第二部 12  -悪魔の樹-

 俺がニヤニヤ笑いながら水桶を抱えて戻ると、灰色猫はあからさまにニヤニヤ笑いながら不気味そうな顔をしていた。
 なんだ、その面は。
 でも、今の俺はそんな灰色猫の態度だって許せちゃうぐらい寛大なんだぜ。
 へっへっへー

『気持ち悪い。不気味だ。ヘンだ。おかしい』

 そうはいかなかったのはベヒモスで、灰色猫ほど我慢強くないカバ野郎は、やわらかな草の上で寝そべっていたくせに、のそりと顔だけを起こして胡散臭そうに言いやがった。

「なんとでも言ってくれ♪」

 それでも上機嫌で桶から飲み水用に貯水している水瓶に、程よく冷えている、こんな魔界でマジかよと言わざるを得ないほど澄んだ清水をうつしていると、やれやれと身体を起こしたベヒモスが、やっぱり胡散臭そうな表情で俺を見ている。

『おおかた、小悪魔どもにはめられたか』

「…まぁ、それはそれでも許す」

 ヘッヘッヘ…と、笑いながらウィンクなんかしてやると、驚いたことに、あれほど物憂げな表情しか浮かべないはずなのに、ベヒモスは面食らったように小さな目を見開いた。
 カバ面にしては珍しいこともあるもんだと、俺の方が却って呆気に取られていたら、途端に、不機嫌そうにムッツリと黙り込んでしまう。どうも、カバはカバなりに考えているんだな。
 こう言うところは、本当に兄弟なんだなぁ…レヴィに良く似ていると思うよ。

『…レヴィか。そうか、アイツが何かしたんだろうな?』

「俺の喜ぶ理由なんかそれしかないだろ?」

『ふん』

 カバ面がもし人間だったとしたら、いや、人間みたいな顔立ちだったら、きっと唇を突き出してるんだろうなぁとか、そんな姿が想像できる表情を器用に浮かべて、ベヒモスは呆れたように鼻息で返事する。

『ご主人が記憶を取り戻した…?』

 いや、そんなまさか。
 灰色猫は端から信じちゃいないくせに、それでも、一抹の期待なんかして俺を見詰めてくるから、その疑わしそうな鼻先を指で弾いて両頬を引っ張ってやった。
 いや、そこまでやる必要はないと思うんだけど、なんかムカついた。

『ひひゃいよ、おにいひゃん』

「痛いように態とやってるんだ」

『そりゃ、痛い』

 ベヒモスがニコリともせずに言って、その腹が活火山の下で燻るマグマのように、ゴギュルワーッと奇妙な爆裂音を響かせてくれると、俺は暢気にくっちゃべってるヒマはないと判断した。
 ベヒモスの場合、レヴィと違って、スゲー大喰らいなんだ。
 オマケに腹を空かすと不機嫌…なんてものじゃないぐらい、地獄の悪魔そのものの形相で暴れる。
 ここら辺はさすが兄弟、良く似てるよな。
 レヴィが執着心で暴れるように、ベヒモスは食事への執着で暴れるんだけど、その部分がなかったら、お前ホントに悪魔かよってほど大人しい。大人しいせいか、この森に棲む動物たちは、大小の区別なくどれもベヒモスに絶対的な信頼を寄せているんだから、不思議だよな。
 悪魔なのにさ。
 でもこのカバの親分は肉や魚がまるでダメで、最初、それを知らなかった俺の料理を一口食って、いきなり、ホントにイキナリ、肉の塊を俺にプッと吹き飛ばしてきたんだ。
 そりゃ、ビックリしたのなんのって、続けざまに2、3個もプップッと飛ばされて、それで初めて、ベヒモスは肉が嫌いなんだと知ったし、同じ行為で魚も嫌いなんだと判った。
 完全な菜食主義者なんだぜ、信じられるかよ。
 でも、そんな目を丸くしている俺に、『お前は食っとけよ。人間は動物性たんぱく質も取らないと死ぬからな』と、至極真面目に言うもんだから、呆気に取られるよりも、思わず噴出したね。
 それに、ベヒモスの胃袋の謎だよな。
 この【混沌の森】に来てから、驚くことばっかりだよ。
 たとえば、ベヒモスは悪魔なのに穏やかで物憂げなカバだし、オマケにちんまりとした可愛い家に住んでいて、寝るのは外の草の上なんだぜ。それで、その胃袋はその巨体に似つかわしくなく、小さいんだ。
 成人男性の1日に摂取したほうがよい数値のカロリー分を1日3回口にする…大食らいのくせにそれだけで満足してるんだから、俺が驚いてもおかしくはないよな。
 大食らいってもっとたらふく食べるようなイメージだったんだけど…いや、3日分のカロリーを1日で摂取するってのは人間で考えればエライことだけど、巨体の悪魔がそれだけで大食らいって。
 しかもそれで、地獄の底から響いているんじゃないかと誰もが疑う派手な腹の虫も満足するんだから、ホント、悪魔ってのは名前だけなんだと思う。
 きっと、カバの進化系なんだよ、ベヒモスって。

『む、なんだその目付きは。何やら、オレを侮ってんなッ』

 何処からか、まるで魔法みたいに出してくる食材を使ってその日の食事の用意をするんだけど、今日は珍しく米なんか出してくれたから、俺特製のカレー(もちろん野菜たっぷり)を作ったんだけど、肉は食わないけど調味料としてはOKなベヒモスは嬉しそうに小さな目を細めていたんだけど、俺の思考をまるで読んだかのようにジロッと睨んできたんだ。

「侮る…ってまぁ、そうかもな。だって、ベヒモスって全然悪魔らしくないし」

『失敬なヤツだ』

 フンフンッと腹立たしそうに鼻から息を吐き出すくせに、それでも食べることは止めないベヒモスに灰色猫はニヤニヤ笑っている。

『ベヒモス様はさ、悪魔の中でも特別なお方なんだよ、お兄さん。最強と謳われるレヴィアタン様と対となられるお方なのだけど、凶暴性は全てご主人が取ってしまったんだろうね』

 俺特製のカレーにご満悦はベヒモスだけじゃなくて、灰色猫も、猫のくせに全く猫舌じゃなくて嬉しそうに頬張っていた。

『なんだ、その言われようは。オレが悪魔じゃおかしいってか?散々だ!』

 プリプリ腹を立てているのに、全く腹を立てているように見えない物憂げなカバの顔に、俺は思わず笑ってしまった。

『そもそも、俺が悪魔らしくないなんて戯言はどーでもいい。お前が機嫌よく帰って来たことの方が気になってるんだぜ?何があった。小悪魔の仕業か?』

 食卓を囲んでこんな言われようを聞くと、どうも、親父に詮索されてるみたいで嫌な気分になる。
 まぁ、目の前のカバの巨体を見なければ…ってのが絶対条件なんだけど。

『お兄さん、ここはベヒモス様の領域ではあるけど、小悪魔は狡賢い。気をお付け』

 スプーンを持ったままで心配そうに言われて、これじゃますます、なんだか家にいるみたいじゃないか。

「わ、判ってるよ。それに、アレが小悪魔の仕業がどうかは判らないけど。ただちょっと、その…」

 まさか言えるワケないよな。
 レヴィがキスしてくれたんだ…なんて、レヴィの兄弟にどんな面して言えるんだよ。
 心配性の灰色猫と同じぐらい、普段は気にしていても自由にさせてくれているこの心配性の悪魔は、本当はとても兄弟思いのいいヤツなんだと思う。
 レヴィが大事にしてくれていた俺の安否を、きっと心配してくれてるに違いない。
 アイツが記憶を取り戻すまで見守っていてくれるんだろう…だから、あの我侭し放題の最強の海の悪魔も、ベヒモスには一目置いて、よく懐いているんだろうなぁ。

『本当にレヴィか?』

 モゴモゴと煮え切らずに顔を真っ赤にしている俺を、暫く物憂げな小さい瞳で見詰めていたベヒモスは、やれやれと長いカバ面を左右に振って、鼻から息を吐き出しながら俺たちよりはかなりでかいスプーンでカレーを掬って口に運びながら呟いた。

『それなら、小悪魔の仕業ではないだろーな?』

『そうですねぇ。小悪魔如きでは大悪魔の姿を真似ることは不可能です』

 灰色猫が同意するように頷くと、得意そうにベヒモスが食後のコーヒーをカパッと開いた口に流し込んで、チラリと俺を見た。

『何をされた?その様子では乱暴されたワケではないようだが』

 その言い方はちょっと…っと、俺は耳まで赤くして見返したけど、よく考えたら乱暴ってのにもイロイロと意味があるワケで…う、そうすると俺、思い切り恥ずかしいこと考えたんじゃないか。

『煮詰まってるだろーからな。押し倒すぐらいはやらかすと思うが、レヴィの場合はそれじゃ抑えがきかん。となれば、一気に犯るのが礼儀だ』

 悪魔として、とベヒモスが尤もらしく言いやがるから、赤面して恥ずかしがっている俺の立場って…

『でも、その様子だとご主人に犯された…ってワケじゃなさそうだねぇ』

 灰色猫まで!

「な、何なんだよ、お前らは!」

 俺がキスでこれだけ舞い上がってるってのに、どれだけ邪なんだ、お前らは!
 …って、ああ、そうか。悪魔なんだし、これだって可愛い方か。

『なんだ、お前たち。まだ、光太郎に言ってなかったのか?』

 思い切りしょぼーんと肩を落とす俺を無視して話に花を咲かせようとしたベヒモスと灰色猫の会話に、張りのある、威風堂々とした声が割って入ったんだ。
 よく響く声は聞き覚えがある、ずっと待っていたその声は…

「ルシフェル!」

『なんだかな…ベヒモスに懐いちまってさー。飯か!飯で釣ったんだな』

 呆れたように溜め息を吐いたベヒモスにニヤニヤ笑っていた傲慢の権化のような悪魔、ルシフェルは綺麗な指先でカレーの残りを掬って口に運んだ。

『うん、旨い。やっぱ、光太郎のカレーは最高だな』

 エヘッと笑うルシフェルの、ジャラジャラと宝飾品が飾る胸元を思い切り締め上げた俺は、半泣きでガクガクと揺すってやったんだけど、やっぱ大悪魔様には全く効いちゃいない。

「お前なぁ~!!何処行ってたんだよ?!ずっと待ってたんだぞッ」

 出発だ出発!
 早く、早く魔の森に行かないとッ!

『いやぁ、悪い悪い』

 全く悪気なんかない顔でシレッと言いやがるクソ悪魔の掴みどころのなさに、ギリギリと歯噛みした俺が言葉も出せずに憤怒していると。

『悪かったって。ん?それとも何か、オレがいなくて寂しかったのか?それなら、そうってハッキリ言えよ。可愛いなぁ~、んー』

 憤懣遣るかたなくジリジリしてる俺の頬を、ひやりとする冷たい掌で包み込んだかと思うと、そのままうちゅっとキ、キスなんかしやがったんだ!

「~…!!んの、クソ悪魔ッ!!」

『なんつって。ん?でも待てよ』

 唇を離して悪態を吐くと同時に殴ろうとする俺を片手一本、いや、指先一本で封じやがってルシフェルのヤツは、唇をペロリと舐めて綺麗な柳眉を顰めたんだ。

『…なんだ、光太郎。レヴィとキスしたのか』

「ぎゃー!」

 胸倉を掴んだままで顔を真っ赤にする俺なんかお構いなく、絶世に美しさを誇る美貌の悪魔は大いに笑ってくれた。

『うははは。おっもしれーのな!顔が真っ赤だぞ、おい。この魔界で恥ずかしがるのって光太郎ぐらいなんじゃね?チョーうける』

「何処のギャル嬢だよ、お前わッッ」

 あまりに頭にきすぎたのか、怒りを通り越した俺がガックリと項垂れてしまうと、漸く満足したルシフェルはそんな俺をさっさと手放して、ベヒモスに言ったんだ。

『連中め、コソ~ッとあざといことしてたぜ』

『北の神々との聖戦でか?』

『ああ』

 長い髪を面倒臭そうにガシガシと掻きながら、ルシフェルは草臥れたように古めかしい木製のテーブルと対になっている木の椅子にどっかりと腰を下ろしてしまった。
 ハッとするほど綺麗な顔立ちには不似合いな口調だけど、頬に落ちた影が疲弊していることを物語るようで、俺はこの時になって初めて、ルシフェルがヘトヘトに疲れていることを知ったんだ。

『神々まで欺くなんてやることがきたねぇーんだよなぁ。だがまぁ、それも仕方ないのか。アイツらが崇める神はたった一人で、異国の神は滅んでしまえが信条だからな』

『…ふん。悪魔がこれほどいれば、神も同じだろうに。奴等の考えることはオレには判らん』

 ベヒモスとルシフェルの会話に聞き入ったままで口を開かない灰色猫は、やはり使い魔らしく、神妙な面持ちで高位の悪魔の一挙一動を見入っている。

『犯人が判ったぜ』

 ふと、唐突にルシフェルがニヤッと笑って俺を見た。

「え?」

 ドキッとして、胸の辺りをギュッと掴んだら、そんな俺をじっと見詰めていた傲慢な大悪魔は、鼻先で小さく笑って、妖艶で蠱惑的な口許を綻ばせたんだ。

『聞きたいって面だな。だが、お前が悪い。もっと早くオレとキスしてたらもっと早くに判ったんだぜ』

「はぁ?」

 何を言ってるんだと首を傾げると、ルシフェルはちょっと我に返ったような表情をした。

『あ、そーか。そう言えばキスしたな。でもオレ、頭にきてたから気付かなかったんだ。悪い』

 エヘッと笑うルシフェルの何が悪いのか、いや、問答無用でキスする癖は確かに極悪だけど、それでも全く話が見えない俺は眉根を寄せてジトッと見据えてやった。

「何を言ってるんだよ?ワケ判んねーんだけどさ」

『レヴィの記憶を奪ったヤツだよ』

 犯人?
 犯人って…

「だ、誰だよ!?ソイツはっっ」

 思わず身を乗り出すと、ルシフェルはクスクス笑って、俺のコーヒーカップを奪うと優雅に口なんかつけやがるから…何をもったいぶってるんだと瞬間湯沸し器みたいに頭から湯気が出そうになった。

『天使さ』

 唐突に答えをくれて、俺は一瞬呆気に取られてしまった。