第一章.特訓!18  -遠くをめざして旅をしよう-

 海よりの風を受けて、明るい色の髪を潮風に揺らしながら照りつける陽光の下で彰は重い銅剣を振るっていた。荒削りな血溝が陽光を照り返してギラつくが、そんなことはお構いなしだ。
 下っ端も下っ端、未だに剣技も教えてくれないレッシュに業を煮やした彰は、船底にある倉庫を徘徊して漸く見つけ出した安っぽい銅剣を持って一人で練習することにしたのだ。
 昼下がりの甲板は、自分たち以上に強い海賊のいない平和な海を、ぼんやりと遠見鏡で眺めているヒースが物見遊山でそんな彰をからかう以外に人影は疎らだ。

「飽きないねぇ、アキラは」

 見張りと言っても別にする仕事なんかないくせに、だからと言って暇を持て余していても彰の剣の相手に付き合ってくれるということもない。恐らくはあのレッシュのことだ、彰の剣の相手をすればその次は俺だと思えvとか言っているのだろう。

(…あの野郎)

 額に汗しながら、暇な時は剣を振るう。それだって見様見真似なんだから、バットでスイングしているようなレベルだ。

「そんなイヤミ言うヒマがあるんなら、俺に付き合ってくれよ」

 肩で息をしながら横目で睨むと、ヒースはわざとらしく肩を竦めて見せるものの、どうやらその場から立ち去るつもりはないらしい。

「やだね。お前の相手をしたらお頭の相手もしなきならねぇ、俺だって命は惜しい」

 やっぱりな…と彰は思ったとおりの反応に悔しさを通り越して呆れていた。

(何を考えてんだろ、アイツ)

 肩を竦めて、もう一度重い銅剣で練習を始めると、何が楽しいのかヒースが海から吹く風に猫のように目を細めてまどろみながらその様子を眺めている。最近、『女神の涙号』の甲板でよく見かける光景である。
 重たい剣を振ってばかりいても筋肉痛になるぐらいで、練習にはさほどなっていないことぐらいは嫌でも判る。ヒースに言われなくても我ながらよく飽きないもんだと感心していた。
 ただ、何かしていないと居ても立ってもいられなくて、ただただ我武者羅に剣を振るっているのだ。
 不可思議な出来事は好きだったし、こんな貴重な体験、恐らくはもう二度とできないだろう。
 ここに光太郎が一緒にいれば、きっと別にこんなに必死にならなくて、それなりに今の状況を楽しんでいたに違いない。彰は湧き起こる焦燥感と苛立ちを、吐き出すこともできずに奥歯を噛み締めて腹の底に捻じ込んだ。
 光太郎に会いたい。
 元気な姿が見たい。
 アイツが笑ったあのホッとする笑顔が見たい…
 一緒に来ていないかもしれない…そんな思いは念頭にも起こらなかった。
 それはまるで、光太郎が感じているのと同じように、生れ落ちた時間まで一緒の、双子のような幼馴染みだから伝わる以心伝心のようなものなのか。彰は確信にも近い思いで、この世界に光太郎が居ることを感じていた。

(俺が行くまで、絶対に死ぬんじゃないぞ)

 願いにも似た思いで剣を振るっていた彰は、ふと、のほほんと海風に髪をザンバラに揺らしながら惚けているヒースに、いつも聞こうと思って聞けないでいる質問をしてみることにした。
 どうせこうして素振りをしていても、明日の朝には後悔する羽目になるんだ、それならばもっと有り余って苛々するこの無駄な時間を有意義に遣うのも悪くない。そう考えて、それこそこんな無駄な体力の消耗を彰はさっさと手放すことにした。

「ちょっといいかな、ヒース」

 肩で息をしながら顎に滴る汗を腕で拭う彰に声をかけられて、まどろんでいたヒースは欠伸をしながら横目でチラッと様子を伺ってきた。

「お頭に叱られねぇことならちょっといいぜ」

 どんな返事だと思いながらも、彰は溜め息をついてヒースが頬杖をついている縁まで歩いていき、どっかりと両足を投げ出して腰を下ろすと首を傾げて気を取り直したように尋ねることにした。

「あのさぁ、ヒースは何かとよくしてくれるんだけど、他のみんなはどうしてあんなにソッケナいんだろう?」

「そりゃあ、お前。お前がお頭のお気に入りだからに決まってんだろ」

 何だそんなことかとでも言いたそうに、ヒースは遠見鏡で肩を叩きながら呆れたようにチラリと彰を見下ろしてそう言った。相変わらず猫のように目は細めているから、あまり真剣には取り合っていないのだろう。

「…はぁ、そんな理由かよ」

「そんな理由ってな。お前には判らねぇだろうけど、あの人は本当に恐ろしい人なんだぜ?今でこそ平和ボケしてるけどよ、そりゃあお前、炎豪のレッシュって言やぁ泣く子も黙って震え上がるんだぞ」

「ふーん」

 いつもダラダラと長椅子に寝そべっているだけが取り柄の牙のないライオンのようなあの男が、ここに居並ぶ屈強な男たちを統括できているってだけでも驚きなのに、その上に震え上がらせているのだから信じられない。

「そしてチビるんだ!」

「…なんだよソレ」

 確信に満ちた思いでグッと遠見鏡を握り締めるヒースに、とうとう彰はプッと噴出してしまう。
 軽いジョークは、この船に乗っている連中がみな心得ている退屈の潰し方なんだろう。遠目からチラチラと無関心そうな風体で眺める癖に、本当は興味津々の船員たちは、話してみれば案外付き合いやすい連中が多い。海賊と言う割には、気の知れた酒飲み仲間がただ集まっていると言う印象しか彰は感じなかった。
 目の前にいるヒースだってそうだ。
 頬にざっくりと走る刀傷さえなければ、酒場に屯しているちょっと悪いヤツぐらいにしか思えないだろう。

(…でも)

 彰はしかし、キュッと腹を引き締めてソッと笑っているヒースを盗み見た。
 間違いなく彼らは壮大な海を股に駆けて暴れる海賊なんだろう。
 ちょっとした身のこなしも、実戦で培われた殺気のようなものを孕んでいる。ウカウカしていたら彰など、恐らく秒殺でこの世に立ってはいないだろう。そう思わせる凄みのようなものがあった。
 それはレッシュにも言えることで、傍にいる時は実のところ、緊張のしっ放しだった。
 こうして下っ端海賊になって、少しでも傍から離れられるとホッとしている自分がいることに気づく。
 認めたくはないが、彰は確実にレッシュに怯えていた。
 太い二の腕が腰に絡むと、腰骨なんか砕かれてしまうんじゃないかとハラハラしていた。そんなこと、けして表面上には出してやらなかったが、ダラダラしているくせに抜け目の無いレッシュのことだ。恐らく気付いていてわざとそうしていたんだろう。そう思うと、知っていながらからかわれていた自分の立場に自尊心が傷つけられて思わず唇を噛み締めると。

(絶対にこんなオンボロ船から脱出してやるんだ!!)

 熱く決意してしまう。
 物思いにふける自分をじっと観察しているヒースに気付いて、ハッとした彰は、照れ隠しのつもりでへへへと笑った。ヒースは変なヤツだなーとでも思っているのだろう、肩を竦めるだけだ。
 そう言えば、彰は長らくこの船にいるが、レッシュについて『海賊のお頭』と言うこと以外は何も知らないと言うことに今更ながらにふと気付いた。

「海上を震え上がらせる海賊の王様なのかい?」

 ぼんやりと遠くに霞んで見える島を眺めながら頬杖を付いているヒースに気を取り直して尋ねると、彼は肩を竦めながら頷いて見せ、暇を持て余した体でポツポツと語り出した。

「お頭って人はよ、今ではもう珍しい種族の出身なんだけどな。別に地位だとかそんなモンを持ってるってワケじゃねぇ。ただ俺たちが純粋にあの人の人柄だとか、強さに惹かれて集まったんだ。そう言う荒くれた連中がお頭を慕ってただ集まったっつーだけで、いつの間にか世間の連中はそんなお頭や俺たちを海賊だと呼ぶようになって恐れ始めたってワケさ」

「…現に悪さしてんだろ?」

 ご名答、と笑って頷くヒースに、彰はほんの少しだがレッシュを見直してやってもいいかと思うようになっていた。別に、ただの好奇心かもしれないし、あんな怠け者のライオンのことを尊敬するように親しみを込めた瞳をして語るヒースの、その気持ちをほんの少し、感じてみたいと思っただけなのかもしれない。
 レッシュは悪党だし、隙さえあればちょっかいを出してきて、気を抜けば頬にキスをしてくるような変態だ。
 何が楽しくて自分なんかの相手をしているのか判らないが、あんなに恐ろしくて本能が逃げろとがなり立てているはずのレッシュからは、不思議なことに悪意を感じない。またそれが厄介だとは思うのだが、怯えて腹を立てているくせにそれを憎めないでいる自分の感情の方がもっと厄介だな…と彰は苦笑していた。

「珍しい種族かぁ…そう言えば、あの強気なお姫様もレッシュのこと、【スレイブ族】とか言ってたっけ」

「ああ、パイムルレイールも随分と珍しい種族だけどな。あの種族の場合は国がきちんとあって王様とかいるんだがなぁ、スレイブ族は山間民族の末裔のような存在で、だがもう殆どは息絶えてるような貴重な戦闘部族なのさ」

 ポツリと呟いた独り言に応えるように頷いたヒースの言葉に、異世界に本当は興味津々の様子の彰はそれでも不思議そうに、波間を漂うカモメを見下ろして鼻先で笑う海賊の手下を見上げるのだ。

「山間民族?ってことは、レッシュは山に強い部族だったのかい?それが海にいるのかぁ…ヘンなの」

 はははっと突然笑い出したヒースに驚いたように目を見張る彰に、彼は肩を竦めてくるりと甲板の方を向くと縁に背中を預けて腕を組んだ。

「少数民族なんてのはみんなそんなモンさ。俺だってお頭ほどじゃねぇが、やっぱり山間で暮らしていた民族の出なんだぜ?でも今はこうして海の男だ。運命なんてのはな、てめぇで見つけて掴むモンだと俺は思ってるぞ」

「そっか」

 彰は、普通に高校を出て、大学に行ったり社会に出たり、それは全て自分の手で掴んで自分で一人前になった証だと思っていたし、それは全ての人間が平等に持っている権利だと思っていた。だが、どこかに甘えを持っていて、何かあっても親がいる、親に頼ればいいなんて甘えを確かに持って生活することが当たり前になっている世界で生きていたのだ。
 何もない無から、レッシュはたった一人でこの世界を創り上げたんだろうか?
 海賊だと震え上がらせて、レッシュはこんな途方もなく広い海に出て、孤独に癒されでもしているのだろうか…そこまで考えて、彰は首を左右に振った。

(何を馬鹿なこと考えてるんだろ。孤独に癒される?海の上にいて俺、ヘンにロマンチックになっちまったのかな)

 見渡す限りの海原に、救いを求めて伸ばした腕を掴んでくれるものなど何もない。
 あるのは己自身。
 レッシュの不遜なまでに豪胆なあの自信は、長い年月をかけてこの海が育んだものなのだろうか。
 逃げ出す前に、ほんのちょっと、レッシュについて観察してみるのも悪くないかななどと、温室育ちの彰が安易に考えたとしても悪いことではない。仕方のないことなのだ。

(どこか…確かウルフラインだっけ?そこに寄航した隙に逃げ出すんだ。その航海の間、無駄に腕力つけたってたかが知れてる。レッシュの身辺を探って隙を見つければ、案外あっさりと抜け出せるかもな。おお、俺ってば頭いいじゃん!)

 教師たちが挙って褒め称えた世紀の頭脳の持ち主は、どうしたことか、こと神秘的なものに対してだけはその能力を十二分に発揮できない性質を持っているようだ。そこが、光太郎が愛すべき彰の彰たる所以なのかもしれないが。

「まあ、暫くすりゃお頭も本当の王様になるんだろうがな」

「え?」

 ポツリと呟いたヒースの何気ない独り言に、彰は気付いてそんな暇を持て余した見張り役を見上げた。
 ヒースはあまりの暇さに凝った肩を遠見鏡で叩きながら、何でもないことのように言ったのだ。

「見てて判らねぇか?あのパイムルレイールのお姫さんだよ。ありゃあ、絶対にお頭に惚れてるぜ。じゃなきゃ、どうしてこんなムサい男所帯の船に乗るなんて言い出すかよ」

「お姫様が言い出したのかい?」

「ああ、お頭は近くの港で降ろすって言ったんだけどなー。海賊が戦利品を手放してもいいのか?国に帰ったら言い触らすぞと脅しやがってなぁ。じゃあどうしろって言うんだとお頭が聞いたら、あのお姫さん、別嬪な顔でにっこり笑って賓客扱いで国まで送ってちょうだいときた」

 この船で賓客扱いだぞ!?と、やたら『賓客』の部分を強調して言うヒースに、ふと、彰は眉を寄せて穿った考えを躊躇いながら口にした。

「えっとその、国まで送らせて捕まえるなんてことは…」

「有り得るし、有り得ねぇかもな」

 即答ははぐらかすようなニュアンスで、わざとらしく明るいものだった。
 ヒースもそこのところは懸念しているのだろうか、いや、どうもそうではないようだ。

「お頭は間違いなく捕まるだろうよ。もともとパイムルレイールとスレイブは縁故関係にあるようだからな。一つの種族から袂を分かれたのがこの二つの種族なんだよ。まあ、簡単に言やぁ根っこのところが一緒ってことだな。パイムルレイールの王さんは第五皇女に手を焼いていて、さっさと嫁がせたがっているなんて噂は港に寄りゃぁ嫌でも耳に入るからなぁ…まあ、そう言うこった」

 肩を竦めるヒースに、彰はなんだそうなのか…とどこか拍子抜けしたような気がしていた。
 何もウルフラインで逃げ出さなくても、下手をすればパイムルレイールの国、バイオルガン国で易々と逃げ出せるのではないだろうかと考えたのだ。レッシュとて、進退窮まるその時に、まさか彰のことまで考える余裕などないだろう。

(…なんだ、俺。馬鹿みたいじゃん。ヤキモキしてさ!結局レッシュは、バイオルガンまで退屈凌ぎに俺を乗せたに違いないんだろうし…)

 シュメラ姫はバイオルガン国の第五皇女で、地位も身分もあって武力もある。
 それに比べたら自分などは…たかが知れている高校生だ。
 いやそれ以前に、何の役にも立たないが付く高校生だが…
 不意に胸の辺りがツキンと傷んで、彰は身に覚えのない痛みに首を傾げた。
 筋肉痛が悪化したのか…今日は最悪だなと思いながら見上げた空はどこまでも澄んでいて、スモッグに淀んだ見慣れたあの空ではなかった。もう一度、できるなら光太郎と見上げたいスモッグの空。しかし、できればこのどこまでも澄んだ空を一緒に見上げたいと思う。
 胸の痛みは僅かなもので、すぐに彰は忘れてしまったが、その痛みは小さな棘を心の奥深い所に残してしまった。その事実を知ることなく彰は、この広い空の下のどこかで、或いは泣いているかもしれない幼馴染みの安否を気遣っていた。
 風が、少年の不安と胸の痛みを擽りながら、船上にある数多の思いを飲み込んで旋風している。
 やがてそれは大きな竜巻となって海上を荒れ狂うかもしれない予感に、船長室の奥で紅の獅子がひやりと背筋を撫でる風にくしゃみをしていた。
 海は静かで、どこまでも穏やかだった。