6.牙城の侵入者  -永遠の闇の国の物語-

 ブツブツと悪態を吐きながら大股で謁見の間に足を踏み入れたシューは、その憤懣遣るかたなさそうな見るからに不機嫌が具現化したかのようなその姿に、衛兵はギクッとして慌てて玉座の間に続く緞帳を引き上げた。
 それでも一応は魔王を拝顔するのだから、一旦は落ち着きを取り戻そうと深呼吸してはみたものの、どうも腹の虫が収まらない。と言うよりは寧ろ、何か仕出かしてやしないかとハラハラしているのだ。
 引き上げられた緞帳から顔を覗かせたシューは、玉座の間の有様に一瞬立ち竦んでしまった。
 それもその筈…

『おお、シューか。よう参ったな』

 魔族を統べる尊き象徴である魔王が、床に散乱している書物を拾い上げながらゆったりと微笑んでいるのだ。その空いている方の手には確りとハタキが握られている。

『ままま、魔王!いったいこれは…』

 何の騒ぎですかと問い質そうとするその金色の双眸に、ふと、奥の部屋から顔すらも見えないほど書物を抱えてフラフラしながら出てきた何かが写って、動揺したまま立ち竦んでしまった。

『何を慌てているのだ、シューよ。ご覧、無駄な書物がこれほどに出て参ったぞ。始末せねばと思っていたのだが…有り難いことだ』

 そう言って魔王は機嫌良さそうに必要な本と不要な本の仕分けをして、深く被っている埃をハタキで払い落としている。壮麗な衣装に身を包んだ威圧感漂うはずの魔王は、埃に頬を汚しながら穏やかな微笑すら浮かべているのだから、シューは全身にビッシリと汗を掻いてしまった。
 ダラダラとこめかみから汗を噴出すシューに、バサバサッと重い書籍や書物を落とすようにして下ろした光太郎が、その時になって漸く埃の中から咳をしながら声をかけてきた。

「あ、シューだ♪良かった良かった、手伝ってよ!」

 ニッコリと笑う屈託のない、その顔を一発でいいから殴らせてくれと言いたくなる無邪気な笑顔を見て、一気に脱力してしまいそうになったシューは慌てて気を取り直すと魔王の手からハタキを奪い取った。

『魔王!このような仕事は俺たちがするもんです。どうぞ、お召し替えされてお寛ぎください!』

『私は構わんのだがな…』

 キョトンッとした魔王はしかし、ふふふっと酷薄そうな薄い唇に笑みを浮かべると、必死の形相をするシューと、彼の忠実な衛兵たちの慌てふためく姿を見て大人しく従うことにしたようだ。
 本来なら斬首されてもおかしくない進言を口にして、ダラダラとこめかみから汗を噴出しながら蒼褪めたままで魔王を見送ったシューは、キョトンッとしている人間の少年の首根っこを引っ掴んで吠え立てた。

『~お前はッ!!どうしてこう、次から次へと問題を起こしやがるんだッ』

「イタタタ!って、別にただ掃除してるだけだろッ」

『その掃除の仕方が問題大有りなんだろーが!相手は魔王なんだぞ!?』

 シューの激怒する意味を判りかねている光太郎は、ムッと唇を尖らせて拳をグーにして獅子面魔将軍の脇腹に軽いパンチをお見舞いした。

「仕方ないだろ?ゼインは自分から手伝うって言ったんだ!」

『なんだと!?』

 素っ頓狂な声を上げるシューが玉座の間の掃除を手伝っている衛兵を睨むと、いらなくなった書籍や書物を片付けていた魔物の1人が、仲間から押し遣られるようにして嫌々仏頂面の将軍の前に平伏した。

『は、はい、あの…光太郎さまがお越しになられてからその、部屋中を掃き出されまして…魔王様はニコニコされておられたんですが突然手伝われると仰いまして…』

 歯切れの悪い言い訳のような説明に、シューは合点がいったのか、首根っこを引っ掴んだ少年を無造作にヒョイッと持ち上げた。苦しそうに眉を顰めた光太郎が唇を尖らせて暴れると、その顔を覗き込みながらシューは言った。

『あのなぁ、お前…大方また魔王の周りをチョコマカと掃いてたんだろう?魂胆丸みえだっつの!』

「…えへへへ。バレたか」

 思わずニヤッと笑ってしまって、頭を掻きながらごめんねと謝る光太郎に、シューは脱力したように溜め息を吐きながら首を左右に振ったのだ。

『まあ、お咎め無しだったからいいようなものの…頼むから俺の寿命を縮めないでくれ』

「シューは大袈裟だよ~」

 アハハハッと屈託なく笑う光太郎を恨みがましい目付きで睨み付けながら、シューは引っ掴んでいた手をパッと離して胡乱な目付きで片手を振ってオドオドしている衛兵たちを散らすと、床に散乱した書物を拾い上げるために屈み込んだ。その傍らにドシッと落ちてしまった光太郎は「アイタタタ…」と呟きながらシューの傍らに座り込んだ。

『そうやって考えなしに何でも言ってるんじゃねーぞ?シンナに何を言ったのか知らねーが、喋る前にまず物事を考えろ』

「…え?シンナがどうかしたの」

 少し驚いたようにライオンヘッドを見上げる光太郎に、シューは顔の角度を変えずに金色の鋭い瞳でジロリと見下ろして唇の端を捲りあげた。

『アイツがおかしくなるのは何時ものことだから気にする必要はねぇけどよ…それに、アイツにはゼィがいるからな。だがまあ、時には口にしてはいけねぇことだってあるワケだ』

「ええ?シンナとゼィは付き合ってるの?」

 話の論点がずれてきているのだが、それでもシューは辛抱強く首を左右に振って見せた。そのシューの態度に判らなくなった光太郎が眉を顰めると、仕方なさそうに獅子面の魔物は説明してやることにする。

『その付き合いってのがどういう意味かは知らんが、まあ確かにゼィとシンナは長い付き合いだからな。しかもお互い将軍と副将と言う間柄だ、自然と求め合ってもおかしくはねーってワケだ。だが、2人はそれ以上の関係じゃねぇが、俺なんかよりも親しいワケだから、シンナがおかしくなってもゼィがどうにかするだろう』

 シューは率直にこそ言わなかったが、ただ単にゼィとシンナは長い付き合いから身体を求め合っているに過ぎないと言っているのだ。そこには【愛】や【恋しい】と言う感情は、シューの言葉から感じられることはなかった。

「そっか…でもそれは、少し寂しいね」

 僅かに俯いた光太郎は内心で、ああそうか、と漸く判ったような気がした。
 シンナが寂しそうな表情をするのは、もしかしたら、彼女は心の底からゼィを愛しているのかもしれない。だけど、だからこそ、長い付き合いが邪魔をして素直に愛を告白できないでいるんだろう。もしかしたらゼィは、ゼィの方が彼女をなんとも思っていないのだとしたら、それは、誰よりも傍にいるからこそ苦しくて、悲しい想いなんだろうなと光太郎は唇を噛んだ。
 恋の何たるかなどと言うことは判らないが、それでも大好きな人に告白できない気持ちは痛いほど良く判る。片思いなら何度だってした光太郎だ。

(結局いつも振られてるけど…)

 恋は何度でもできるけど、でも、シンナの胸の奥深いところに蹲っている想いが愛だとしたら、容易く忘れられるはずもないし、あんなに近くにいる2人だからすぐに諦められるものでもないだろう。だからシンナは、寂しさを胸いっぱいに抱えながら、全てを捧げて我慢しているのかな…
 俯いている光太郎を何かを思いながら見下ろしているシューに、人間の少年は「ん?」と首を傾げてから、唐突にハッと気付いたようで慌てて顔を上げた。

「シンナがおかしくなったのか!?」

『誰にも言うなよ』

 今更吃驚したように漆黒の双眸を見開く光太郎を既に慣れてしまったシューはジロリと間近で睨んで、コクコクと大きく頷いて身体をにじり寄せてくる小さな少年に念を押して口を開いた。

『事もあろうにシンナのヤツは、魔王の悲願をぶち壊すような発言をしやがったのさ』

「ええ!?それって大変なことじゃ…」

『物凄く大変なことなんだ。誰かに聞かれでもしたら、シンナの首はその日のうちに飛んじまう』

 その台詞に恐れをなしたのか、光太郎は口を噤んで俯いてしまった。
 サラサラの黒髪は、禍々しいほど美しい鈍い光を放つ魔王のそれとは違い、生気に溢れた優しい匂いがして、シューにとって密かに気に入っている部位だった。その黒髪を揺らして俯いた少年を、暫くジッと見下ろしていたシューはしかし、仕方なさそうに軽く溜め息を吐いて散乱する書物を片付けにかかった。

『なんにせよ、シンナのヤツは破天荒で知られる魔軍の副将だ。自分の言葉には常に行使力が働くことぐらいは重々承知しての発言なんだ。お前が落ち込む必要はねぇよ』

 ゆっくりと顔を上げて上目遣いにシューを見上げる光太郎を、ライオンヘッドの魔物は自慢の鬣を揺らして牙を覗かせながら、噛み付く振りをしてみせた。

『だがな、注意は必要だ!お前は危なっかしくて肝が冷える』

「…シューがいるから大丈夫だよ」

 ニコッと笑う光太郎に、事の重大さを果たして本当に認識しているのだろうかと、一抹どころじゃない不安を感じてシューが耳を伏せていると、あっけらかんと笑う人間の少年はそれでも心配そうに首を傾げている。

「きっと俺、シンナに悪いこと言っちゃったんだろうなぁ…あとでちゃんと、謝っとかないと」

 ふと、シューはそんな光太郎を見下ろした。
 手にした古い書物たちはどれも埃を被っていて、長い年月を無駄に書庫の中で眠っていたことを物語っているようだ。その歴史ある一つ一つの書物を、大事そうに埃を払いながら見詰めている光太郎の横顔は、シンナに対する申し訳なさに霞んではいるが生命の輝きをキラキラと放っている。
 それは、もう随分昔に忘れ去っていた、人間の持つぬくもりだった。

『…』

 魔物に対して素直に謝ろうとする世にも珍しい人間…シンナは言っていた。
 果たして光太郎を、本当に【魔王の贄】にしてしまってもいいのかと、投げ掛けられた疑問が再び脳裏に甦ってきたのだ。
 分厚い書籍を軽々と持ち上げて顎の辺りに背表紙を当てながら考え込んでいる獅子面の魔物に気付いた光太郎は、神妙な面持ちのシューを真下からジーッと覗き込んだ。
 首筋まで覆うような立派な鬣は褐色で、突き出した鼻筋にムッと引き締まった口は確かにライオンそのもので…ジーッと見ていても見飽きないその顔の下にある、筋肉に覆われた立派な体躯は人間そのものなのだから不思議だなぁと光太郎は考えていた。
 だが、シューのそんな獅子面が、なぜかとても好きだと思ってしまう自分もまた、不思議だなと思って小さく笑ってしまう…と、そのライオンの顔の中で唯一、邪悪な魔に支配された魔物であることを証明するような鋭くも凶悪な光を宿した黄金色の双眸がジロリと見下ろしてきた。

『なんだよ?』

「えへへへ。シューって可愛い顔してるよね」

『グハッ!な、な…ッ!?』

 生まれて初めて言われた言葉に思わず噴出しそうになってしまったシューは、二の句が告げられずに黄金色の双眸を白黒させて、このとんでもないことを平気で喋ってしまう厄介な人間の少年をマジマジと見た。

「俺ね、シュー大好きだよ」

 太陽に似た花がポンッと開花したような、柔らかな笑顔を浮かべる光太郎が何気なく言ったその言葉に、不意にシューは、ムッと不機嫌そうな顔をして立ち上がった。

「あれ?シュー??」

 何も言わずに重そうな分厚い本をヒョイッと抱えて立ち去ろうとするその後ろ姿を、書物を両手いっぱいに抱えて立ち上がった光太郎が慌てて追いかけた。

「怒ったのか?だったら、ごめん!でも、ホントなんだよ…?あ、でも!別にシューの顔が可愛いから好きとかじゃなくて、シューのこと、全部好きだって思ってるから!だから、別に嫌がらせとかで言ってるんじゃないんだ。シューにしてみたら馬鹿にしてるのかって思っちゃうかもしれないんだけど、俺、上手く表現できないんだけど。最初に会ったときは凄い怖いって思ってたんだよね。でも、一緒にいる間にシューって、言われたら嫌かもしれないけど…本当に優しかったし、良い魔物なんだなって思うようになったんだ。だから、大丈夫!うん、ちゃんとシューを見て好きになったから…」

 両手に抱えた書物を落とさないように気をつけながら一生懸命説明する光太郎の目の前で、不意にシューが立ち止まった。その広い背中に気付かないまま思い切りぶつかった光太郎は、鼻先を押さえながら涙目で振り返らない獅子面の魔物を見上げた。

「シュー?」

『全く…これだから俺は人間ってヤツが気に喰わねぇんだよ。その時の感情だけでベラベラ喋りやがって…俺を好きだと?俺の全てを好きになっただと?』

 殺気のような怒りのオーラが蜃気楼のようにゆらりと立ち昇って、肌をビリビリと焼くような振動にビクッとする光太郎を獅子面の凶悪な魔物が振り返った。その黄金色の双眸に射竦められて、力が抜けた光太郎の腕から書物がバサバサと床に落ちてしまった。

「あ…」

 思わず条件反射で…と言うよりも、その射抜かれるような強い双眸から逃げ出そうとするかのように、落ちてしまった書物を拾おうと屈み込みかけた光太郎の腕を、力強い大きな掌がガッチリと掴んで乱暴に引っ張った。

「痛ッ」

『俺を見ろよ、ええ?俺を見て俺を好きになったんだろ?俺は魔物だ。お前が何を勝手に考えていようと、俺は人間を憎んでいる魔物なんだぜ。ほら、俺の目を確り見るんだ。これでもお前は、俺をまだ好きだなんて安っぽい言葉を吐きやがるのか?』

 光太郎は、地獄の底から噴出すような凶暴性を孕んだ双眸に見据えられて、じっとりと背筋を濡らす汗を感じていた。それは感じたこともない恐怖で、直感的に殺されると思うほどだった。

『光太郎、物事はちゃんと考えて口にしろと言っただろ。何かを言うときは、責任を持ちやがれ。ここはお前の住んでいたようなお綺麗な場所じゃねぇんだ。言葉一つ間違えても命取りになるんだぜ』

 それはシューの、最大限の優しさだった。

『魔物の世界ではなんでも一つしかねーんだ。【好き】と言う言葉は即ち【愛している】と言う意味になって、互いの命を別ち合う、お前たち人間の言葉で言えば【婚姻】を意味するのさ。だから、人間の感覚でシンナやゼィに【好き】なんて言うんじゃねーぞ』

 威嚇するように牙を剥いたシューは、それでも噴出すような殺気と怒りを唐突に引っ込めると、軽い溜め息を吐いてやれやれと首を左右に振った。左右に振ったが、先ほどから視線も逸らさずに食い入るように自分を見つめる漆黒の双眸に気付いてギクッとした。

『な、なんだよ』

 恐る恐る聞き返してしまうシューの丸い耳が、微かに震えているのは気のせいではない。

「…ちゃんと、責任を持てばいいんだよね?」

『なぬ!?』

「俺は、シューが大好きだよ。シューの傍にいて幸せだし、シューのお日様のような匂いも大好きなんだ…あ!またすぐ睨む。睨んでもいいよ。そりゃ、ちょっとは怖かったけどでも、ジッと見てたらやっぱりシューなんだ。どんな怖い顔してても、やっぱりシューはシューなんだ。仕方ないよ」

 呆れたようにポカンッと見下ろしたシューはしかし、ガックリと項垂れて、まるで脱力したように掴んでいた腕を離すと片手で顔を覆った。

『そりゃ、お前。雛鳥のすり込みってヤツじゃねーか。もう、勘弁してくれ。俺は行くぞ』

 何か言うのも疲れたのか、勝手にしろとばかりに突き放したシューは、もう問答無用でズカズカと重い書籍を軽々と小脇に抱えて立ち去った。その後ろ姿を見送った光太郎は、掴まれた痕の残る腕を見下ろして、それから頬を微かに染めながら双眸を閉じると、ソッとその部分に唇を寄せた。
 力強い掌に掴まれて引き寄せられたとき、なぜか突然ドキッとした。それに追い討ちをかけたように睨まれて、確かに身体は竦んだのに、どうしてその金色の双眸から目が離せなかったのだろう…
 シューのことが好きだ。
 ソッと口に出して、それから唐突に心臓が跳ねる感覚を覚えて戸惑った。

「んー、これってなんだろ?心臓が凄いドキドキする…苦し」

 ドキドキする胸元を押さえながら眉を寄せる光太郎は、その感情がどこから来るものなのか判らなくて不安になった。こんな感じは初めてで、どうしたら良くなるのかも判らなくて息苦しくて仕方がない。

「う~、だって!ちゃんと好きって言わないと気持ちって伝わらないじゃないか。シューには凄く感謝してるんだから、キチンと気持ちを伝えないと。人間的にって…そもそも魔物の考え方がおかしいんだよ!「好き」の意味が一つしかないなんてどうかしてるよッ。じゃあ、どんな風に感謝するの?すっごい良い人だって思ったら大好きだなって思うじゃないか!俺はシンナも好きだよ。んー、でもやっぱりシューが大好きだけど…なんか、考えるのやめた。もう、ワケが判んなくなってきた。はぁ、疲れた」

 一頻り一人で弁解だの愚痴だの屁理屈だのをグチグチと言っていた光太郎は、唐突に眉を寄せて、それから疲れたように項垂れてしまった。自分で言っているうちに、感情そのものがこんがらがってしまったのだ。

「シンナに聞いてみようかな…あ、ダメだ。シンナに聞いちゃダメなんだ。ん~、どうしようかなぁ」

 書物を拾って両手に抱え直しながら釈然としないままで、それでも漸く光太郎はシューの後を追うことにした。
 ガックリ項垂れた背中は、この国に来て初めて、疲れきっているようだった。

Ψ

 それから何日かが過ぎて、結局、光太郎が弾き出した結論はシューに付き纏えばいいのだと言うことだった。
 あれやこれやと聞いてみても、獅子面の魔物はウンザリしたような顔をするだけで、明確な答えと言うものは全く教えてなどくれない。それでも根気良く着いて回っていると、シューの方が煙たがって逃げ出してしまう有様だ。

「ひっどいなー。これじゃあ、なんにも判らないよ」

 ブツブツと珍しく悪態を吐きながら床を磨いていると、不意に向こうから神官風の魔物を従えたゼィが歩いてきていた。その手には幾つかの巻物らしきものを持っていて、その表情は些か沈んでいるようにも見える。

『…よって、人間どもの勢力が高まっている模様でございます』

『厄介なことよ。大方、【魔王の贄】の出現に我らの気が漫ろになったことも要因の一つであろうな』

 立ち止まったゼィが巻物を開いて見ると、そこには何やら気に障る内容でも書かれているのか、溜め息を吐いて首を振って巻物を放り投げると腕を組んだ。神官風の魔物は慌てたようにその巻物を受け取ると、冷や汗を額に浮かべて焦ったように言い募っている。

『彼の国は隣国を巻き込んで肥大化してきているようでございますが、付け焼刃の王であるせいか統率はいまいちのようでございます。攻め入るならば、内偵を放って…』

『ふん!だから其方は愚かだと言うのだッ』

『は、はは!?』

 ジロリと睨みつけてから、不機嫌そうに額に血管を浮かべて歩き出したゼィを慌てたように軍師らしき魔物が追い縋るが…ふと、不機嫌のオーラをバリバリと漂わせる胡乱な目付きのゼィと、しゃがみ込んで床を磨きながらポカンッと見上げていた光太郎の目がバチッと合ってしまった。
 光太郎が内心で「ひえぇぇ」と泡食っていることなど露知らぬゼィは、それまでの不機嫌そうな声音とは打って変わった穏やかな調子で声をかけてきた。

『おお、光太郎ではあるまいか?』

「や、やあ、ゼィ。なんだか大変そうだね」

『ふん!役立たずの軍師に手を焼いておるだけのこと、光太郎はまた掃除か?』

 役立たずと言われてガックリと項垂れる魔物を追い払って、ゼィは大股で光太郎に近付くとその傍らに座り込んだ。胡坐を掻いて腕を組むと、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。

「うん、そう。最近、随分と綺麗になったと思わないかい?」

 光太郎が雑巾を片手にニッコリ笑うと、それまで不機嫌そうに眉間に皺を寄せていたゼィは、ふと、頬を緩めていつもの無表情に戻った。

『うむ、城の者どもも噂をしておるようだ。光太郎が来てから城が明るくなったとな』

「…いいことがどうかなんて判らないけど、俺ができることなんてこれぐらいだから」

 エヘヘヘッと、少し自信がなさそうに笑う光太郎にゼィはキリリッと整った眉を跳ね上げて驚いたような表情をして見せた。

『はて?光太郎らしくもないではないか。常に自信に満ち溢れ、己が行動に躊躇いのない光太郎はどこに参ったのだ?…む、シューが見当たらぬようだが?』

 今気付いたかのように、【魔王の贄】の世話役としていつも影のように寄り添っている獅子面将軍の姿がないことに首を傾げながら、ゼィはキョロキョロと辺りを見渡した。それでも、シューに用事があるわけではないからなのか、どうでもよさそうに肩を竦めて見せた。

『大方、また何処ぞの陰から覗いてでもおるのだろう』

「えーっと、その。違うんだ。ちょっと、怒らせちゃって…」

 困ったような、不安そうな顔で笑う光太郎を見下ろして、ゼィが無表情で首を傾げて見せる。

『怒る?あのシューがか??はてさて、光太郎が現れてから珍奇なことばかり起こるようだな』

「俺が来る前はシューはこんなに怒らなかったのかい?」

 どうでも良さそうに呟くゼィの深い紫色の双眸を驚いたように見上げた光太郎が首を傾げると、青紫の髪を持つ思慮深い面立ちをした優美な美しさを持った魔物は下唇を突き出すようにしてどうでも良さそうに口を開いた。

『怒るというよりも寧ろ、相手をしてはいなかった。飄々としておったからな』

「そうなんだ…シューは、俺には怒るんだね。嫌われてるのかな…」

『む?人間を気に食わぬは我ら魔族の性のようなもの。が、シューは然程光太郎を嫌っているようには見えなかったぞ』

 しょんぼりと肩を落としてしまう少年を見下ろして、どう言った気分の変化が起こったのか、ゼィは僅かに眉を寄せて気を遣ったのだ。ここにシューが、或いはシンナがいてその姿を見ようものなら、驚きに卒倒してその場にぶっ倒れていたかもしれない。それだけ、そのゼィの人間に対する気遣いなど皆無に等しい行為だったのだ。

「えーっと…ちょっとゼィに聞いてもいいかな?」

 俯いていた光太郎はジーッと床を見詰めていたが、不意に顔を上げてボーッと石造りで文様を施された豪華なアンティーク調の天井付近を見上げているゼィに声をかけると、先ほどまで額に血管を浮かべて不機嫌のオーラを無造作に出していた魔物は今ではその気配すらも感じさせずに何事かと首を傾げた。

『何か?』

「ゼィたち魔物にとって言葉の意味って一つしかないんでしょ?」

『…ああ、それは特別な言葉のことであろうな。それならばそうだろう』

 光太郎の言葉に首を傾げていたゼィは、大方の予想をつけて頷いた。

「たとえば、たとえばだよゼィ。もし、俺がシンナやゼィやシューを【好き】だとするだろ?その場合の魔物たちの表現ってどうするんだ?」

『そんなことはシューに聞くが良い…と言いたいところだが、あの朴念仁ではそう上手くもゆかぬのであろうな。好意を持ったのであれば長らく傍におることだろう。言葉にしろ、態度にしろ、我ら魔族にはその表現はないに等しいのだ』

「でもそれだと」

 シューに予め聞いていた同じ言葉に眉を寄せながら、光太郎はやっぱり納得できないように唇を突き出して反論を試みた。

「ないに等しいって言うけど、それじゃあ少しぐらいはあるってことじゃないの?俺はそれが知りたいんだ」

『ならば身体を重ねればすむこと。表現とはまさにそれではあるまいか?』

 極平然と、まるで当たり前のことのようにあっさりと言い切ったゼィに、光太郎は吃驚したように目を白黒させて次いで、慌てたように顔を真っ赤にした。

「で、でもそれって…じゃあ、【愛してる】のときはどうするの?」

『それは、魂を分かち合うのだ』

「え?」

 不意に耳慣れない言葉を聞いて首を傾げる光太郎に、ゼィは気が落ち着いたのか、ゆっくりと立ち上がりながらキョトンッとしている人間の少年を見下ろした。

『人間には耳慣れぬ言葉であろうな。俗に言う【婚姻】というものだ』

「…あー、ああ!そっか、魔族にも結婚って言うのはあるんだね」

『結婚と申すかどうかは判らぬが…』

 呟きながら頷いたゼィは、そのまま話を切り上げて立ち去ろうとした。その後ろ姿に、光太郎は思わずと言った感じで声をかけてしまった。

「あ、ゼィ!」

『…ん?』

 不意に足を止めたゼィが振り返った。
 青紫の髪と深い紫の瞳、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇は、禍々しくもあるが優雅な美しさが際立って、この古風な長い回廊に佇んでいるとまるでお伽噺から抜け出してきた精霊か何かのようだ。
 さらりとした髪が頬に揺れ落ちて、ゼィは不思議そうな顔をしている。
 シンナが愛している人は、確かに魔族の中に在っても際立つ美しさと威風堂々とした威圧感があった。

「えーっと、その…ごめん、なんでもないんだ」

 えへへへっと笑って誤魔化すと、ゼィは訝しそうに眉を寄せはしたが、フッと軽く笑って立ち去ってしまった。その後ろ姿を、頬を引き攣らせて笑いながら片手を振って見送っていた光太郎は、ガックリと床に両手をついて項垂れてしまう。

「さ、さすがに言えないよ!だって人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて死んじまえって、ばーちゃんが教えてくれたんだ。なんとか、俺で手伝うことができたらいいのに…恋愛経験が丸っきりないこんな俺だと、こう言うときはまるで役立たずなんだよなぁ…」

 木製のバケツにたっぷり入った水の中で雑巾を洗いながら光太郎が溜め息を吐くその傍らを、何も知らない見張りの仕事あがりの魔物や、書物庫から戻ろうとしている魔導師、闇の神殿に参拝途中の神官などが、小さな人間がせっせと床磨きをしている微笑ましい光景に目を留めては噂しながら行き交っていた。

『全く…光太郎が来てからこの城は明るくなった』

『うむうむ、嫌がる仕事も喜んで引き受けてくれるしなぁ…全く、人間にしておくには勿体無いほど素晴らしい少年だ』

『城全体が綺麗になってきたのぅ…もうずっと、この城に居てくれればいいんじゃが』

『城だけでなく、殺伐とした我らの気分も明るくなったぞ』

『この城にずっと留まってくれればなぁ…』

『我らと共に居て欲しいなぁ…』

 柱の影から案の定、コソリと様子を窺っている胡乱な目付きのライオンヘッドの魔物のその鋭敏な聴覚にも、噂話は余すところなく漏れ聞こえていた。背後に暗雲を背負いながら、そんな冗談言うなよと、シンナとほぼ同じぐらい大それたことを口走る魔物どもにウンザリしたような顔をして、それでもシューは、汚れてくすんでいたはずの鏡面のようになっている床に顔を近付けて、ちょっと小首を傾げながらゴシゴシと磨いている光太郎を見詰めていた。

『そんな冗談言うなよ…』

 もう一度呟いてみて、シューは溜め息を吐いた。

『クッソ!俺の方が冗談言うなの心境だなッ』

 柱を背にしてへたり込むようにしゃがみ込んだシューは、膝の間に両腕を投げ出して、やれやれと項垂れてしまった。顔を出せば忽ち光太郎に見つかって、世間知らずの人間のしかも小僧如きに「好きだ、好きだ」と連呼される羽目になる。
 それだけは避けたいからこそ、こうしてゼィから鼻先で笑いながら言われたように、何処ぞの柱の陰に潜んで覗き見しているのだ。

『…何してんだろうな、俺』

 盛大な溜め息で回廊を歩いていたバッグスブルグズがビクッとしたように立ち止まって、よせばいいのに恐る恐るそんな不機嫌の固まりになっているシューに声をかけてしまった。

『シューの旦那じゃねーか?こんなところで何してるんだ??』

『…うるせーぞ、バッグスブルグズ!俺の名を呼ぶんじゃねぇ!!』

 もうヤケクソになったようにバッグスブルグズの足を払って見事に転ばしたシューは、その馬面の魔物の首に腕をかけて寝技に持ち込んだ。この数日で溜まりに溜まったストレス発散に、バッグスブルグズが餌食になってしまった。

『しゅ、シュー様??』

 驚いたように闇の神官が恐る恐る立ち止まって口許を押さえながら覗き込むと、バッグスブルグズが大きな腕をバシバシッと叩きながら『ギブギブ』と呻いている。
 そんな騒ぎに気付いた光太郎が立ち上がって人だかりに首を突っ込むと、思わぬ光景にプッと吹き出してしまう。

「何してるんだよ、シュー」

 ケラケラ笑う光太郎に気付いたシューは、どうしたのか、ますますいきり立ったように馬面魔物の首を締め上げてしまう。白目を剥いて泡を吹きかけたバッグスブルグズに気付いた神官たちが、その時になって漸く慌てたようにシューを止めに入った。

「わわ!?ダメだよ、シュー!!」

『うるせー!人間はすっこんでろッ』

『つーか、グハッ!手を…手を…はなし…ぐへぇ』

『シュー様!お止めくださいませ~』

 騒然とする回廊で、光太郎も慌ててそんなシューを止めるのだったが、さすがは魔将軍である。全く意に介したようになく、日頃の恨みも込めてバッグスブルグズの首を締め上げるのだった。
 哀れバッグスブルグズ、ご愁傷様である。

Ψ

 魔王の眼前に控えたシューと、そしてゼィとシンナが神妙な面持ちでその言葉を待っていた。
 魔軍を率いる武将の顔ぶれをゆっくりと見渡した魔王は、玉座にゆったりと凭れながら腹の上で両手を祈るように組んだ。不貞腐れている約一名を除いて、魔将軍どもは真剣そのものの表情をしている。

『…儀式を執り行えと申すのか?』

 魔王の声音は吹雪のように冷たいが、室内の温度を幾分か凍りつけた後、まるで何が可笑しいのか、魔王はさも面白そうにクックックッと咽喉の奥で嗤った。そのゾッとするような哄笑はあまりに突発的で、一瞬怯んだ忠実な配下にこの世の全てを統べるべく誕生した王は片手を無造作に振ったのだ。

『下らん』

『魔王、お言葉ですが時は充分満ちております…』

 ゼィが物静かに口を開くと、シンナがそんな将軍をジロリと睨んだ。
 唯一、この玉座の間に姿を現したときから不機嫌そうに眉を寄せているシンナをチラリと見下ろして、魔王は尊大な態度で頬杖を付いた。

『ならば理由とやらを申してみよ』

 端から取り合う気など毛頭ないのか、絶対的な力を誰よりも欲していたはずの魔王のその、中途半端な態度にシューが苛々したように口を開いたのだ。

『畏れながら魔王、彼の者が来てからの我が城の緊張は、まるで砂糖菓子のように脆くなっております。この虚をいつ何時人間どもが狙ってくるか判りません』

『ふむ、なるほど。だが、どうも私の、以前にも増して結束が強まったという思いは気のせいであるのかな?』

 間髪入れずに尊大な仕種で見下ろしてくる魔王が言うと、シューは『そんなまさか…』とブツブツ悪態を吐きながら唇を尖らせた。だが、ゼィは違っていた。
 冷静に事態を把握する冷徹な魔将軍であるが故に、ゼィは静かながらも存在感のある声音で魔王に進言するのだ。

『結束が強まるは良きことですが、魔王よ。人間どもも小賢しく、少なからず力を蓄え始めております。このまま捨て置くは賢明なるご判断とは申し上げられません。どうぞ、【魔王の贄】をお召しくださいませ』

 頭を垂れるゼィを見下ろして、魔王は紫紺の双眸を細めると、やれやれと溜め息を吐いた。
 何れはこうして進言に来るだろうと予想はしていたものの、魔王としても、確かに限りなく続く常しえの力を我が手に入れて人間どもを一掃し、この世界の全てを手に入れたいとは常々思っていた。

(だが…)

 魔王は頬杖を付いたままで目線を伏せた。

(はたして儀式を行ってよいものか?)

 誰にともなく呟いて、そしてそれは、自身の内心に渦巻くべっとりと張り付いた疑念に問い掛けているようだった。
 どうも二の足を踏んでしまう魔王のその態度に、シューもゼィも内心では苛々していたが、聡明なる彼らの王が、ましてや判断を誤るはずがないと信じていた。
 困ったものだと溜め息をついた魔王が、ふと、ムスッと唇を尖らせて一言も喋らないシンナに気付いて首を傾げた。いつもなら真っ先に口を開いて、居並ぶ将軍どもを押し退けるようにして自らの主張を貫くこの小さな副将が、どうしたことか、一言も口を開こうとしないのだ。
 魔王は興味を惹かれてシンナを見下ろした。

『時にシンナよ、其方の意見も聞いてみよう』

『あたしはン…』

 口を開きかけて、一瞬、戸惑ったように視線を彷徨わせたシンナは、首を左右に振って不機嫌そうに項垂れてしまった。それでも、魔王の双眸が揺らぐことのないのを知ってか知らずか、シンナは顔を上げると片膝をついた騎士の礼をとって魔王を見上げるのだった。

『畏れながら魔王ン!あたしは光太郎を、いえ、【魔王の贄】の儀式を行うことを取り止めて頂きたく思いますン』

 一瞬ザワッと玉座の間の空気が揺らいで、護りを固める衛兵も、居並ぶ重臣たちも、何よりもゼィとシューが驚いたように目を瞠ってそんなシンナに注視した。だが小柄な副将はそのような視線は意に介さず、真摯に魔王を見据えて次々と発言するのだ。

『光太郎が来てからこの城は賑やかになりましたン。その態度がこの城の護りを砂糖菓子のように脆くしているなどと、あたしは思いませんン。城の者は優しさを知り、もっと、みんなを護ろうと頑張っていますン。それを評価されるのであれば、あたしは【魔王の贄】の儀式を執り行うことを反対致しますン!』

『シンナ!』

 思わずゼィが副将たるシンナの腕を掴むのと、シューがそんな一触即発の青紫の髪を持つ将軍の腕を掴むのはほぼ同時だった。

『こんな場所でやめろや、ゼィ』

 魔王が冷ややかな相貌で見下ろしている、ましてやここは玉座の間なのだ。
 シンナは自らの発言にけして誤りなどあるはずがない、と言う確信でも得ているのか、真摯な双眸でゼィを通り越した先に鎮座ます魔王を見詰めている。ゼィは突発的なシンナの叛乱に、彼にしては珍しく動揺してでもいるかのように深い紫の双眸を細めていた。

『…なるほど』

 微かに口許に微笑を浮かべた魔王が何事かに思いを巡らすかのように紫紺の双眸を閉じると、居並ぶ彼の忠実な部下たちは息を呑んでことの成り行きを見守っているようだ。
 特にゼィは、シンナの強硬な態度に腹を立てかねない勢いで、しかし、不届き者として重い重罰が下るのではないかと内心気が気ではなかった。
 シューは、獅子面からはその思いなど想像のできないクールな表情で、内心に吹き荒れるハリケーンのような心の葛藤に、背筋はダラダラと冷たい汗を掻いている。

(厄介なことにならなきゃいいんだが…)

 人知れず溜め息を吐く獅子面の魔物のことなどお構いなしに、永遠の闇の国きっての破天荒なならず者は憤然とした表情で魔王を見据えていた。その横顔が、どこかで見たことがあるような気がして、シューがゾッとしたかどうかは本人のみぞ知るところである。

『なるほど』

 何かに思いを巡らせていた魔王は内なる声にもう一度頷くと、ゆっくりと魔眼とも怖れられる紫紺の双眸を開いて畏まる二匹の魔物と、強い双眸で睨んでくる一人のディハール族を見渡した。
 それぞれの葛藤に揺れる心を持つシューとゼィを、シンナはだが、一度として見ようとしない。それは恐らく、振り返ってしまって彼らの絶望する瞳を見てしまったらその決心が揺らいでしまうし、何より、この重大ごとに彼らを巻き込むわけにはいかず、その責任は一身に自分にあるのだと魔王に宣言しているからだった。
 シンナは強い。
 それはゼィもシューも認めていた。
 だからこそ、この重大な時期に謀反ともとれる言動で重要な存在であるシンナを失いたくはないのだ。
 魔王もそのことは重々承知のはずである。
 シューは見上げた。
 彼らが絶対と仰ぐ、君主たる永遠の闇の国の魔王を。
 何か言おうと口を開きかけた魔王の見事な柳眉が一瞬ピクリと動いて、その瞬間、魔将軍たちと副将はすぐにその気配を感じて玉座の間から謁見の間へと続く間仕切りの緞帳が垂れる入り口を振り返っている。既に臨戦態勢に入っているシンナの握った拳を覆うように、いつの間にか腕輪から鋭い鉤爪が飛び出していたし、ゼィは腰に佩いた禍々しい気配を発する妖剣の柄に手を掛け、シューは拳を握ってボキッと指を鳴らしている。
 魔王は何事もなかったかのような飄々とした表情をして、緞帳が遽しく引き上がるのを見つめていた。

『お、お話中失礼致します!』

 滑り込むようにして片膝を付きながら、魔王と彼を護る3人の将の眼前で殺気を垂れ流しながら傷付いた魔兵が頭を垂れた。その瞬間激しく咳き込んで、玉座の綺麗になった床に血反吐が飛び散った。

『何事だ!?』

 たった今まで戦っていた様子をまざまざと窺わせる魔兵の満身創痍の身体には、既に余命幾許もないことが濃厚に張り付いていた。そのベットリと疲労の色が窺える顔を覗き込んだシューが、慌てたようにグラリッと傾ぐ身体を支えてやりながら声をかける。

『ラスタランの生き残りどもが…グッ!…北の砦を落としましたッ!!』

 肩で荒い息を繰り返しながら、畏れ多くも将軍に身体を支えられた魔兵は、信愛するシューと魔王を見上げて息も絶え絶えに報告する。本来、それが彼の役目だったのだろう、伝令として早馬を駆けて城に戻ってきたのだろうが、傷付いた身体は更に低級魔物どもに襲われたのか鮮血があらゆる部位から吹き零れている。
 特に酷い肩の辺りを押さえてやりながら、それでもシューは、呼吸に合わせて吹き出る血液を掌に受けて、彼がもう間もないことを感じていた。シンナもシューと同様にその傷口を覗き込んで、声もなく首を左右に振る。

『なんだと!北の砦が!?』

 ゼィが一瞬目を見開いて呟いたが、悔しそうに歯噛みしながら魔王を振り仰いだ。
 その深い紫の双眸には、煮え滾るように人間に対する憎悪の焔が燃え上がっていた。

『由々しき事態でありますれば魔王よ、挙兵させて頂きたい!』

 すぐにでも飛び出していって一矢報いてやりたいものを…日頃は冷静沈着なゼィが歯噛みするのも仕方がない。
 伝令として危機を掻い潜ってきたその魔兵は、シューが拾ってきた魔物で、子供の時分から育て上げた養い子だったのだ。

『攻め入るならば…ッ、い、今こそ…で、ございます』

『喋らないでン…』

 伝令としての役目でそれは有り得ないと知りながら、それでもシンナはシューの大きな震える掌の上にソッと自らの手を重ねると、呟かずにはいられなかったのだ。

『グッ…今はまだ…ッ、…沈黙の…主が不在で…ございますッ』

 息も絶え絶えに言葉を区切りながら報告する魔兵を見下ろして、魔王が悠然と立ち上がった。噴霧のように殺気が垂れ込める玉座の間に、彼の冷ややかな、威圧感のある声音が響き渡った。

『シューよ、其方に命じる。北の砦を奪い返して参れ』

『…は、仰せのままに』

 ビクビクッと痙攣し始めた身体を支えてやりながら、シューは感情の窺えない声音で頭を垂れると享受した。
 その時ばかりは沈黙の主に一矢報いてやろうと牙を磨ぐゼィも自分を出せとは反論せずに、その悲しいまでの怒りを知る旧知の友であるからこそ何も言わずに頭を垂れるのだ。
 そうして魔王は、片膝を付いて頭を垂れている二人の魔将軍を見下ろすと、いっそ呆気にとられるほどのあっさりとした口調で、この世でもっとも残酷なことを命じるのだった。

『ゼィよ。伝令として見事な働きを見せたシューの部下であるソーズに、常しえの国ラルシーダへの引導を渡してやるのだ』

『…くっ、はは!』

 片膝を付いていたゼィは一瞬歯噛みすると、そのまま立ち上がってシューの眼前まで歩いていった。シューの腕の中では既に息も絶え絶えの、それなのに急所が逸らされているばかりに死ねないでいるソーズが、霞む眼差しで最愛の養い親とゼィを交互に見詰めている。
 その視線は、いっそ潔く、覚悟を決めてもいるようだ。
 ゆっくりとシューが冷たい床にソーズを横たえると、ゼィが腰に佩いた妖剣の柄を握り締めて鞘から引き抜いた。

『ソーズよ』

 シューが囁くように呟くと、視線を彷徨わせていたソーズが咳き込んで、もう見えなくなりつつある目を凝らしながら声の主を探そうとしている。

『先にラルシーダで酒でも呑んで待っててくれや』

『…はい、シュー様』

 掠れた声で、もう意識も朦朧としているのに、それでもソーズは微笑んだ。
 その顔を目に焼き付けるように食い入るように養い子の最期を看取るシューの眼前で、ゼィは握り締めた妖剣を振り上げて言葉を紡いだ。

『…ソーズよ、常しえの平安の宴の席に、賓客として参るが良い』

『ゼィ様、あ、りがとうございま──…』

 ソーズの胸元にゼィの妖剣が吸い込まれるようにして突き立った瞬間、最後の言葉はまるで空気と共に魂が抜け出したかのように細く響いた。
 硬い骨を砕く音がして、それでもソーズは痛みを感じることもなく事切れた。
 シューは、もうこの世ではない世界を見詰めているソーズの双眸をその大きな手からでは想像も出来ないほど繊細な仕種で閉じさせてやると、魔王の指示で集まってきた衛兵を払い除け、彼は血塗れで横たわる養い子の身体にゼィの外套を奪って巻き付け、物も言わずに肩に担ぎ上げて玉座の間を後にした。
 その後ろ姿を見送っていたゼィの握り締めた拳に、ソッと、華奢なシンナの掌が触れた。
 まるでそれだけがこの世界に在るぬくもりのような気がして、ゼィは無言でシンナの温かな掌を握り返していた。

(いったいいつになったら、この無益な争いに終止符が打たれるのか…)

 それは誰しもが心の中で思いながらも、けして口にできないでいる言葉だった。
 魔王が【贄】を手に入れればその争いも終わるのかもしれない…だが、とシンナは思っていた。
 ゼィの大きな掌を握り締めながら、シンナは唇を噛んだ。
 魔王はそんな二人の武将を見詰めながら、ゆったりと口許に微笑を浮かべた。
 今や世界は、彼の掌の上でゆっくりと、微かに軋みながら回転を始めたのだ。