「別に嘘なんか吐いちゃいないさ。現に、モースが魔物だなんて一言も言っていないぞ、オレは」
それはそうなんだけどもと、光太郎はカウンターに腰掛けたままでムッツリと俯いてしまった。
そんな様子を見詰めていた緑の魔物…と、光太郎が勘違いしたラドン族のモースは、ニコニコと憎めない笑みを浮かべたままで、冷えたアルシュのジュースをカウンターに置いた。
カランッと氷が小気味良い音を立ててグラスを冷やしている。
「まぁまぁ、そんなに喧嘩しないで下さい。せっかく、仲が宜しいのに」
「うっ!…べ、別にオレは仲なんかよくしていないぞ」
ムスッと怒るルウィンに、モースはさらにニコニコと微笑んだ。
「僕、仲良くする。ルウィンのこと、好き。うん」
物珍しげにアルシェの満たされたよく冷えているグラスを興味深そうに見詰めていた光太郎は、今ではもう、ちっとも怖くないラドン族のお喋り好きなモースを見上げてニコッと笑った。
屈託のない笑みは、モースの心を温かくしているようだ。
それでなくても、外見とは裏腹の人の好いモースである。彼が光太郎を気に入るのは当たり前のことではあったが、まさかモースに仲良しなどと言われるとは思ってもいなかったルウィンは、照れ臭さ半分の不機嫌さでクスコの酒が満たされたグラスを引っ掴むとバツが悪そうに呷るのだ。
「あははは、これは素直な方ですね。こう言っては失礼ですが、ルウィンさまのお連れさまだと言うのにお可愛らしいですね」
「オレの連れだと可愛い輩はいないってのか?」
自分で言っておきながらルウィンは、ふと、首を傾げたが更にバツが悪そうに、苦虫でも噛み潰した顔をするから、話の展開に追いつけない光太郎は少し動揺したようにオズオズと不機嫌な銀髪の賞金稼ぎの顔色を伺ってしまう。
それが更に拍車をかけるのだが、気付けない光太郎の屈託のなさにルウィンはつんっと先端の尖っている長い耳を伏せて、同じく眉まで八の字にしてやれやれと溜め息を吐くしかない。
ルウィンの連れで、正真正銘に可愛い存在など、モースが言うように居た例などないのだから。
「わたしはラドン族のモースと申します。この酒場、『アンカー』で給仕の仕事をしています」
そんなルウィンを爽やかに無視して、モースは物珍しいお供を細い目を更に細めてニコニコ笑いながら丁寧な自己紹介をした。
光太郎はどんな顔をしたらいいのか判らずに、取り敢えず、水滴の浮いたグラスを掴んで咽喉を潤しながらルウィンの横顔を見上げていたが、モースの満面の笑みにニコッと頬の緊張を緩めると、たどたどしい共通語で答えた。
「僕は…えーっと、カタ族です。そして、コータロー、言う」
「コータローさまですか!珍しいお名前ですね。でも、カタ族ならそんな名前があったとしても、けして不思議ではありませんね」
カウンターの向こう側で忙しなく酒やジュースの準備をするモースが、幾度か反芻して頷きながら、自分を指差して一生懸命に自己紹介している光太郎に微笑んだ。
自分の言葉が少しずつではあるが通じているのだと安心した光太郎は、ホッとしたように笑う。
そして、すっかり安心しきった様子で、傍らで呆れたように眉をヒョイッと上げて微かに首を傾げたような仕種をしたルウィンを見上げるのだ。
「ルウィン、よかた。僕の言葉、通じるね」
「そうだな。もう、不自由はしないな」
「うん」
頷く光太郎の、罪のない漆黒の髪を見下ろしながら、ルウィンは青紫の神秘的な双眸を、何か眩しいものでも見た人のように細めてしまった。
「?」
不思議そうに光太郎が首を傾げた丁度その時、やたらハイテンションな音声が響き渡って、驚いたなんちゃってカタ族の少年はビクッとしたように首を竦めたが、銀髪の賞金稼ぎは慣れてでもいるのか、いや、光太郎がよくよく見渡してみれば、その音声に驚いている者など誰もいない、ましてや、待っていましたとばかりに様々な種族の人々が嬉しそうな顔をしているのだ。
(な、なんなんだろ??)
「あっらぁ~、ルウィンさまじゃないのぉ。お元気でしたぁ??」
うっふんと、大柄な体躯をビチビチのボディコンで装備した、やたらゴツイおねぇさんは、何やら野太い声で叫ぶようにそう言うと、憎めない垂れ目の下の泣き黒子のセクシーさに光太郎が声も出せないほどぶっ魂消ていることはさらっと無視で、不機嫌そうな銀髪の賞金稼ぎに思い切りタックルするのだ。
「…まあな」
そうなることは予め判っていたのか、同じように先端の尖った耳を有する、どうやらルウィンと同じ種族であるらしい強烈なゴツイおねぇさんを首に噛り付かせ、テカテカのグロスが塗りたくった唇でぶちゅぶちゅと頬にキスの歓迎を受けながら、銀髪の賞金稼ぎは不機嫌そうに呟いた。
(でも、けして嫌がりはしないんだな)
不機嫌そうではあるけれど、もう慣れているのか、それとも、ルビアがルーちゃんと呼ぶことに対する違和感のなさと同じなのか…いずれにしても、ルウィンは嫌がることなく受け入れているのだ。
(普通なら、これだけ美形の人だと、変なことされたとか、嫌なこと言われてるって思って口もきかないと思うんだけどなぁ…)
アルシュのジュースを飲みながら光太郎は、まるで全てが当たり前で、自然なことだとでも言わんばかりに雪白の頬にベッタリと熱烈なルージュの痕を残したままで肩を竦めるルウィンを見上げていた。
「ルウィン。うん、最強」
「…は?」
嫌そうに頬を拭うでもなく、ゴツイおねぇちゃんの熱烈な歓迎をそのままで、酒の入ったグラスを傾けるルウィンに、慌てたようにモースが綺麗な布でその頬を拭うのも、やはりルウィンは、当たり前のことのように受け止めている。
恐らく、目の前で繰り広げられている一連の出来事は、彼がすっかり馴染んでしまうぐらいには、日常茶飯事で起こりえることなのかもしれない。
(それなら納得できる…ってことで、ルウィンは最強だよ)
納得だと頷いてる光太郎を、不思議そうに見下ろすルウィンの傍らで、漸く思いの丈を込めた歓迎が終わったのか、口許に笑みを浮かべたままのゴツイおねぇちゃんが嬉しそうにそんな少年の身体を思い切り抱き締めた。
『うわぁ!』
問答無用で抱き締められてしまって、嫌がって逃げるどころか、どう対応していいか判らずに硬直してしまった光太郎は、ああそうか、と思うのだ。
きっと、ルウィンも硬直してるんじゃなかろーかと。
まさか、そんなはずはないのだろうが、肩を竦めるルウィンに、ビチビチボディコンのゴツイおねぇちゃんがウィンクする。
「可愛いお連れさんね。ルウィンさまの新しいお小姓さん?」
「ぶっ」
思わずと言った感じで噴出すルウィンのテーブルに腰掛けた深紅の飛竜が、面白そうにその顔を覗き込んでいるのは愛嬌だろう。
「違う、僕は…コータロー」
お小姓の意味などこれっぽっちも判らなかったが、明らかにルウィンの態度と面白がっているルビアの様子から、どうやらあまり宜しくない発言なのだろうと受け止めた光太郎は、抱き締められたままでブンブンッと首を左右に振って否定した。
「あらん~、違うのねぇ。じゃあ、コータローちゃんはなぁに??」
「カタ族」
頷きながら応えると、ボディコンのパッツンパッツンなおねぇちゃんはニヤッと口許に笑みを浮かべたままでルウィンを凝視していたけれど、すぐに身体を離して不吉だと噂される黒髪と黒目のカタ族を名乗る少年を見下ろした。
「あたしはキティよ、コータローちゃん。この酒場『アンカー』の女!主人よ。あなた、気に入ったわ♪」
女に微妙な力加減を感じ取ったものの、思い切りゴツイ頬で頬擦りされてしまうと、綺麗に処理しているはずなのにそれでも消しきれない男臭さにか、それまで緊張していた肩の力が抜けて、ああなんだ、ここの店主さんなのかと光太郎はあからさまにホッとしたようだった。
《ホッとするのはヘンだと思うの》
鋭いルビアの突込みではあるが、今の光太郎にはもちろん通用しない。
「ドンちゃん、キティ、会うが楽しみでした」
ニコッと笑って、その時になって漸く、ルビアは光太郎がホッとした理由が判ったのだ。
《なんなのね、てっきり気に入られてホッとしたのかと思っちゃったのね》
つまらなさそうに元から尖っている口先をさらに尖らせるようにして呟くルビアに、不吉だとされる漆黒の髪と瞳を持つカタ族の少年を大切そうに抱えた、ガルハ帝国の首都ラングールの中心部に位置する無国籍の酒場『アンカー』の店主にして、元王宮近衛隊の隊長であったドン・バロモアはニヤリと笑ってグロスの塗りたくられた厚めの唇を窄めた。
〔ルウィン様がこの少年をこのバーにお連れになったと言うことは、それなりに何か理由があるのですね?〕
不意に、口調を改めてガルハ特有の言語で語るバロモアをルウィンは見遣った。
「…」
言うべきなのか、それともいっそ、このまま連れ去ってしまうべきなのか…拾った異世界の少年は、長く傍に在れば在るほど、離れがたい何か不思議な力を持っているようだった。
バロモアに促されても即答できない自分に驚くと同時に、意味深な眼差しで心の内側までも見透かしてしまいそうな旧い付き合いの師匠に、その全てがばれてしまわないかと不安にもなる。
(どうかしている、不安になるなんて…)
仄暗い店内に燈るオレンジの蝋燭の明かりは、ルウィンの頬に暗い影を落とした。
「?」
バロモアに抱き付かれたままで不思議そうに見詰めてくる光太郎の、そのきょとんっとした漆黒の瞳を見つけて、この国の第一皇子は自らの立場を思い出したようだった。
〔すまないが、バロモア〕
同じくガルハ特有の言語で語るルウィンを見上げて、光太郎の眉がソッと寄った。
この言語が飛び出す度に、何故か、自分を拾ってくれた銀髪の賞金稼ぎは何か言いたそうな、もどかしい表情をしたままで口を噤んでしまう。
何か言いたくて、言えなくて…
(それがなんなのか、俺は凄く知りたいのに)
一抹の不安がまたしても胸を過ぎった。
思わず唇を噛む光太郎に気付くことなく、ルウィンの問いかけに、バロモアはふと神妙な顔をした。
それが余計に、光太郎を不安にさせていた。
〔暫く、コイツを預かってくれないか?〕
〔暫く…と申しますと、皇子、もしやまた城を空けられるおつもりですか?〕
まさかその部分を指摘されるとは思わなかったのか、思わず呆気にとられそうになったルウィンだったが、気を取り直したように咳払いをして眉間に皺を寄せた。
〔当たり前だ、用事が済めばとっとと出て行くさ。父上の治世が続く限り、オレが国に留まる必要はない。オレは、多くをこの目に焼き付けて、この国をさらに発展させなきゃならないんでね〕
悪戯っぽく苦笑するルウィンを見詰めて、そうして、バロモアは小さく溜め息を吐いた。
〔…皇子、あなたはそうして、御身の宿命を受け入れる旅を続けられるのですね〕
〔それは関係ないさ〕
さらにクスッと笑うルウィンに、どうしてと、バロモアは考える。
この美しく気高い、そして下世話さをも併せ持つこの国の国民の誰もが愛する皇子に、運命はこれほどまでに過酷な試練を与えるのだろうか…と。
〔それなのにあなたは、さらにこの少年の運命さえも背負おうとしているのですか〕
呆れたような、なんとも言えない表情で見詰めてくるバロモアに、ルウィンはやれやれと言いたそうに、長くピンッと立っている先端の尖った長い耳を伏せて、大人しく『アンカー』のママに抱かれている光太郎を見下ろした。
〔仕方ないさ。拾ってしまったんだ、最後まで面倒をみないとな〕
それでも、僅かに覗く嬉しそうな表情に、バロモアはおや?と眉を顰めた。
ルウィンのそんな表情は、彼が子供の頃から剣の師範をしていた自分が、初めて見る表情だった。
〔…判りました。ご安心ください〕
バロモアはニッコリと笑って快く承諾した。
どうせなら、この国が何よりも大切に考えている第一皇子のたっての願いだし、何より、火吹き竜と恐れられた彼にこんなやわらかな表情をさせる、不吉の象徴でしかない筈のカタ族の少年を傍で見守りたいと思ったのだ。
「すまないな、キティ」
「あらぁ、ルウィンさま♪この子ったら可愛らしいから、客受けバッチリですわよ」
うふふふ…ッと不気味に笑うバロモアを光太郎が不安そうに見上げると、その仕種にルビアが顔を顰めた。
《光ちゃんはダンサーには向いてないのね!》
『ダンサー!!?』
ルビアのとんでもない発言に、素っ頓狂な声を上げた光太郎は、あわあわと慌てふためきながら首を左右に振って、今にも泣き出しそうな表情でルウィンに両腕を差し出した。
「ダメ、僕…踊るしない。ルウィン、ごめんちゃい。置くしない、連れて行く」
一抹の不安…それは、置いて行かれるのではないかと言うこと。
光太郎が何よりも心配していたのは、この場所に、いや、何処でも、ルウィンのいない場所に置いて行かれることだった。
だから、必死にごめんなさいと謝るのだ。
「何を謝ってるんだ?馬鹿だな、仕事が入ってるんでね。その間、バロモアに面倒を見て貰うように頼んだのさ。別にダンサーにするなんて言っちゃいないだろ?」
「でも!…ルウィン、戻ってこないかもしれない。僕、心配。連れて行くッ」
(何か悪いことをしたんだったら謝るから、だから、お願いだから置いて行くなんて言わないでくれよッ)
日本語で言えないもどかしさに、どう話せばルウィンが理解してくれるのか、それが判らなくて光太郎は頭を掻き毟りたい衝動に駆られるのだ。
もしかしたら、もうこのまま会えなかったらどうしよう。
光太郎の頭は、傍目からでも判るほどグルグルしていたから、ルウィンは驚いたように眉を跳ね上げて、それからバロモアに腕を放すように促して光太郎を解放させた。
不意に抱き付いてくるその行動を、ルウィンは予め予測していたのか、驚いた風でもなくやれやれと溜め息を吐く。
「別に、迎えに来ないとは言っていないだろ?一仕事終えたら、ちゃんと迎えに来てやるさ。キティにそれほど迷惑もかけられないからな」
「ルウィン、仕事危険。ダメ、僕も行くッ」
光太郎が何より心配しているのは、置いて行かれること。
何故なら、ルウィンの仕事がどれほど危険で、そして、命懸けであるかを知っているからだ。
「…ああ、お前。別にダンサーになるのが嫌なわけじゃないんだな」
(いや、十分、それも嫌だ!)
突然、ルウィンが何を言い出したんだろうかと、光太郎はあわあわしながら銀髪の賞金稼ぎを見上げていた。
ルウィンはクスッと笑った。
「オレは泣く子も黙る銀鎖の賞金稼ぎなんだぜ?ちょっとした仕事ぐらいで死ぬか。ただ、今回は時間がかかるからバロモアにお前を頼むんだ」
「…でも」
それならどうして、ルウィンはあんな表情をしていたんだ?
それならどうして、共通語で話してくれないんだ?
どうして…俺は共通語を上達できないんだろう。
「でも…」
言葉が出ずに俯いてしまった光太郎をルビアが心配そうに見詰め、それから、意を決したように背中の翼を羽ばたかせて舞い上がった。
《大丈夫なのね!光ちゃんの傍にはちゃーんと、このルビアさまが一緒にいるのね♪》
「ルビア…?」
ふと、眉根を寄せるルウィンに、ルビアはツンッと外方向きながら、光太郎の漆黒のやわらかい髪に舞い降りた。
《それなら大丈夫なのね。ルウィンがちゃんと戻ってくるって思えるの》
「でも、ルビアいない。ルウィン危険です」
《このルビアさまが行かなくてもいいって言ってるのね。大丈夫ってことなの》
ふふーんっと頭の上で胸を張るルビアの言葉を聞いて、漸く、混乱していた光太郎の頭が落ち着いてきたようだった。
「うん、ルビアの言うとおりだね」
「オレの言葉は信じないくせにルビアは信じるのか」
ちょっとムッとするルウィンに、光太郎はエヘヘヘッと笑って見上げた。
「だってルウィン、無理するから。ルビア言う、大丈夫」
なんだよそれは、と、子供のように唇を尖らせるルウィンに、光太郎は嬉しそうに笑った。
ルビアと待つのなら銀髪の賞金稼ぎを待つことができる、それは、言外に彼の身を案じている黒髪の少年の精一杯の譲歩なのだろう。
(これは、なんだか面白くなりそうだな)
バロモアは腕を組んで、そんな奇妙な3人連れを見遣った。
あの、何に関しても無頓着で無関心だった皇子のこんな姿は初めて見るし、その姿をさせる少年は、絶対的に皇子を信頼している。少しでも傍を離れると、不安で仕方ないのだろう。
その精神安定に、ウルフラインの皇太子がいる…と言うのは。
(どうのような構図がこの短い期間で築き上げられているんだ?)
前にルウィンがこの酒場を訪れたときは、草臥れた装束に身を包んだ姿は今と同じだが、全く雰囲気は違っていた。
無関心で無頓着で、傍らにウルフラインの皇太子がいることすら気付かないような、此処ではない何処か遠くを見詰めているような、掴みどころのない雰囲気だったのだ。
それなのに、今のルウィンはどうだろう。
ささやかなことに腹を立て、だが、その行為を喜んでいる。
国民が愛している皇子は、その愛される要素をさらに深めているではないか。
何が皇子を変えたのか…バロモアはその秘密を知りたいと思うようになっていた。