第一章.特訓!17  -遠くをめざして旅をしよう-

 中空に真珠色の月が浮かび、大気は冴え冴えと澄んでいる。
 四方を森に囲まれているその湖は、人に知られることもなくひっそりと存在を隠していた。
 と。
 不意に孤独の森に物悲しげな音色が響く。
 異種族の民が奏でるシュラーンを爪弾きながら、湖の脇に据えられた天然の玉座のような岩に腰を下ろした少年は、瞼を閉じて月夜にまるで歌うように指を躍らせていた。
 湖は澄んでいて、あまりにも清らかである為に生物の姿はなかった。
 切ない旋律が湖面を揺らすと、透明度の高い湖の底に揺蕩うように横たわる青年の瞼が水の揺らめきに反するようにピクリと戦慄いた。
 ふと、少年は閉じた瞼を開き、滴るような鮮紅色の双眸で青白く浮かぶ月を見上げて銀に煌くシュラーンの弦を掻き鳴らす。調べはまるで目に見える風のような厳かさで少年を取り巻くと、何事もなかったかのように森の奥に消えていった。
 ぴしゃん…
 水面が揺れて、何もかも覆い尽くすかのように何枚もの色とりどりの異国の布を幾重にも頭部に巻きつけた少年は、深紅の双眸を閉じると闇夜に溶けてしまいそうなひっそりと切ない旋律を滑る指先で奏でながら何かを待っているようだった。

「ごらん」

 不意に背後で声がして、少年は虚ろな深紅の視線を背後から伸びた指が指し示す先に彷徨わせているようだったが、声の主は気にした様子もないようだ。

「儂のめしいた双眸では認めることもできまいよ」

 少年の声にしては嫌にしゃがれた、ゾッとするような陰鬱な響きを宿した声音に怯むこともなく、声の主はシトシトと真の闇にはあまりにも清らかな雫を零しながら中空に留まる真珠色の月を見上げていた。

「のう、主。魔族の権力は相変らず揺るぐこともあるまい」

 しゃがれた声の少年は、爪弾くシュラーンの音色には程遠い奇怪な声を上げて小さく笑った。

「真実を映し出す鏡の傍ら、深紅の星が吉兆を予言する…だがしかし、それが果たして我ら魔族にとっての吉兆と出るか否かは気まぐれな風次第」

 冷たい微笑を薄い唇の端に浮かべた主のその澄んだ、しかしそのもの自体に魔力でも宿っているかのような冷やかな声は、温かな血が流れる者が耳にしたのならたちまち魅了され、破滅へと溺れて逝くだろう。

「巷に溢れる竜使い光臨の噂ぐらいは知っている。だがね、我が師よ。まさかそれが真実であるなんてことを本気で信じているわけではない。おおかた、何処ぞの低級魔導師が異世界より召喚した素性の知れぬ輩を竜使いに祭り上げたんだろうよ。人智の浅はかさを物笑いに目覚めてやっただけのこと」

 頭部を布で覆い隠した盲目の少年は、虚ろな深紅に濡れ光る双眸で声の場所を追うように、何時の間にか傍らに立つ青年を見上げているようだった。
 月が零した涙のように流れ落ちる銀の髪は、先ほどまで冷たい湖の底に横たわっていたとは思えないほど、主に忠実な夜の大気の力でもって、刹那のうちに風を孕む軽やかさを取り戻していた。漆黒の衣装に鏤める金銀の財宝さえも見劣りしてしまうほど高貴な顔立ちはしかし、どこか禍々しく、傍にあれば落ち着かなくなってしまうだろう。そして、魔族の証しである先端の尖った細長く伸びた耳には、静かに射し込む淡い真珠色の月の光に鈍く輝く三日月型の耳飾が揺れている。
 陰を宿した鋭い双眸は、月の傍らに密やかに瞬く小さな希望の光を鼻先で笑っているようだった。

「竜使いは死んだ」

 いっそキッパリと言い放ったにも関わらず、どこか漫ろな物言いに、少年は吐息しながらシュラーンの弦に指先を滑らせた。

「…だが、我らの与り知らぬところで運命の歯車とは廻るもの。其方の時がそうであったように」

「竜使いは魔族の主たる貴様が殺したではないか。何を怖れることがある?」

 間髪いれずに少年がしゃがれた声で呟くと、何か言いたげに口を開きかけた青年はしかし、淡々とした禍々しいほど美しい横顔は無感動で、彼が今何を考えているのか計り知ることはできなかった。

「ファタルの聡明な使いは愚かではない。何やら愚挙の匂いもする。どうやら城に戻らねばなるまいよ」

 少年の光を失ったはずの双眸がチカリと瞬いた。
 それはまるで月の傍らでひっそりと姿を隠している赤い星のように。

「予言の星が現れたとなると、悠長に眠っているわけにもいくまい。この手で殺したはずの竜使い、されど僅かな情けが命取りにならないとも限らん。ブルーランドに戻る」

 銀糸のような髪がふわりと舞い上がり、青年は当然のように岩に腰掛けてシュラーンを大事に胸に抱えた少年を漆黒の外套の内側に隠してしまった。

「風が運ぶ吉凶の匂い、優雅に舞う白い鳥…」

 大きな漆黒の鷲禽に姿を変えた青年が森を飛び立ち遥かな大地へと飛んでいく。
 残された森には風に乗ってシュラーンの爪弾く切なく儚い旋律が、物悲しげな歌を掻き消している。
 孤独の森に沈黙が戻っていた。

「そもそもさー、なんかヘンな話だよねぇ?予言の竜使い様があの地下都市に姿を現すって言ったのはファルちゃんなんだよ。なのに、今更になってそれが違うとか言っちゃったりしてさー…結局、じゃあどこに現れるのさ?」

 真剣な双眸で睨まれても、やはり同じく気落ちしているリジュに相手をしてやれるほどの気力はない。
 脱力したようにトボトボと歩いているリジュの肩に豪快に腕を回した派手なピエロを、道行く旅人が物珍しそうに見ているからと言って、良識あるコウエリフェルの王宮竜騎士団の団長は振り払うほどの体力も残っていないようだ。

「どこ行く~?うーん、もういっそのことガルハにでも行ってみようか?」

「どうしてガルハに行く必要があるんだ?」

 はぁ、と溜め息をついて、漸く少し気力を取り戻したようなリジュはデュアルの腕を振り払いながら胡乱な目付きでふざけたピエロの顔を軽く睨んだ。
 それでもやはり、どこか眠ってでもいるように見えるのは否めない。

「なんとなくかな~?竜騎士の流れを汲む一族もいるしさぁ、もうね、こうなったら直接聞いてみるとかってどう?…なんかやたらとワケが判らなくなってるね!」

「…」

 ブスンとしたままで口を開かないリジュに、デュアルは結局、やっぱり面白くもなさそうに盛大な欠伸を洩らした。

「まあ、俺たちは結局、国に踊らされているんだろう」

 ポツリと呟く意外なリジュの台詞に、噛み殺すこともしない欠伸を途中で止めてしまったデュアルは、驚いたように竜騎士団の団長の顔を凝視した。

「なんだ、その目は。お前がいつも言っている台詞じゃないか。俺が言うと驚くのか?」

「や、そりゃ驚くでしょうよ。あの実直堅固の鎧を着て歩いているようなリジュ団長が、まさかそんな台詞を口にするなんて…今日はちゃんと晴れるのかなぁ?」

 おどけたように肩を竦めるデュアルはしかし、それでも楽しそうにニコッと子供のように笑っている。
 そうか、とリジュは呆れるほど破天荒な旅道化を、自分がそれほど嫌いになっていない理由を思い当たって内心で頷いていた。
 どこか憎めないのは、デュアルがあまりにも開放的な性格で、辛辣なくせにその辛辣さがどこか子供じみた素直さがあるからなのだろう。
 嫌いだと嘯く王宮の人間どもの大半は、彼の素直な開けっ広げの性格を疎ましく思いながらも、本当はどこかに羨望があったからではないのか?人間と言う生物は見栄で生きているようなものだ、デュアルの奔放な行動や言動は、良識ある者ならば誰しもが世間を憚り口にできない…いや、してはいけないことだと認識しているから、遠ざけようと無意識に背を向けようとしているに過ぎないのだろう。そのくせ、その良識が世界の全てなのだと諦めて、奔放に生きる者を妬み陰口を言っては自己満足しているのか…ふと、そこまで考え込んで、リジュは自分もそれまではそんな人間だったんだなと改めて思い直した。
 不思議と、始めはあんなに嫌だった得体の知れない道化との旅を、今の自分はどこか楽しんでいることに気付く。そうすると、なぜだか今までの自分が滑稽にすら思えてしまうのはどうしてだろう。

「…恐らく、馬鹿らしく思うからだ」

「へ?」

 自分の心中の台詞に自分で答えて、リジュの自問自答に首を傾げるデュアルに向かって団長は事も無げに言った。

「お前といると真面目ぶるのが馬鹿らしく思うと言ってるんだ」

「え?何それ、ひっどいな~」

 子供のように唇を突き出すデュアルをフンッと鼻であしらって、ウルフラインの首都を出たリジュは何時の間にか夜の明けた蒼穹の空を見上げていた。

「そうだな。俺もどこをうろつけばいいのか皆目見当もつかん。カタ族でも捜して彷徨うか…」

「そんな、気の遠くなるような途方もないことは、お願いだから計画しないでよ」

 間髪入れずに眉を顰めるデュアルに冗談だと肩を竦めて、リジュは軽く溜め息をついた。

「取り敢えずだ、レセフト王国のコウ家でも尋ねてみるか」

 こんな闇雲の状況でぶらぶらと彷徨うにはアークは広すぎる、半ば投げ遣りに言ったリジュの言葉に派手なピエロの眉間の皺が思ったよりも深くなった。

「コウ家?ああ、あの七賢者の血筋だって謳われているお偉い魔導師さまのいらっしゃる国か。でも、あの国はエル・ディパソに匹敵するぐらいの宗教国家だし、どこよりも余所者を嫌う種族だよ?大丈夫なのかな」

 日頃はそんな気弱なことなど口にしないデュアルの予想外の台詞に、リジュは肩を竦めて首を左右に振るのだった。

「コウ家には俺の姉が嫁いでいる。その縁を頼っていくしかないだろ」

「うっわ。お偉かったんだね、団長さんって」

「馬鹿にしてるだろ?」

「べっつに~」

 明らかに馬鹿にしているように見えるのだが、結局はリジュの言うように何かを頼って行動しないことには、この広い世界で砂漠に落ちた一粒の砂を見つけ出せと言うような無茶な要求に応えることなどできないだろう。皆目見当がつかないのならば、竜使いに所縁のある竜騎士の家系であるコウ家の住まう王国に見当をつけてみるのも悪くはないだろう。
 もともと、馬鹿らしいほど壮大な要求を突き付けられてしまったのだ、何をしても過ぎると言う言葉はないだろう。何をしても足りなさ過ぎると言う言葉はあってもだ。

「コウエリフェルの竜騎士団の団長さんが尋ねたとなると…この時期だし、すわ何事!?って思われないかな?」

「…やけに慎重だな。お前らしくもない」

「らしくないって?別にね、いいんだけどさ。大事になると面倒臭いワケ。それでなくてもクラウンの連中にも振り回されてるのに、国家の陰謀なんかに巻き込まれるのは真剣にご免だって思ってるだけだよ」

 デュアルが腰に両腕を当てて悪態をつくと、リジュはなるほど、そうかと納得したようだ。
 しかし、だからと言ってそれを受け入れてまた思い悩むのもご免じゃないかと呟くと、デュアルはうんざりしたように双肩を落としてしまう。

「どちらにしてもお前は、既に殿下に申し付けられたあの時点で国家の陰謀に巻き込まれているんだ。今更、そんなことで嘆くなんてのはやはりお前らしくないと俺は思うぞ」

 リジュがこの時ばかりはしてやったりのしたり顔でニヤッと笑うと、デュアルはムッとしたように唇を尖らせたが口応えをする気にはなれないようだった。つまり、デュアル自身もリジュの言う通り、やはりあの時に断っておけばよかったと後悔しているのだろう。

「でもね。やっぱ断るのは良くなかったと思うワケ。あの時断ってしまったら、団長さんは独りぼっちじゃない。旅は道連れ世は情け…ってね♪2人で行けば危険な道中もあら不思議、とっても楽しくなりますとさ」

 おどけたようにそう言って、デュアルは実直なリジュの肩に大袈裟に腕を回して機嫌よく鼻歌なんかを披露して見せた。
 ウルフラインの首都から郊外に出る舗装された街道は、旅路を急ぐ旅人の通り道にもなっていて案外賑やかだ。そんな場所で男2人で肩を組んで歩くのも奇妙に目立つし、ハッキリ言って見っとも無い。夜と言うなら酔っているですまされても、ましてや今は明け方だ。いつも通り、リジュは陽気なピエロの腕を振り払いながら、そんな道中にも慣れてきている自分にゾッとしていた。
 コウエリフェルきっての大神官であり王宮魔導師にも見放されてしまったリジュとデュアルの一行は、宛てのない旅路を一縷の望みを賭けてレセフト王国に向けて旅立つことにしたのだった。