8.闇を流離う漂白の者  -永遠の闇の国の物語-

 北の砦はそれでも頑強な警護を誇っているようだった。だが、さすがに先の戦で激戦を繰り広げただけあって、兵士たちの体力も消耗しているのか、砦自体は殊の外あっさりと開門してしまっていた。
 だが、そこからが人間の粘り強さの本領発揮である。
 開門と同時に飛び出してきた幾本もの矢の雨は、左右を囲むようにして配置されていた敵兵たちの白兵に傷付いている魔物の軍勢を幾許か削り取って、その場に阿鼻叫喚の地獄絵図を展開した。その屍を乗り越えるようにして前進する歩兵の頭上からは岩や石、そして矢が次々と降り注いでくる。
 馬を駆る将軍は飛んでくる矢を血溝がクッキリと浮かび上がる魔剣で薙ぎ払うと、返す手で襲い来る敵の兵士の首を跳ね飛ばした。漆黒の巨大な馬に血飛沫が飛び散り、シューはそれすらも意に介さないようにギラつく双眸で純白の馬の姿を探している。
 既に血飛沫で所々赤く染まったシンナの愛馬は嘶きながら立ち上がると、斬り付けてきた兵士の上に強靭な前足を振り下ろしてドカリと蹴倒す。シンナは両手に持った刀身の細いレイピアを華麗に操りながら、襲い掛かってくる兵士を片足で蹴り上げてレイピアで突き刺した。

『ねえン!光太郎ン?』

 まずは足許を狙う白兵戦の鉄則通りに馬の足を狙って斬り込んでくる敵兵の、その頭を軽やかな足裁きで蹴り上げたシンナが、怯えて純白の馬の鬣を握り締めている光太郎に尋ねてきた。

「な、なに?」

 ヒュッと飛んでくる矢を身を乗り出したシンナがレイピアで払い落として、命辛々、光太郎が首を傾げると頷きながら質問する。

『どうしてシューに、自由になれるなんて言ったのン?』

「ああ…ウワッ!あ、あれか」

 同じく馬に乗った敵兵の攻撃に首を竦める光太郎の頭上を、シンナのレイピアが凄まじい速さで旋回すると敵兵の首がポロリと落ちて、頭を失った身体が微かに傾ぐとドサリッと重い音を立てて落ちてしまった。噴出した鮮血に吃驚した主を失った馬が驚いたように嘶いて前足を高く掲げる。

「ゼインに出てくる前にお願いしたんだよ」

『えン?』

「シューを俺の世話役から解任してくれって。ここに潜り込むつもりだったから、迷惑をかけたくなくて。でも、大丈夫。もう、シューは今でも自由の身なんだ」

 だから怒られないよと困ったように笑う光太郎に、シンナはそんなことだったのかと溜め息を吐いた。

『でもン、戻ったらもうシューといられないわねン』

「あ!!そっかッ」

 今頃そのことに気付いたのか、光太郎は困ったぞと言うように頭を抱え込んでしまった。そんな光太郎をクスクス笑いながら、シンナは斬り付けてくる敵兵を馬上で鮮やかにレイピアの露にする。

『んもうン!キリがないわねンッ。光太郎、ティターニアはお利口さんだからきっと、振り落とさずに敵の中を掻い潜って逃げ続けてくれると思うのよねン…』

 両足だけで愛馬を操りながら、二刀流のシンナが馬上から襲ってきた鈍く光る剣の切っ先をかわして、2本のレイピアで馬上から叩き落すと純白の愛馬ティターニアが踏み付ける。そうして戦いながら呟いた言葉の意味を探るように、初めて目の当たりにした合戦の激しさに恐れをなして蒼褪める光太郎は、ゴクリッと息を飲んで眉を寄せると困ったように笑うのだ。

「白兵戦に行くのかい?」

『ごめんねン。あたしはもともと地上戦向きなのよン』

 すまなさそうに眉を顰めるシンナの頬は、先ほど避けたはずの切っ先で傷付き鮮血が流れていた。だが、血に飢えた魔軍の副将と謳われるシンナは、そのようなことは意に介した風もなく、喋りながらも敵将の首を取ろうと勇ましく斬りかかってくる人間の兵士をレイピアで刺し殺した。
 引き抜いた細い刃につられるように鮮血が噴出して、シンナは頭から真っ赤な血をベットリと被ってしまった。その光景に光太郎は怯んだが、だがすぐに見渡す限りの入り乱れて戦っている全ての者がそうであることに気付いて、今更ながらゾッとしてしまったのだ。

『グワッ!!』

 すぐ間近で声が上がって、ハッとした時にはよく城で回廊の掃除をしていると、ニコニコ笑いながら声をかけてくれた衛兵が片腕を切り飛ばされて真っ赤な血を噴出しながら倒れ込んでいた。

『チッ!』

 切り殺している敵に気を取られていた隙に、敵兵から狙われていた光太郎を守ろうと、飛び出した魔兵が切り殺されたことに気付いたシンナは舌打ちすると、愛馬を駆り立ててできるだけ戦況の厳しくない…そのようなところは殆どなかったが、そんな場所を選んで走り抜けた。
 光太郎はたった今倒れ込んで死んでしまった魔物の顔が頭から離れず、とんでもない場所についてきてしまったと後悔するよりも、皆の足を引っ張っている事実を見せ付けられて何も出来ないことの悔しさに唇を噛んだ。

「シンナ!行ってくれ。俺は大丈夫だから!」

『本当ン?じゃあ、行くわねン!』

「気をつけて!!」

 怒号の飛び交う戦場では声を張り上げても僅かしか聞こえないが、最後の言葉は確りとシンナにも届いたのか、勇猛果敢なる小柄なディハールの副将はウィンクしてレイピアを光太郎に持たせると、シュッと飛び出した鉤爪を両手に馬上から飛び降りて戦場に踊り込んだ。
 もともと地上戦に向いているシンナの活躍はすぐさま戦況を有利にするほどで、光太郎の目にもハッキリと、シューが自信を見せたように砦の陥落は明らかになろうとしていた。

「さて、ここでぼんやりしてても殺されちゃうね。ティターニアだっけ?取り敢えず、逃げよう!」

 ヒヒヒーンッと前足を上げてその言葉に応えた純白の駿馬が、颯爽と走り出そうとした当にその時だった。

「!?」

 シンナが離れるのを待っていたかのように、木々の間から躍り出てきた何者かがティターニアと光太郎に紐をかけて、豪腕でその場に引き摺り倒してしまったのだ。ブルルルッと嘶くと耳を伏せて歯を剥くティターニアの威嚇にも怯まず、豪腕の持ち主は馬に結わえた綱を握りながら、この戦場にあっても堂々とした態度で尻上がりの口笛を吹いたのだ。

「なんだ、シンナを捕まえたかと思ったら…ん?人間か!?」

「…!」

 ティターニア共々引き倒されてしまった光太郎は、縄に絡め取られているせいだとは言え受け身の術も知らないばかりに、強かに地面に身体を打ち付けてしまい、息も絶え絶えに何が起こったのか理解しようと顔を上げて、その言葉に震え上がったのだ。声も出せずに痛みに呻いている光太郎を、真上から見下ろしていた豪腕を持った大男は暫く考え込んでいたが、フンッと鼻を鳴らして蒼褪めて身動きの取れない身体をヒョイッと肩に担ぎ上げた。

「魔物と行動を共にしてるってこた、こんな形をしてても魔物なんだろう。まあ、いい。この戦もどうやら俺たちの負けは決まったらしいからな。他の捕虜どもも連れて引き上げるとしよう」

「セス隊長!」

「おう!今行くぞ。もう1匹珍しい捕虜を捕まえたからな、一足先に砦に戻るぞ」

(と、砦…?あ!シンナが言ってた第二の砦だ…そっか、やっぱり落とされてたのか)

 人間たちの遣り取りを痛みの走る背中を歯を食い縛りながら堪えて聞いていた光太郎は、どうにか得たその情報をシューに知らせたくて仕方がなかった。目線だけで落としてしまったレイピアを探しながら、漸く動かせるようになった身体で脱出を試みると、豪腕の男は確かに力も強いらしく、そんな抵抗などものともせずに、却って小煩いハエ程度にでも思ったのか手にしていた縄でとうとう足までも縛られてしまったのだ。

「は、離せ!!」

「離せだと?フン、見てくれも充分人間に見えるが、どんな魔術を使いやがったんだ?」

 馬引きの戦車の荷台に投げ出された光太郎は、グイッと顎を掴まれて上向かされると、暗い森の中を縫うようにして進む戦車の上で、木々を背にした男の顔を間近で見ることができた。

「お、俺は人間だよ!でも…ッ」

 男の明るい翡翠色の双眸が憎々しげに揺らいだかと思うと、ハエでも払うような軽い仕種で頬を殴られた。

「…あッ…ッ」

 口内が切れて唇の端から血を流して蹲る光太郎を見て、男は鼻先で馬鹿にしたように笑うのだ。

「魔物に加担するヤツが人間だと?笑わせるな。今度何か言ったらぶっ殺すからな」

 強ち嘘とも思えない冷ややかで冷酷な、この世界に来て初めて見る底冷えのする殺気を感じて、それまでシューやゼィが見せていた殺気が、本当はただ単に光太郎を脅かす程度で全開ではなかったのだと、この時になって初めて知ったのだ。

「…うう、シュー」

 囁くように呟いた名前までは聞こえなかったのか、男はゆっくりと、まるで踏み締めめるようにして光太郎の身体に足をかけると、忌々しそうに吐き捨てた。

「チッ!奪い返したと思ったらまた奪われちまった。だが、まあいい。沈黙の主の仰ったように、北の砦を餌にすれば、南の砦はがら空きだ。ふん!無能なる魔物どもが…はーはっはっは!」

 ハッとして、光太郎は自分を踏みつけている尊大な男を見上げた。
 まさか…まさか!

「それじゃあ、この北の砦の襲撃は罠だったのか!?」

 ジロリと、呻くように声を上げる光太郎を見下ろした男は、忌々しそうに華奢な身体を踏みつける足に強かに力を込めながらニヤリと笑った。

「だったらどうだって言うんだ?陽動作戦なんざ、魔物どもにとってもお手の物だろう?」

「そんな…!ダメだ、ダメだ!!シュー!!シンナ!!これは嘘だ!早く、早く城に帰らないと!はや…グッ!!」

「騒ぐんじゃねぇ!!この裏切り者がッ」

 ドカッと鈍い音を立てて腹を蹴られた光太郎は、身体をくの字に折り曲げて激しく咽た。
 口の周りを吐瀉物で汚しながらも、それでも光太郎は這うようにして戦車から飛び降りようとして、すんでのところで男の大きな掌にサラサラの黒髪を掴まれてしまう。
 乱暴に引き上げられて、光太郎は傷みに霞む目を凝らしながら呻いた。

「おいおい、どこに行こうってんだ?生意気な捕虜だな…ふん!まあ、砦に戻ってからたっぷりと尋問してやるがな」

「…うう…し、シュー…ッ」

 光太郎の切迫した吐き出すような微かな声は、戦場に渦巻く怒号に掻き消され、戦場で光太郎の姿を懸命に捜しているシューの思いもよらぬところで連れ去られてしまったのだ。

Ψ

 何かを感じたシューは焦ったように累々と死体に埋もれる戦場を見渡した。
 どこを捜しても、今更になってシューは、光太郎とシンナを乗せたティターニアの姿がないことに気付いたのだ。
 戦況はどうやら魔軍の圧勝で終わったようだが、戦場に潜り込んで来たあの勇ましい少年はどこにいる。シューの鋭い金色に輝く双眸が戦場を見渡してみても、舞い上がる土埃や血飛沫の中では、どこにもあの優しい黒髪を見つけ出すことが出来ない。

『…』

 早鐘がうつように心臓が高鳴るこの予感は、いつもシューに最悪の事態を予言していた。

『シュー!!』

 不意に絶叫のような声がして、漆黒の愛馬に跨っていたシューはハッとしたように声のした方を振り返った。振り返って、ギクッとするのだ。

『し、シンナ…どうしてお前が…』

 ここにいるんだと、吐き出されそうになった語尾を掻き消すようにして、シンナが必死の形相で縋りつくようにして暗黒の馬に噛り付くとそんなシューを見上げた。その双眸は真っ赤に濡れて、珍しいことに泣いているではないか。
 その顔が、余計にシューの嫌な予感を煽り立てる。

『ごめんなさいン!あたしが悪かったのン!!光太郎が、光太郎を乗せたティターニアがいなくなっちゃったのン!!』

『なんだと!?』

『し、死体もないから…きっとン…』

 鳴り響く早鐘はおさまることを知らないかのように、シューの耳の近くで何かが激しくドクドクと脈打っている。一気に頭に血が昇って、それが逆流するように激しく流れる自分の血潮の音だと気付いたのは、反射的に愛馬の首を第二の砦に向けてしまったときだった。
 その手綱を握り締めて引き留めるシンナに気付いて、シューはハッと我に返った。

『シュー、お願いン。貴方は城に戻ってン!光太郎は、必ずあたしが連れ戻すからン!!』

『…ダメだ…』

 ポツリと呟いた言葉に、泣きながらシンナはシューを見上げた。

『アイツは、俺じゃねぇとダメだと言ったんだ。だから、こんな所まで追ってきやがった…』

『ダメよン!シューは城に戻らないとン!!貴方は忘れないで、将軍なのよン!?』

『シンナ…』

 シューは真っ赤な双眸をして泣くシンナを見下ろして、それから徐に森の向こうにある第二の砦の方角を見詰めていた。シンナはどうか、シューが思い留まってくれることを願っていた。

『…捕虜になった魔物のその後を俺は知らんが。シンナ、光太郎は人間だ。奴らも無碍にはしねぇと思うが、頼む』

 不意に、獅子面のポーカーフェイスで感情を読み取らせないシューの言葉に、それでもシンナはホッとしたように息を吐いた。それから、シンナは大きく頷くと、必ず連れて戻ることを約束するのだ。

『任せておいてン!これはあたしのせいだもの、必ず光太郎を助け出してみせるわン!』

 傷付いて、いたるところから血を流しているシンナの、その痛々しい姿に申し訳なく思いながらも、シューは愛馬の手綱を握り締めた。
 どうか、無事でいてくれ。
 まるで、居もしない神とやらに縋りそうになって、シューは鼻先で笑った。

(そうだ、俺は魔物なんだ。人間如きがどうなろうと知ったことじゃねぇ…)

 光太郎だってそう言ったではないか。
 自分に言い聞かせるように呟いて、まるで野兎のような敏捷な素早さで戦場を走り去っていくシンナのか細い背中を見送りながら、シンナよりももっと儚い存在である光太郎を思い出して荒々しく舌打ちした。

『よし!砦は落ちた!!今夜は残務処理だ、ここに泊まるぞーッ!!』

 咆哮するように勝利宣言をするシューの言葉に、魔軍から一斉に歓喜の雄叫びが上がった。絶望する人間どもを見下ろして、シューは吐き捨てるように命じるのである。

『生き残った残兵は皆殺しにしろッ』

 それまで戦場にあっても捕虜として生け捕ることを提言してきたシューの、その残酷な宣言にある者は眉を寄せ、ある者はホッとしたように胸を撫で下ろしていた。なんにせよ、魔軍を束ねる将軍が甘いことでは全体の指揮に乱れが出がちだが、不思議と今までのシューにそれはあまり見られなかった。
 だが…今のシューは違っていた。
 どう言った理由でかは判らなかったが、シューは怒りに打ち震えているのだ。
 付き従う護衛の兵が怯えて立ち竦んでしまうほど、シューは怒っていた。
 自分でも侭ならないこの怒りを、どうして散らせばいいのか、もう手当たり次第に周囲の者に殴りかかるか、或いは全てのものを破壊し尽くすか…手始めに、皆殺しにするといい。
 光太郎がこの場所にいたらどんな顔をするのか…想像して、あまりに馬鹿らしくて舌打ちする。

(どんな顔でもいいから早く戻ってきやがれッ!勝手に俺の前から姿を消すなんてこた、許してねーぞッ)

 いつも傍にあったものが唐突になくなってしまう、開いた掌から零れ落ちる砂のように儚い存在に、その喪失感はたとえようもなくシューを不安にした。
 両手を真っ赤な血に染めて、その砂が零れ落ちないならそれでもいいと思う。
 戦場の血生臭い淀んだ空気を一掃するかのように、風が走り抜けていく。
 開いた大きな掌を見下ろしていたシューは、自分は何を考えているのかと、忌々しく歯噛みして開いていた掌を握り締めた。伸びていた爪が深々と皮膚を破って突き刺さろうとも、シューはその痛みすら感じなかった。
 漆黒の外套が風を孕んで、主を思って微かに嘶く漆黒の馬が静かに大地を踏み締める。その佇まいが、あまりにも寂しくて、残兵狩りに駆り出された魔物たちが一瞬驚いて立ち止まってしまう。
 呆気なく落とした砦の違和感を全身で感じながら、どうして自分は、こんな風に何も考えられないでいるのだろうかと、シューは風の舞い上がる魔天を見上げて眉根を寄せた。
 何かしなくては…と、気ばかりが焦るのに何も手につかない。
 これでは駄目だと自分に言い聞かせて、主を思う愛馬の首を擦ったシューは、その腹を蹴って走り出した。手綱を握り締めながら、大地を駆ける馬蹄の重い音を響かせ、自らの鬣を靡かせて荒れ果てた北の砦に入場するのだった。

Ψ

 第二の砦は、北の砦よりも僅かに頑強に造られているようだった。
 囚われた他の魔物たちと同じく地下牢に叩き込まれた光太郎は、だが、彼だけ仲間を裏切ったにせよ人間だと言うことで別に引き離されてしまった。

「イタタタ…」

 散々殴る蹴るされて、もう光太郎の顔は見るも無残に腫れ上がってまるで別人のようだ。それでも、縛られた両手で頬を擦りながら壁に凭れて座ると、自分が叩き込まれた地下牢を見渡して少し笑ってしまった。
 地下牢に通風孔を造ったときは、まさか自分も叩き込まれるとは思っていなかっただけに、人間はちゃんと捕虜のことを考えているのだろうかとぼんやり考えていた。

『おーい、光太郎?大丈夫か??』

 真正面の牢に入れられている何匹かの魔物が、縛られた両手で鉄格子を掴みながら傷付いて倒れている光太郎を案じて声をかけてきたのだ。恐らく、人間だったばかりに自分たちよりも酷いことをされたに違いないと、魔物たちは案じていたのか、その声は少し不安そうに揺れている。

「うん…みんなは?」

『ヘーキだ、ヘーキ。こんなのシュー様のシゴキに比べたら全然痛くも痒くもねぇ』

 ハハハッと笑ってうう…っと呻き声に変わるのを聞くと、どうやら彼らも半端なく殴られているようだ。
 薄暗い牢屋の中では外が夜なのか昼なのかも判らず、何よりも他の魔物たちの顔も見分けることができない。時折隅っこの方でキキキッと何かが鳴いて、それが拳ほどもある鼠だなどとは、気付くことすら出来ない有様だ。

『腹減ったなー、飯ぐらい持って来いってんだ!』

「アハハハ…テテッ。あんまり騒いでたらまた殴られるよ、バッシュ』

 声で誰かという事はすぐに判っていたが、その名を呼ぶことで相手はかなり驚いたようだ。

『おお!俺だって判ったのか??さすがだなー、光太郎は』

 バッシュの、蜥蜴の親分のような顔からは到底想像が出来ないほど、彼は陽気だ。目付きが異常に悪いから、恐らくどの魔物よりもかなり多めに殴られているのだろう、彼の顔も変わっていなければいいんだがと、光太郎はソッと心配していた。

「ここも落とされちゃってたね」

『まあな。でも大丈夫だ、シュー様たちはもう気付いておられる。そのうち、助けに来てくれるさ』

 暢気な会話を続けていると、バッシュの背後で同じように頷く声がちらほらと聞こえる。どうやらみんな、しこたま殴られて気絶でもしていたようだ。

「あ!…イテテテッ。そうだ、忘れてた!北の砦は囮だったんだ!!南の砦を落とすために…ッ」

『そう言ってたなー。俺も殴られながら聞いたよ。でもな、今の俺たちは何もできないんだ』

「そうか…」

 俯いた光太郎は、首に掛けられた首輪から伸びた重い鎖がジャラッと鳴って、壁に繋がっているのを目で追いながらあーあと溜め息を吐いた。ご丁寧に両手まで縛られていては、逃げ出すことも侭ならないだろう。

「じゃあ、できる限り生き延びないとね。助けに来てくれたときに、手伝えるもんね」

『アッハッハ…いッッ…はぁ。そうだな!』

 いちいち痛みを噛み殺しながらの会話は、思った以上に辛くて滑稽で、だが笑ってもまた痛むだけだから光太郎もバッシュがしたのと同じように溜め息を吐いた。
 痛みが酷くなったのか、言葉から呻きに変わってきたバッシュに「休んでなよ」と声を掛けて、光太郎は漸く慣れてきた目で水滴の滴る石造りの天井を見上げていた。
 戦の状況は恐らく、あの人間たちが言っていたように本当に囮だったとすれば、梃子摺りながらも圧勝したに違いない。それからシューの軍勢は北の砦の内情を立て直すために何日か泊り込みで処理するのだから、足留めされることは容易に想像できる。

(ホントだ。シューが言うように、沈黙の主って人は抜け目がないなぁ)

 軍の半分を使用したとしても、それでも城にはゼィたちが残っている。かと言って、そこから更に半分を南の砦に差し向けたとしても…そこまで考えて光太郎は胸の辺りがドキドキするのを感じて縛られた腕を押し付けた。
 大丈夫なんだろうか、本当に。
 だが、バッシュが言うように、今ここにいる自分では何も出来ないのだ。考えてヤキモキしたとしても、またそれがここにいる人間たちに伝わって、とばっちりで魔物たちが殴られるのは絶対に嫌だ。そう考えて、光太郎は頭を左右に振った。
 あんまり激しく頭を振ったせいで、殴られていた後遺症なのか視界がグラグラして吐きそうになってしまった。

「…何やってんだろ、俺」

 光太郎が思わずガックリしそうになったちょうどその時、俄かに階段の辺りが賑やかになって、乱暴な足取りでドカドカと松明の明かりを持った兵士が降りてきた。
 そう、逃げられないと信じているのだろう、この地下牢には見張りすらいないのだ。

「おら、飯だぞ」

 鉄格子には食器を入れることができるように隙間が設けられていて、だが、だからと言ってそこからどうにか逃げようなどと言うことはできないようになっている。
 隙間から何かがポンポンッと投げ込まれて、反射的に光太郎は顔を上げてしまった。
 なぜならそれは、パンらしき固形の物体が無造作に放り込まれ、次いでドロリとした何かがバケツから汲み出されて牢屋内の床にビシャッと撒かれたからだ。

「こ、これは…?」

 思わず声を出してしまうと、バケツを抱えた兵士はウンザリしたような顔付きをして面倒臭そうに松明の明かりを鉄格子に近付けると、反射的に目を閉じてしまう光太郎の顔を覗き込んだ。

「あ?なんだ、お前か。飯に決まってるだろ、バーカ」

 ガシャンッと鉄格子をバケツから取り出した柄杓のようなもので殴りつけると、フンッと鼻で息を吐き出してから兵士はこんなところには一分でもいたくないとでも言いたそうに、サッサと立ち去ろうとした。その後ろ姿に、ガチッと壁に繋がった鎖で首を圧迫されながらも、光太郎は縛られた両手を精一杯伸ばして鉄格子を掴むと大声で呼び止めた。ガチャガチャと鉄格子を揺らすオマケまでつけて。

「スプーンは?食器にも入ってないよ!?これじゃあ、食べることもできないじゃないかッ!どうやって食べろって言うんだよ!!」

「ああ~?」

 胡乱な目付きで戻ってきた兵士は、鉄格子を握っている光太郎の指先を思い切り柄杓で叩きつけて、呻くその顔を冷ややかに見下ろした。

「這い蹲って喰えばいいだろーが」

「そ、そんな…!」

 叩かれた指先を口許に当てながら睨み上げる光太郎の、その反抗的な態度に苛々したらしい兵士は、対面にある魔物たちの牢を松明の明かりでバッと照らした。

「コイツらのようにな!」

「!」

 松明の明かりで唐突に明るくなったとは言え、もともと夜も昼も同じぐらいに見えている魔物にしてみたら別に気にもならない程度の明かりの変化だったのか、気に留めた様子もなく這い蹲って悪態を吐きながら撒き散らされたスープの残骸のようなものを啜っていた。
 その光景は光太郎には衝撃的で、痛みなど忘れてしまった震える指先で鉄格子を掴むと、目を見開いて食い入るように捕らえられた魔物たちを見詰めている。そんな光太郎の態度に、魔物の行動ぐらいで何を驚いているんだとでも思ったのか、兵士は肩を竦めるとブツブツと悪態を吐きながら明かりと共に立ち去ってしまった。

「…こんなのは酷い」

 真っ暗になった地下牢でポツリと呟いた声が響くと、口許を縛られた腕で拭っているらしいバッシュが声をかけてきた。

『人間なんざこんなモンさ。飯は不味くても喰っておかないとな、光太郎と約束しただろ?』

「…え?」

 呆然と呟く光太郎に、バッシュは何やらモゾモゾしながら肩を竦めるような気配をした。首を傾げる光太郎のへたり込んだ膝の辺りに、シュッと飛んできた何かがポトリと落ちた。

『光太郎は喰ってないんだろ?もうダメだと思うからさ、そいつを喰っときな』

 闇に慣れていない目では直接見ることができないから、光太郎は手探りで膝の上にある何かを拾い上げて手触りで確認した。

「これ…」

 それは地下牢の床に落ちてしまったパンだった。
 それも、汚水を吸った部分は綺麗に取られているようで、もう固くなり始めているスカスカのパンだったが、光太郎は嬉しくて泣きながら頬張って噛み砕いた。

「ありがとう」

 ヒックヒックとしゃくり上げながら礼を言う声を聞いて、人間よりも鋭敏な聴覚の持ち主たちは驚いたように顔を見合わせると、何やらモソモソとし始めた。そして、縛られた手でパンを持ったまま涙を拭う俯いた光太郎の膝の上に、ポンポンッと次々とパンが放られてくる。

『泣くほど美味かったのか?そりゃ、よかった。俺の分もやるよ』

『俺も俺も』

 汚水を吸った部分がどれも切り取られていて不恰好だったが、光太郎はそのどれもが美味しいと感じていた。放られてくる度に「ありがとう」と呟く声がして、魔物たちはちょっと嬉しそうに顔を見合わせてニヤリと笑うのだ。
 バッシュもこそばゆいような嬉しさを感じながら、鉄格子を縛られた両手で掴むと口先を突き出した。

『できる限り生き延びるって約束しただろ?頑張らないとな』

 へたり込んで俯いたまま涙を拭っていた光太郎は、ハッとしたように顔を上げた。
 周囲はまだ真っ暗で、なかなか泣き濡れた目は視覚を取り戻してはくれないが、それでも微かにぼんやり見えるバッシュらしき魔物のいる辺りに目を凝らしている。そうして向かいの牢を見詰めていた光太郎は、次いで、膝の上に転がる幾つかのパンをジッと見下ろして、グッと両拳を握り締めたのだ。
 魔物たちの生への執着は恐らく、人間よりも純粋な本能なのだろう。そうしてそれは、時に驚くほどの勇気や元気を与えてくれるのだ。
 光太郎はその逞しい根性を感じながら、投げ捨てられた食べ物を食べられないと言ってメソメソしている自分が堪らなく恥ずかしくなった。
 シンナは言ったではないか。

[たとえ手当てする相手が敵将だったとしても、どうして早く善くなるようにそれを甘受しようとしないのン?どうしてアンタたちには早く善くなって、全快した身体でここを抜け出して、家族の為に仇を討とうとする気迫ってものがないのよン!]

 それは生きるための、生き残るために必要な鉄則のようなものなのだろう。
 今は貶められて辛くても、いつか必ず明るい未来はあるはずだ。
 それは、もうずっと、光太郎が胸の中で信じ続けてきたことではないか。

「そうだ、生き延びないといけないのに!ごめん、俺どうかしてた。モリモリ食べて元気にならないとッ」

 ゴシゴシと涙に濡れる双眸を腕で拭って、今はみんながくれたスカスカのパンを頬張りながらムグムグと噛み締めて宣言する光太郎に、バッシュが嬉しそうに口笛を吹いた。

『お?やっといつもの調子を取り戻したみたいだな。光太郎はそうでなくっちゃな』

 暫く一緒に暮らしてきた魔物たちに自分がどんな風に見られているのかなど気にもしていなかったが、こうしてホッとされているところを見ると、彼らは彼らなりに光太郎を観察して気遣っていたのだなと妙に感動してしまった。

『もう、泣くなよ?じゃないと、シュー様に嫌われちまうぜ』

 バッシュが鉄格子から離れながら呟くと、光太郎はパンを食べながら首を傾げて見せた。

「え?シューは泣く人は嫌いなのかい?」

『嫌いだとかそう言う問題じゃないと思うんだが…まあ、でもたぶんそうだと思う。嘗てシュー様がソーズを育てているときに仰っていたんだが、男は一生の間で3回しか泣いてはダメなんだそうだ。1回目は生まれたときで、2回目は魂を分かち合うとき。3回目は家族の死に臨んだときなんだってよ。メソメソしていたら捨てるって仰っていたからな』

「そ、そうなんだ。判った。俺、シューに捨てられたくないから泣かないように頑張るよ」

 ヒョイッと振り返った蜥蜴の親分にシューの男気臭い信念のようなものを教えられて、光太郎は息を飲みながら頷いた。そう言えば自分は、シューの前でも良く泣いていたような気がする。

「俺、絶対に泣かないようにする!!…だから、みんなお願い。今日泣いたことは内緒にしてくれないかなぁ…?」

 縛られた両手を拝むようにして合わせた光太郎が、上目遣いでよく見えない対面の牢屋の中の住人たちにお願いすると、聴覚も視覚も鋭敏な魔物たちはそれぞれ思い思いに顔を見合わせると、次いで大爆笑するのだった。
 殴られて始まった捕虜の生活はどうやら思う以上に厳しいものがありそうだが、それでもと、光太郎は爆笑している仲間をムゥッと膨れっ面で睨みながらも思うのだ。
 仲間がいるのなら大丈夫だ。
 腹を抱えて笑っている魔物たちを見詰めながら、ムッとしていた光太郎もすぐにプッと吹き出して、釣られるように一緒に笑ってしまった。
 月が漸く中空にかかろうとしている森の中にある第二の砦の地下牢で、魔物と人間の笑い声は、暫く響き渡っていた。