第二部 14  -悪魔の樹-

 暫く目を閉じていたルシフェルは、それでもすぐにパチッと目を覚まして身体を起こすと、うんざりしたようにブスッと膨れっ面をしたんだ。
 まぁ、どんな顔をしたって、魔界でも最強だと謳われる美貌に遜色はないんだけどさ。

『そーだ、忘れるところだった。南の神々にツラを貸せと言われていたんだっけ』

 溜め息を吐きながら俺を立ち上がらせた傲慢な大悪魔様は、それからやれやれと首を左右に振りながら自分も木製の椅子から重い腰を上げたんだ。

『南の神々…?』

 ふと、カバ面のベヒモスが訝しそう…に見える顔付きで問い返すと、ルシフェルは肩を竦めながら頷いた。

『レヴィの心の均衡の変化が、世界中に影響を及ぼしているんだ。真夏であるはずの日本列島が雨に濡れ、雨季に恵まれるインドが旱魃の被害にやられてる…となれば、神々も黙っているワケにはいかないんだろ』

 え?それはいったいどう言う…
 長らく向こうを留守にしているから、日本の状況とかまるで判らなかった。
 真夏なのに雨が降り続いてるのか?
 茜や父さんはどうしてるだろう…
 俺はドキリとする胸を押さえて、冷たい美貌のルシフェルの思い切りうんざりしている顔を見上げると、事の真意を見極めようとしたんだけど…俺なんかが何か判るはずもないんだよな。
 仕方なく、ベヒモスたちの会話にハラハラしながら耳を傾けているしかないってワケだ。

『…なるほど。とは言え、そもそもの事の発端は神と天使の責任じゃねーか。どうしてお前さんが呼ばれる羽目になったんだ』

『連中の常套手段は知ってるだろ?んで、悪魔が呼ばれるワケだが、レヴィに一番近い兄弟悪魔は混沌の森からお出ましにならない…となれば、そのトバッチリを受けるのは何時だってオレじゃねーか。今更だ、ベヒモス』

 肩を竦めるルシフェルの胡乱な目付きに睨まれたとしても、無害なカバの悪魔はケロッとしたモンで、暫く何事かを考えているように小さな目を細めていたんだけど、凄まじく嫌そうな顔付きをして吐き出すみたいに言った。

『なるほど。大方、神の御大将様はどこぞに雲隠れして、天使は自慢の魅力で逃げ切ったか』

『そーなんじゃねーのか?んで、引き篭もりの兄弟悪魔に代わって、なんでもこなす大親友の悪魔様がご指名されたってワケだ。面倒臭ぇ』 

 心底嫌そうに美麗な顔を顰めるルシフェルに、珍しくベヒモスは、申し訳なさそうな声音を出した。

『すまんな』

 その表情も、いつもは飄々としているってのに、何処か和らいでいるように見える。だからなのか、ルシフェルはそれ以上は悪態らしい悪態も、嫌味らしい嫌味も言わずに、どうでも良さそうな顔をしたんだ。

『その台詞は是非ともレヴィから聞きたいもんだな。全てが終わった暁には』

 ただ、そんな憎まれ口はついでのように言ったんだけどさ。

『あ、そーだ。光太郎』

「へ?」

 突然名前を呼ばれて、俺は間抜けな声で応じてしまったんだけど、ルシフェルのヤツはそんなこと気にも留めた様子もなく、ちょっとムスッとした顔で言ったんだ。

『オレか灰色猫が戻るまで、魔界から出ようとか思うなよ』

 思うなよ…ってなぁ。

「はぁ?何を言ってんだよ。俺が1人で魔界から出られるワケがないだろ」

 呆れたように眉を潜めたら、ルシフェルのヤツは『そうか、こう言う言い方もあるか』とかなんとか、ワケの判らないことを呟いた後、まぁ、どうでもいいんだけど…みたいな感じで頭を掻きながら言いやがるワケだ。

『じゃぁ、これならどうだ?オレか灰色猫が戻るまで、白い悪魔に近付こうとか思うなよ』

 絶対近付くだろうと確信を持った言い草で指なんかさされて言われちまうと、受けて立ちたい気分にはなるんだけど、見慣れた悪友の見慣れない表情には、満更、その忠告が冗談ではないことが良く判った。

「…どうして、レヴィに近付いたら悪いんだよ」

 それでも反発心がムクムクと沸き起こって…つーか、この森に棲み付いた白い蜥蜴に逢えないなんて、そりゃ、レヴィを愛してる俺には酷なことだと、ムッと下唇を突き出すようにしてルシフェルを睨んだら、ヤツはそれこそ、うんざりしたように顔を顰めやがったんだ。
 なんだよ、ベヒモスの時とえれー違いじゃねーか。

『あのなぁ…お前はこの全世界の情勢をまるで判っちゃいない人間だから仕方ないとしてもだ。アイツの心の均衡が世界を支えているんだ。今のアイツの心は、まるで波に揺れる木の葉みたいにちっぽけになっちまってんだよ。些細な波にも転覆しかねない…だから、神や天使に付け入る隙を与えるようなザマになるんだ』

 ルシフェルはそう言って、何処か悔しそうな顔をして目線を伏せてしまった。
 それは、旧知の仲だからこそ浮かべられる表情なんだろうけど…俺、こんな時なのに、まるでレヴィの癖が移っちまったみたいに、その、嫉妬なんかしてしまった。
 俺はレヴィのことを何も知らない。
 ルシフェルのように、アイツの何もかもを知っていることもないし、助けてやることもできないんだ。

『お前の存在がレヴィに影響を与えているのは嫌でも判る。これ以上続けば、レヴィも世界もどうなるか…』

「…俺の存在が全部ダメにしちまうんだな」

 ルシフェルの言葉尻に被せるようにして、俺はそう呟いていた。
 もうこれ以上、そんな話は聞きたくなかったし、その話を聞いてしまうと、こうしてここに居ることの意味がなくなってしまうんじゃないか…いや違う、こうしてここに居てしまったことで、世界がおかしくなって、何より、レヴィがおかしくなっていると認めてしまうことになるんじゃないかと、不安になったんだ。

『いや、そんなことはないんだ。オレが言いたいのは…』

「ごめん、ルシフェル。俺は、きっと自分のことしか考えていなかったんだ。レヴィのこととか、本当は何も考えてなかったんだ」

 唇を噛み締めたら、ルシフェルは一瞬遣る瀬無さそうな顔をしたんだけど、不意に腹立たしそうにムッとした顔をしやがった。

『ああ、そーだよ!全部お前が悪い。お前がレヴィを好きになったのが、そもそもの間違いなんだ』

『ルシフェル…』

 ベヒモスが何か言いたそうにその名を呼んでも、ルシフェルは聞く耳を持とうとは思ってもいないみたいだ。それどころか、俺の両腕を掴んで、そのあまりにも整っていて却って怖い綺麗な顔で睨み据えてくるんだから、普通の高校生で太刀打ちなんかできるはずがない。
 別に…甘い言葉が欲しかったワケじゃない。ただ、お前のせいではないよと、言って欲しかっただけなんだ。
 それも十分、甘ちゃんな考えか。

『千年以上の永い時間の中でずっと見守ってやってたのに、よりによって自分から災厄に近付くなんかどうかしてるんだよ!』

「ええ??」

 青褪めたままでルシフェルを見上げながらも、その言葉にギョッとする俺に、傲慢な大悪魔は、それからすぐに切なそうな顔をしてしまった。

『さっさと手に入れちまえば良かったんだ。でも、手に入れるとかそんなこと、どうでもいいほど、オレはこの魂が大事だったんだよ』

 誰に言うでもなく呟いたルシフェルの、その心の奥深いところでも見透かしてしまいそうな漆黒の双眸は、俺を通り越した何かを真摯に見詰めているみたいだった。

『灰色猫からレヴィの相手がお前だと教えられた時の、オレの動揺が判るかよ?愛だとかそんなモン、全部超越しちまった感情で、オレはお前を見守ってたんだぞ』

 話の成り行きがヘンな方向に進んでるのは俺にもよく判ったんだけど、その台詞を聞いて、俺は漸く、なぜルシフェルがあの高校に居たのか判ったような気がする。
 話し始めたのは灰色猫がお願いしたって言うあの時からなんだけど、それ以前から、ルシフェルである篠沢と俺は保育園からずっと一緒だったんだ。
 いつも同じクラスだったことも、今となっては不思議じゃなかったんだなと思う。
 何故だかずっと不思議に思っていたんだけど、篠沢とは随分前から知り合いのような気がして仕方なかったんだ。
 不思議だったんだよ、なぜ灰色猫がお願いする前からルシフェルともあろう大悪魔が、あんな普通の高校にいたのか。
 ああ、そうだったのか…ルシフェルは俺を見守ってくれていたのか。

「ルシフェル…」

 困惑したように眉を潜めたら、大悪魔は、その時になって漸くハッとしたように我に返ったみたいだった。
 それでも、もう口にしてしまったんだからと、どこか開き直ったヤケッパチの表情をしてフンッと鼻で息を吐き出しやがる。

『これで判ったかよ。オレ様の想いはレヴィのいる海よりも深くて、ベヒモスが総べる大地よりも寛大なんだぜ』

 それから、俺が嫌がることなんか百も承知で、ルシフェルは掴んでいた腕を引き寄せると、そのまま俺を抱き締めたんだ。

『だが、まぁね』

 例の調子でニヤッと笑っているんだろう、ルシフェルはフフンッとしたように言った。

『言っただろ?オレの想いは愛だとか恋だとか、そんなモンは遥かに凌駕しちまってるんだ。だから、お前がこのまま永遠でもレヴィと共に在るとしても、それはそれでいいんだぜ』

「…へ?」

 驚いたように抱きすくめられたままで眉を跳ね上げたら、ベヒモスのヤツがやれやれとでも言うようにカバ面を左右に振る気配がした。
 普通、悪魔は執念深いモンだと思う。
 特にこんな大悪魔なら、他の悪魔に取られるぐらいなら…って、俺を殺してもおかしくないんじゃないのか。だってさ、信じられないんだけど、ルシフェルのヤツは千年以上も前から、ずっと俺を見守っていたんだ。そんな執着心があるのに、どうして俺の心がレヴィに向かってしまっても許せるんだろう。

『じゃなかったらさ。オレ、お前が色んなヤツと恋をして愛し合ってる姿なんか見守っていられるかよ』

 ウハハハッと笑うルシフェルに、そう言われてみればそうだなと、単純に考えてしまったんだけどそれでも俺は釈然としないまま、大人しくルシフェルに抱き締められていた。
 なんだか判らないんだけど、レヴィのあの情熱的な抱擁とは違う、ルシフェルの腕にはホッと安心できる優しさがあるんだ。恋に狂うレヴィとの抱擁とは違って、近親者…親だとか兄弟だとか、そんなひとが寄せてくれる無償の愛のようなあたたかさがルシフェルの腕にはあるんだ…って、俺、何を思ってるんだろ。

『ただ、見守っていたかったんだ。あんまり純粋すぎて、綺麗な魂が消失するその瞬間まで、見ていたかったんだ。まさか、そんな純粋な魂がレヴィアタンと愛し合うなんか思ってもいなかったけどよ』

「俺は…純粋じゃねーよ」

 現に、ルシフェルに嫉妬もしたし、レヴィに関してはヤキモキのし通しなんだ。
 あの天使みたいに綺麗なヴィーニーにも、俺は醜い嫉妬をしていた。
 その思いが伝わったのか、俺を抱き締めたままでルシフェルのヤツはクスッと笑ったんだ。
 なんだ、そんなことかよ…と、その気配が物語っている。

『嫉妬はレヴィアタンの専売特許じゃねーか。一緒にいて、そんな気になっただけさ…なんつってな。人間なんだ、嫉妬もすれば憎むことだってある。純粋ってのは、そんなんじゃねーんだよ。でもまぁ、人間であるお前は知らなくてもいいんだけどな』

 俺から身体を離したルシフェルは、まるで慈しむような、そんなツラでずっと、俺を見守ってくれていたんだなぁ…と思うと、胸の奥深いところが温かくなるような気がした。

『レヴィの愛でもっと大きくなれよ。でも、今はまだダメだ。お前を受け止めるには、アイツは何も理解していないからな。だから、オレは南の神々の許に話し合いに行くんだ。ベヒモス!』

 俺から身体を完全に離してしまったルシフェルは、そう言ってからカバ面で暢気にお座りをしているベヒモスに声を掛けた。
 カバ面の悪魔は『なんだよ』とでも言いたそうに、そんな傲慢が服を着ているはずの大悪魔を見遣るんだ。

『ここらに結界でも何でも張って、白い蜥蜴を追い出しちまえ』

 ニヤッと笑うルシフェルに、ベヒモスは肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 そんな態度に、『ま、好きにするといいさ』とでも思っているんだろう、ルシフェルはニヤニヤ笑ったままでウィンクなんかすると、俺たちに向かって『アディオス!』と投げキスなんかして、そのまま空間に滲むようにして、溶け込むように姿を消してしまったんだ。
 その姿を見送って、取り残されたようにポツンッと突っ立っている俺に、盛大な溜め息を吐いたベヒモスが物静かに声を掛けてきた。

『…そんなワケだが。結界でも張るか?』

「そんなの、俺には判らないよ。でもさ、レヴィの心の均衡が世界を支えてるんだっけ?だったらさ、ここから追い出しちまったほうがヤバイんじゃねーのか?」

『ご名答』

 判りきってたんだろうな、ベヒモスのヤツはそう言うと、大きな口をパカッと開いて…どうやら欠伸をしやがったらしい。

『じゃあ、オレは寝るからよ。お前は好きにしてればいい』

 それは暗にレヴィに逢えと言ってるんだろうか…あれほど、ルシフェルが止めたのに?
 ま、そんなワケないよな、と自分に言い聞かせていたら、ゴロンッと横になったベヒモスが閉じていた片目をちょこっと開けて、ジロリと俺を見たんだ。

『悪魔と言ってもレヴィは母なる海を司る神の成れの果てなんだ。アイツが暴れれば天変地異が起こる。お前が傍にいる間はそんなこた起こらなかった。今、お前は何処に居るんだ?』

 こんな所に居て、何をしてる?…と、その胡乱な小さな目は物語っている。
 だからと言って、今の現状を聞いてしまった俺に、いったい何ができるって言うんだ。
 グズグズしてしまう俺に、目蓋を閉じてしまったカバは、それでもポツポツと話し始めたんだ。

『ルシフェルのヤツが秘密を打ち明けたからなぁ…ここらでオレもひとつ、レヴィの秘密…と言うほどのモノでもねーんだが。ヤツの嫉妬深さについて話してやろう』

「本当か?」

 レヴィについてなら、何でも知りたい。
 数千年以上生きているレヴィの全てを知るには、俺には時間が足らないだろうけど…それでも、レヴィのことは知っておきたいんだ。

『生れ落ちたオレたち兄弟は大地を任せられることになったんだが、2人の巨体では大地が海に沈むと考えた神々が、オレたちを大地と海に分けたんだ。レヴィはてっきり自分が大地を受け継ぐものだとばかり思っていたからな、海を任された時は酷く驚いてそして激怒したよ。暴れて暴れて、一週間も暴れたが、その決定は覆されることはなかった。それからだな、レヴィの嫉妬心が強くなったのは』

「レヴィは…どうしてそんなに大地を欲しがったんだろう」

 首を傾げると、ベヒモスは口許の端を捲るようにしてフフフッと笑ったみたいだった。

『自分が望むものは全て他の悪魔が手にしてしまったんだ。大悪魔にとっては最大の屈辱だったんだろう。だから、アイツは今でも嫉妬心の塊さ』

「んー…答えになってないよ、ベヒモス。どうして、レヴィは大地を欲しがったんだ?」

 ゴロリと寝返りを打つカバの巨体を見詰めていたら、大地にそれほど執着も見せていないようなベヒモスは、丸くて平らな手(?)で尻の辺りを掻いている。

『レヴィは誰よりも執着心が強いヤツでな。生れ落ちた大地をこよなく愛していたんだ。どうして、ベヒモスは大地に残るのに、自分は海に追いやられるんだと。その嫉妬の始まりはオレだったんだろう』

 愛しい兄弟だけど、その兄弟に一番嫉妬してるってワケか。
 だから、他の兄弟は7つの大罪にその名を挙げられなかったのに、よりによってレヴィだけが挙げられる羽目になったのは、そんな理由だったのか。
 馬鹿だよなぁ、レヴィは。

「俺にはよく判らないけど、俺は海も好きだけどな」

『人間は海が好きだな。みんなそうだ。今ではもう、レヴィも諦めてしまってはいるけれど、それでも、時々は嫉妬しに来るんだ』

 そう言って、ベヒモスは愉快そうに笑うんだ。

「悪魔って単純じゃないんだなぁ。もっとさ、臨機応変さを持てばいいのに」

 俺が溜め息を吐きながら木製の椅子に腰掛けて頬杖をつくと、カバ面の悪魔は身体を揺すって笑っていたくせに、いきなり鼾なんか掻きやがるから…この寝つきの良さはレヴィに通じるものがあるから、やっぱりコイツ等は兄弟なんだなと思ってしまう。

『まぁ、レヴィに嫉妬心があったおかげで、お前たち人間が住む世界ができたと言っても過言じゃねーんだけどよ』

「へ?」

 眠ってるものだとばかり思っていたベヒモスの台詞に、ギョッとした俺が間抜けな声を出すと、カバの悪魔は横になったままで言うんだ。

『アイツが7日間暴れたおかげで、お前たちの住んでいるあの世界は天変地異のオンパレードになって、生き物の住める環境ができたんだぜ。俗に言う創世記ってヤツさ』

 そんなことを言ってから、『なんつってな』と笑うベヒモスの態度に、どこまでが本当なんだか疑っちまっても仕方ないと思うぞ。
 ったく、これだから悪魔は信用できないとか言われるんだよ、俺たち人間に。
 まぁ、ベヒモスにとってはそんなことすらどうでもいいことなんだろうけどな。
 俺は溜め息を吐いて、曲がりくねった奇妙な枝が重なり合うようにして腕を広げる空を見上げた。
 答えなんか何処にもないんだけど、何かを求めるようにして見上げた空には、珍しい鳥が一声鳴いて、何処か遠くに飛んで行ってしまった。