第二部 11.漆黒の愛 -永遠の闇の国の物語-

 ユリウスに抱き上げられたままで入城した砦内は、第二の砦とは比べられないほど豪華でありながら、何処か荘厳で静謐な静けさがあった。たとえるならばそれは、まるで神殿か何か、その類の雰囲気そのものだ。
 思わずキョロキョロと呆気に取られたように見渡す光太郎に、ユリウスは苦笑したようだったが、行く手に沈黙の主を迎え入れて更に、彼の右腕でもある暗黒騎士を招き入れようとするディリアスの姿を認めると、途端に厳しい目付きになってしまう。
 魔物は勿論のこと、人間すらも容易には信用しないそれはユリウスの悪癖ではあるのだが、件の大神官は気にした様子もなく、恭しく長いローブの袖の袂に手を隠し、頭を下げながら組んだ両腕を上げて神官の礼をした。
 寡黙な暗黒騎士は軽く頭を下げただけだったが、長い顎鬚を持つ大神官は、まるで物珍しそうにユリウスに抱き上げられている光太郎を見詰めた。その視線に気付いたのか、暗黒騎士は感情を飲み込む鉄仮面の向こうで、僅かに眉を顰めたようだった。

「早馬の報せにありました、貴殿の宝物でございますな。お待ちしておりました、奥に部屋を用意してありますれば、どうぞごゆるりとお寛ぎ下さい」

 彼が何か口を開くよりも前に、そう言って初老の大神官は恭しく頭を垂れるのだが、目敏いユリウスはその神官の双眸に、一瞬宿る好色そうな光を見逃さなかった。
 だからこそ、寡黙でストイックな暗黒騎士はこの神官を毛嫌っていた。
 神官の地位にありながら、世俗の垢に塗れたこの男を、どうしても信用できないユリウスは、ムッとしたように眉根を寄せるものの、数少ない神官の生き残りを無碍にもできず、彼は仕方なく無言で遣り過ごそうとした。
 だが…

「部屋を用意してくれてるのか?ああ、よかった。俺、馬に乗ってばかりだったから疲れてたんだよな。たぶん、あれだけ飛ばしたんだからユリウスだってきっと疲れてるに決まってるんだから、休めるのは助かるよ。有難うございます!」

 ニコッと屈託なく笑って抱き上げた少年がそう言ってしまえば、頑なな暗黒騎士と言えど、思わず頬の緊張を緩めたとしても致し方ない。

「なんと、まぁ…素晴らしい宝物でございますな」

 初老の大神官はホッホッと笑って、「そうだな」と屈託のない少年に呟く暗黒騎士に思わず…と言ったように口を開いてしまった。それでなくても、どうやらこの禍々しい騎士は自分を嫌っているようなのだから、悪態のひとつも聞けるものとばかり思っていた大神官は、その暗黒の鉄化面の向こうから、四方や嬉しげな言葉を聞けるとは思わずに驚愕してしまった。
 いや、だが勿論、その声音は低く、くぐもっているし、不機嫌そうなのには変わりはないのだが…

「そうだ。唯一無二の私の宝だ。丁重に持て成すように」

 それまではムッツリと口を噤んだまま、何も言わないのが暗黒騎士の禍々しさの所以のようであったのに、驚くことに、彼は大神官の言葉に返答を返したのだ。
 これは驚かずにはいられない。
 だが、やはり暗黒騎士はそれだけを言っただけで、その後は口を噤み、ただ、腕の中にある少年を愛しそうに鉄化面の奥から見詰め、大神官をまるで無視して宛がわれた部屋に姿を消してしまった。
 取り残されたように立ち尽くした大神官は、数年前に見た暗黒騎士の雰囲気が、こうもガラリと変わってしまったのは、やはり腕の中にあった、あの魔族と共に在ったと言う人間の影響だろうかと首を傾げていた。
 確かに、腕に在った人間の少年は不思議な雰囲気を醸していた。
 ともすれば不安そうな光が揺れる双眸をしているくせに、何処か無頓着で、そして何かを身内に孕んでいる危うさを持っていた。それなのに、少年は直向な双眸をして純粋に微笑むのだ。
 神に仕える神官よりも純粋で、またとない光のような存在であるとディリアスは確信めいたものを感じていた。
 身内に禍々しさを抱えている暗黒騎士にはこれほど似合わない存在だと言うのに、彼は少年を手離す気などさらさらないのだろう。
 しかし、何れにせよ。
 その変貌が人間と魔族の間にどのような変化を生むのか、大神官ディリアスは興味深そうに考えるのだった。

Ψ

「ベッドだー」

 ユリウスの腕から漸く解放された光太郎は、ホッとしたようにやわらくスプリングの利いたベッドに飛び乗りながら、ふかふかの枕に頬を埋めて嬉しそうだ。その様子を無言で見ていたユリウスは、だが、何も言わずに苦笑して、頭部をスッポリと覆う鉄仮面を外しながら首を左右に振った。
 色の抜けてしまった真っ白な髪と紅蓮の双眸、高い鼻梁に秀でた額、酷薄そうに見える薄い唇も何もかも、そうしていれば見蕩れてしまうほど整った異国の顔立ちをしたユリウスを、草臥れた身体をベッドに横たえたままで、光太郎は物珍しそうにじっと見詰めていた。
 彼がトラウマのように抱えているその右半分の火傷の痕を目にしたとしても、やはり寡黙で意志の強そうな暗黒騎士はカッコイイんだよなぁと光太郎は半ば閉じそうになる目蓋を必死に開けながら考えていた。
 黒甲冑を珍しく脱いだユリウスは、甲冑の下に着込んでいる黒い衣装も同じように脱ぎ捨てた。
 こちらに背を向けてはいるものの、その背中を無残に走るケロイド状の火傷の痕は痛々しくて、もう痛くないと言った彼の言葉を思い出したとしても、やはり光太郎の眉は寄ってしまう。
 何よりも、その背中には、火傷の上から無数に刀傷の痕や鏃の傷痕があるのだから…その凄惨さには思わず泣き出しそうになってしまう。

「どうした、気持ち悪いのか?」

 横顔を見せるユリウスは紅蓮の瞳を動かしただけで光太郎を見て、眉を寄せる少年を鼻先で笑いながらそんなことを呟くから、魔族に心を砕く風変わりな人間の少年は、その心根と同じようにユリウスにも心を砕いて、ムッと唇を尖らせると、彼が欲しいと思う言葉をすらすらと口にしてしまう。

「そんなんじゃないって前も言ったのにさー、ユリウスってちょっと人を疑いすぎだよ。ユリウスは痛くないって言うけど、やっぱり痛そうに見えるんだ。俺、痛いの嫌いだから」

 唇を尖らせて悪態を吐くくせに、それでも労わるように双眸を細める光太郎を見下ろして、背を向けていたユリウスは向き直ると、胸元から腰に這う火傷の痕を晒しながらベッドを軋らせて、横たわる光太郎の傍らに腕をつき、その驚いたように見上げてくる顔を見下ろした。

「もう痛まん…と、オレも言ったはずだが?」

「うん、判ってるけど、でも…」

「もう黙るんだ」

 そう言って、ユリウスは屈み込むようにして、ケロイド状に引き攣る右端の唇を歪めるように笑いながら、やわらかい光太郎の唇に口付けを落とした。
 ビックリしたように、良く晴れた夜空のような双眸を見開きはしたものの、男同士のキスに慣らされてしまっている少年は、仕方なさそうに目蓋を閉じて口付けを受け入れた。
 その経緯を僅かに耳にしただけのユリウスにしてみれば、それはユリウスの愛を、大人しく受け入れているようにしか思えない行動だった。
 だが、その先を促せば、愚図るようにして嫌がるのだから…彼にとっての光太郎は、全く稀有な存在であることに変わりはない。
 男を知る身体であることをセスの嫌味で承知しているつもりだったが、いざ、その身体に触れようとすると、まるで初心な娘のように頬を染めて嫌がる光太郎の仕種に、ユリウスは彼の身体を知る全ての生き物に対して歯軋りしたくなるほどの嫉妬を感じていた。
 自分がもう少し早く第二の砦に行っていたら…いや、何よりも、誰よりも早くその存在に気付くことができていたのなら、誰に穢されることもなく、真綿に包むようにして優しく抱き締めたものを。
 ユリウスは捕虜の扱いを知っていた。
 奴隷や年端も行かぬ少年を、戦にあっては足手纏いでしかない彼らを、男娼として戦地に送り込むことを持ちかけたのは、他ならぬユリウスだった。捕虜として捕らえた者たちを、それは魔族であれ、それに加担する人間であれ、自由にしてもよいと許したのも彼なのだ。
 だから、必然的に光太郎が何をされたのか、知らないワケではない。
 憤りと醜い嫉妬と…ワケの判らぬ衝動に突き動かされるように熱く濡れた口腔を貪るユリウスの、鍛え上げられた筋肉質の背中に縋るように抱き付いた光太郎は、溺れるひとのように夢中で無残な火傷の痕で引き攣れたような皮膚に爪を立ててしまう。
 ハッとして腕を離そうとするが、それでも窒息してしまう恐怖には到底太刀打ちできずに縋るように抱き締めるその目尻から涙が零れたとき、漸く激情に翻弄する唇と舌から解放されて、光太郎は上気した頬と潤んだ瞳のまま苦しげに喘いだ。その首筋に、ユリウスの濡れた唇を感じて、思わず恐怖に目を見開き、それでも、覚えている快感に震えるように目蓋を閉じてしまう。
 覆い被さってくるユリウスの男らしい胸板を押し戻そうにも、力強い腕に阻まれてしまうと、自分が非力な人間になってしまったような気がして悔しかったが、何故、こんなにも抵抗できないんだろうと光太郎は不思議で仕方なかった。
 嫌だと言って跳ね除けてしまえればいいのに…そうしないのは、恐らく、脳裏に一瞬浮かぶバッシュやアリス、そしてケルトの安否を気遣ってしまうからなのだろう。
 いや…恐らく、それだけではない。
 弱気な自分は、確かに痛みには弱いのだから、最初に犯された時の苦痛を思い出して身動きが取れなくなってしまう…と言うのが、抵抗できない最大の要因だった。
 目蓋を閉じて我慢すれば、挿入の痛みに耐えさえすれば、激情に翻弄されるまま時間が過ぎて、何時しか嵐のような夜が終わってくれる。第二の砦の地下牢で覚えさせられた対処方法を、知らないうちに実行してしまう自分には嫌気がさすし、メチャクチャに当り散らしたい気分にもなる。それでも生き残る為なのだから…と、当てもなく自分に言い聞かせて、光太郎は青褪めたままでユリウスの愛撫を受け入れようとした。
 だが、不意にユリウスは口付けていた鎖骨から唇を離してしまう。

「…?」

 恐る恐る目蓋を開くと、そこには自分を覗き込む紅蓮の双眸があって、光太郎は驚いたように目を瞠ってしまった。

「お前は…こう言う行為は苦手なんだな」

「え?!…違うよ、俺。い、嫌なんかじゃないよ!」

 怒られるのだとばかり、あの地下牢での出来事があまりに鮮烈で惨たらしかったばかりに、殴られるんだと竦んでしまったような、怯えた双眸で見上げたまま必死で首を左右に振る少年の双眸を見下ろして、ユリウスはだが、ケロイド状に引き攣る右唇の端を歪めるようにして笑った。

「手酷い仕打ちを受けたんだろう?」

「!」

 覗き込む紅蓮の双眸を見詰めながら、もしかしたらユリウスは…この酷薄そうな雰囲気を醸しているはずの暗黒の騎士は、性行為に怯えている自分の必死の虚栄を見破ってしまっているのではないか…それが判って、それ以上は先に進むことを躊躇っているのではないかと、光太郎は散々酷い目に遭っていると言うのに、信じようとしている自分に驚いてしまった。
 きっと、今日、この場所でユリウスに抱かれてしまうのだろうけど、せめて、心の奥深いところに傷痕を残していることを、どうか知っていてもらえるのなら、少しはマシなんだろうと光太郎は悲しそうに微笑んだ。

「俺、痛いのは嫌なんだ。ほんの少しでいいから、優しくしてくれたら我慢できるから、その…殴らないで欲しいんだ」

 殴られることを覚悟しているのか、自分でも驚くほど震えている手でユリウスの腕を掴む光太郎は、そんな情けない台詞を言いたくはなかったが、もしかしたらユリウスなら聞き届けてくれるんじゃないかと、淡い期待をして必死で言い募ってみる。
 ふと、ユリウスの紅蓮の双眸が燃え滾る業火のように光り、表情こそ変わらないのに、光太郎は背筋に冷たいものを感じて竦みあがってしまった。
 どうやら自分は、踏み込んではいけない地雷原に入り込んでしまったようだと、その瞳の色を見て逃げ出したくなっていた。
 殆ど無表情だと言うのに、まるで虫けらでも見るような、淡々とした静けさは、なまじ表情の変化がないからこそ、その残酷さが浮き彫りになったように、酷薄そうな残忍さが垣間見えて息を呑んでしまう。

「ご…ごめんなさい。余計なこと…」

 思わず掴んでいる腕に力を込めながら震えたように見上げる光太郎にハッと気付いたのか、黒髪の少年の向こう側にいる何かに…恐らく、彼を散々痛めつけたに違いない第二の砦の連中を、垣間見ていたユリウスは怯える光太郎の頬を、嘗て光太郎がそうしたように、優しくソッと包み込んでいた。

「オレは愛する者を殴る趣味はない」

 ハッキリそう言ってから、真っ白な髪を持つ紅蓮の双眸の、あれほど忌み嫌っていた醜い火傷の痕を、光太郎の前でだけは隠すこともしない暗黒騎士はフッと笑ってから、少年の上から身体を退けて、そのままその傍らに寝転んでしまった。

「そして、オレは愛する者に嫌がることを強要する気もない…お前の話を聞かせてくれ」

「…え?」

 傍らに寝転んでしまった白髪の男を、光太郎は驚いたように目を見開いていて見詰めてしまったが、不意に安堵したような嬉しそうな顔でニコッと笑った。
 その笑顔は、遠い昔に目にした太陽のように眩しくてあたたかくて、ユリウスは柄にもなく笑ってしまった。

(そうだ、その顔が見たい)

 思うだけで声には出さず、ユリウスは横になったまま頬杖をついて、嬉しそうに笑って自分を見上げてくる晴れた夜空のような双眸を見下ろしながら、口許に笑みを浮かべ伸ばした指先で漆黒の前髪に触れた。

「俺の話…?って、何を話そうかな。いろいろあるよ。俺ってさ、ここじゃない世界から来たから、珍しい話をたくさんできるんだ。えーっとたとえばね」

 敢えて魔族たちの話には触れずに、それでも楽しそうに話す光太郎の信頼した安堵した表情を見下ろしているユリウスは、それが真実の感情であることを知っているから、「そうか」と呟いて、お喋り好きな少年の愉快な話に耳を傾けることにした。

Ψ

 乗馬の経験のない光太郎は馬での移動に草臥れていたのか、はたまた、極度の緊張を強いていたのか…いずれにしても、夢中になっていたはずの話し声が途切れ途切れになって、何年振りかに笑うユリウスの胸元で何時の間にか安らかな寝息を立て始めていた。
 彼がどれほど性交渉に怯えて竦んでいたのか、痛いほどよく判ったユリウスは、信頼したように寝息を立てる少年の髪に、戦場の死神だと恐れられている彼は目蓋を閉じてその安らかな眠りを妨げないように静かに唇を落としていた。
 この腕の中の温もりが、嫌だと言うのなら抱き締めるだけでいい。
 傍にいて、困ったように笑う顔を見詰め、その唇にキスするだけでも至福ではないか。
 元来、この醜い火傷を負ってからと言うもの、ユリウスにはあまり性欲の本能がなかった。
 希に暴走しそうなほど凶悪になった場合…たとえば血臭の漂う戦場から舞い戻った時などは、引き裂くように名も知らぬ人間を抱くこともあったが、必ず最後は斬り殺していた。その衝動は、血のざわめきを鎮めるためでもあるが、何より、この醜い身体に抱かれることを拒む男や女が憎々しく、そしてそんなことに傷付いている自分自身が忌々しくて、その秘密を知る全てをこの世から抹殺したくなってしまうのだ。
 不思議と、光太郎に対してだけは、その感情は少しも沸き起こらない。それどころか、こうして醜い火傷の痕を晒していたとしても、何ら負い目を感じることも、ましてや自分を恥じることもないのだ。
 それはとても奇妙な感覚だった。
 光太郎にだけは自然と自分の姿を晒してしまう。そして、そうしている自分こそが真実で、鉄仮面に全てを隠してしまっている自分を疎ましく思うほどなのだ。
 いったい何が、自分をこうも変えてしまっているのか…ユリウスには判らなかった。
 愛…などと言う陳腐な言葉で纏めてしまえるのなら、この感情を抱く自分はどれほど気楽になれるだろうか。だが、そんな割り切った言葉が教えてくれることは、あまりにも儚くて、愚かな過ちばかりである。
 遠い昔、この髪と同じ色の髪と双眸を持つ娘がいた。
 愛と言う言葉を信じていた、まだ火傷を負ってもいなかった頃の青年は、髪の色も瞳の色も元のままで、希望に満ち溢れた笑みを浮かべて、その娘に腕を差し伸ばしていた。
 彼女は微笑みながら、そんな青年を見詰めては、ふと困惑したように小首を傾げて、それから悲しそうに俯いてその腕を掴むことはなかった。
 あの娘は、ユリウスの愛に応えることなく、彼の髪と瞳の色が変わってしまったあの遠い日に、静かに逝ってしまった。
 その心に何もかもを隠してしまって、違う誰かを見詰め続けていたあの娘を、欲しいと思っていたはずだったのに…心とは不思議なものだとユリウスは考えていた。
 あれほど欲しいと切望して、それ以来、何者にも心を動かされはしなかったはずなのに、今の彼は、魔物に心を砕く不思議な少年にこれほど固執してしまっている…それは、あの娘が同じように違う誰かに心を砕いていたから、その影響なのだろうかと、ままならない心を持て余しながら考えるユリウスはしかし、苦笑して首を左右に振ってしまう。
 あの娘がけしてしなかった行為を、この少年が与えてしまうから、自分はこの少年に執着して、そしてとうとう手離せなくなってしまったのかもしれない。
 ユリウスの心を蕩かしてしまった、あのやわらかな優しさ。
 差し伸ばされた指先のあたたかさを忘れられない。
 痛みに弱いと言って眉根を寄せた、今にも泣き出しそうな表情は、だからこそ、痛みを知る者が見せる掛け値なしの真実の心遣いだった。
 人を疑うことしか知らないこの火傷を負った醜い外見と同じく醜く荒んでしまった心で蔑むように見下せば、大抵の人間も魔物も、ましてや愛した娘ですら嫌悪するように眉を寄せ、牙をむき、背を向けるしかなかったと言うのに、そのどの行為も表情も見せることなく、痛ましいような、悲しいような、ユリウスの人間性の全てを慮る表情をして「心は痛い」のだと言って、泣くことなど、いや感情の全てなど当の昔に忘れていた自分を悲しいと言って頬に触れてきたあの掌の温もりを、恐らく、ユリウスは永遠に忘れることはないだろうと思う。
 安らかな寝息を立てて傍らで眠るのなら、それだけで十分だと、これ以上はない充足感に満たされて死神だと恐れられる男は、胸元にある暖かな温もりを今一度、確かめるように抱き締めていた。
 僅かに身動いだものの、目覚める気配はなく、何かを呟いてクスクスと笑った光太郎は、幸せそうにユリウスに応えるように抱き締め返してきた。
 そんなささやかな行為にどれほど彼が救われているのか、やはり判らない光太郎は、ユリウスの内に眠る情欲の熾火に僅かに炎を燈しはしたものの、それはか細く爆ぜて、ゆっくりとしたあたたかさに変わってしまった。
 草臥れていたのだろう、ぐっすりと眠ってしまった少年を起こさないように、その髪を、目蓋を、そして頬を辿るように唇を落としていたユリウスは、ふと、微かに木製の扉を叩く音に気付いて上体を起こした。

「誰だ?」

 誰何に、扉を叩いていた少年神官は一瞬、怯んだように怯えた気配をさせたが、外側から恭しくも慌てたように用件を述べた。

「お休みのところを申し訳ありません!沈黙の主様がユリウス様をお呼びでございます」

 束の間の安息だったが、それでも随分と英気を養えたユリウスは、その言葉に「すぐに行く」と応えて、それから、悪魔だ死神だと恐れられる暗黒騎士に怯えた少年神官の足音が遠ざかるのを聞きながら、「うーん」と寝言を言って身動ぐ少年の寝顔を見下ろしていた。
 その火傷の痕が舐める口許に微かな笑みを浮かべて、ユリウスは光太郎の顔の傍らに片手をついてベッドを軋らせると、屈み込むようにしてその唇に口付けを落とした。
 戦場の死神と恐れられる彼のその表情は、あまりに穏やかでやわらかく、見る者をハッとさせてしまうほど美しかったが、唇を半開きにして夢の世界に泳ぐ光太郎はとうとう、その事実を知ることはない。
 その寝顔を食い入るように見下ろしていたユリウスは、眠りにつく愛しい者の、今は目蓋の裏に隠されてしまったあの良く晴れた夜空のような、キラキラと煌く希望に満ちた双眸を曇らせたくないと考え、そしてその時初めて、国の為だけではなく、腕にあるこの愛しいたった独りの人間の為だけに、この世界を手に入れ、彼を苦しめる全てのものを排除した世界を築きたいと、壮大で荒唐無稽の夢を見てしまった。