第二部 15  -悪魔の樹-

 ルシフェルがいなくなってから静まり返った森は、それでも、水汲みの度にレヴィに逢っている俺を嘲笑うかのように、淡々とした時の流れの中で穏やかだった。
 ベヒモスは何時ものカバに戻って俺の相手なんかしようともしないし、気付けばゴロリと寝ている始末だ。
 俺は途方に暮れたようにデカいカバの魔物の背中を見ていたけど、どちらにしても毎日の日課になっている今日の分の水を汲みにいかなければならない。その道すがらで、あの白い蜥蜴に逢うんだ。それはそれで、望むところだとか思うから、ルシフェルに睨まれるんだろうなぁ。
 どっかで『あの野郎…』って言ってそうな姿が想像できて、俺は思わず首を竦めたくなった。
 でも、ベヒモスはレヴィに逢うべきだって言うんだ。
 アイツはもう、俺のレヴィじゃなくて、底意地の悪い海の魔物レヴィアタンだって言うのに、それでも、ベヒモスはそうして俺がレヴィアタンにコッソリ逢っていることを快く思っているみたいで、却ってこっぱずかしくなるのは仕方ない。
 結局、意志薄弱の俺はソワソワしたように水桶を引っ掴むと、水辺の木の枝で微睡む白い蜥蜴に逢いたくて歩き出していた。
 そんな後ろ姿を、ゴロリと寝返りを打った巨体のカバは、何を考えているのか相変わらず判らない小さな目をして見送ってくれた。
 何時の間にか、すっかりこの世界…ベヒモスたちは魔界って言ってるこの空間の生活にも馴染んじまって、俺、ちゃんと日本に戻ったら普通の生活ができるかな?
 一抹の不安もあるんだけど、それ以上に、夏休みを完全に放棄している俺の安否を、やっぱり茜も父さんも心配しているに違いない。
 …俺、こんな性格じゃなかったのに。
 亡くなる前に母さんに頼まれたから、俺にとっては家族が第一で、自分の楽しみとか何時も後回しにしていて、茜のことばかり思い遣っていたってのに…俺は今、レヴィの記憶を取り戻したいばかりに、こんな遠いところまで来てしまった。
 茜たち、ちゃんと飯とか食ってるかな?父さんはちゃんと靴下を見つけてるか…ああ、思い出したら心配が止まらなくなる。
 アイツら、俺がいないと何にもできないからなぁ…
 はぁ、と溜め息を吐いていたら、ふと頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。

『今日は浮かない顔だな』

 気付いたら何時もの小川に来ていて、やっぱり何時ものところで長くなっている白蜥蜴は、暢気なツラして俺を見下ろしている。
 大きな瞳が憎めないんだけど、全部お前のせいなんだからな。
 いや、全部ってのは語弊があるな、そもそも俺があの女子とキスとかしたから、こんな結果になったワケで…って、落ち込んでどーする、俺!
 いや、やっぱり全部、レヴィが悪い。
 ちゃんと俺のこと、覚えてさえいれば全てがうまくいったのに…違う、こんなに、心が壊れてしまいそうなほど悲しくなんかならなかったのに。
 俺は、お前が居るだけで幸せだったんだから…

『…?』

 ちょっとギョッとしたような顔をする白蜥蜴に、そんなに悲しそうな顔をしていたのかと気付いたら、急に恥ずかしくなって、今は俺のことなんかこれっぽっちも知らない大悪魔からフイッと目線を逸らしてしまった。
 ムッと引き結んだ口許を綻ばす気にもなれなくて、俺はその場に膝をつくと、無言のままで木桶を冷たい水に浸していた。
 1日に何度か逢う白蜥蜴を、最近は無視することもなかったんだけど、あんなことがあったからとか、そんなワケじゃなくて、何となく口を開きたくなくて黙り込んでいたら…

「?!」

 不意に背後から伸びてきたガッチリと逞しい二の腕に抱き締められて、俺は何が起こったのかと目を白黒させて、ムッとする桃のような甘い香りに包まれていた。

『無視するなどいい度胸じゃねーか…何があったんだ?』

 何もかも知り尽くしているようなツラしてさ、一番肝心なことはスッカリ忘れてやがるくせに、何を偉そうに言ってるんだよ。

「なんでもないし、お前には関係ない」

 慌てて腕から逃れようとしたけど、俺を抱き締める腕の力強さは知っているから、諦めたみたいに抵抗するのをやめて吐き捨てたら、何時だってカッと頭に血を昇らせるくせに、レヴィアタンは何かを考えているような気配を漂わせていた。
 いいから、早く離して欲しい。
 じゃないと…俺は…この腕に縋り付いて泣いてしまいそうだ。

『関係ない…ね。お前になくてもオレにはある』

「はぁ?…ッ」

 胡乱な目付きで振り向こうとした矢先、不意に覆い被さるようにして覗き込んでいた白い悪魔は、問答無用で俺に口付けてきた。
 舌を絡めあって求め合うような濃厚な口付けは、忘れていた官能を刺激して、俺の身体はビクンッと震えてしまった。忘れていたワケじゃない、考えないようにしていたんだ。
 身体を辿る指先も、俺を酔わせる激しくて優しい舌も、愛しいと身体に残していくあの唇の感触も…何もかも、レヴィが俺に焼き付けた痕跡。忘れたくても、忘れられるはずがない。
 でも、そうして俺の身体の隅々にまで自分の存在を刻んで覚えさせたくせに、当の本人であるレヴィ自身が忘れてるんだから、笑うってよりもいっそ、泣きたくなるよな。
 愛しくて…思わず抱き締めてくる腕に縋りつきそうになった俺は、乱暴なくせに知り尽くしたキスをするレヴィに一瞬だけ流されそうになったんだけど、それでもギュッと目蓋を閉じて弱気になる意志に叱咤すると、掴んだ腕を振り払っていた。

「…ッめろよ!何すんだ?!」

『…』

 そんな態度を取られるとも思っていなかったのか、完全に油断していたレヴィアタンの腕から逃げ出した俺が荒く息を吐いて濡れた口許を片手で拭いながらキッと睨んだら、大悪魔は一瞬、ちょっとポカンッとしたように俺を見た。
 そんな目付きをして、それから徐に、それまで俺の顎を捕らえていたはずの掌を見下ろしたんだ。
 暫くそうしていたくせに、不意にレヴィアタンは、ムッとしたように顔を顰めやがった。

『オレに逆らうのか?』

「お前はもう、俺のご主人様じゃない。俺のご主人は…ベヒモスだ」

 間髪入れずにこの理不尽野郎に悪態を吐いてやるつもりだったのに、ふと、俺の語尾は頼りなく小さくなっちまった。
 最初にキスをしてから、レヴィアタンは少し変わったような気がする。
 ジッと俺を見ているかと思ったら、今みたいに戯れに口付けてくる。そのキスに、ついつい俺は何もかも許してしまって、甘い桃のような匂いに包まれて幸福を感じていた。
 抱き締めてくるレヴィの背中に腕を回すと、その実感が幸せだった。
 キスをせずに抱き締めるだけの時もあって、その時はほんのちょっぴりなんだけど、レヴィアタンも機嫌が良さそうに笑って俺の頬に頬を摺り寄せてきた。
 嗅ぎ慣れた甘い匂いが嬉しくて、俺はレヴィアタンに思い切り抱き付いていた。
 だからこそ、レヴィアタンは今回の俺の態度に驚いたし、ムカついたんだろう。
 レヴィとは違う甘くて優しい時間に溺れてしまえたら、俺はもっと、違った意味でも諦めることができて、このレヴィアタンでもいいと思ったに違いない。
 でも、駄目なんだ。
 お前には何も判らないだろうな。
 俺にとって、どれほどレヴィが大事で、ささやかな幸せだったかってこと。

『なるほどね。ルシフェルの気配がしたからな…お前の主人はベヒモスじゃない。ルゥなんだろ!』

 イラッとしているのは、その冷やかな無表情からでも読み取れた。
 レヴィアタンは本気で怒ると、まるでスッと仮面でもつけたような無表情になるんだ。
 何故か、レヴィアタンはルシフェルのことになると完全に腹を立てるんだよな。あの完璧な悪友が、俺なんかに夢中になっている…と、レヴィアタンのヤツは本気で思い込んでるんだ!
 それが、許せないんだろう。
 拙い、また向こうの世界に影響が出る。
 駄目なんだって判ってるんだけど、だからって、俺はどうしても今、レヴィアタンのご機嫌
取りとかできる心境じゃない。

「ルシフェルじゃないし、ベヒモスでもない。俺には心に決めてるヤツがいるんだ。ソイツに逢いたくて逢いたくて…ここに来たんだよ」

 本当は、こんな話はするべきじゃないんだってこと、俺はよく判っているつもりだ。
 でも、どうしても、聞いて欲しかったんだ。
 心から、お前のこと大好きだよってさ。

『…へえ?アスタロトか?!』

 思わずブッと噴出しそうになった俺は、そう言えばそんなヤツもいたっけなぁと、そんな薄情なことを考えながらちょっと苦笑して、レヴィアタンを上目遣いに見詰めながら首を左右に振った。
 いるんだけどなぁ、目の前に。

『違うのか?どんなヤツだ、お前が心に決めた悪魔と言うのは』

「それは…」

 お前だよ!…って言えたら楽なのに。
 こんなこと考えてるから、ルシフェルにレヴィに逢うなって言われたんだろうなぁ。
 海の魔物レヴィアタンの心の均衡は世界を支配しているから…

『オレは大悪魔だ。知らない悪魔はいねーんだよ。名前を言え。魔界なんかに人間を捨て去ったヤツのツラを拝んでやる』

 馬鹿にしたように鼻先で笑うレヴィアタンに、俺は何も言えずに、ただヒッソリと苦笑してるしかない。
 だって、言えるわけないよな。
 その豪語してる大悪魔さまだよ、なんてさ。

『…お前を捨てた悪魔に取り成してやってもいいんだぞ?大概の悪魔はオレを無視できねーからな』

 フンッと鼻を鳴らしながらも、やたら食い下がるレヴィアタンの魂胆なんか、本当は見え見えなんだよ。
 そうやって俺が信用して教えたら、その悪魔に何か悪さでもするんだろ?

「いいんだ。何らかの事情で、ソイツは俺を迎えに来れないんだよ。だったら、この場所でソイツを待ち続けるのが、俺の愛だ」

 冗談のつもりで、いや、半分以上は本気でそんな恥ずかしい台詞を笑いながら言ったのに、ふと、レヴィアタンの額にビシッと血管が浮いたみたいだった。
 表情こそ変わらないってのにさ、何が気に障ったのか、レヴィアタンは無表情のままで怒っているんだ。 

『…人間の分際で、大した口をきくじゃないか。捨てた悪魔を待ち続けるのか?』

「捨てられた…とは限らないだろ?何か事情があるんだよ、たとえば…たとえば、記憶をなくしてしまったとか…」

 万感の思いで口にした途端、レヴィアタンは酷く腹立たしそうに腕を組むと、馬鹿にした
感じで顎を上げて俺を目線だけで見下ろしてきやがった。

『悪魔は薄情で嘘吐きなんだよ。んな事情なんかあるかよ。お前はソイツに捨てられたんだ。ノコノコと魔界まで来て性奴隷になった人間を、いいザマだって笑ってるに決まってんだろ…ッ!』

 そこまで言って、それは聞き慣れた悪態だったけど、俺の心臓は貫かれたように痛んだ、だからレヴィアタンは、涙を零した俺にギョッとして語尾を引っ込めたんだと思う。
 俺は馬鹿なんだ。
 これはレヴィじゃない、レヴィが言ったワケじゃないって判ってるのに、レヴィの声でそんなことを言われてしまったから、まるでそう思ってるんだと言われたみたいで心臓が握り潰されたように痛かった。
 レヴィを疑ったことなんかこれっぽっちもないけど、悪魔の言葉は冷たすぎるよ。

『な、泣くほどのことか?おい、泣くな!泣くなってッ』

 ポロポロ、ポロポロ…頬に零れ落ちる涙の雫をとめることなんかできそうもないから、俺が諦めたように唇を噛んで俯くと、焦れたような、焦ったようなレヴィアタンが腕を掴んで、それから、何を思ったのかいきなり抱き締めてきたんだ。
 愛しいあの甘い匂いに包まれながら、それでも突き付けられた現実はあまりにも残酷で、この腕ですらレヴィではないんだと思ったら悲しくて居た堪れなくて、もう放っておいてくれ。

「わ…かってる、俺が馬鹿だから…ずっと、信じて…それだってもう、どうでもいいのに。放してくれ、もう放っておいてくれ!気紛れに俺の相手なんかするなよッ!」

 思い切りレヴィアタンの身体をドンッと突き放して、俺はボロボロ涙を零しながらそう叫ぶと、そのまま森の中に向かって走り出していた。
 振り返れば大好きなレヴィの面差しを持つ白い悪魔がいて、どんな思い付きの悪戯だったのか、少しでも優しいふりをしてくれる。でもそれは、冷酷な悪魔が見せる残酷な幻にすぎないってこと、ちゃんと俺は知っているんだ。
 レヴィじゃないのに、どうして俺、レヴィアタンに期待なんかしてしまったんだろう。
 同じ顔で、同じ双眸をして、紡ぎ出す言葉は全く違う悪態ばかりで…恋しい、レヴィが凄く恋しいよ。
 俺はもう、どうにかなってしまいそうだ。
 逃げるようにして走り込んだ森の中で、俺は泣きながらトボトボと歩いていた。
 そんな俺の行く手を遮っている捻じ曲がった歪な枝たちは、申し訳なさそうなほどひっそりと離れていって、道を空けてくれていた。
 有難うと呟こうとした瞬間、まるで突風に攫われるような錯覚を感じるほど唐突に、激しい何かに抱き竦められて、アッと言う間に空の高いところまで連れ去られてしまった。
 思わず泣いていたのも忘れるぐらい驚愕に呆気に取られている俺の耳元に、憤懣遣るかたないとでも言いたそうな、怒気を孕んだ声が聞こえた。

『オレが、何時、何処でお前の相手をしようと、オレの勝手だ。人間如きが指図するんじゃねぇーよッ』

 それがどれほど理不尽なことなのか理解しようともしないから、だから、大悪魔のクセに7つの大罪に入れられちまうんだよ。
 レヴィアタンには心ってモノが理解できないんだ。

「あー、そーだよ!俺はただの人間だ。何処にでもいる、平凡な人間だよッ。そんなの、お前に言われなくても判ってる。特別なんて思ってない、だから、愛されなくても仕方ないんだ…」

 寒さを感じさせない外套にスッポリと俺を包み込んでいるその宝飾品がジャラジャラと飾り立てている胸元を、駄々を捏ねる子供みたいに拳で殴っても、レヴィアタンには蚊が止まったほどにも、痛みなんて感じてないだろう。それでも、ここから落ちて死んだって構うもんかとか、半ばヤケッパチに叫んで泣きながら暴れる俺を、大悪魔様はどんな顔で見てるんだろう…と、チラッと考えていたら、片手で抱き締めるようにして俺の動きを封じ込めたまま、もう片方の手で俺の顎を引っ掴んで上向かせやがった。
 自分の顔を見ろ、とでも言わんとばかりの態度に、俺の中の反発心がムクリと起き上がって、知らず、薄情な悪魔を睨んでいた。

「・・・ッ!」

『そんなにその悪魔を愛していたのか?ソイツこそ、戯れに、気紛れにお前の相手をしただけじゃねーか!オレは違うッ』

 そう言ってレヴィアタンは、ハッと息を呑むような顔をした。
 涙腺が壊れちまって、ボロボロ泣いている俺は、その言葉に一瞬胸の奥は熱くなったけど、でも、もう都合のいい幻聴とか聞きたくないんだと、首を左右に振って目蓋を閉じてしまった。

『…そうだ、オレは違う。どうして、そんな簡単なことに気付かなかったんだ』

 独り言みたいに呟いて、レヴィアタンはニッと、満足したように笑ったみたいだった。
 掴んだ手で俯きそうになる俺の顔を上げて、目蓋を閉じたまま泣いている頬に口付けて、目蓋にキスして、それからまるで、震えるようにレヴィアタンは俺の唇に口唇を重ねてきた。
 涙でしょっぱいキスは、この魔界に来て初めて、俺に本当のあたたかさをくれた。
 そのキスだけで、俺はもう、縋るようにして心の奥に大切に仕舞っていた想いを捨て去る決心ができた。
 俺はレヴィを…もう、諦めよう。 
 もう、ここにも、何処にもレヴィはいないんだ。
 長い時間を待ち続けても、レヴィアタンは思い出すこともなければ、解決の糸口なんかこれっぽっちも見付からなかった。あの魔女の話は、落ち込む俺を見兼ねたルシフェルの、優しい嘘だったに違いない。
 そうじゃなければ、どうして、何時まで経っても魔の森に赴こうとしないんだ。
 それが判って、そして、レヴィアタンの態度に傷付いて、もう、俺の心はヘトヘトで疲れ切ってしまってるんだ。
 このキスが最後だ。
 心から愛して、大好きな悪魔であるはずの、知らない悪魔の…さよならのキス。
 俺はレヴィアタンに抱き竦められて、口付けを受け入れながら、その事実に眩暈を覚え、そうして受け入れるしかないと諦めてしまった。