第二部 17  -悪魔の樹-

 ふと、目が覚めたら豪華な天蓋付きでふかふかしたベッドの上で寝かされていた。
 定まらない焦点を必死で合わそうとして暫く彷徨わせていた視界は、すぐにグニャリと歪んで、陰気な城内では不似合いなほど真っ白な室内の中で、俺は羽毛の柔らかな布団を被って洩れそうになる嗚咽を噛み殺した。
 誰もいないところに行って声を上げて泣きたいのに、そんなこともできない小心者の俺は、ただ唇を噛み締めて、何処かも判らないこんな明るい場所で独りで泣くことぐらいしかできないなんて…どうかしてる。
 俺もどうかしているけど、レヴィも十分、どうかしてると思う。
 ちょっと、傍目にはロリコン…?て疑っちまうのは致し方ないとしても、あんな冴え冴えとした綺麗な子を、心の領域だと言う安息の場所に隠しているくせに、俺に構うなんかホント、どうかしてると思う。
 でも、そこまで考えて、俺はグズグズと鼻を啜りながら気付いたんだ。

「あ、そうか。レヴィはちょっとした退屈凌ぎで俺たちの世界に来たんだったな」

 それを、灰色猫がお節介を焼いて【悪魔の樹】の契約で、俺と出逢わせたんだったっけ。
 なんだ、どちらにしても、悪魔の気紛れに巻き込まれたってだけじゃねーか。
 泣き腫らした目を擦りながら上半身を起こした俺は、ハラハラと天井の辺りから零れ落ちている霧が結晶したような花びらを眺めていた。
 花びらははらはらと零れ落ちると、純白の布団の上に落ちるか落ちないかのところで淡いピンクにパッと霧散して、甘い桃のような匂いを散らしているんだ。
 それは懐かしいレヴィの匂いだったから嫌じゃないけど、今は吐き気がするほど嗅ぎたくない。
 冗談半分の気紛れに付き合えるほど、人間の寿命は長くないんだから…こんな酔狂な遊びはナシにして、もう俺を元の世界に帰してくれないかな。
 レヴィアタンは勘違いしているんだ。
 記憶の中におぼろげに残っている俺の存在が気になるだけなんだから、あの綺麗なリリスの傍にずっといて、俺を人間が暮らす世界に捨ててくれたらいいのに…そこまで考えてたら、途端にまた「うっ」と言葉に詰まって、そのまま泣きたくなってしまう。

『お兄さん!』

 バンッと木製の重々しい重厚感のある扉が外側から開いて、鼻の頭を真っ赤にして、目許からポロポロと涙を零している俺は驚いて顔を上げたけど、俺以上にショックを受けて、息を呑んだ灰色猫は一瞬立ち止まったけど、それでもすぐに脱兎のような素早さでベッドに這い上がると、ふかふかの猫手でギュッと俺を抱き締めてきたんだ。

『お兄さん!心配したんだよ、こんな場所に閉じ込められて…ベヒモス様が案じられていたとおりになってしまった!』

「灰色猫…」

 心配そうに見上げてくる薄汚れた灰色の猫は、金色の双眸を悲しそうに細めながら俺を見上げてくるけど、今のドロドロに腐った根性に成り下がっちまっている俺は、その顔を見るのも、柔らかい身体に触れるのも嫌で、唇を噛み締めて振り払ったんだ…とは言っても、何時だって俺のことばかり考えてくれている灰色猫を突き飛ばせないほどには、コイツを恨んでいないのも確かだ。
 邪険に、それでも静かに疎まれた事態に、灰色猫はベッドの上にちょこんと尻餅をついたような格好で耳を伏せて驚いているみたいだったけど、途端にハッとして、それから寂しそうにピンッと張っていた髭が萎えたみたいに垂れてしまう。

『お兄さん…』

「ごめん…灰色猫。今はお前の顔も見たくないんだ」

『どうしてだい、お兄さん。レヴィアタン様に何か、酷いことをされてしまったのかい?』

 酷いこと…なのか、それとも、本当は他愛のないことなのか…俺には判らないし、今更、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、少なからず、こんな風に俺を案じてくれる灰色猫も、やっぱり悪魔の使い魔で、優しい素振りで俺を騙していたんだと思ったら、できればもう、何も信じずにここから逃げ出せたらいいのにと思ってしまう。
 俺は滔々と涙を零したままで、何も言わずに首を左右に振るしかない。
 信じていた…ああ、きっと、ルシフェルもベヒモスも、みんな知っていて黙っていたんだ。
 ちっぽけな人間の小さな恋心を、ただ、アイツ等は嘲笑うことをせずに、俺が諦めるまで見守っていたに過ぎないんだ。
 【約束の花】なんて嘘っぱっちで…だから、何時まで経ってもルシフェルは【魔の森】に行こうとしなかったじゃないか。
 あっさり騙されてる俺って…もう、泣きたいだけ泣いたから、涙も出ないよ。
 グスッと鼻を啜ったら、灰色猫は居た堪れないような顔をして、寂しそうに『にゃあ』と鳴いた。

『お兄さん。どうか、よくお聞き。ここはレヴィアタン様の心の領域ではあるけれど、あのお方はけして安息など求められてはいないんだよ。だから、ここは魔界と寸分変わりない。油断してはダメだよ』

 それだけ言うと、灰色猫は逡巡して、それから諦めたみたいに肩を落としてベッドから降りてしまった。
 どうしても、今の俺が自分の声を聞いていないと、ちゃんと判っていたんだ。
 去っていこうとするその後ろ姿には不安があったし、今、すぐにでも呼び止めて「レヴィに奥さんがいた!」と言って、全部を灰色猫のせいにして、それから、あの小さな猫に慰めて欲しい…なんて、弱虫毛虫の俺は縋りそうになる気持ちを叱咤して、灰色猫を呼び止めなかった。
 この場所でも、いや、本当はこの魔界の何処でも、信じられるヤツなんかいなかったんだ。
 何を信じて…どうして俺、悪魔なんか信じてしまったんだろう。
 まるで穏やかだった気持ちが一変して、俺は全てが、この暗黒で陰気なレヴィの居城みたいに空虚で、陰惨な魔界みたいだと思った。
 もう、何も信じない。
 だって、全ては嘘だったんだから…

 偽りに塗り固められたような幸せだった日々すらも封印して、それからの俺は気持ちの持ち方を変えることにしたんだ。
 何処に行っていたのか、ある日、ふらりと戻ってきた白い悪魔は上機嫌で俺を抱き寄せて、『ただいま』とかおざなりな挨拶をして、気が済むまでキスをした。俺は、ドロドロに恨んでいたから、その舌先を噛んでそれに抵抗したけど、不意に激怒したレヴィアタンに殴られてしまったんだ。
 レヴィアタンはハッとしたように慌てて殴った拳を引っ込めたけど、それでも俺は、だからと言ってそれに反抗なんかしなかった。
 口許から流れる血を拳で拭って、俺はそのまま目線を落としていた。
 もともと、レヴィアタンと言う悪魔は凶暴で嘘吐きで、悪魔らしい悪魔なんだとリリスが教えてくれた。
 だから、レヴィからでは考えられないんだけど…って、アレは【悪魔の樹】の契約のおかげで穏やかになっていたってだけで、レヴィこそが最大の嘘だったのに、馬鹿な俺は嘘のアイツを愛してしまったんだ。本性であるレヴィアタンは冷酷で凶暴だから、気に入らなければ必然的に手が出るんだけど、それでも頭の何処かに人間は脆いと学んでいるのか、ハッとしたように一発殴っただけで止めてしまう。
 この城で暮らす多くの使い魔は、最初の日にリリスが言ったように一矢報いてやろうって考えている連中ばかりだから、そんなレヴィアタンの態度にコソリと驚いているみたいだ。
 それでも、レヴィアタンが帰って来てからと言うもの、日々生傷を作っている俺を見て、こんな傷で済んでいるのは俺ぐらいだって、リリスは嘆息して首を左右に振っていた。
 たぶん、奥方としては愛人が大事にされるのが辛いんだろうな。
 でも、さすがに正妻だと言うだけあって、レヴィアタンはリリスだけは殴らないみたいだ。
 そりゃ、そうだよな。
 何度目かに殴られて、ぶれる頭を落ち着かせようと中庭…なんかあるんだ、さすが灰色猫が魔界みたいなものだと言っただけあって、ここでもおかしな空間が広がっているんだろう。俺はだだっ広い中庭に入り込むと、噴水のある場所にへたり込んで、噴水の水に浸した布で頬を冷やしながら休んでいた。
 アイツは俺を殴ると、決まって後味の悪そうな顔をするくせに、そのまま何も言わずにやっぱりふらりと姿を消してしまう。その日もそうだったから、俺が逃げるみたいにして中庭に腰を落ち着けて、ジンジンと痛む頬を押さえていたら、小さな笑い声がしてハッと姿を隠したんだ。
 俺がその茂みにいることを知っているのかいないのか、いずれにしても、レヴィアタンとリリスはお互いに信じあったように目線を交えて、それから優しそうに微笑んでいた。
 リリスの陶器のようにすべらかで綺麗な頬に指先を伸ばして、レヴィアタンは見たこともないほど穏やかな、まるでレヴィがそこにいるようなツラをしてリリスを見詰めていた。
 そんなツラをしてしまうほど、リリスを信じて、それから…愛しているんだから、人間の奴隷なんかとは比べようもないのにさ。
 リリスは要らない心配をしているに過ぎないんだよ。
 あの日の2人の姿を見てから、いや、正確にはあの日のリリスを見詰めるレヴィアタンのツラを見てから、俺の心は更に頑なになって、レヴィアタンと言う白い悪魔に笑いかけることはなくなっていた。
 レヴィアタンにはそれが気に入らないのか、以前よりも不機嫌そうなツラをして…そうだ、この心の領域とか言う場所に来てから、レヴィアタンの笑っている顔を見ることがなくなったと思う。
 ふらりと戻って来たあの日に、冗談めかして『ただいま』と言って、嬉しそうに俺にキスをしたあの日以来、俺はレヴィアタンの笑顔を見ていない。
 その反動みたいに、リリスに微笑みかける白い悪魔を目にすることはあったけど、それでも、俺はもうそれを視界に入れないようにしていた。
 もし、そう言うことを認めてしまったら、我慢しているモノが堰を切って、忽ち俺は声を上げて泣いてしまうと思うから。
 俺は人間の奴隷…なんだけど、一応、レヴィアタン様の愛人の称号らしきものを貰っているせいか、他の使い魔たちから手を出されることはなかったけど、やっぱり奴隷に変わりはないから下働きとして扱き使われている。
 今日も、何時もみたいに使い魔の独りに手渡された山のような書物を抱えて、ふらふらと廊下を歩いているんだけど…この居城にはレヴィアタンの使い魔が山ほどいるんだが、そのどれもが屈強そうな悪魔たちに見える。そうしてみると、灰色猫はレヴィアタンの使い魔の中でも一風変わっているんだなと判った。
 邪険に振り払ってしまったあの日から、とうとう姿を見ることのなくなった灰色の薄汚れた猫が懐かしくて、俺は極端に多い書物を落とさないように必死で図書館に運びながら、そっと双眸を細めて寂しがっていた。
 だから、前なんか全然、これっぽっちも見ていなかった。
 それが悪かったんだろう、イキナリ、何かにぶつかってしまってすっ転んだ俺はバラバラと幾つもの価値のある書籍を全部落としてしまったんだ。

「わわ!ご、ごめんなさいッ」

 性的な意味での手出しはされないものの、この城にいる連中は誰もが荒くれているから、こんな失態をすると問答無用で暴力による制裁を受けるもんだから、俺はギュッと目蓋を閉じて慌てて飛んでくるだろう拳の衝撃を覚悟した…んだけど、それはなかなか襲ってこなかったんだ。
 何か、時間差とか、新手の嫌がらせかと思って閉じていた目蓋を開いたら…

「る、ルシフェル…」

 ハッと目を瞠ったのは、どーせ、俺を騙した大悪魔の独りなんだから、完全無視を決め込めばよかったのにさ、なんとも言えない双眸を見てしまったからだ。
 悔しそうな、切なそうな…それでいて、静かに怒り狂っている双眸の奥には、何千年も生きて来たに違いない、底知れぬ何かを秘めて淡々とした炎が燃えているみたいだった。

『…だから、言っただろ?白い悪魔に逢うなってさ。こんな薄汚いところに閉じ込められちまって。心の領域は、それを持つ悪魔の性分で形成されているんだ。お前は…こんなところにいるべきじゃない』

 静かだけど、確実に怒っているのが判る口調に、それでも俺は、ソッと目線を伏せるぐらいしかできないでいた。
 大悪魔に俺が不似合いだってことは判っているんだけど…今は、どんな悪魔だって信じたくない。
 何を信じても、結局は全てが嘘なんだ。
 黙りこんでいる俺に、ルシフェルは小さく溜め息を吐いた。

『灰色猫が泣き付いてきたぞ。お前、灰色猫まで拒絶して、どうするつもりなんだ?』

 その言葉にも、俺は何も答えなかった。
 これはもう、レヴィアタンで培った悪魔の対処方法だ。
 何も言わなければ、大概の悪魔も使い魔も焦れて殴るか、殴らなくてもすぐに興味を失くして放っておいてくれる。殴っても、俺の反応がなければそのまま捨てて行くんだ。
 ルシフェルだって悪魔に変わりはないんだから、さっさと何処へでも行っちまえ。

『オレも無視するのか。何があったのか知らないが、今のお前の魂はなんだ。まるで…』

 どーせ、薄汚くなってるとでも言うんだろ?
 いいよ、どんな魂でも。
 何が純粋だよ、人間の魂に純粋もクソもあるかってんだ。
 この胡散臭い大悪魔も、早く何処かに行けばいいんだ。俺のこと、心配しているようなツラをして、平気で騙していたくせに。
 どうして、言ってくれなかったんだ。
 レヴィアタンには既に想い人がいる…ってさ。

『まるで、力を失って、今にも消えてしまいそうだ。こんな終わらせ方をするために見守っていたんじゃないぞッ』

 ギリッと、ルシフェルは奥歯を噛み締めたみたいに鼻に皺を寄せて、なまじ綺麗な顔立ちだから、その激怒したツラはレヴィアタンよりも壮絶に見えた。
 青褪めて、声もなく見上げる俺を見下ろしていたルシフェルは、ふと、その表情を和ませて溜め息を吐いたんだ。

『お前、もうレヴィアタンを愛していないのか?あんなに光り輝いていたのに…見ているオレをあんなにも幸せにしてくれていたのに…』

 何があったんだと、傲慢で身勝手なはずの大悪魔は、ひっそりと呟いた。
 千年以上も前から俺を見守っているなんて…それだって嘘に決まっている。
 何もかも嘘で、そうして、信じ込んでいる人間を見て嘲笑っていたに違いない。

「ルシフェル様、俺に何か御用ですか?御用がなければ、もう行っても構いませんか」

 努めて、冷静に、淡々と言った。
 ルシフェルの双眸を見据えて言ったのなら天晴れなモンなんだけど、小心者の弱虫な俺は、わざとらしく落ちている書物に手を伸ばして、忙しいんだから、構うなと全身で物語ったつもりだった。
 でも俺は、大悪魔を甘く見ていたんだ。

『なるほど。お前がそう言う態度に出るなら、オレにも考えがある。人間は恩知らずが多いんだな!』

 キッパリ言い切って、どうして、俺が悪く言われるんだよ?!
 騙していたくせに、馬鹿みたいに信じて、レヴィを愛し続けていた俺を見て、嘲笑っていたくせに!
 冷淡な眼差しで俺を見下ろすルシフェルをキッと睨み据えて、俺は口を開こうとした。
 騙したのはお前たちじゃないか!…でも、俺はそうしなかった。
 睨み据えただけで、言葉が出なかったんだ。
 ルシフェルが何かしたとか、そう言うことじゃない。
 ただ、俺は唇を噛んで、ルシフェルの暗黒の双眸から目線を外し、やっぱり落ちている本を拾おうとした。その腕を、焦れたようにルシフェルは掴んでいた。

「?!」

 大概の悪魔は、そんな風に小生意気に睨む人間の奴隷の相手なんかしない。
 それは、レヴィアタンもそうだったし、アスタロトもそうだった。
 でも、ルシフェルは違ったんだ。
 俺の腕を掴んで、問答無用で立ち上がらせると、驚愕に目を瞠る俺が慌てて暴れるのを見越していたのか、そのまま抱き上げたんだ。
 間近で見るルシフェルの表情は激しく怒り狂ってるのが手に取るように判るけど、俺が睨んだ行為で、何故かほんの少しなんだけどホッとしているみたいだった。
 俺が、何もかも全て諦めて、心を閉ざしていると悟られてしまったんだな…

『こんなに頬が腫れて…光太郎さ、殴られてるんだろ?』

 軽々と俺を抱き上げているルシフェルは、そうして、冷たい指先で俺の頬に触れてきた。
 それを疎んで顔を振ればいいのに、ここに来て、久し振りに触れた温かい心遣いに、馬鹿な俺はまたしてもまんまと騙されて、ポロッと涙を零してしまった。
 どうして、レヴィは俺に永遠を求めたんだろう。
 どうして、レヴィは俺に愛を求めたんだろう。

「ルシフェル…どうして、悪魔はみんな嘘吐きなんだろう」

 ポロポロ泣きながら、思わず言ってしまった台詞に、傲慢が服を着ているはずの大悪魔はハッとしたような顔をして、それから、何処か痛いような…切なそうに双眸を細めて、やわらかく俺を抱き締めてくれたんだ。

『どんな嘘を吐かれたんだ?だが、その嘘は、お前の心を砕くぐらいには強烈だったんだろうな』

 それが許せないと、ルシフェルはそうして、魔界の貴族とは思えないほど、忌々しげに舌打ちをした。
 誰も信じたくないし、灰色猫ですら拒絶したのに…魔界に君臨するこの大悪魔を、少しでも信じようとか思ったワケでもない。できれば、このまま元の世界に戻してくれればいいのにと思ったんだ。
 身体を縮めるようにして背中を丸めた俺を、ルシフェルは何も言えずに抱き上げた腕に力を入れた。
 両手で双眸を覆うようにして、声も出せずに泣く俺の頭に頬を寄せるルシフェルは、そうして無言で俺の静かな嗚咽を聞いているみたいだった。