第一章.特訓!25  -遠くをめざして旅をしよう-

「ガルハ帝国で立太子の儀式が執り行われるだって?」

 デッキチェアに長々と寝そべる獰猛そうな肉食獣を思わせるレッシュの台詞に、耳を欹てる彰はデッキブラシを杖代わりに振り返った。

「へい。物見鳥が言うには、同時に賞金稼ぎの選抜大会も行われるらしいですぜ」

「へー、ルウィン野郎め。とうとう年貢を納めるときがきたか」

 クックックッと楽しげに笑うレッシュの態度から、口にされたルウィンと言う人物とは少なからず交流があることは窺われる。しかし、憎まれ口のわりにはそれほど快く思っていないことはないのだろう。
 ヒースの肩で羽根を休めている物見鳥…美しいエメラルドの羽根と長い尾を持つ見たこともない鳥を暫く物珍しそうに見詰めた後、彰は興味深そうにレッシュに視線を戻し、その視線をそっくり朝焼けの太陽のような髪を持つ獅子のような男に絡め取られて吃驚したように目を見開いた。 

「好奇心丸出しだーってツラして可愛いヤツだな」

「ぶっ!」

 頬杖をついたまま、ニヤニヤと隻眼を細めて海賊見習いの少年を眺めて冗談のように言うレッシュに、彰は思わず噴出して、それから、呆れたように肩を竦めるのだ。

「物見鳥?綺麗だなーと思っただけだ」

「ふん?海の上だと情報も少ねーからな。渡り鳥に聞いてもいいんだが、それだと偏った情報になっちまうだろ?その為に、世界中に物見鳥を飛ばしてるってワケだ」

 渡り鳥に聞くと言うのも不思議な表現だが…と、彰は思ったものの、パイムルレイールと言う空を飛べる種族もいるぐらいなのだ。鳥の言葉を操れる人間がいても少しもおかしくはない世界だろうと納得していたから、敢えてそれは無視を決め込んだ。

「ガルハってどこだ?」

「あん?気になるのか。そーかそーか。じゃあ、まずはそのデッキブラシをヒースに預けてここに来い」

 レッシュは面白そうな表情をしてデッキチェアの、寝そべっている自分の腹の前の空いた場所をポンポンッと叩いてから手招きをする。
 今は眠りについている件の鳥人の皇女ならば喜んで座っている場所だが、デッキブラシに体重を預けている彰は胡乱な目付きをしてレッシュを睨んだ。

「どうして話を聞くのに、レッシュの傍に行かないといけないんだ?」

 そりゃそうだと、ヒースもお頭の性質の悪いジョークにヤレヤレと内心で溜め息を吐いたものの、一度これだと言い出したら聞かない暴れん坊である、ヒースは肩を竦めながらやはり内心で彰にご愁傷様だと呟いていた。
 しかし、彰がこの泣く子も黙る『女神の涙』号に乗船してからと言うもの、レッシュの関心は常に彰にあるから、船内はこの上ない平穏な日々を保っている。
 レッシュの気紛れで鼻を圧し折られる連中もいなければ、寝起きが魔物のように悪いレッシュの毒牙にかかって前歯を折る連中もいなくなった…と言うのも、彰が起こしに行くようになってから、レッシュは魔物のような仏頂面はするものの、飼い慣らされたライオンか何かのように大人しく起きるようになったのだ。おかげで、彰が前歯を失くすことはないようだ。たとえ、世界中が畏怖する竜使いだとしても、今のヒースたちにしてみればこれ以上はないファタルの御使い様様である。

「どうしてだと?そんなの決まってるだろ、俺が来いと言ってんだ」

「…暴君だ」

 それ以外に言葉が思い付かない彰は、ムスッと唇を尖らせて悪態を吐いた。
 それはそれで十分、レッシュを満足させているのだが、それでも今は邪魔をするシュメラもいないのだから、思う様、彰をからかいたくてウズウズしているレッシュはさらに追い討ちをかけるようにポンポンッと自分の腹の前の空いた場所を叩いてウィンクする。

「ほら、来いよ?じゃねーと、お前の知りたい話は何もしてやらんぞ」

「…」

 彰はムッツリと唇を尖らせたまま、ヒースに乱暴にデッキブラシを預けた。
 その様子を見て、レッシュは素直に自分の言うことに従おうとする彰の態度が嬉しかったのか、隻眼を細めてニヤニヤと笑っている。
 兎に角、レッシュは彰が素直に従うとこの上なく嬉しそうにするのだ。
 それがヒースに一抹の不安を植えつける。
 いや、彰の教育係であるヒースだけではない。この『疾風』の意味を持つゲイルのメンバーの副船長を筆頭に誰もが、性質の悪いジョークだと思い込んでいるレッシュの彰に対する態度が、もしや本気だったとしたら…と一抹の不安を抱えているのだ。
 オマケに、それならそれでも別に構わないとさえ思い始めているのだから、自分たちで自分たちの頭を悩ませていると言うことに気付きもしない。
 このまま、彰がレッシュの傍にいるのなら、パイムルレイールの皇女が傍にいるよりも遥かに自分たちには有益だと考えているのだ。
 しかし、世界が欲する竜使いである彰が、このままずっとこの船に在る、はずなどないと言うことを、また、知らない彼らでもないのだが…
 ワクワクしているレッシュに眉根を寄せてムッとしている彰は、不意にニヤッと笑った。

「別にいーよ。俺、コック長にお話ししてもらう♪」

 お頭の休憩命令が出たのだ、どうして素直にレッシュの傍に行かなくてはいけないのか。
 もちろん、彰はウキウキした気分で踵を返そうとしたが、思わず呆気に取られていたレッシュが、ハッと我に返ってその細い背中に鋭く声を掛けた。
 そうでもしなければ、彰はすぐにでもコック長である、あの寡黙なネロの許に飛んで行ったに違いない。
 レッシュは何故か、それが面白くなかった。

「こらこら、待て!誰が食堂に行けと言った。ここに来いと言ったんだぞ」

「…」

 確かに、このゲイルではレッシュの言葉が全てであり、たとえ創造主が降臨したとしても、やはり、レッシュの意思に従わなければならないのだ。
 見習い海賊如きでは、それは絶対的な命令でもある。
 ムッと唇を尖らせて振り返る彰は、暫し逡巡して、それから諦めたように溜め息を吐いてからトボトボとレッシュの傍に行き、仕方なさそうに腰を下ろした。

「どんだけ嫌そうなんだ、お前は」

 当たり前のように腰に太い腕を回すレッシュの腹に背中を預けて、こうなってしまうと、彰はもう大人しくレッシュに身体を預けてしまうのだ。
 それは、一番最初にレッシュが彰に教え込んでいた行為で、その為、レッシュの傍に行ってしまうと彰はすぐに警戒心を解いてしまう。
 それすらも可愛いと思っているのだから…ヒースはうんざりしたような、彰、ご愁傷様の表情をして物見鳥を空に帰すと、青い顔をしたままで船の舳先に行ってしまった。

「嫌なモンは嫌なんだから仕方ないだろ」

 寄り添うように座っているくせに、可愛くないことを口にしてプイッと外方向く竜使いの顔を覗き込むようにして、それでもレッシュは隻眼でニヤニヤと嬉しそうだ。

「だが、話は聞きたい。そうだろ?」

「うー…まぁ、うん」

 ガックリしたように頷く彰の腹の辺りに背後から抱き締めるように回している腕に、彰は無意識でソッと手を置く。それは嫌だからと拒絶する意味ではなく、何か、心の拠り所を求めているような、それは自然と不安を持つ彰が覚えた行為のようだ。

「ネロに懐いてるみたいだが…」

 思わずと言った感じで口を開いたレッシュを、彰は訝しそうに眉を寄せて見下ろした。
 真っ青な空には雲ひとつなく、ピーカンの太陽を受けて生まれつき色素の薄い髪がキラキラと輝いて、きょとんとした表情が影になる顔を見上げたまま、レッシュは隻眼を眩しそうに細めたが、それ以上は何も言わずに首を左右に振った。

「まぁ、いい。ガルハだったな?あの国は竜騎士の流れを汲むハイレーン族が支配しているんだが…ハイレーンってのは、もともとはエルフと同じ種族だったのが魔族の介入で袂を分かれたんだよ。その一族の現在の皇子が、いい年をしてるくせに立太子もせずに放浪の旅をしやがってんのさ」

「へー。放浪の旅って…なんか、スゲー皇子さまだ」

 思わずと言った感じで彰が噴出すと、レッシュはやれやれと言いたげな顔付きをして溜め息を吐いた。

「まぁ、彼の国では笑ってもいられんだろうがな。なんせ、たった独りの皇子が賞金稼ぎなんかしてるんだぜ。海賊となんら変わりねーんだし、皇帝は頭を痛めてるだろうよ」

「賞金稼ぎ?…なんと言うか、ホントにハジケた皇子さまなんだな」

 そこまで聞いて、彰は心の底から呆れてしまった。
 どんな経緯があるのかは判らないのだから、あまり酷いことも言えないのだが、一国を担うべく生まれたはずの皇子が、国を省みずに海賊と同じようなヤクザな仕事をしながら放浪の旅をしているのだ。自分たちが生まれ育った世界では考えられない要人の行動に、彰は呆れを通り越して、一種の感動すら覚えていた。
 それだけハジケた皇子ならば、庶民の気持ちを理解する心を持ち合わせているのではないだろうか。

「現皇帝が存命の間は何でもする、ってのが、ルウィンの考えなんだってよ」

「ハジケた皇子さまの名前はルウィンって言うのか」

 彰が興味を示したように呟くと、レッシュは海よりの風に真っ赤な髪を弄ばせて、どうでもよさそうに首を左右に振る。

「正確には違う。賞金稼ぎには通り名ってのがあってな。ルウィンは通り名だ。本名はアスティア…なんて優しい名前をしているくせに、やることは守銭奴で、名は体を現していないヤツさ」

「へー…王族なのに守銭奴って、面白そうな人だな。俺、逢ってみたいなぁ」

 放浪しながら世界を旅している存在なのだから、恐らく、この船の住人たちよりも物事を理解しているのではないか…もしかすると、何処かで泣いているかもしれない兄弟のような少年の居場所を、或いは知っているかもしれない。
 ウルフラインの国に寄港した際に逃げ出したら、真っ先にその人を捜してみようかと思い、彰は諦めたように自嘲的に微笑んだ。
 容姿も何も判らない相手を、どうやって捜せると言うのだ。
 日頃はダレたライオンのようなレッシュは、直感力…と言うか、非常に勘の良いところがある。根掘り葉掘り、そのルウィンと言う賞金稼ぎのことを聞けば、ヘンな疑いを持って、漸く自由になった行動を見張られかねないのだ。

「アイツは世界中を旅しているからな。何時か会うこともあるだろうが、今は立太子するんで国に帰っているのか。あの国は今は立太子の式典から、ハイレーン族の賞金稼ぎのギルドが選抜大会を行うとやらで、随分と賑わってるんだろうな…お前がウルフラインの神竜と逢うのが遅くなってもいいってんなら、ガルハに寄り道してやってもいいんだぜ?」

「ホントか?!…あ、でも。また何か条件があるんだろ??」

 ワクワクと双眸を輝かせて自分を見詰めていた顔にパッと嬉しそうな微笑を浮かべた彰だったが、すぐに笑顔を引っ込めると、胡散臭そうな目付きをしてジトッとレッシュを見下ろした。
 それほど自分は彰に不信感を与えるような真似をしてきたのかと、今更、下唇を尖らせて面食らったレッシュは、空いている方の手で隻眼の目を覆った。

「…そうだな。今夜から俺の横で寝るんなら考えてやる」

 だが、ついつい口が滑ってしまうのは、拗ねたように眉を寄せる彰の顔が可愛いからだ。
 覆っているはずの指の隙間から盗み見れば、彰は困惑したように眉を寄せはしたものの、暫く逡巡して、仕方なさそうに頷いたのだ!

「判った。ガルハとか興味あるし。そのひとにも逢ってみたい。この世界のこと、少しでも知りたいからな」

 ムスッと不貞腐れる彰の腰を唐突に引き寄せて、レッシュは倒れそうになる彰の背中に顔を寄せた。
 あたたかな温もりを何故か必要だと思うようになって、気付けば手離し難い想いに駆られることもある。
 何時か、ウルフラインに行けば確実に手離さなければならない温もりなのに、どうしてこんなにも焦燥感に駆られてしまうのか。何時から自分は、温もりを必要とし始めたのか…
 レッシュは何も言わなかった。
 たとえば、どうしてそこまで彰がルウィンに興味を示したのか、気にならないと言えば嘘になるが、好奇心に双眸をキラキラと煌かせているのを見れば、自ずと答えは判るような気がしたし、何より、手離し難い衝動に駆られている自分は、ウルフラインまでの道のりを、ほんの少しでも遅れさせようと画策しているのだから、彰の行動を訝るよりも、自分自身の行動に瞠目しなくてはいけないのだ。
 レッシュは目蓋を閉じたまま想う。
 ある日、天から降ってきた少年は世界の運命を変える存在であったはずなのに…まるでその手始めだとでも言わんばかりに、炎豪だ、海の死神だと恐れられるゲイルの頭領の心すら変えて、気紛れな海のような底知れぬ穏やかさで興味も何もかもを掻っ攫ってしまった。
 恐怖と畏怖、そして偉大な実力を持ったファタルの御使いは飛び切りの美姫か、山のような大男だと信じて疑っていなかったと言うのに…振ってきた少年は何処にでもいる平凡な、レッシュにだけは警戒心丸出しで威嚇するくせに、些細なことで好奇心に双眸をキラキラさせて、胸の奥に久しく忘れていた少年の心を思い出せた非凡な存在だったのだ。
 手離せるか?と自分に問う。
 心の奥深いところで『否』と言う声を聞く。
 ウルフラインに連れて行くと約束した竜使いを、手離せずにいる自分のままならない心に戸惑って、立ち竦んだまま身動きも取れないレッシュは、傍らの温もりに縋るように両腕で抱き締めていた。
 少年はあまりに小さくて儚くて、力強く抱けば壊れてしまいそうなほど華奢だったが、それは彼が190センチはありそうな長身で体躯のガッシリした海賊だからだと、彰は鼻に皺を寄せて悪態を吐くだろう。
 それが楽しくて…やはり、心の声は『否』だと言う。
 海よりも冷やかで冷徹なはずの海賊の頭領は、燃え上がる情熱の焔に苦しんで、突然の出来事で目を白黒させて、不思議そうに小首を傾げる彰を抱き締め続けていた。
 海を渡る風が彰とレッシュの身体を一瞬包んで、そして何事もなかったかのように吹き過ぎていった。