第二部 13  -悪魔の樹-

「は?」

 いや、悪魔がこれだけわっさり居るんだから、天使がいてもおかしくはないんだけど…でも、どうして天使がレヴィの記憶を奪ったりしたんだ?

『性悪のミカエルってヤツがいてな。レヴィに惚れ抜いてるんだが、何処で噂を聞いたのか、アイツがお前にメロメロだってのを知ったらしく、怒り狂って何らかの方法で記憶を消した…ってのがだいたいの真相だ』

「は、はぁ?」

 コーヒーカップをテーブルのソーサーに戻して、ルシフェルはこの時初めて、眉根を寄せて心底嫌そうな顔をしたんだ。

『北の神々を騙して…おおかた、それだけが理由じゃないんだろうけど。それは、人間である光太郎には関係ないことだからヨシとして、神がミカエルを利用したってワケだ』

 この傲慢が服を着ているような悪魔が心底嫌がっているぐらいだから、その天使は本当にいい性格をしているんだろうなぁと思う。

「なんか、よく判らなくなってきた」

『それも仕方ない。人間には理解し難いことだ。ルシフェル、もっと判り易く話してやれよ』

 混乱している俺が頭でも抱えそうに見えたのか、ベヒモスは、ないくせに、肩なんかどこにもないくせに竦めるような仕種をして面長い顔を振ったんだ。
 頭の悪い人間で悪かったな。
 独りで腐ってると、ルシフェルは鼻にしわを寄せて真珠色の歯をむいた。
 まぁ、どんな顔でも様になるからいいんだけど。

『つまりだ、大天使ミカエルは利用されたんだよ。大方、神と呼ばれるヤツに命じられてレヴィの中のお前の記憶を消したんだろうな。アイツに大悪魔の記憶を消すような力はないしな。小憎らしい人間の記憶など消し去りたいミカエルにしてみれば渡りに船だったワケだ。だが…何故、神はよりによってレヴィが大事にしているお前の記憶を消させたんだろう?』

 唯一、その部分が判らないんだと、語尾はまるで独り言のように呟くルシフェルに、ベヒモスと灰色猫は顔を見合わせた。
 俺はと言うと、どんな顔をしたらいいのか判らなくて唇を尖らせるしかなかった。
 だいたい、そりゃな、確かに俺なんかよりも神々しいに決まっているミカエルのほうが、遥かに大悪魔のレヴィアタンにはお似合いだと思う。
 それでも。
 俺はキュッと唇を噛み締めた。
 だからと言って、勝手にアイツの中にある俺の記憶を消すってのは許せない。
 神だって…冗談じゃないとは思うけど、そんなヤツがいるんなら、どうして俺から大事なレヴィを奪おうとするんだよ。
 神様なんだろ?
 そんなの、人でなしだと思う。
 …あ、神なんだから人じゃないか。

『…何を考えてんのかだいたい判るけど、突っ込んでやんねーからな』

 俺の傍らの椅子に座って頬杖をついているルシフェル…悪友の篠沢は冷ややかな目付きで俺を見て、フンッと鼻先で笑いやがる。

『まぁ、何を考えてるのかなんてこた、闇に生きるオレたちには判らなくても当然だが、だからってオレたちの運命を勝手に弄られるのは気持ちのいいもんじゃねーよなぁ?』

 長くて綺麗な髪を掻き揚げるようにして不敵に笑うルシフェルに、ベヒモスは何を考えているのかよく判らない小さな瞳で大悪魔を見下ろした。

『気に食わんな。レヴィの記憶なんざどうでもいいが…悪かった。オレが悪かったからそんな目で睨むな』

 ベヒモスは胡乱な目付きでジトッと大きなカバ面を見上げる俺に、心底嫌そうに長い顔を左右に振って言ったんだ。

『なんだ、ベヒモス。アンタも光太郎には弱いんだな。レヴィと兄弟だ、嗜好が似てんのか?』

 呆れたようにニヤッと笑うルシフェルが言った言葉に、ベヒモスは更に嫌そうな顔をした。
 あんまり感情の読めない表情しか浮かべないベヒモスにしては、今日は比較的、ころころとよく感情が表に出てる方だと思う。
 …嫌な顔ってのには引っ掛かるけどな。

『神の介入は気に食わん。それを、恐らく北の神々は気付いていないのだろう』

 ベヒモスが呟くように言うと、ご名答とでも言うように、ルシフェルが疲れたように頷いた。
 ああ、そうだ。
 ルシフェルのヤツ、なんだか凄く草臥れてるみたいなんだよなぁ。
 どうしたんだ?

『それはとても気になりますね。灰色猫が、ちょっと探りに行ってきます』

 それまで黙って成り行きを見守っていた灰色猫が、スクッと立ち上がると、まるで滲むように揺らいだかと思うとボワンッとドライアイスみたいな煙を噴出させて、気付いたら灰色の小汚い猫がちまっと座っていた。

『ルシフェル様が動かれますと、四方の神々も黙ってはおられますまい。この灰色猫でしたら、幾らでも探れます』

『ああ、そうだな。行ってくれ。それでなくてもミカエルのヤツをひっ捕まえようとしたら、この様だ。北の神々には聖戦を吹っ掛けられるは、西の神々には説教喰らうわ。全くいいことがひとつもない』

 頷いた灰色猫がペコンッと頭を下げて風を切るような音を残してその場から消えると、憤懣遣るかたなさそうにせっかく綺麗な下唇を突き出して、忌々しそうにルシフェルのヤツは袖を捲り上げて腕を見せてきた。
 その思うよりもガッシリしている腕には鋭い爪で抉ったような傷跡が3本走っている。

「うわ、酷い…」

『酷いんだよ!あの野郎ども、容赦を知らねーからな!!背中にもあるんだぞ。聖戦で受けた聖痕はなかなか治らないんだ。仕方ないから湯治をしてたら、今度はレヴィのヤツが襲い掛かってきやがってッ』

「へ?レヴィが??」

 ポカンッとすると、ベヒモスはクックックッと声を出さずに笑って、お茶をパカッと開いた口に流し込んだ。

『お前を寄越せと言いやがったんだ』

「え?」

 ドキッと胸が高鳴って、期待なんかしてもダメだと判っているんだけど、それでもレヴィが俺を寄越せと言ったその真相を聞きたかった。
 また、傷付くのかもしれないけど、それでも、俺の心はレヴィの他愛ない言葉を求めているんだ。

『…なんだよ、嬉しそうな顔しやがってさ。ふん、ま、その顔を見れたんだ。入浴中に襲われた甲斐はあったってワケだ』

「う、ごめん」

 そうだ、喜んでばかりもいられないか。
 ルシフェルが草臥れた顔をしているのは、神様たちと戦ったからなんだ。
 あんな酷い傷を受けて養生してるところを、そんな理由で襲われたんだ。そりゃ、ルシフェルでなくても怒るよな。

『お前が謝るこたない。この恨みはレヴィの記憶が戻ってから、思う様晴らさせてもらうから気にするな』

 綺麗な顔でニッコリと笑うルシフェルは、笑ってるんだけど湯気が出るほど怒ってるのがよく判るから、悪いんだけど。ここはレヴィにその責任は取って貰うことにした。
 たぶん、仏頂面で風呂に入ってるところを、後ろから襲われたんだろうなぁ…ん?襲われた??

「…って、もしかして。殴られたとか??」

『斬りつけられたんだよ。殴るなんて可愛いことすると思うか、あの嫉妬深い悪魔が』

 どれだけ腹を立ててるのか、未知数の怒りは笑いしか生まないのか、額に血管を浮かべたルシフェルはアハハハッと笑ったけど、次いで、すぐに下唇を突き出して頬杖をついたんだ。

「いや、ホント、ごめん」

 なんか、誰か謝ってやらないと、ルシフェルが可哀想な気がしてきたぞ。

『それで?大方お前のことだ、もちろん反撃したんだろうな?』

 黙って聞いていたベヒモスがニヤニヤ笑って(いるように見える顔をして)そう言うと、ルシフェルはキッとそんなカバ面の悪魔を睨み付けると、当たり前だとでも言わんとばかりにフンッと鼻で息を吐き出して拳を握って見せたんだ。

『武器がなかったからな。仕方ないから殴り返してやって、ちゃんとやるかよと言ってやった』

 一瞬、ちょっとガックリしそうになったら、ルシフェルに胡乱な目付きで睨まれてしまった。

『記憶のないアイツのモノになって嬉しいのかよ。ああ、そーですか。じゃあ、今からでもくれてやるって言ってやるよ』

「いや、そんなつもりじゃ…」

 思わず言い訳する俺に、何をされても構わないんならオレは知らないからなと言う表情をされたら、流石にそれ以上は何も言えなくなってしまう。

『惨劇が見えるな』

 ボソッとベヒモスが言うと、バリバリと頭を掻いたルシフェルは苛々したように言い返す。

『そーだよ。湯治の泉を破壊する寸前で止められたんだッ。あの野郎、さっさと海に還りやがったから、そこでもまたオレが怒られたんだぞ。んで、後始末までする羽目になったんだ!!なんだよオレ、どれだけトバッチリ食うんだよッ』

「ルシフェル、ホント、ごめん」

 なんか、ホント、謝ってやらないと…

『謝るんならここに座れ』

 下唇を突き出すようにしてムッとしているルシフェルにキッと睨まれて、膝の上を指してそんなこと言われると…

「は?嫌だよ」

 思わず言ってしまうじゃないか。

『どれだけオレがお前たちのせいで…』

「う、はいはい」

 ベヒモスもいるから嫌だったんだけど、仕方ないから座ってやったら、ルシフェルのヤツは人の悪い笑みをニヤッと浮かべながら『そうじゃないだろ?普通座れって言ったら跨ぐんだよ』とか言いやがるから、できれば一発殴ってやりたいと思ったんだけど、でも、俺たちの為に尽力を尽くしてくれているコイツにそれはあんまりだと自分に言い聞かせて、嫌々向かい合うようにして座ると。

『はぁ、草臥れた』

 俺の両腕を掴むと、ギョッとする俺の胸元の辺りに額を摺り寄せるようにして長い溜め息を吐いたんだ。
 その姿は、どうやら本当に草臥れてるみたいだった。
 そうだよな、姿を消していた間ずっと、神様たちと戦ったり喧嘩したり、その権現であるはずのレヴィにまで襲われてたんだ、ルシフェルじゃなかったら草臥れすぎて死んでるんじゃないか。

「…大丈夫か?」

『大丈夫じゃねーよ!いいか、よく聞け。このオレ様が何が悲しくて北の神々と聖戦するわ西の神々に説教されるわ、ましてやクソレヴィなんかに襲われなきゃならなくなったと思うんだ?それもこれも全部!お前が悪いんだぞッ』

 キッと上目遣いで睨まれてしまって、そのせいもあるんだけど、その言葉の意味が判らなくてドキッとしてしまった。

「え?!」

 お、俺が悪いって…どう言うことだ??

『ったく、何にも知らねーんだから、人間ってのは』

 上目遣いで睨んでいた目線を、草臥れたように伏せて、ルシフェルは仕方なさそうに溜め息を吐いた。

『それでも、憎めないから見守るんだろうがよ』

 ベヒモスが我関せずだったくせにポツリと呟いて、沈下しないルシフェルの怒りに油を注ぐ。
 やめ、頼むから、ヘンなこと言って煽るなよ~

『あー、そーだよ!だいたい、隙がありすぎるんだ、お前には。誰にでもキスされやがって…だから、大事な記憶すら奪われてしまうんだ』

 指を突きつけるようにして悪態を吐くルシフェルに、キス…と聞いてレヴィを思い出して顔を赤らめはしたものの、ハッと目を見開いた。
 キスだって?

『心当たりがあるって面だな?』

 ベヒモスの問いかけに、無意識に頷いていた。

「まさか、あの時の…」

 隣町にある女子高の制服を着た、あの…

『思い出したか、バカめ。そーだよ、その女がミカエルだ』

 やれやれと溜め息を吐くルシフェルに、あんなキスのせいで大切なものを失くしてしまった俺は自分の不甲斐なさに唇を噛み締めて、ヘトヘトになるまで原因の究明に走り回ってくれた悪魔に素直に謝っていた。

「…ごめん」

『お、素直じゃん。人間はそうでないとな。ところでさ、知ってるか?』

「?」

 機嫌よくパッと表情を明るくしたルシフェルは、次いで、訝しそうに首を傾げる俺の顔を覗き込みながらニヤッと笑ったんだ。

『悪魔ってのは草臥れると、もの凄くセックスしたくなるんだぜ』

「なぬ!?」

 ギョッとして思わず浮き上がろうとする俺の腰をガッチリ掴んだルシフェルのヤツは、更に上機嫌そうにニヤニヤと笑いやがるんだ!

『ここに、ちょーど手頃な尻があるワケだ』

 腰を掴んでいた両手をそのまま僅かに浮いている尻にまわして、ギュッと掴まれたりするから俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ななな…何言ってるんだよ。おま、そんな面でそんなこと言ってくれるなよッ」

『どんな面で言おうがオレの勝手だ!…が、まぁね』

 ニヤッと笑っていたルシフェルはでも、尻を掴んでいた手を離して俺を抱き締めてきたんだ。

『今回は止めといてやる。レヴィの執着は嫌になるぐらいよく知ってるし。癇癪起こされてもたまったもんじゃねーからな。だから、今回はこうしてろ』

 そう言って、心底ヘトヘトなんだろう、俺の肩に頬を寄せるようにして凭れると、目蓋を閉じたんだ。

「…え?」

 呆気に取られてポカンとしたけど、ルシフェルはそのままの姿勢でもう一度言った。

『オレはメチャクチャ草臥れてるんだ。だから、このままこうしてろ』

「?…判った」

 長い溜め息を吐いて目蓋を閉じているルシフェルに肩を貸したまま、俺は優しい悪友の背中に腕を回して抱き締めたんだ。
 できれば、少しでも疲れを癒せたらとか、思うんだけど、人間の俺にはそんな特異な力とかないから、抱き締めるので精一杯だ。
 ありがとう、ルシフェル。
 口は悪いんだけど、本当は大悪魔のくせにいいヤツなんだよな、ルシフェルって。
 もし、レヴィより先にあっていたら、もしかしたら…今まで考えたこともなかったんだけど、俺はコイツのことを好きになってたんじゃないかなぁと思う。
 恥ずかしいし、すぐからかいやがるから、コイツには言ってやらないけどな。
 長い髪が柔らかな風に揺れて、スゥスゥと規則正しい寝息が聞こえてきた。
 余程草臥れていたんだろう、ルシフェルは眠ってしまったようだった。

『悪魔は情が深いんだ。だから、未練も残せば執着もする』

「え?」

『黙れ、ベヒモス』

 眠ってるとばかり思っていたルシフェルが目蓋を閉じたままで言うから、俺はギョッとしたんだけど、ベヒモスはクックックッと咽喉の奥で笑って、もうそれ以上は何も言わなかった。
 訝しがる俺を無視して、ルシフェルは今度こそ本当に眠り込んでしまった。
 静かな森に、漸く安息のひと時が訪れたんだ。