第二部 10  -悪魔の樹-

 どれぐらいそうしていたんだろう。
 鼻を啜りながら拳で両目を擦った俺が顔を上げると、カバの悪魔は、やっぱりそうして、俺が泣き出した時の格好のままでどっしりと座っていた。

『気は済んだかよ?』

 飄々とした小さな瞳は、何を考えてるのか窺わせない素っ気無さで、そのくせ、その存在はここは魔界だと言うのにあたたかかった。

「…ああ、ありがとう」

『やめとけ。オレは有り難がられることなんざ、これっぽっちもしちゃいない。ただ、身内の撒いた種に頭を悩ませてるだけだ』

 やれやれと、のーんとしたカバ面を面倒臭そうに左右に振って、ベヒモスは肩でも竦めそうな雰囲気だ。
 そう言えば…信じられないことなんだけど、このカバとリヴァイアサンであるレヴィはどうも家族らしい。会話を聞いててそう思ったんだけど…よし、悩んでも仕方ない。
 この際だ、聞いてみよう。

「あのさぁ、ベヒモスとレヴィってその…親子なのか?」

『グハッ!』

 思わずと言った感じで、ベヒモスの口許がぷるるっと震えた。
 どうやら、心底嫌なことを言われてしまったらしく、カバ面からじゃ読み取ることなんか不可能なポーカーフェイスを驚いて見上げる俺を、身震いしながらカバの悪魔は困惑したように見下ろしてきた。

『どうしてそうなる。なぜ、親子なんだ』

「いやぁ~、なんつーか。レヴィが振り回されてるし…それに、アイツが大事にしてるみたいだったから」

 面食らったんだろう、カバ面で呆気に取られていたベヒモスは、やっぱりやれやれと長い顔を左右に振ると溜め息なんか吐きやがった。

『オレとレヴィは兄弟なのさ。どちらが先に生まれたか…に関しては、未だに決着は着いちゃいないんだがな。少なくとも、他の悪魔たちとは違って、オレたちは血肉を分けた兄弟なんだ』

 ああ、それで。
 あの傲慢不遜が服を着てるようなレヴィが、唯一、対等に話したり聞いたりしてるんだなぁ。
 他の悪魔(もちろん人間はそれ以下だから俺のことは論外として)を見る時のあの目は、
たぶん、アイツがレヴィに戻ったとしても、俺は忘れることなんかできないだろうと思う。
 冷ややかで、たとえそれが高位らしい悪魔だったとしても、まるで虫けらでも見るような、凄まじい侮蔑の目付きは、生きているこっちが何の罪もないってのに酷く恥じ入りたくなるぐらい、どれだけ卑しいんだろう俺、と悩んで自殺するぐらいは強烈で残酷なんだ。
 その目付きを、ベヒモスにだけはしないからな。
 あ、あとルシフェルもか。
 何故か…レヴィにとってはルシフェルも特別な存在なんだよな。
 ベヒモスにしてもルシフェルにしても、ましてやリヴァイアサンだって、伝説上とは言え、あまりにも有名な悪魔たちだ…そうなんだよな、レヴィは特別な存在なんだ。
 ルシフェルもベヒモスも、アイツが大事にしているのは特別な存在ばっかりだ。
 それなのに、どうして俺がその仲間に入れるなんて、そんな奢った考えを持ってしまったんだろう。
 俺なんて、ただのちっぽけな人間に過ぎないって言うのに。
 俺、レヴィにあんな目付きで見られても、仕方ないんだって、今なら素直に思えるような気がしてきた。
 はぁ…ちょっと凹んだ。

 それからの俺は、ベヒモスとこんな感じで過ごすことになったワケなんだけど、魔界にしてはこの鬱蒼と不気味な樹が生い茂る陰鬱な森は、住み易いんだから不思議だ。
 驚くことに、動物なんかいないだろうとか高を括ってる俺の前で、嘲笑うかのようにベヒモスの背中で休む鳥や、足許で転げ回って遊ぶ小動物を見てしまうと、大分、魔界の見方が変わってきちまった。
 そんな俺がこんな森で何をしているかと言うと、小さなベヒモスの家で掃除や家事と言った、人間界でしていることとなんら変わらない生活を送っていたりする。
 こんな家にベヒモスのヤツ、どうやって入るんだと疑わしくなるぐらい、森の中の小さな家は、苔生していて、それなりに雰囲気のある可愛らしさだ。まぁ、カバ面の悪魔のくせに憎めないベヒモスを見た後じゃ、うん、似合ってるなぁ…としか思えない俺が居るんだから違和感なんかあるワケないんだけどな。
 大きさとか関係ないんだよ。
 魔界では空間がおかしくなっているらしくて、どんなに小さく見えても、中は東京ドームより広かったりする。だからこそ、あの魔城に数千以上の悪魔が犇めき合いもせずに同居できてるんだから、今更驚くはずもないワケだ。
 この暮らしもそんなに嫌なワケじゃないんだが、ルシフェルのヤツは何処に行ってるのか、サッパリ姿を見せないとなると…まだ戻ってきてないんだろうし、大人しく待つしかない。
 でも、最近の俺の考え方は当初より随分と変わってきたように思う。
 今は…なんて言うのかな。
 もう、レヴィアタンの記憶は戻らなくてもいいんじゃないかとか、思ってる。
 ここが、アイツが生きるべき世界なのに、俺なんか、ちっぽけな人間の傍にいて、その輝くような…ってのもヘンな話なんだけど、自信とかプライドとか、レヴィの特別な何かを霞ませてしまうんじゃないかとか、考え出したら溜め息しか出てこない。
 最初の頃みたいにベヒモスは俺を気にかけない…と言うか、気にしてはくれているんだけど、必要以上にベタベタしてくれないから、こんな魔界に居るってのに俺は、充実した日々を過ごしていたりする。
 ただ、寂しい。
 無性に寂しい。
 何がこんなに寂しいのか判らないんだけど、心の奥がポッカリ空いてしまったような、その隙間にピューピュー風が吹き込んできて寒いような、そんな、物悲しい寂しさが唐突に襲ってくることがある。
 だからって、それをベヒモスに訴えたところで、何も始まりはしないから、俺は仕方なく溜め息ばかり吐いてしまうんだ。
 そんな時、ずっと姿を見せなかった灰色猫が、木々の隙間をすり抜けて飛び出してきた時には、忘れかけていた警戒心を呼び戻してしまったりした。
 そりゃ、そうだろ。
 いきなり、気配もなく飛びつかれれば誰だって女の子みたいに声ぐらい上げちまうよ。

『よかった、お兄さん!消えてしまったのかと心配したよ』

「は、灰色猫!?お前、どうして…」

 『どうしてじゃないよ…』と、俺に飛びついたままでブツブツ悪態をついた灰色猫は、どうやら、この魔界中を飛び回って捜してくれていたらしい。
 どうりで、よく見ると草臥れているわけだ。
 草臥れるまで俺を捜し続けてくれた灰色猫に、レヴィのヤツ、一言も言ってくれもしなかったんだなと、何だかムカついてしまったんだけど、俺も他人のことを言えたワケじゃないから、素直に謝ることにした。
 謝られても気の済まなかった灰色猫は、不安そうな面持ちをしたままで、自分が忙しなく動き回ったせいで隙を作ってしまったからと酷く後悔していて…って、そこまで灰色猫が落ち込む必要はないような気もするんだけど、悪いのは勝手に城から追放させたレヴィなんだけどなぁと、俺が思ったとしても、灰色猫のヤツは全く意に介してもくれず、もう二度と俺の傍から離れないと宣言した。
 宣言したんだから、俺とベヒモスと小動物たちの生活に、新たに灰色猫が加わることになって、現在に至るってワケだ。

『まさかベヒモス様のお傍に居るとは思わなかったよ』

 心底そう思っているんだろう、空を覆うぐらい伸び放題の木々の何処にあるのか知らない陽射しが射し込む場所に、お誂え向きに置かれた木のテーブルと対になった椅子に腰掛けて、灰色猫は俺が煎れたお茶を旨そうに啜っている。
 猫のくせに猫舌じゃない灰色猫の今の姿は、勿論、灰色フードを目深に被ったあの怪しい占い師だ。
 じゃなきゃ、どんな猫手でソーサーとカップなんか持てるよ。
 いや、持てるヤツがいる。
 あの大きな平たい前足のどこで抓んでいるんだか、ベヒモスのヤツは例の如くどっかりと座ったままで、俺の煎れたお茶を、カパッと開いた口に流し込んで、あの小さい目をうっとりと細めている。
 どうやら、お茶が気に入ったようなんだけど…灰色猫よりもツワモノだと、俺がゴクリと咽喉を鳴らしたことは言うまでもない。

『灯台下暗しだねぇ』

 膝の上で持っているソーサーにカップを置きながら、灰色猫はやれやれと溜め息を吐いた。

『仕方ない。あのバカゾーが捨てて行ったんだからな。まぁ、だがオレとしてはメッケもんだったんだぜ。これで、なかなか飯も旨ければ、この茶も旨いんだ。拾いモンさ』

 カバ面はご機嫌で、呆れている灰色猫に自慢した。
 まぁ、コイツら悪魔にしてみたら、人間は奴隷だし、いい奴隷を手に入れればそれなりに自慢もし合うんだろうけど…う、ちょっと俺、今の発言ってば卑屈じゃねーか?

『レヴィアタン様が愛されている方ですからねぇ』

「…そんなんじゃない」

 それまで黙って、ポカポカ陽気にのんびりしながら話を聞いていた俺がつっけんどんに口を開いたもんだから、灰色猫のヤツはおやっと、いつもはニヤニヤ笑っている口許をちょっと尖らせたりした。
 ベヒモスは感情を窺わせない小さな目で俺を見る。
 う、そんなに注目されるとは思っていなかったんだけど…ま、いいか。
 どーせ、本当のことだ。

「アイツなんてスッカリ俺のことなんか忘れちゃってさ、今頃、アスタロトに貰ったヴィーニーとか言う奴隷と仲良くしてるんじゃねーのかッ」

 フンッと鼻を鳴らして茶を飲んだら、そんな俺のささやかなヤキモチに、灰色猫とベヒモスは顔を見合わせると、胡散臭い占い師は困惑したようにニヤニヤ笑って言うんだ。

『それはそうかもしれないけどねぇ…じゃぁ、どうしてあの白い蜥蜴は枝の上からこっちを睨んでるんだい?』

 それは、知ってる。
 数日前、灰色猫と合流して暫くしてから、この【混沌の森】に一匹の白い大きな蜥蜴が棲みついたんだ。
 いつも、金色の胡乱な目付きで、洗濯したり水汲みしたりしている俺の姿を、木の枝に長く伸びながら見下ろしていた。気付いているんだけど、無視してるってワケだ。

「知るかよ。俺の知り合いに白い蜥蜴なんかいねーもん。おおかた、ベヒモスの客じゃないのか?」

 フンッと外方向く素直じゃない俺だけど、素直になんかなれねーよ。
 ただ、あの白い蜥蜴は、俺が自分の部下と兄弟の信頼を勝ち得て、その傍にいることに只管嫉妬してるだけなんだから、喜んで浮かれるほど、俺の想いはそんなに簡単じゃないんだぜ。
 と、言っておく。

『知らんなぁ?オレの客じゃない…ってことは、そうだ。お前だよ、お前!灰色猫の知り合いだぜ。間違いない』

 どんだけ、嬉しそうなんだよベヒモス。
 振られた灰色猫は、さすがにご主人なワケなんだから無碍にもできず、かと言って、この森の住人からこれだけ華麗に無視されているんだから、自分だけ相手をするわけにもいかなかったんだろう。
 暫く考えた末に…

『…迷子の、蜥蜴だね』

 逃げた。
 その方向をできるだけ見ないようにする…そんな灰色猫を見ていたら、なんつーか、憐れな中間管理職の父さんを思い出しちまったじゃねーか。
 はぁ、そう言えば、父さんと茜は元気かな。
 もう、夏休みとかとっくの昔に終わってるだろうなぁ…それで、俺なんか行方不明だから、警察とか動員して山狩りされてたりして。
 あ、もしかしたら、その事態を収拾するためにルシフェルは留守にしてんのかな、なんつって、そんな殊勝な悪友じゃねっての。いや、そうかもしれないけど。
 溜め息を吐いたら、灰色猫が顔を向けた。
 フードの奥の目は見えないけど、どうも、かなり心配してくれているようだ。

「…俺さぁ、灰色猫を好きになればよかった」

『はぁ!?何言ってんのさ。そんなこと、冗談でも言ってはダメだよ』

 そうじゃないと、猫は殺されるよと、満更でもない調子で呟くから、それはアイツが記憶を取り戻したらの話だと俺は素っ気無く言い返してやった。

「そうしたら、灰色猫は俺を忘れないし、いつだって俺のことを気にかけてくれるじゃないか」

『だってそれは…』

「判ってるよ」

 灰色猫が言い訳めいて呟こうとした言葉を遮った。
 判ってるよ、ご主人に頼まれてるから俺を気にかけてるだけなんてことはさ。それでも、ちょっと感傷に浸ってみたいだけなんだよ。
 そんな俺の気持ちを読み取っているのかどうなのか、小さな瞳で俺たちの会話を見守っていたベヒモスは、やれやれとカバ面を左右に振って、小器用に抓んでいるカップを差し出してきた。

『灰色猫を困らせるな』

「ぶー!判ってるってッ」

 差し出されたカップにお茶を注いでやりながらぶーたれて唇を尖らせると、灰色猫はホッとしたように胸を撫で下ろした。

「じゃぁ、そーだなー」

『オレは…選ばねーだろうなぁ。当ててやる。ルシフェルだろ』

「言うと思ったワケか」

 どこまでお見通しなんだ…とか思って、ははは、違うか。
 俺が知ってる悪魔なんてこれぐらいだ、あとはアスタロトとか、でもアイツにはいい思い出がないんだよなぁ。

『やめとけ。ルシフェルは』

「…?別に、本気じゃないぞ」

 俺が肩を竦めてカップに口を付けながらベヒモスを見ると、ヤツは、物憂げな顔をして…って、カバはいつでも物憂げな顔をしてるから、実際はどんな感情を浮かべてるのかいまいち判らないんだけど。

『冗談でもやめとけ』

「傲慢が服を着てるアイツを好きになったりしないさ」

 なんだよ、神妙な顔して、冗談なのに。
 話の腰を折られたような気がしたから、俺が勝手にこの話を終了しようとしたのに、カバ面の悪魔はそれを許してはくれなかった。

『お前が軽い気持ちでレヴィの記憶云々を言うのは構わんが、悪魔は違う。執着もすれば、未練も残すんだ』

「…?」

『…』

 正直、ベヒモスが何を言いたいのか判らなかった。
 数千年も生きている悪魔の感情を、たかが17年かそこらしか生きていない俺に、どうして判るって言うんだよ。

『いずれ判るさ。レヴィがいったい何に、それだけ嫉妬して怒り狂っているのか』

 いずれ…本当に判るんだろうか。
 俺は掌の中で冷めてしまった茶を満たすカップを見下ろした。
 ゆらゆら揺れる琥珀色の液体に、捨てられた子供みたいに、不安そうな顔をした俺が揺らいでいた。