第二部 16  -悪魔の樹-

 急に無口になって俯いてしまった俺に焦れたのか、レヴィアタンは暫く無言で俺を見下ろしていたけど、苛々したように『チッ』と舌打ちしたみたいだった。

『…そんな悪魔のことは忘れてしまえばいい』

 忌々しそうにポツリと呟いたレヴィアタンの顔を見上げて、その時になって漸く、俺は海の大悪魔が悲しそうな表情をしているのに気付いたんだ。てっきり、不機嫌そうにイラついた、何時ものあの表情だとばかり思っていたから、却って吃驚してしまった。
 その表情は、とてもレヴィに良く似ていて、だから、忘れようとする俺の心が揺らいでしまう。

「ああ、もう忘れようと決心したよ。だから、俺は元の世界に戻る」

 決意を秘めてそう言ったつもりだったのに、未練がましい俺の心が本人の気持ちを無視
して、涙腺を弱くしてしまうから…ポロッと頬に涙が零れてしまった。
 レヴィアタンはソッと真っ白の眉を顰めて、俺の頬に零れ落ちた涙を指先で掬った。

『中間地に戻るのか?』

 俺たちが住んでいる世界をここでは【中間地】と言うのなら、俺はそうだと頷いて、この網膜に確りと忘れなければならない大悪魔の顔を刻み込むつもりで見詰めていた。
 もう二度と、俺がこの大悪魔に出逢うことはないだろうし、愛した優しいあの白い悪魔に回り逢うこともないんだろうなぁ…何時か、そんなことはないかもしれないし、その時の俺はもう、今の俺ではないんだけど、いつか、俺が生まれ変わって、もう一度レヴィに出逢えることがあるのなら、今度こそ、俺はこの愛しい温もりを手離したりなんかしない。
 ジャラジャラと胸元を飾る宝飾品を避けるようにして、俺はレヴィアタンの胸元をギュッと掴んでいた。
 さようなら…口にすれば簡単な5文字の言葉なのに、どうして、強張ったみたいに口が開かないんだろう。
 心が拒絶するんだろう…

『そうか…お前は面白い人間だった。オレが中間地まで連れて行ってやるよ』

 そう言って、レヴィアタンは俺をギュッと抱き締めて、天高く舞い上がろうとするから、俺は苦笑しながら最後の悪態を吐いてやった。

「断る。どーせ、また嘘なんだろ?俺、ベヒモスに戻してもらうからいいよ」

『…悪魔は薄情で嘘吐きだが、今度は本気だ。オレだって、そんなに薄情ばかりじゃないんだぜ?』

 レヴィアタンは、ここに来て初めて、俺に向かって静かに笑った。
 どの顔も、本当は悪魔なんだから信じられない、胡散臭さがあるんだけど、それでも、これで最後なんだから、もう一度ぐらいは騙されてやってもいい…とか思うから、ルシフェルから悪魔に骨までしゃぶられるんだと悪態を吐かれるのかもな。
 それでも、俺は…もう少し、この大悪魔の傍にいたかったんだ。
 プッと笑って、俺は目蓋を閉じると、レヴィアタンの胸元に頬を寄せて、その逞しい背中に両腕を回して、何処へでも連れて行けと態度で応えることにした。
 レヴィと一緒なら、何処へだって行けると、信じていたあの頃のように。
 俺は、この嘘吐きで薄情な…懐かしい、あの甘い香りで包んでくれる、この大悪魔とも何処へでも行ってやろうと思ったんだ。
 俺の意思を間違えることなく受け止めたレヴィアタンは、縋るように抱きついている俺の身体をギュッと抱き締めて、天高く舞い上がり、眩暈のする速度で俺の知らない場所まで飛んで行った。

 寒さこそ感じなかったものの、重力は感じていたから、ジェットコースターか何かに乗った後のようにフラフラする頭が漸くスッキリしてきたころ、レヴィアタンはゆっくりと着地したみたいだった。
 ギュッと閉じていた目蓋を開いて目を開けたら、そこは、一面に真っ白な花が咲いた小高い丘のようなところで、ああ…俺、とうとう天国まで来てしまったのかと思ったぐらいだ。

『ここは魔界と天界との間の場所だ』

「…げ。それが中間地なら、俺の住んでいる場所とは違う…って、お前、また騙したな」

 ハッとして胡乱な目付きで白い悪魔を見上げると、ヤツはフンッと鼻を鳴らしたけど、すぐにニヤッと笑って不貞腐れている俺の顔を覗き込んできやがったんだ。

『騙してなんかないぜ?ちゃんと、中間地に連れて行ってやるって言っただろ?』

 それはそうだけど…俺は溜め息を吐いて、それから抱き締める腕の力を緩めたレヴィアタンから身体を離しながら、やわらかい、優しい甘い匂いのする花が咲き乱れる一面の白を見渡してみた。
 その甘い匂いは桃のような、レヴィの匂いに良く似ていて、ここで一生を過ごしても悪くないなぁ…なんて、恐ろしいことを考えてしまった俺はハッとして、慌てて頭を左右に振っていた。
 それでも、一面の白は、傍らに腕を組んだ姿勢で肩を並べる漆黒の衣装の白い悪魔を想起させるから、こんな場所でレヴィの記憶だけを宝物にして生きていけたら、それはそれで幸せだろうなと考えた。

「ま、いーや。ここは綺麗だし、懐かしい匂いがするから、迎えが来るまでここにいるよ。レヴィアタン、有難う」

 双眸を細めて同じように一面の白を見渡していたレヴィアタンは、途端にムッとした顔をしてそんな俺を見下ろしてきたから、首を傾げるしかない。
 なんで、そんな顔で俺を見るんだ?

『迎えなんか来るかよ。誰が来るんだ?お前を捨てた悪魔か??』

「いや、そうじゃないけど…たぶん、灰色猫が来てくれると思う」

 俺の台詞に明らかに馬鹿にしたみたいに腰に手を当てて、レヴィアタンは鼻先で笑ったみたいだ。
 むむ、なんでそんな顔をするんだよ?さっきから、いくら大悪魔だからって失礼だぞ。
 何か言ってやろうと開きかけた口を、俺は唖然として閉じるしかなかった。
 何故ならそれは、レヴィアタンが悪魔らしい邪悪な顔をして笑ったからだ。

『灰色猫だと?この場所に?…ここはルシフェルですら入ることはできないんだぜ』

「…なんだと?」

 内心で、灰色猫が駄目なら、問答無用で、あの傲慢でお節介なもう1人の大悪魔が来るだろうって、勝手に高を括っていたから、俺はレヴィアタンの邪悪な顔を見上げて訝しむように眉を寄せた。
 すると、真っ白いイメージの大悪魔様は、愈々、邪悪さにより磨きをかけて、ニヤッと笑ってくれたんだ。

『この場所は中間地に張り巡らせたオレの領域なのさ。オレが許した者以外は立ち入れない。たとえそれが、大悪魔だとしても、一歩でも立ち入れば地獄の業火に焼かれるだろうよ』

「なな…?!なんで、そんな怖いこと…」

 呆気に取られたようにポカンッとしたら、レヴィアタンは小馬鹿にしたような目付きで俺を見下ろして、フンッと鼻を鳴らしたんだ。

『大悪魔ともなれば心の平安が必要なのさ。ルシフェルもこんな領域を持ってるんだぜ?』

 知らなかったのかよと馬鹿にしてるみたいだけどなぁ…俺がいつ、こんな所に連れて来てくれと言ったんだよ?

「だからって、俺が来る理由がないだろ?お前、また騙したな」

『だから、騙してないって言ってるだろ?中間地に連れて行ってやるって言ったんだ。ご覧の通り、ここは魔界と天界の中間地だ。ま、オレの領域ってだけだけどな』

 ふふーんっと勝ち誇った顔で笑いやがって!!その【お前の領域】ってのが大問題なんだろ!
 思い切り睨み据えてやったけど、レヴィアタンは蚊に刺されたほどにも感じていないのか、俺のことなんか華麗に無視して説明なんか始めやがった。
 なんてヤツだ!こんなヤツが、本当にあのレヴィと同一人物だって言うのか?!

『向こうに城が見えるだろ?アレがオレの本来の居城ってヤツさ。んで、その城から向こうに海がある。オレが支配している領域を繋げているんだ』

 ホント、誰か嘘だって言ってくれ。

「レヴィアタンはルシフェルより傲慢だ」

 思わず泣きそうになりながら言ったら、ヤツはちょっとムッとしたような顔をして俺をジロリと見下ろしたけど、それでも機嫌は良いのかニッと笑いやがる。

『なんとでも言え。確かにお前の言うように灰色猫はオレの使い魔だからな、ここに入ることは許されてる。だが、お前を連れ出そうとすればアイツは燃えて消える。それだけは覚えておけよ』

 そんなことを言って腕を組むレヴィアタンのしてやったりの顔を見上げて、その時になって漸く、俺はどうして自分がこんな危険極まりないところに連れて来られたのかと首を傾げたんだ。

「あのさぁ…どうして、お前は俺をこんなところに連れて来たんだ?レヴィアタンにとって俺は目障りじゃなかったのか?」

『スッゲー目障りだな』

 ぐ…なんか、面と向かって言われると、思わず殴りたくなるんだけどよ。
 せっかく、レヴィを忘れる決意をしたってのに、こんなところに閉じ込められていたら、レヴィを忘れるなんて絶対にできない。目の前に張本人がいるってのに、忘れられるかってんだ。

「あ、そうか。灰色猫とかに助けてもらおうってのがいけないんだ。俺が自分で出ればいいのか」

『…どうやって出るんだ?』

 ポンッと掌を拳で打って頷く俺に、腕を組んだままのレヴィアタンはキョトンッとした顔で見下ろしてきた。
 そう言えば、そうか。
 どうやって出られるんだ…

「…って!なんで、こんなところに閉じ込めるんだよ?!おかしいだろッッ」

 思わず納得するところだったぞ。
 そーだ、そもそもどうして俺はこのレヴィアタンの領域なんかに閉じ込められないといけないんだ?!根本的に間違ってるだろ!
 食って掛かるように胡乱な目付きで見上げてくる俺を、レヴィアタンのヤツは参ったとでも言いたそうに、先端の尖った耳を垂らしてプッと噴出しやがったんだッ。

『全く面白いヤツだな、お前は!…そんな面白いヤツがオレの傍にいないなんて冗談じゃない。それなら、誰にも邪魔されない場所に連れ去っただけだ』

 声を立てて笑ったレヴィアタンは、そうして、至極当然そうにそんなことを抜かしやがった。
 面白いから傍に置くだって?
 胸のずっとずっと深いところにある大切な想いを抱えている俺を、ただ面白いから、この地獄のような檻に閉じ込めるって言うのか?
 何処まで酷いヤツなんだ。

「嫌だ。そんなのは、嫌だ。今すぐ俺を、俺が住んでいた場所に戻せよッ!」

 ギッと睨みつけて、身構えて牙をむく俺に、それまで楽しそうに笑っていたレヴィアタンは、ゆっくりと表情を大悪魔らしい冷酷な微笑に変えて言った。
 それはまるで、最後通牒のような冷やかさで…

『嫌だと?人間如きに選ぶ権利があるとでも思っているのか』

 背筋を凍った掌が撫で上げる錯覚に眩暈がした。

 どんなにもがいても足掻いても、レヴィアタンは俺を外に出す気も、勿論、元の場所に戻す気もさらさらないらしく、ニヤニヤ笑ったままで自分の城に連れて来たんだ。
 ルシフェルの件でいつもあんなに嫌がっていたくせに、どうして、イキナリ俺に構い出したのか判らない不気味さもあるし、連れて来られた城が、レヴィアタンの華やかな綺麗さにはあんまり不似合いな不気味な陰鬱さを醸しているのにも驚いて、俺は暫く声も出なかった。

『お帰りなさいませ、レヴィアタン様…その人間は奴隷ですか?人間嫌いのレヴィアタン様が珍しいですわね』

 不気味に軋る大きな扉が内側から開いて、ちょこんっと、ゴシック調のダークなドレスに身を包んだ少女が姿を現すと、ジタバタする俺の首根っこを掴んで笑っているレヴィアタンに、彼女は淡々とした口調で声をかけた。

『いや、奴隷じゃない』

『では?』

 レヴィアタンのご機嫌さも訝しいのか、城に似つかわしいほど不気味な雰囲気の、長いストレートの黒髪を持つ顔色の悪い少女はソッと柳眉を顰めたようだ。
 お願いだから、こっちを見ないでくれ。

『…そうだな』

 レヴィアタンも彼女の視線に促されたみたいにして、暴れて逃げようとする俺を見下ろしたみたいだったが、シックリくる言い回しがないのか、笑ったままで口を噤んでしまった。

『まさか、お客様…と仰るわけでもありませんよね?』

 ふと、溜め息を吐いた不気味な人形のように綺麗な…いや、なんか知らないが、不気味な人形ってみんなちょっとゾッとするぐらい綺麗じゃないか?そんなことはないのかもしれないけど、この子はゾッとするほど綺麗なんだよ。
 柳眉を顰めたままで、突然の闖入者である俺を繁々と観察しているみたいだ…う、怖い。
 こんな、10歳かそこらの女の子に怯える俺って…

『客でもないな』

『…』

 ガックリする俺を2人で見下ろすな!
 だいたい、誰なんだ、この子は?
 レヴィのヤツ、そう言えば魔界での自分の暮らしとか口にしなかったよな。
 微妙なところで、やっぱり忘れられるぐらいなんだから俺、信用とかされてなかったんだろうな。
 ふと、寂しくて暴れるのをやめた俺が目線を落とすと、レヴィアタンは首根っこを掴んだ腕はそのままで、片手で顎を擦りながら『うーむ』と悩んでいるみたいだ。

「ただの玩具だろ?」

 フンッと、寂しくて悲しくて、俺が憎まれ口を叩くと、それでも大悪魔様は不機嫌にもならずに肩を竦めたりするんだ。

『玩具ってワケでもない。そうだなぁ…愛人ってとこか?』

「はぁ?!」

『!』

 素っ頓狂な声を上げる俺と、無表情のままで眉を顰める少女に見上げられて、馬鹿げたことを口にした張本人であるレヴィアタンは楽しそうに笑ってから、首根っこを掴んでいる俺を城の中に投げ飛ばしやがったんだ!

「うわっっ…とと、何すんだよ?!」

『人間の愛人ですの…?』

 突然のことに思わずすっ転んで強かに額を磨き上げられた床でぶつけてしまった俺はガバッと上半身を起こすと、入り口付近にいるだろうレヴィアタンを睨みつけようとしたんだけど、音もなく扉を閉ざした城内は蝋燭の明かりだけで薄暗く、ギョッとしている俺を取り囲むようにして何時の間にかレヴィアタンと少女は俺を見下ろしていたけど、大悪魔様は屈み込んでそんな風に呆気に取られている俺の顎を掴んだんだ。
 それはあっと言う間の出来事で、扉が閉じたことにも、少女とレヴィアタンが傍にいたことも、ましてや顎を捕まれたことにでさえ気付けない俺が呆然としていると、大悪魔様は何が楽しいのか、クスクスと笑った。
 その笑い方は確かにレヴィなんだけど、そんなことにも気付けないほどたらりと汗を垂らす俺の顔を覗き込んで、少女は胡散臭そうにレヴィアタンを見詰めた。

『それにしても…もっと、こう』

 人間の愛人と言うことには然程気にした様子もない少女は、俺の容姿が気になって仕方ないといった風情だ。
 悪かったな、平凡を絵に描いたようなヤツで。
 ホント、こんなところ、来なきゃよかった…って、騙されて連れて来られたんだけどよ。

『リリス、これの世話はお前に任せるからな』

『畏まりましたわ、レヴィアタン様』

 俺の顎から手を離したレヴィアタンが立ち上がって上機嫌で命じると、小柄な少女はコクリと頷いて静かな口調でそれに応え、へたり込んでいる俺の腕を掴んで引き上げやがった!
 ど、どこにそんな力があるんだと、呆気なく引き起こされた俺が呆然と少女を見下ろしていると、レヴィアタンは満足したのか、何も言わずに闇に溶けるようにして消えてしまった。

「あ!ちょ、待て!この野郎ッッ…って、行っちまったのか?」

 何処に行きやがったんだ、あの野郎。
 こんなところに俺を閉じ込めて、いったい何のつもりなんだ。
 ブスッと立ち直った俺が伸ばしていた腕を引っ込めた時、ジッと見上げてくる漆黒の瞳に気付いて、俺は何故かギクッとしてしまった。

「え…っと?」

『わたくしの名前はリリスですわ。あなたは?』

「こ、光太郎。瀬戸内光太郎だけど…その、レヴィアタンの言った愛人って、アレ、嘘だからな。悪魔は平気で嘘を吐くんだろ?だから、あれは大嘘だ」

 どうしてそんな言い訳を必死に言おうとしたのか、決まってるだろ?見ればまだ年端も行かない女の子に、男でありながら愛人ですと紹介されて、どんな気持ちになると思う。
 なのに、俺の必死の言い訳なんか何処吹く風で、彼女は別に気にした風でもなく首を左右に振りやがったんだ。

『愛人であろうとなんであろうと、レヴィアタン様がそう仰ったのなら、あなたはレヴィアタン様の愛人ですのよ』

「う、だから、それは…」

『なんにせよ、それはレヴィアタン様のお心遣いなのです』

「え?」

 少女は酷く真摯な双眸をして俺を見上げてきた。
 真っ白な頬には生気がなく、冷たい白磁のようなすべらかな肌に、キリリとした見事な柳眉、その下には暗黒の海の底のように何かを秘めた輝きを持つ双眸が煌いていた。その部分だけ生きている証のように、熟れきらない苺のような瑞々しい唇の隙間から真珠色の歯が覗いて、どうやら彼女はひっそりと笑ったみたいだ。
 でも、その双眸だけはまるで拒絶するみたいに笑みを浮かべることはないから、何処か背筋が寒くなる表情に、気付けば俺は自分を抱き締めるようにして腕を擦っていた。

『ここはレヴィアタン様の心の領域。ですが、この城に仕えるのはレヴィアタン様に戦いを挑み、何れも敗北し使い魔に成り下がっている悪魔たちですわ。彼らは常に一矢報いることばかりを考えている痴れ者どもですの。レヴィアタン様は常に争いを好みます。ですから、平安を保つはずのこの場所にすら、あの御方は自らに害を成す者すら置いてしまわれる』

 俺の前ではあれほど穏やかそうに見えたレヴィの隠された素顔を見たような気がして、俺の心臓はキュッと竦んだみたいに痛んだ。
 どうして、レヴィは…いや、レヴィアタンはそんなに自分を戒めてるんだろう。
 大地を統べることができなかったことが、それほどまでにアイツの心に深い闇を刻み込んだのかな。

『好戦者と言うのは、同時に好色ですらあります。人間を憎む彼らは、人間の奴隷を見れば好きにしてしまう。たとえ、あなたが人間の奴隷として連れて来られたとしても、レヴィアタン様が【愛人】と仰るならば、誰も手出しはしないでしょう』

「…なんだ、そう言うことだったのか」

 だから、レヴィアタンはこのリリスと言う少女に俺を紹介する時、あんなに悩んでいたんだな。
 どう言うべきか…その地位によっては、俺の命運は決まっていたってワケか。
 なんか、魔界にしろ、この中間地(…この場合はやっぱり魔界なのか?)にしろ、とんでもない所には変わりない。
 俺、こんな場所で生きていけるのかな。
 それなら…そこまで考えて、そうかと思い至った。
 ベヒモスが大事にしていたあの【混沌の森】、あの森はベヒモスにとっての心の平安を保つべき領域だったんだろうな。だから、来る者をあの意思を持つ捩れた木の枝で阻んでいたのか。
 まだ、ベヒモスの領域にいる方が随分と気楽だったよなぁ…
 はぁ、と溜め息を吐いていたら、リリスはそんな俺をやっぱり繁々と観察しているみたいだ。
 大きな深い色を持つ瞳で見据えられると、どうも居心地が悪いんだけど…なんだろう?敵愾心とかそんなモンでもなさそうだし、かと言って、馴れ合う気なんかさらさらないと思っているのも手に取るようによく判る。
 リリスは何が言いたいんだ?

『これからはあなたのお世話はわたくしがします。この城の女主人でもありますから』

 リリスはキッパリと言い放った。
 そうは言われても…俺は何となく頷くことぐらいしかできない。

「へ?あ、ああ、そうなのか。宜しく」

 頭を掻きながら頷く俺に、彼女は薄笑い…こう言うのを、アルカイックスマイルって言うんだよな。
 暢気なツラをして見下ろす俺を、リリスは物憂げな瞳をしてそんなアルカイックスマイルで微笑んだ。

『愛人ではない…とあなたは仰いますが。恐らく、それこそが嘘でしょう』

「そ、そんなワケないって。俺、男だし。それは本当に…ッ」

『いいえ』

 リリスは完璧な美しさを持つ少女で、そんな子から首を振ってキッパリ言われてしまうと、根が単純な俺は二の句が告げられなくなっちまう。
 どれだけ、弱いんだ俺!

『あのレヴィアタン様が人間如きに心を砕くはずがありませんわ…ですが、あなたを見つめるレヴィアタン様の眼差しには、愛がありましたもの』

「…!」

 この場合、俺は喜ぶべきなんだろうか?
 何もかも投げ出しても一緒にいたいと思う白い悪魔は、今、すっかり俺のことなんか忘れて魔界でデカイ面をしてる大悪魔様を気取りやがって、少しも俺を見ようとはしなかった。
 なのに、アイツを忘れる決心をした、今更、アイツが俺に振り返っただと?
 そんなの…

「性質の悪い冗談だ。俺のことなんか、アイツはなんとも思っちゃいない」

 ならどうして、俺を思い出してくれないんだ?
 こんな幼い少女すら気付くほど、俺を愛しいと想ってくれるのなら、どうして、レヴィは俺を思い出さないんだ?!

「君はまだ小さいから、思い過ごしただけだよ」

 幼い子供に言い聞かせるみたいに呟いたら、彼女は仕方なさそうに小さく溜め息を吐いた。

『そうなのですか?ですが、わたくしの思い過ごしではけしてありませんわ。でなければどうして、あなたをレヴィアタン様はわたくしに任せられましたの?』

「え?それは、その…君がこの城の女主人だからって…」

 キリリとした双眸に見詰められてしまうと、やっぱり、なんか居心地が悪いんだよなぁ。
 俺はまた手持ち無沙汰で頭を掻きながら俯いたら、古風なドレスに…ってどう見てもゴスロリのドレスだろ。膝丈までのフリルの裾から伸びた足には白いタイツを穿いていて、ちょこんとした黒のエナメルの靴が上品にすら見える彼女は、やれやれと溜め息を吐いたみたいだ。
 まぁ、この年で、レヴィアタンの城を任されてるってぐらいなんだから、本当は相当な力とか持っている子なんだろうけど、見た目にコロッと騙されるごく普通の高校生をあんまり苛めないでくれよ。

『そうですわ。わたしくはレヴィアタン様の妻であり、この城の女主人ですのよ』

 人形のように綺麗なリリスが言った。
 俺は、今聞いたことが、俺の空耳か、幻聴であって欲しいと思った。
 でも、声が出ない。
 何を言ったらいいんだろう?
 ただ、頭の片隅の遠い何処かで、納得するような声も聞こえていた。
 ああ、だから。
 レヴィは綺麗に俺を忘れることもできたし、レヴィアタンとして俺を突き放すこともできたんだ。今だって、思い出すことすらない。
 こうして、心の平安を保つ領域に大切なひとを隠して…俺は気付いたらポロポロと泣いていた。
 見開いた目から幾つも涙が零れ落ちるのに、不思議なことに、俺は悲しいとか思えないんだ。

『そのわたくしにあなたを任せると言うのは、とても重要なことですのよ。なぜなら…』

 リリスはその後も何かを言っているみたいだったけど、何を聞いたのか、何を言っているのか、頭がショートしたみたいに正常な思考回路じゃなくなっている。何を考えて、どう答えていいのかが判らないんだ。
 俺だけを大事にするとか言ってあの野郎…やっぱり嘘吐きだったんじゃねーか。
 ただ、グルグルと立ち尽くしている磨かれた石造りの床が回っているような錯覚がして、俺は眩暈を感じていた。
 猛烈な吐き気は、もう一瞬だってこの場所にいたくないと訴えているのに、走り出すことも、腕を上げることすらできない、まるで金縛りにでもあったみたいに身動きが取れなかった。
 アイツには…レヴィには大切にしている奥さんがいたんだ。
 だからアイツは、俺を【愛人】って紹介したんだろう。
 なんだ、アイツにとっては俺なんかただの遊びだったんじゃないか。
 何が、永遠だ。
 俺にばかり求めて、お前の永遠って何だったんだよ。
 悪魔なんか信じなければよかった。
 悪魔なんか…愛さなきゃよかった。
 悪魔なんか…そこで、俺の意識はぷっつりと途絶えてしまった。