
 鉄仮面は、彼を不利にもすれば、時に絶大な効果で有利にすることもある。
 いつもながら、どこに在っても物言わぬ影のようにひっそりと佇んでいる漆黒の騎士に、絶対的な信頼を寄せる自らの家臣に、沈黙の主は目深に被ったフードの奥からキラリと光る双眸で胡乱気に呟いた。

「どう思う、ユリウス」

「…何れにせよ、城に戻るべきです」

「矢張りな…判ってはいるんだが。ったく、厄介なことだ」

 伝令の報せによれば、沈黙の主がラスタランの都をコソリと抜け出した深夜、魔物どもの動向にも変化があったようだ。どうやら、何かを求めている一団が、夜の闇に乗じて行動を起こしたらしい…その数や、誰が率いているのかまでは判らないが、猛然とこの第二の砦に迫っていると言う。

(まあ、この砦のこと。難攻不落とまでは言わずとも、暫くは持つだろうが…主を留め置くわけにもいくまい)

 どうせ、風変わりな人間を見定めてからすぐにでも出立する予定だったのだ。

 ユリウスはたとえこの砦の戦士たちを総動員したとしても、闇夜に暗躍する数も武力も想像の域を出ない敵の手によって、おめおめと沈黙の主を急場に追い込むなどとはこれっぽっちも考えることすらしなかった。
却って派手に動けばそれだけ闇に慣れている魔物に気付かれてしまうだろう、それならばいっそ、少人数で砦を離脱し、第五の砦まで一気に駆けて夜明けを待った方がいいのではないか…ユリウスの思惑は即ち実行で、こうなってしまったら彼の言葉は主の言葉になる、と言うことを、ラスタランに従軍する者たちが知らないことはない。
 もちろん、傍らで様子を伺うセスも然り…なのだが。

「ユリウス、仕方ない。お前のプランを聞こう」

「…ハッ」

 冷たい鉄仮面の奥の紅蓮の双眸を細めて頭を垂れる黒甲冑の騎士に、セスは忌々しげな視線をコソリと向けていた。
 もう間もなく、あの方がお出ましになると言うのに…どこに密偵が潜んでいたのか、早馬の伝令は驚くほどの的確さで事態を主に告げやがったのだ。
 セスにしては面白くない。

(…何が魔物だ。魔物のような低級な連中がこの砦のことに気付くはずがねぇだろーが。それに、シンナが護っていたとは言え、あんなたかがガキ1匹に、魔物が躍起になるワケねぇっての!…恐らくあのお方の手の者がこの砦に向かっておられるのだろう。チッ、万事休すってヤツだッッ)

 ユリウスの低い声音が淡々と計画を話す傍らで、セスが溜め息を吐いていた。
 何もかもが巧くいく、もちろん、そんなワケがないことを知らないセスでもない。
 これから蛻の殻になってしまった砦の中に、あの方の手の者を導きながら…はてさて、どの様な言い訳を試みようかと、セスの心はどんよりと曇っていた。

Ψ

「…」

 第三の広間は外からでは容易に出入り口を見つけ出すことのできない仕様になっているらしく、だが、それ故の隠し通路のようなものも幾つかあった。
 本来なら密談に使用されるべき場所であるのだから、何時誰が攻め込んできてもいいように、縦横無尽に逃げ出すための秘密の通路が隠されているカラクリ部屋のような場所である。
 と、光太郎はアリスに説明を受けていた。
 その存在こそ知ってはいたものの、そんな仕組みになっているなどとはこれっぽっちも知らなかったケルトは目をまん丸にして驚いて聞いている。その傍らで、魔軍の大隊長であるバッシュも興味深そうに耳を傾けていた。
 それは丁度、早馬の伝令が居合わせている沈黙の主、漆黒の黒騎士、セスに向かって伝達を伝えている最中の出来事である。
 だからこそ、ヒソヒソコソコソと話をしている3人を無視して、光太郎は秘密の通路から覗き見ることのできる室内を見渡しながら、呆然と双眸を見開いていた。

(誰かが…この砦に向かってるだって?それって…それってまさか)

 胸がドキンッと高鳴って、思わずハッと我に返ってしまう。
 誰もいなければきっと、高鳴る心臓の辺りをギュッと掴みながら、そうであって欲しいと必死に願って座り込んでしまっていただろう。
 シューであってくれたらいいのに。
 この砦に猛然と向かっているその魔物が、どうか、シューであってくれたらいいのに。
 声に出すことなど勿論できないでいる光太郎の気持ちを知っているのか、バッシュは動揺したように落ち着かない光太郎の肩を、突然乱暴にグイッと抱いて引き寄せると、色気のない黒髪に鱗に覆われた頬を寄せながらぶっきら棒に言うのだ。

『ほらな?大丈夫だって言っただろ。きっと、シュー様が迎えに来て下さるんだ』

「…そうであって欲しいって、思っちゃってるんだよね。ハハハ…危険だって判ってるのに」

 面白くもないのに態と笑う光太郎の声は何処か虚ろで、それから引き攣ったように痛々しかった。
 逢いたい想いと、逢いたくないと言う隠せない感情。
 その、まだ幼い少年の身体の中で渦巻く感情は切なくて、独りで立っているのだって本当はやっとに違いないだろうに、毅然とする光太郎の態度には何時も感心していたバッシュでも、この時だけは何も言わずに引き寄せた腕に勇気付けるようにギュッと力を込めてやった。

「…ありがとう、バッシュ。ありがとう…でも、ごめん。俺、ちょっとだけ弱くなってもいい?」

 頼りなく震えてしまう肩を隠さずに、光太郎は鱗に覆われた胸元を隠す甲冑に額を寄せると、我が身に起こってしまったあまりに悲惨なことを走馬灯のように思い出しながら、それでも、シューに逢いたい気持ちを抑えることができず、それを励ましてくれる蜥蜴の親分のようなバッシュに囁くように呟いていた。
 それは、アリスやケルト、ましてやバッシュですら今まで聞いたことのない、光太郎の偽らざる初めての弱音だった。
 この砦で暮らしてきた彼らには判らない感情で深く結びついている光太郎とバッシュの絆は、恐らくアリスやケルトが思う以上の何かがあって、だからこそ、前向きで直向な少年が両肩を震わせながらも、縋り付くように額を押し付けて震える睫毛に縁取られた瞼を閉じて願う気持ちを、魔物であるバッシュは受け止めてしまうのだろう。

『いいぜ。おう!当たり前だろ?』

「…ありがとう」

 アリスとケルトはソッと目線を交えると、光太郎が落ち着くまで静かに口を噤むことにした。
 何時もは煩いアリスも、この時はツンッと外方向きながらも、別に不機嫌そうでもなく見て見ぬ振りを決め込んでいるようだった。

「…バッシュ、俺は酷いヤツなんだ。ここは敵陣で、危険がそこらじゅうにゴロゴロしてるって言うのに、シューに逢いたいんだよ。口先では危険だから来ないでって言ってるくせに……違うんだ。本当は今すぐにでもここに来て、助けて欲しい。シューに思い切り抱きつきたい。どんなことをしてでもシューに逢いたい…そんなこと、平気で考えているんだ」

『…』

 バッシュは黙って聞いていた。
 心の奥底に渦巻いているはずのドロドロの醜い何かを、こんな小さな身体の中で必死に抑え込んでいたに違いない光太郎の、その涙ぐましい努力が、魔物である自分たち仲間を想う気持ちだと知っているから、バッシュは何も言わずにその震える肩をギュッと抱いた。

「シューに逢いたい、シューに逢いたい!俺、どうにかなってしまいそうなほど、シューが好きなんだよ」

 両手で顔を覆いながら、初めて本音で吐き出すその弱い気持ちを聞いて、バッシュは薄暗い秘密の通路の天井を見上げた。

『…バッカだなぁ、光太郎は。そんなの当たり前だろ?逢いたいから、頑張って生きるって決めたんじゃねーか。だったらさ、お前は弱くなんかないんだよ。そう言うこと、ちゃんと口に出して言ってもいいんだぜ?大丈夫、ちゃんと俺は聞いてるからな』

 顔を覆っていたはずの両手が揺らいで、信じられないように涙に濡れた双眸を開いた光太郎は、おずおずとバッシュを見上げた。
 今まで、必死に泣かないように頑張っていた光太郎は、シューの言葉を未だに信じているように、涙を堪えながら蜥蜴の親分のようなバッシュを見詰めている。その眼差しに、バッシュの心はズキリと痛んだ。

(こんな世知辛い世の中じゃなけりゃ、光太郎だって普通の子供のように陽気に笑って…こんな風に、必死に心を隠す必要なんてないってのになぁ…畜生ッ!どうして…ああ、どうして戦争なんて起きやがるんだッ)

『シュー様に逢うんだろ?ここに向かっているのがシュー様なら、敵陣なんて屁の河童さ!あの方は敵陣の中を風のように走り回ってバッサバッサ斬り倒していくんだ。危険なんか思う暇なんざあの方には一切ないに決まってんだろ。だから、シュー様だって、お前に逢いたくて仕方ないんだよ。それなのに、光太郎が逢いたくないなんて言う方が、シュー様はヘコんじまうんだぜ?』

「バッシュ…」

 蜥蜴面でニヤリッと笑うバッシュを見上げて、光太郎はポロリ…ッと頬に涙を一滴零した。
 キラリと光る涙は、まるで尊い宝石か何かのようにホロホロと頬を滑って、そして音もなく床に零れ落ちてしまった。
 一瞬、慌てたようにバッシュが掌を差し出したけれど、ほんの少しタイミングが合わずに、涙は冷たい床に吸い込まれてしまう。

「…ありがとう。俺は…バッシュと仲間になれて本当によかった。ずっと、感謝してるよ」

『うはっ!よせやいッ。俺は当然のことを言ってるだけなんだ。礼なんか言われる筋合いはないねッッ』

 盛大に照れたように首筋を掻くバッシュに、ふと、それまで黙って事の成り行きを窺っていたアリスがクスッと笑ったようだった。
 それで漸く、ハッと我に返った光太郎は、アリスとケルトが無言のままで微笑んでいるのを見て照れ臭そうにエヘへッと笑って頭を掻いている。
 とんだ醜態を晒してしまった…とは思ってもいないのだろう、少しだけ調子を取り戻した光太郎に、アリスとケルトは顔を見合わせて、次いでホッとしたように肩を竦めたり、涙ぐんだりしてそれぞれの仕種で気持ちを表現しているようだ。

「アリスやケルトにも迷惑をかけちゃったね。ごめん」

「謝ることってないし?大丈夫ならそれでいいんじゃないのぉ~??」

 なんでもないことのように肩を竦めるアリスに、彼らしいその優しさを秘めた態度に、照れ臭さが払拭された光太郎が嬉しそうにはにかんだ。

「アリス、ありがとう。もう大丈夫だよ」

 「どう致しまして」と外方向くアリスの傍らで、何も言わずに涙ぐんだまま笑っているケルトにも、光太郎は素直に礼を言った。その言葉に、吃驚したケルトは慌てて首を左右に振ると、ホッとしたように「どう致しまして」とアリスの口真似でおどけて見せた。
 優しい人たちに囲まれて、自分だけが妙に意地を張っていたんだなぁ…と、光太郎はそれまでの意固地さを少しだけ恥じたようだった。
 この想いを、どうか忘れないでいようと思う。

「…それにしても。バッシュってば見直しちゃったかもぉ」

 クスッと鼻先で笑いながら双眸を蠱惑的に細めるアリスに、バッシュは不気味そうに首を竦めて『勘弁してくれ』と呟いたようだった。

「でもぉ…早くシューに逢えるといいね、光太郎」

 心底嫌そうに首を竦める失礼な蜥蜴の親分のような魔物に唇を尖らせながらも、アリスは綺麗な深緑色の双眸を細めて囁くようにして呟いた。

「…うん。俺、絶対にもう一度、生きてシューと逢うんだ。せっかく、シューがここに助けに来てくれているんなら、俺も頑張らないとね。なんか、俄然ヤル気が出てきちゃったよ♪」

 はにかんで、いつもの調子を取り戻した光太郎が拳を握り締めるガッツポーズなどをやらかしてしまえば、呆れたようなアリスに「現金だなぁ」と笑われて、バッシュは引き攣った笑みをどうやら浮かべながらこめかみを押さえるし、ケルトは安心したようにケラケラと笑っている。
 和やかな雰囲気を取り戻した一行が落ち着きを取り戻そうとした正にその時だった、堅く口を閉ざしているはずの鉄製の扉がガタンッと凶悪な音を響かせて開いたのは。
 まるで地獄のような不吉な影は、息を飲む彼らを見据えてその深遠の闇に飲み込もうとでもするかのように、ゆったりと音もなくその一歩を踏み出したのだった。

Ψ

「…ここで何をしている?」

 それは、恐らく地獄から吹き上げてくる冷たい亡者の恨めしげな声のようでもあったし、砂漠を吹き荒れる砂嵐のように猛々しい怒りのようでもあった。 

「セス!こんなところに鼠が徘徊しているぞ。これはどう言うことだ?」

「きゃあ!」

「イタッ!」

 まるで疾風の素早さで近付いたユリウスは誰もが行動を起こす暇すら与えずに、グイッとアリスと光太郎の首根っこを引っ掴んで引き摺るようにして、慌てて入って来た青褪めるセスの前に放り出すようにして突き出した。
 ハッとしたように立ち上がったバッシュが猛然と立ち向かおうとしたその時、首のチョーカーがジクリと熱を帯びたように彼から力を吸い取ったようだった。そのお陰で、バッシュはその場にへたり込むと、悔しそうに冷たい石造りの床に両の拳を打ち付けながら漆黒の騎士を睨み付けた。

「こ、これは…」

「妾の管理もできないようでは先が思い遣られる。私の寵姫を唆した罪は万死に値するだろう」

 冷たい風のように、低い声音で淡々と見据える鉄仮面の向こうの紅蓮に滾る双眸は、光太郎が逃げ出したことに腹を立てているのか、或いは、もっと底知れぬ何かに激しい憤りを感じているのか、何れにせよユリウスの怒りは納まる気配もなかった。

「も、申し訳ありません、ユリウス殿!これは何かの…アリスっ」

 間違いであって欲しいと言う思いで吐き出しかけた台詞は、だが、悔しそうに唇を噛み締める美しい花のかんばせを持つ愛妾の姿を捉えると、怒りを通り越して青褪めてしまうセスはその名を呼ぶので精一杯のようだ。

「この狭い砦で後宮だの何だのと現を抜かす暇があるのなら、せいぜい、前線にでも出てその鈍った根性を叩き直すのだなッ」

 平身低頭するかの如く、肩膝を付いて騎士の最敬礼をするセスに向かってアリスの華奢な身体を投げ付けた。

「!」

 声もなく倒れ込む最愛の愛妾の身体を、それでもセスはハッとしたようにして受け止めようとしたが、何よりも己の保身を第一とする野心だらけの男は、差し出そうとした腕を反対に、その身体を突き放すようにして突き飛ばしたのだ。

「アリス!…クソッ!なせ!!離せよッッ」

 ユリウスに首根っこを引っ掴まれたままで思わず声を上げた光太郎は、全身全霊を込めたような胡乱な目付きで黒騎士と隊長職にある男とを交互に見据えながら、ジタバタと暴れて罵るように悪態を吐いた。

「無論、お前も罰を受けるのだ。寵姫とは言え、私は甘くないぞ」 

 ユリウスは鉄化面の向こうの紅蓮の双眸を凶悪に薄っすらと細めると、引っ掴んでいる身体をグイッと引き寄せながら、囁くようにして苦々しげに吐き捨てた。
 光太郎が望むところだと、その、本来なら逃げ出してしまいたくなる凶暴そうな瞳を見据えていると、冷たい床に突き飛ばされていたアリスが、どうやら切ってしまったのだろう口許から血を零しながらゆっくりと上半身を起こして口を開いた。

「お待ちください、ユリウス様」

 真摯な双眸は、それまで光太郎たちが目にしてきたどの表情とも違い、あまりに静かで切なくて、光太郎は嫌な予感が脳裏を掠めるのを感じていた。

「光太郎様を唆したのは確かにわたしです。だから、光太郎様は何も悪くありません。どうぞ、罰するのならばこのわたしの首で、お許しください」

 こうなることは判っていた。
 ふと、アリスの決意を秘めた表情を見た瞬間、光太郎の脳裏に先ほど彼が言った言葉が蘇ってきた。

(光太郎を逃がしちゃえば、唯じゃすまないだろうね)

 アリスは確かにそう言っていた。
 そんな覚悟を、知り合ったばかりの自分のために決め込んで、一緒にここまで付き合ってくれたのだ。
 もしかしたら、セスは、自分を寵愛しているのだから守ってくれるかもしれない…そんな浅はかな想いを、きっとアリスは考えてもいなかっただろうと、光太郎は一瞬で感じ取っていた。

「なるほど、流石はコーネリアス家の子息だな。潔い覚悟だ。その志に免じて…その首で赦してやる」

「有難うございます」

 クッとセスは唇を噛み締めたようだったが、それでも、我が身可愛さの保身では、アリスを助けてやろうなどと言う気持ちは一瞬だって持ち合わせてはいないらしく、この酷い男は最後まで愛妾を想いつつも主に忠実に従う良き家臣を演じる気でいるようだった。

『アリスッ!!』

 覚悟を決めているように瞼を閉じて項垂れるアリスに、黒騎士の無情の一刀が閃くようにして掲げられるのとバッシュの悲痛な叫びはほぼ同時だった。
 ユリウスの、腰に佩いた鞘から引き抜かれた剣にはクッキリと血溝が刻まれていて、明り取りにチラチラと燃える松明の炎が反射すると、それは禍々しさにいっそう磨きをかけてギラリと刀身を光らせた。それを真横で見ていた光太郎はゴクリと息を呑んだ。
 その人殺しの兇器は、死を覚悟したアリスの熱い血潮を今か今かと待ち望んでいるかのように一瞬揮え、それまで言葉もなく絶句していた光太郎の脳裏に熱い何かを閃かせた。

(このままだったらアリスが死んでしまうッ)

 微かにハッとしたようなユリウスはその鉄化面の向こうの顔を僅かにだが歪め、怯えたように双眸を見開くだけで何もできずに唇を震わせているケルトと忌々しそうに歯噛みしているバッシュの目の前で、無情の黒騎士は上着だけを残すようにして身じろぐとその頑強な戒めから無理矢理逃れる少年を再度捕まえるために腕を伸ばそうとした。
 その一瞬できた隙で、意を決している少年を背後に光太郎は転がるようにして立ち塞がったのだ。

「どうしてアリスが首を刎ねられないといけないんだよ!?そもそも、唆したのはアリスじゃない。この俺だ!」

 殆ど無茶苦茶ではあるのだが、それでも上半身裸のままの滑稽な姿で言い張る少年の背後で、唇を切ってしまっているアリスは、思わず泣きそうになりながらもまるで自嘲するような笑みを微かに浮かべた。

「ダメだよ、光太郎。せっかく、僕が責任を取っているんだからそんなこと言ったら…」

「煩いよ、アリス!君は黙ってろッ。だいたい、どうして俺はあんな狭い部屋の中にいないといけないんだよ!?もしかしたら、寂しくなってアンタを捜すために、たまたま通りかかったアリスに出してくれってお願いしたのかもしれないじゃないかッ!それだけで、アンタは俺たちを殺すのかよ!!」

 一瞬、シンと静まり返った秘密の通路内で、未だに名前も知らない暗黒騎士を見据える光太郎だけがムッとしたように肩で息をしている。
 捲くし立てるように言い張る光太郎のエキサイトした姿は、今まで、どんな場面にも直面してきたバッシュですら見たことがないほど、激怒していることは間違いない。

「言い訳も言い分も何も聞いてくれないのか?!そんなの、悪政を布く暴君と何も変わりないよッ。アンタ、俺に傍にいろって言ったよな?それはどう言う意味だったんだ?!殺すためなのか!それなら、悪いのは俺なんだから、アリスじゃない。アリスの首を刎ねるのなら、今ここで俺の首を刎ねればいいんだッ」

『光太郎、お前…何を言い出しやがるんだ』

 オロオロと、成す術もなく状況を見守るしかないバッシュでも、一瞬、光太郎が何を言い出したのかと思わず口を開かずにはいられなかった。シューを愛しているのに、どうしてユリウスを求めるようなことを言うのか…そこまで考えて、まるで自分を見ようとしない光太郎の姿には懸命な意思が浮かんでいて、その時に漸く色恋沙汰に鈍いバッシュにも光太郎が何をしようとしているのか理解できたようだった。

「……それは、真か?」

 どちらを指して言っているのかいまいち判断に困った光太郎だったが、自分に都合のいい方、つまり前者の方だと勝手に考えて頷いた。

「そうだよ!アリスは親切で俺を出してくれたんだ。こんな、ワケの判らないところにまた閉じ込められて、アンタもいないし…寂しくて寂しくて…泣いていたらアリスが助けてくれたんだ。彼は俺の恩人なのに、アリスを殺すなら俺は一生、アンタなんか大嫌いになってやるッ」

 ポカンッと、事の成り行きを唖然として見守っていたセスが、今まで見てきた光太郎の態度からでは到底、嘘だろと言わずにはいられないほど嘘臭い台詞に呆気に取られている傍らで、光太郎が脱ぎ捨てた上着を握り締めたままのユリウスは暫し無言で立ち尽くしていたが、微かに息を吐き出しながらポツリと呟いたのだ。

「では、何故ここに魔軍の大隊長がいるのだ?」

『そりゃあ、光太郎の希望で俺はお付きの従者になってるからな。ソイツが行くところには何処へだってついて行くさ』

 漸く調子を取り戻したバッシュがフンッと鼻を鳴らして外方向くと、アリスが溜め息を吐きながら首を左右に振ったのだ。

「ケルトは僕に脅されて、彼らのお手伝いをしただけだし?」

 ウンウンッと思い切り頭を上下させて頷く光太郎を無言で見下ろしたまま、それでもユリウスは暫く何事かを考えているようだったが、根負けしたように溜め息を吐いた。

「…それをオレに信じろと?」

「そうだよ…俺、この砦に来てやっと安心できる、信じられる人を見つけたんだ。いろんなヤツに散々酷い目に遭って、でもアンタは違ってた。俺はアンタは信じてるんだ。だから、アンタも俺を信じて欲しい」

 みんなを守るために…光太郎は必死に考えながら、一生懸命慣れない嘘を吐いていた。だが、健気で直向なその姿は、強ち嘘に見えないほど迫真に迫っている。

「それに…アンタがいないと寂しい」

 直向に見据えていた光太郎は、ふと、心の奥深いところでたゆたうあたたかな想い人への気持ちを抱き締めるように俯いて、ポツリと呟いた。
 思わずと言った感じで零れ落ちたその台詞を誰に向けて言ったのか、真相を知っているバッシュとアリスは内心で、光太郎はもしかしたら底知れぬヤツかもしれない…と思ったかどうかは定かではないが、少なくとも、拳を握り締めたことは確かだった。
 グッジョブ、光太郎!…である。

「そうか。では、オレの早合点だったんだな?」

 黒篭手に覆われた掌を伸ばして頬を包むと俯く光太郎の顔を上げながら呟くユリウスに、今にも泣き出しそうにふにゃっと眉を寄せてしまう光太郎は彼を見上げたままでコクリと素直に頷いた。

「オレを愛しているか?」

「…愛しているかどうかはまだ判らないけど、アンタのことは好きだよ」

 愛している…と言えば、ユリウスは疑っていたに違いない。だが、光太郎はユリウスが求めていた答えをすんなりと口にしたことで、彼の信用を勝ち得ることができたのだった。

「判った。今回はお前を信じよう。だが、二度とこんな紛らわしいことはするな。今より半刻ほど後に、ラスタランの城に戻る。城で今回と同じような振る舞いをすれば、敵情を探ろうとしているのではないかと嫌疑をかけられても仕方ないのだからな」

 一瞬、ギクリとする光太郎だったが、ユリウスには内緒でソッと眉を寄せていた。

(さっきは確かに、第五の砦に向かうって言ってたのに…第五の砦がラスタラン城なのか??)

 その答えが出ることはなかったが、それでもなんとか急場は凌げたのだとホッと安心した光太郎は、頬からユリウスの掌が離れると同時にその場にへたり込んでしまった。

「光太郎!大丈夫??」

「光太郎さん!」

『おい、確りしろよ!?』

 それぞれが銘々に声をかけてくれるから、光太郎は照れ臭そうにエヘヘッと笑って「大丈夫だよ」と呟いた。
 ちょっと吃驚しただけだからとおどけて見せる光太郎にホッと安心した一同の傍らで、その様子を興味深そうに見詰めていた漆黒の騎士は、人間からも魔物からも愛される…ましてや、他者を信じることなどとっくの昔に忘れていたはずの自分の心すら、ガッチリと掴んで離さない不思議な少年に近付くと、キョトンと見上げる光太郎に溜め息を吐きながら手にしていた上着を着せてやる。

「あ…」

 そう言えば上着を脱いでしまっていたんだと慌てる光太郎を尻目に、ユリウスは無言でその身体を浚うようにして抱き上げた。
 ムッとしているバッシュはしかし、ここで騒いでしまえば元の木阿弥にもなり兼ねないと、ギリッと奥歯を噛み締めながらも、殊更なんでもないことのように目線を泳がせている。

「お前は誰にでも優しいんだな」

「へ??」

 抱き上げられてキョトンッと見下ろす光太郎は、鉄化面の向こう、紅蓮に燃え立つ双眸がそれほど怒りを孕んでいないことに気付いて小首を傾げた。
 この暗黒騎士は、いったい何を言っているんだろう。
 まるで無害な小動物のようなあどけなさで見下ろしてくる光太郎に、ふと、地獄の番人だなんだと恐れられている自分に物怖じもしないその姿に、ユリウスは嬉しくなって微笑を浮かべてしまう。だが、冷徹な鉄仮面はその穏やかな気持ちすらも吸い込んで、冷たく松明の炎を反射させていた。

「だが、それでいい。オレは多くは望まない。お前が傍にいれば、それでいい」

 誰にともなく零れ落ちる呟きに、光太郎が目を丸くすると、らしくもない自分の台詞に照れたのか、ユリウスは抱き上げていた少年の身体を秘密の通路の上に下ろすと、何も言わずに踵を返そうとした。
 その後姿に、光太郎は慌てて声をかけた。

「あ、待ってよ!俺、アンタの名前を知らないんだッ」

 思わずアリスとバッシュがすっ転びそうになって、胸を撫で下ろしていたケルトですらギョッとしたような目付きをする気配すらも感じずに、光太郎は真剣そのものでピタリと足を止めてしまった漆黒の外套を纏った背中を見詰めていた。

「…名乗っていなかったか?」

「うん、聞いてない。あ、俺は光太郎って言うんだ」

 先に名乗らないと失礼だよなぁ…と、慌てて自己紹介してエヘッと笑う光太郎を、肩越しに振り返っていたユリウスは面食らったような表情をしたが、鉄化面の向こうでは誰も気付かなかった。

「……オレはユリウスだ、光太郎」

 フッと、声音が少し変化して、光太郎はユリウスと名乗ったこの黒騎士が、微かに笑ったんだと気付いた。

「そっか、じゃあユリウス。俺のお願いを聞いてくれる?」

 寵姫らしく…と言っても、その名称の意味すら知らない光太郎は、先ほどユリウスが自分に凄んできた時に言ったニュアンスから、恐らく彼のモノだと言う意味合いなのだろうと思い込んで、それならば少しの我侭ぐらい聞いて貰おうと口を開いたのだ。

「なんだ?」

 それでも黒騎士は、健気に見上げてくる最愛の所有物を見下ろして、この物怖じもしないどこか鷹揚な少年が、自分に何を強請るのかと興味深そうに頷いた。
 魔族の捕虜を逃がせとでも言うのかと、訝しげに眉を顰めて身構えていたが…

「その、アリスを俺の従者?…って言うのかな、それにして欲しいんだ」

「え?」

「それと、ケルトも」

 自分たちの名前を突然出されて吃驚する2人の前で、光太郎はニコッと笑ってユリウスを見上げた。
 どうやら、この砦では誰もが恐れていたあのセスが、平伏するほどの黒騎士なのだから、きっとこのユリウスと言う鉄化面の男はそれなりに高い地位に在るんだろうと、光太郎は確信してお強請りをしてみたのだ。
 案の定、セスはギョッとしたように一瞬目を見開いたが、寵愛している可愛い男娼を目の前で掻っ攫われるなんて冗談じゃないと思ったのか、高血圧らしくカッと頭に血を昇らせたように光太郎を睨んだが、彼が何か口を開く前に拍子抜けしているユリウスが事も無げに頷いた。

「そんなことか…構わん。魔軍の大隊長と男娼2人、それをお前が望むのなら引き受けてやる」

「ユリウス、ありがとう!」

 パァッと嬉しそうに破顔する光太郎を、一瞬だが眩しそうに双眸を細めたユリウスはしかし、微かに咳払いでもするような仕種をして、今度こそ本当に踵を返すとさっさと第三の広間に戻ってしまった。

「よかったね、アリスにケルト!」

「こ、光太郎…どうして?僕はだって……ッ」

 アリスが信じられないとでも言うように深緑色の綺麗な双眸を見開いていると、その台詞を遮るようにして野太い声が地獄の底から響くように覆い被さった。

「そうだ、こん畜生!アリスは俺の愛妾だぞ。勝手なことをされては困るッ」

 さっきは死ねと全身で物語っていたくせに、彼の命が助かれば、すぐにでも自分のモノだと主張するセスは乱暴にアリスの腕を掴んで引き寄せた。

「この淫乱が男なしで生きられると思っているのか?馬鹿馬鹿しいッ!」

 グイッと尻を掴みながら下卑た笑みを浮かべるセスに、バッシュが胸糞悪いものでも見たように鱗に覆われた鼻に皺を寄せて、グッと牙をむこうとした正にその時だった。
 ボグッ!!
 何か、筋肉に打ち付けたような鈍い音を響かせて、アリスの華奢な拳がセスの頬にクリティカルヒットしていた。

「~ざけんなッ!この変態エロジジィッッ!!光太郎のおかげでやっと本音が言えて清々するしぃー!」

 ギョッとしたのは確かにバッシュも光太郎もケルトも同じだったが、それよりも酷いショックを受けていたのは、頬の痛みなどこれっぽっちも感じていないセスだった。

「なな…何を、アリス?お前、何を言って…」

「僕が本気でアンタを愛してるとでも思ったのぉ??バッカじゃない!他の子たちがうんざりしてるから、どーせここには長い僕が代わりをしてただけだし?愛してるなんて…ゾッとすること言わないでよッッ」

 光太郎の従者に昇格したのなら、もうセスなどどうでもいい存在なのだ。
 常々、腹の底で滾らせていた思いをぶちまけると、へたり込んでしまっているセスを忌々しそうに見下ろして、その天使よりも麗しい華のかんばせに憎々しげな皺を寄せていたアリスは、まるで曇り空から太陽が覗いたような元気な笑顔をいっぱいに浮かべて、晴々とした顔で光太郎を振り返った。

「あー、スッキリした!さ、こんな鬱陶しい場所なんかにいないで、一旦後宮に戻ろうよ」

「う、うん」

 コクリと光太郎が頷こうとしたその時、苛立たしげにカッと頭に血を昇らせたセスが、ギリギリと奥歯を噛み締めながらアリスに掴みかかろうとした…が。

「セス!何をしている!?主のお呼びだ…なんだ、まだいたのか。あと半刻ほどで出立だ、準備をして部屋で待機していろ。セス!主を待たせるつもりか、急げッ」

 鉄製の扉から顔を覗かせたユリウスが苛立たしそうに声をかけて、その場にまだ光太郎たちが留まっている事に気付いたのか、はたまた、セスの愛妾を取り上げてしまった光太郎に難癖でもつけようとしている気配でも察したのか、的確に指示を出してから、暗黒騎士はゆったりとした殺気を纏いながら、まだグズグズしているこの砦の隊長を顎をしゃくるようにして冷徹な声音で呼び付けたのだ。

「う、は、ハッ!」

 忌々しそうに光太郎たちを燃え上がる双眸で見据えはしたものの、セスは暗黒騎士の消えた扉にドカドカッと荒々しい足取りで消えてしまった。その後姿に、アリスは思い切りあっかんべーっと舌を出してやった。

「あー!もうホント、スッキリした♪光太郎ってばやるじゃん」

「エヘへ♪これで、その…たぶん、アリスたちは自由になったんだよ。君たちの好きな場所に戻るべきだと思う」

 それを聞いて、バッシュは『なるほど』と頷いた。
 晴れて【男娼】などと言う忌々しい立場から離脱できたのだから、光太郎は好きな場所に行ってもいいと言っているのだ。その為に、彼は彼なりに考えて、ユリウスに恥を忍んで頼み込んだのだろう。
 照れ臭そうにはにかむ光太郎を見詰めていたアリスとケルトは顔を見合わせたが、アリスがクスッと笑ってウィンクした。

「なに、言っちゃってるワケぇ?僕たちは光太郎の従者なんでショ??一緒に行くに決まってるじゃん。闇の国でも何処へでも」

 クスクスと笑うアリスに、ケルトも破顔して嬉しそうに頷いている。
 どうせ…ラスタランの家に戻ったとしても、不名誉な立場にあった自分など、けして誰も受け入れてなどくれはしないとアリスが思うように、既にデルアドールの何処にも居場所を失くしてしまったケルトも、ここを出てしまえば独りぼっちになってしまうのだ。それならば、光太郎が心を寄せる闇の国に行くのも悪くないと思っていた。
 いや、光太郎が想いを寄せている闇の国だからこそ、行きたい…と、素直にアリスもケルトも思っていた。

『ぐはー…また厄介者を背負い込んじまったって、シュー様にどやされるな』

 蜥蜴の親分のようなバッシュがガックリと項垂れてしまうと、アリスがケラケラと笑いながら、そんな魔物の背中をバシンッと思い切り叩くのだ。

「男のクセにウジウジしない!魔将軍シューに、僕からもバッシュを叱らないで♪ってお願いしてあげるしぃ」

『う、うるせー!!お前なんかにお願いされたら、シュー様から俺が殺されるわッ』

「なにそれ、ひっどーい」

 ブゥッと唇を尖らせるアリスと、目をむいて怒るバッシュに呆れたように眉を跳ね上げていた光太郎は、傍らで自分を見上げている幼いケルトの嬉しそうな双眸に気付いて、彼はエヘヘッと笑った。

「これで闇の国も、楽しくなりそうだよ♪」

「そうなるように、頑張ります♪」

 既に心は闇の国に戻ってしまっている光太郎に、ケルトは嬉しそうに頷いている。
 何はともあれ、窮地を脱した一行の心は、見ることのなくなってしまった闇の国には似つかわしくない太陽のように輝いていた。
 暫く、第二の砦に朗らかな笑い声が響き渡っていた。