第一章.特訓!22  -遠くをめざして旅をしよう-

「へっくしょいッ…とくらぁ…風邪でも引いちまったかぁ?」

 盛大なクシャミをしたレッシュは鼻を啜りながら間抜けな調子で呟いた。だがそれを笑う者などここにはいない。
 いや、恐らくこの果てない海原のどこか遠くにもいやしないだろう。
 そう思いながら、彰は甲板で気持ち良さそうに長椅子に横たわる獰猛そうな肉食獣を横目で盗み見ていた。そんな彰の本日のお勤めは『甲板掃除』である。
 平凡な高校生だった彰にとって、甲板をデッキブラシで磨いていくのは容易なものではなかった。おかげで毎晩筋肉痛に魘されながら、今では殆ど寝不足状態である。
 フワーッと吐き出したい欠伸を噛み殺しながら比較的真剣にゴシゴシと床磨きに励む彰のそんな後ろ姿を、いつも船長室でダラダラしているくせに珍しく今日は甲板で休んでいるレッシュが面白そうに眺めていた。
 暫く見ない間に、どうやら彰はこの海賊船『女神の涙号』の乗員である疾風のメンバーと親しくなっているようだ。つい先ほども、レッシュがいることを知らない下っ端が気安く声を掛けては、馬鹿話に一頻り花を咲かせて、余った菓子を手渡してから立ち去っていった。
 そうして今も、気軽に「お疲れさん」と声を掛けたヒースが頭領のお出ましに驚いたように眉を上げて、遠見鏡で肩を叩きながらニヤニヤと笑っている。

「お頭、どうしたんでやす?パイムルレイールのお姫さんに追い出されでもしたんでやすか?」

「うるせー、ヒース」

 軽く流して欠伸をすると、彰は掴んでいるデッキブラシを杖代わりに、小休止を取りながらそんなレッシュとヒースを見比べている。

「なんだよ?」

 レッシュがそんな彰に気付いて、目尻に浮かんだ涙を拭いながら顎をしゃくって問えば、その傲慢な態度にムッとしたように眉を寄せた少年はフンッと鼻を鳴らした。

「別になにも!」

 外方向く小生意気な下っ端に、それでもレッシュはクスクスと笑っている。
 日頃それほど寛大ではないレッシュだったが、こと、彰に関しては随分と甘くなると…遠見鏡で口許を軽く叩いていたヒースはコソリとそんなことを考えていた。

「あー、そうだ。アキラ、お前これから俺を起こす係りに昇格な」

「…はぁ??」

 何を言い出すんだと目を見張る彰に、レッシュが何か言うよりも早く、ヒースがその背中をバシンッと叩いて祝福してくれた。そう、海賊たちが喜んだり祝福したり、お祝いする時は必ず手が出るのだ。

「良かったじゃねーか!一人前まであと一歩だ。おめでとさん」

「へ?そうなのか??」

 キョトンとする彰にレッシュは思わず腹を抱えて笑いそうになった。
 いや、勿論昇格と言えば昇格なのだが、何も知らない彰が眉を顰めながら動揺している姿はどこか初心で可愛らしくもある。ヒースにしてみたら、寝起きが魔物のように悪いレッシュを叩き起こす係りなのだ、良くて青痣、悪くて前歯を折るぐらいで終わればいいんだが…と、心の中では合掌しながら、それでもこの『疾風』のメンバーなら誰でも一度は通った試練の道に、チャレンジできるだけでも有り難いのだと彰の無事を祈りながら祝福していた。

「なに?朝起こしに行けばいいのか?」

「そーだな。だが忘れるんじゃねぇぞ。俺は目覚めはいい方だからな」

 何かを暗喩する物言いに、アークに来て間もない彰が理解できるわけもなく、いや、これだけまともに会話しているだけでも驚異的なのだから、その点は人が悪いのはレッシュなのだ。

「ふーん…判った」

 ちょっとはにかんで頷く彰は、どうやらそれでも嬉しいようだった。
 ここに来てもう随分になるが、未だに下っ端扱いだったのだ。どんな内容にせよ、昇格できることは正直に言って嬉しかった。まるで解けなかった問題がいきなりスラスラ解けるような、なんとも言えない達成感のようなものが沸き起こったのだろう。

「俺、頑張るよ」

 あんまり彰が嬉しそうに笑うから、不意にその場にいた大人たちは自分たちが蒔いた種にバツが悪そうに視線を逸らしてしまう。
 よぉし、一人前まで後一歩だと両拳を握り締めた彰が、今夜でもその嬉しい報告を、まるで父親のように寡黙に自分の話を聞いてくれる、あの老コックに報告しようとウキウキしていた。

「が、ガンバレよ」

「?…なんだよ、ヒース。汗掻いてるけど??」

 ギクッとしたヒースは、嫌な汗の浮かぶ額を拭いながらなんでもないんだと首を振って、それから物も言わずに持ち場に戻ってしまった。その背中が、「すまん!アキラ。取り敢えず、逝って来い!」と物語っているかどうかは定かではないが、彰はキョトンとして首を傾げてしまった。

「なんだ、ヒースのヤツ。ヘンなの」

 呆れたように肩を竦めた彰が看板掃除を再開するのを、獰猛な肉食獣のように隻眼を細めて眺めているレッシュは、木桶に満たされた水の中に薄汚れたモップを突っ込むと、引き出す反動で派手に木桶をこかしてしまった彰が、慌てて拭こうとしてスッ転ぶのを、それこそ複雑な表情をして笑っていた。

(まるで道化だな)

 デッキチェアに長々と寝そべったレッシュが思わず笑ってしまうと、水浸しのモップを頭から被ってしまった彰は、途端にムッとしたように顔を上げてそんな海賊の頭領を睨み付けた。

「わ、笑ってんじゃねーよ!船室行っとけッ」

「誰に向かってそんな口を利いてるんだ、アキラ。竜使いでも容赦なく犯すぞ」

「!!」

 冗談だと判っているから余計腹立たしくなる彰は、「畜生ッ!」とブチブチ悪態を吐きながら頭からモップを引き剥がすと空っぽになった木桶に叩き込んだ。
 髪も瑣末な服も、何もかも水浸しになってしまった彰は、良く晴れた青空にぽっかり浮かぶ太陽を見上げるようにして額に張り付く前髪を、水飛沫を飛ばしながら掻き揚げた。
 それはまるで無頓着に良く晴れていて、見上げていた彰は不意に泣きたくなっていた。
 そんなに感傷的な性格じゃなかったはずなのに…異世界に吹く風が彼を涙もろくしているのかもしれない。彰は、太陽の匂いを嗅ぐと必ず思い出すものがあった。
 それは、光太郎の髪の匂い。
 いつも日向の匂いがしていて、自分が何処に連れ回しても嬉しそうについて来てくれていた。本当は迷惑だろうに、仕方なさそうに笑いながらも、最後は一緒になって盛り上がるから、心の底から彰は光太郎を大事に思っている。
 テントで一緒に電池式のランタンの明かりを頼りに、ワクワクしながらオカルト本を読んでいたとき、ウトウトしていた光太郎が寝入ってしまって、想像以上に柔らかい髪はいつもお日様の匂いがしていた。

(アイツ…大丈夫かな。語学力とか乏しいからなぁ、困ってなきゃいいんだけど)

 モップの柄を握り締めながら心配そうに溜め息を吐いた時だった、ふと、自分の背後に気配がしてハッと振り返えろうとした時には彰はレッシュに腕を掴まれていた。

「なにすんだよ!」

「ボーッとしやがって。なんだ、またもとの世界を恋しがってるのか?」

「アンタに関係ないだろ?」

 両手を掴まれたまま身動きできない彰は、背中に覆い被さるようにして自分の顔を覗き込んでくる大男に苛々したように声を荒立てた。いつもはそれで終わるのに、今日のレッシュは昨日の酒でも抜けていないのか、やたらしつこく絡んでくる。

「関係あるさ、おお!大いにな」

「ワケわかんね」

「お前は、この世界に落ちてきた竜使い様じゃねぇか。俺の願いを叶えてくれよ」 

 腕の自由も足の自由も奪われてしまった彰は、耳元で囁かれて、背筋がゾクッとするのを感じた。何か、とても嫌な予感がしたのだ。彰の嫌な予感は、本当に嫌になるぐらい良く当たる…と、学校帰りに光太郎が笑っていた。
 懐かしい顔を思い出していたら、レッシュがふと、彰の肩に顔を埋めるような仕種をした。

「どうか、竜使い。俺の願いを叶えてくれ…」

 その声が何故か、とても寂しいような気がして、からかいやがってと腹を立てていた彰は肩口にある燃え上がるように真っ赤な髪を訝しそうに見詰めていた。

「…俺は、竜使いじゃない。そんなの知らないってもう何度も言った」

「いいや、お前はファタルの遣わした竜使いだ。俺が拾ったんだ、間違いねぇよ」

 掴んだ腕ごと抱き締めてくるレッシュの仕種は、驚くほど優しくて、彰は少なからず目を瞠っていた。
 どうしたんだろうか、この凶暴なはずの猛獣は、昨夜何か、コック長の作った料理以外に落ちたものでも拾って食べて、腹でも壊しているんじゃないかと彰が怪訝そうに眉を寄せていると、レッシュがニヤニヤと笑ったのだ。

「お願いだ竜使い。今夜は俺のベッドでお休みください」

「~アンタはぁ!そうやって俺をからかってばっかだ」

 むかつくなーと溜め息を吐くと、レッシュは腹立たしそうな彰の頬に派手な音を立てて口付けると、大らかに笑いながら目を白黒させている彰を解放してやった。

「じゃー、アキラ。甲板掃除は後回しにして、さっさと水でも浴びて来い。臭くて敵わんぞ」

「む!臭いんなら抱きついてくるな、へんたいレッシュ!」

 いつもながらの悪態を吐いて歯をむく彰に声を立てて笑いながら船室に姿を消すレッシュの後ろ姿を見送ってから、彼は何やら違和感を感じてソッと眉を潜めていた。
 この船を、そしてこの広大な海を支配する海賊の頭領は、まるで何かに怯えでもしているかのように彰を抱きしめてきた。その腕には躊躇いもなく、却って驚くほど素直で必死だったように思うことが自分の間違いでないのなら、レッシュは何かに縋りたいほど叶えたいものがあるんだろうか。
 あれほど自分は『竜使い』と呼ばれるものではない、と何度も言っているのに、自分の審美眼を信じて疑っていないのか、傲慢で我が道一直線のレッシュに妥協など求める方がどうかしているのだが、それでも唇を噛み締めてしまうのは彰が特別な存在じゃないと判り切っているからだ。
 この世界が呼んだのは、恐らく、どこか違う場所に落ちてしまったに違いないあの双子のような幼馴染みなのだろう。

(俺は巻き込まれたに過ぎないんだろうけど…それなのに、レッシュは俺を『竜使い』って言う。そりゃあ、勇者に憧れないこともないけど。そもそも、『竜使い』ってなんなんだ??)

 この船に降って来たときから、この船の住人たちはすんなりと彰を『竜使い』と言って受け入れてくれた。それは言葉を覚えることに役に立ったが、彰の胸にずっと疑問としても蟠っていた。

(そうだ。今夜、ネロに訊いてみよう)

 料理の仕度を手伝えと言って、通常の海賊の仕事をさせてくれない老齢のコック長は、それでも今は誰も利こうとはしない昔ばなしをポツポツと語ってくれて、彰にとっては丁度良い息が抜ける場所なのだ。
 風向きが変わったような気がして、ふと鼻先を掠めた異臭に眉を寄せた彰は、レッシュが言っていたことも強ち嘘ではないようだと認識して、慌てて隻眼の頭領を追うようにして船室に姿を消してしまった。
 凪いでいる海上を凄まじい豪風が駆け抜けて、渡り鳥が怯えたいように啼いている。
 甲板で海上を見張るヒースは、ふとそんな海鳥たちを見上げて僅かに眉を寄せた。
 どうか何事もないように…柄にもなく海の神に頭を垂れたヒースは気付かない。
 鳥たちのざわめきを。
 哀しい予言を。
 鳥たちの声を理解できるはずの隻眼の頭領を船室に隠した『女神の涙号』は、白波を蹴りたてるようにして一路ウルフラインを目指して疾走していた。