第二部 19  -悪魔の樹-

 軽くウィンクして立ち去ろうとしたルシフェルはふと振り返ると、俺に『オレには理由は判らないけど、灰色猫は許してやれよ』と言って、片手を振りながらレヴィアタンの居城を後にしてしまった。
 なんの問題も解決したワケじゃないけど、それでも俺の心は少しでも気分が晴れたし、なかなか降ろしてくれないレヴィアタンを見上げたら、ヤツはバツが悪そうな顔をして目線を逸らすけど、俺がニコッと笑ったら、ハッとしたように振り向いて、それから暫くジーッと見詰めていた。

「…なんだよ?」

 あんまりマジマジと見られるから、訝しそうに眉を潜めた俺が首を傾げると、レヴィアタンはムッツリと不機嫌そうに唇を尖らせやがった。

『…この城に来て、やっと笑ったなと思ったんだ』

「…」

 ああ、そうか。
 俺、初日からイキナリ衝撃を受けまくって、ここに来て笑うことも忘れていたんだ。
 妻帯者を好きになるなんか、なんつーか、信じられない気分だったし…何より、レヴィに裏切られたことが信じられなくて、それから、許せなかったんだ。
 それで苛々してたし…でも、違うな。
 愛はたったひとつだとか…そんなの、有り得るはずもないのに、そんな安っぽい言葉を馬鹿みたいに信じていた自分が滑稽で哀れで、本当に腹立たしかったのは自分自身だったんだと思う。
 誰でもない、俺自身を許せなかった。
 悪魔だったのに、甘い言葉を鵜呑みにして…俺って馬鹿だよなぁ。
 これだけ男前のレヴィアタンなのに、彼女とか、奥さんとかいないはずがないのにさ。
 他にも五万と彼女とかいて当たり前なのに、俺が何よりも傷付いたのは、この広い城の中で、レヴィアタンの伴侶はたった一人しかいなかったんだ。
 誰に聞いても、レヴィアタンに一番近いのはリリスで、彼女以外には誰もいないと言っていた。 その事実に俺は傷付いて、それから独りで泣いた。
 たった独り、心から愛した人がいて、そんな人がいるのに…でも、よく考えてみたら、俺の一生なんかレヴィアタンたちにしてみたら瞬きの間に違いないんだろう。だったら、ほんのささやかな楽しみだったのかもしれない。
 だから、レヴィは魔界での暮らしを一言も言わなかったし、俺が魔界に着いていくことを拒んだんだと思う。
 ほんの僅かな間の、ちょっとしたお遊びだったのか。
 はは、また馬鹿みたいにドツボにハマッてんな俺!

『ベヒモスのところでは太陽みたいに楽しそうに笑ってやがったのに…どうして、ここじゃ笑わないんだってムシャクシャしたんだよッ』

 ブツブツと悪態を吐くレヴィアタンを、俺は悲しくなった面持ちで見上げていた。
 だってそれは、俺はまだリリスの存在を知らなかったから。
 お前にキスされたり、頬擦りされたり、抱き締められることが本当に嬉しくて、幸せで仕方なかったんだ。これがレヴィだったらって思いもしたけど、この優しい甘い匂いが記憶に残ってるから、それだけでも嬉しかったんだよ。

『だからその…悪かったな。殴ったりして。オレのこと、嫌いになっちまってるだろうけど、オレは悪魔の中でも一番凶暴なんだよ。手が早くて、使い魔も何匹も殺っちまうんだけど…でも、お前にはちゃんと手加減してたんだぞ?これでも、気遣ってたんだ!』

 レヴィアタンにしてみたら、最大限の譲歩だったんだと思う。
 人間如きに大悪魔様が頭を下げるなんて…いや、実際には下げたりしていないけど、謝ることだって大譲歩だと思っても当然だと思う。人間なんてゴミ屑みたいにしか考えていない連中なんだ。
 だから俺はニッコリ笑うと、リリスを想うレヴィアタンの姿を目蓋の裏に隠して、白い悪魔の頬に両手を添えると、そのまま懐かしい、少しカサツイた唇に唇を重ねていた。
 吃驚するレヴィアタンに、目蓋を開いて、それから俺は小さく笑った。
 何度でも、お前が望むのなら何度でも笑ってやるよ。

「俺、レヴィアタンを嫌ったりしていないよ。だって、俺が愛した悪魔は、レヴィ、お前だから」

 ポロッと涙が零れた。
 ニッコリ笑ったままで、俺はポロポロと頬に幾つも涙の雫を零して、俺は胸の内をその言葉に託して心を吐露していた。
 きっと、この大悪魔は信じてはくれないだろうけど、それでもいいんだ。
 この想いだけは伝えないと…ルシフェルも言ってたじゃないか。
 せめて、その想いとやらを遂げてみせろってさ。
 遂げることなんかはできないだろうけど、伝えることはきっとできる。
 リリスと生きていく長い時間の中で、どうか、この邂逅を忘れないでくれ。何時か、ふとした瞬間でもいいから、俺がいたことを思い出して、少しでいいから懐かしんでくれ。
 それだけで、俺の心の奥でひっそりと蹲っている恋心が、少しでも報われると思うんだ。

『なんだと?オレを愛していたと言うのか??しかし、お前は人間だし、オレはお前に逢った記憶すらない…何を言ってるんだ』

 それは、レヴィアタンにとっても寝耳に水だったに違いないけど、お前はただ、忘れてるだけなんだよ。俺と過ごした僅かな日々だとか、俺の身体に残した幾つもの愛情の証だとか…全部、綺麗サッパリ忘れてるに過ぎないんだ。
 でも、俺が嘘を吐いて、ルシフェルと何かを企んでると思い込んでいるだろうけど、それでもいい。
 それでもいいから、俺を確りと見ていてくれ。

「嘘じゃないよ…俺、あの魔城で初めてレヴィアタンを見た日から、もうずっと恋焦がれていたんだ。レヴィに逢いたくて逢いたくて仕方なかった。だから、レヴィアタンの奴隷になれたときは凄く嬉しかったんだ、本当だぜ?」

 半分は本当だし、半分は願望だったけど、あの魔城で久し振りにレヴィに逢った時のことを思い出したら、それこそドキドキと胸が高鳴るから、聞こえちまうんじゃないかって、慌てて胸を押さえて顔を真っ赤にしてニコッと笑ったんだ。
 あの日の俺は、こんなことがあるとか全然判らなくて、レヴィに逢えただけで凄く嬉しかった。その気持ちを思い出したら、自然と顔が綻んでいた。
 そんな俺を、レヴィアタンは何か言いたそうに開きかけた口を閉ざして、眩しそうに双眸を細めて見下ろしていた。

「その後は…すぐにヴィーニーと交換されちゃったけどな」

 トホホホッと頭を掻いたら、レヴィアタンはすぐにムッとしたように顔を顰めて、それから、抱き締めている俺の身体をもっと引き寄せて、真っ白な睫毛が縁取る目蓋を閉じると、ルシフェルがそうしたように頬に頬を寄せて、腹立たしそうにコソリと呟いたんだ。

『アレは最大の不覚だったと今も後悔しているんだ。長かったけれど、漸く辿り着けたような気がする』

 レヴィアタンが何を言おうとしているのか判らなくて、俺はあの甘い匂いに包まれて、うっとしりしながらその声に耳を傾けていた。
 どんな内容でも、たとえそれがリリスのことでも、今の俺にはどれも優しく聞こえたに違いない。
 だってさ、今、レヴィアタンがこんなに近くにいるんだ。
 腕を伸ばせば抱き締めることも、キスをすることもできる距離に、あの白い悪魔の真っ白の髪と眉毛、スッキリした鼻筋に、男らしく引き結ばれた唇まであって、それだけで、凄く幸せな気分になれる俺は、安上がりな高校生なんだよ。畜生。

『オレも…そうだな、オレも一目惚れだったんだろう』

「それは嘘だ。だって、俺のことなんか一度も見なかったじゃないか」

 ムッとして唇を尖らせたら、レヴィアタンのヤツは照れたみたいに真っ白な頬に朱を散らして、俺の額に自分の額を擦り付けてきたんだ。

『馬鹿だな!嘘を吐けば、オレは地獄の業火で焼かれるんだ。まぁ、黙って聞いてろよ。大悪魔が人間に告るなんて、大事件なんだぞ』

「そうなのか?じゃぁ、その光栄に浴して黙ってるよ」

 間近にあるレヴィアタンの顔を見詰めるだけでドキドキしてるなんて内緒にして、俺も頬を赤くしてクスクスと笑った。
 大悪魔のレヴィアタン様が何を告白してくれるのか、楽しみだからこれ以上は何も言わずに聞いておくことにしよう。

『改まると居心地が悪いもんだな…まぁ、その。お前がオレに手料理を進めた時だよ』

「食い物か…」

 やっぱり白い蜥蜴に餌付けしておいてよかったとか、俺が密かに拳を握り締めていると、レヴィアタンはどうもそうじゃなかったらしく、コホンッと咳払いなんかしやがった。

『違う。お前の顔だ』

「へ?」

『お前が、オレに向かって笑った顔だ。あの顔を見たとき、手離したモノの価値に気付いて後悔した。その後に、お前を取り戻そうと、誰の所有物になったのか捜し回っていた矢先に…お前の主人はルゥだと言うじゃないか。オレは思い切り凹んだよ。勝ち目もないし、何より、どうしてオレが手に入れたいものは何時も別の悪魔の所有物なんだって腹立たしかった』

 それだって、最初は自分の手の中にあったのに…と、レヴィアタンは悔しそうに吐き捨てた。
 俺としては、あんまり驚きすぎて、どんな顔をしたらいいのか判らなかった。
 俺が凹んで悲しんでいた時に、レヴィアタンは俺を取り戻そうと躍起になってくれていたって言うのか?それがもし本当だとしたら、俺は、リリスの存在を判っているのに、俺はあんまり嬉しくて、もうこのまま死んでもいいかもしれないとさえ思ってしまった。

『ベヒモスは生きた人間は食わない。だから、混沌の森にお前を隠すことにしたんだ。暫くは、ルゥの目を誤魔化すこともできるだろうと思ってな。ベヒモスとの遣り取りは…お前に本心を知られたくないと思った、悪魔の照れ隠しだ。ベヒモスもそれに気付いたんだろう。あんなこと言いやがって…ッ。あの森でお前を眺めている日々は楽しかった。太陽みたいにコロコロよく笑って、だから、オレのお前への想いは募る一方だったってワケだ』

 …そうか、ベヒモスも役者だったワケだ。気付いてたんなら、早く言ってくれよ!
 あんな、慰め方をされたら、本当にレヴィに捨てられたって思っても仕方ないじゃないか!!
 はぁ…そうか、レヴィアタンは俺をもうずっと、好きだって想ってくれていたんだ。
 コイツなりに画策して、俺を手に入れようとしてくれてたんだな…それで、どうしてもダメだったから、とうとうこの領域まで連れ去ってくれたんだ。
 俺はまた、いや、今度は嬉しくてポロッと泣いてしまった。
 レヴィアタンはギョッとしたみたいだったけど、俺が泣きながら嬉しそうに笑っている顔を見て、ちょっとホッとしたような表情をして頬を摺り寄せてきた。

『お前は笑っている方がいい。泣かれると、どうすればいいのか判らないんだ。誰かを、その、な?愛したことがないんだよ、オレは。だから、優しくすることも判らない』

 それはレヴィの本心なんだと思う。
 じゃなければ、ルシフェルとの契約どおり、今頃レヴィアタンは地獄の炎に包まれているはずだから。
 でも、それだと話がおかしくなる。
 リリスは奥さんなのに、彼女を愛していないと言うのか?愛することが判らないまま、リリスを妻にして、長い時間をずっと一緒に過ごしているのか?…そんなことは、有り得ない。
 あの笑みは、確かに信じあって、心を許した相手にだけ向ける、愛情の表情だった。

『湯治の泉にいるルゥを見かけて、取り敢えず、まずは話し合いで譲って貰えるように頼むことにしたんだよ。で、話が纏まらなければ、別の方法をだな…ッ』

 レヴィアタンの顔が俄かに曇って、ハッとしたら、俺には熱は感じられなかったのに、レヴィアタンの腕が青い炎に包まれていたんだ。ビッシリと額に脂汗が滲んで、その苦しみ方は半端じゃないみたいだけど、でも、けして俺を取り落としもせず、尚且つ、絶対に口を割ろうともしないレヴィアタンに、俺は思わずプッと噴出しちまった。
 酷いヤツだと思うだろうけど、そうまでして隠したがっていることを、俺はとっくの昔に知っているんだ。なんか、レヴィアタンが可愛く見えるんだよ。

「違うだろ?レヴィアタンは端っから喧嘩を吹っ掛けるつもりで斬り付けたんだろ??」

 思わず上目遣いで見ながら、ウプププと笑ったら、ちょっと拍子抜けしたような白い悪魔は先端の尖った耳を項垂れたように垂れたけど、すぐにバツが悪そうに唇を尖らせたんだ。
 そんな仕種も凄く可愛いよ。

『なんだ、知ってたのか。ま、そうだよな。あのルゥが口にしないはずがないか。オレたち悪魔に話し合いなんてないからな。欲しいものは交換か、力尽くで奪い取るしかないんだ。ルゥの場合は、見守り続けている魂より他に欲しいものなんて何もないようなヤツだから、そんなヤツがアスタロトと何かで交換してまでも手に入れたお前を、絶対に手放すはずがないと思ったんだ。だから、まぁ、その…先手必勝ってこといで斬り付けて攻撃したワケだ』

 真実を話し出すと、レヴィアタンの腕を焼いていた青い炎は一瞬で消えてしまった。そうすると、傷も綺麗に癒えるから、地獄の業火ってのは怖いもんだなと思う。
 この大悪魔ですら成す術もなく、燃えているしかないんだから…
 でもそうか、そんな事情だったんだ。
 ルシフェルがそのことをどう思っているか、話してしまったら、またレヴィアタンは呆気に取られちまうんだろうなぁ。

「でも、斬り付けるのは穏やかじゃないよな。ルシフェルが死んだらどうするんだ??」

 眉を顰めて心配そうに見上げたのは、旧知の友を死なせてしまえば、心に深い闇を…ルシフェルが言ったことが本当なら、あんなに綺麗な一面の白い花畑を創造できる心があるはずなのに、レヴィアタンの心を投影した居城は、とても陰気で殺伐とした雰囲気が充満している。と言うことはだ、レヴィアタンの心には、俺なんかじゃ計り知ることのできない深い闇が蹲っているんだ。
 その闇に、さらに闇を重ねて、どこまで堕ちようってんだよ、馬鹿なヤツだ。

『ルゥは死んだりしないさ。オレもそうだぜ。身動きが取れなくなればソイツの負け、だから、ソイツの持ち物は勝者のものになるってワケ』

「なるほど…物騒だけど、命までは奪わないんだからいいのか。それが悪魔の遣り方なら仕方ないな」

 溜め息を吐いたら、ちょっとだけ、レヴィアタンは不機嫌そうに、何もかも見透かしてしまいそうな透明感のある黄金色の瞳で俺を覗き込んできた。
 う、ドキッとするじゃねーか!

『なんだよ、やっぱルゥが心配なんだな。オレを想ってるようなことを言って、本当は、やっぱりルゥが好きなんじゃないのか?!』

 どうしてそう言う結論に達するのか、やっぱり大悪魔様の心の中までは窺い知ることはできないけど、俺は呆れたように溜め息を吐いて言い返してやった。

「ルシフェルを死なせてしまったら、アイツは友達なんだろ?レヴィが寂しくなると思っただけだよ。それでお前、ちゃんと立ち直れるのかな…ってさ、悪魔の遣り方とか知らなかったし」

 まぁ、少なからず、あのお人好しの悪魔がいなくなるのは、俺自身だって寂しいとは思うけどな。

『…へー、じゃあオレのことを考えて、ってワケだな?』

「はぁ?そんなこと、当たり前だろ」

 レヴィアタンは何を言ってるんだと眉を顰めたら、白い悪魔は、なんと言うか、凄く綺麗な顔立ちをしているくせに、ガキ大将みたいな憎めないツラをしてニヤッと笑ったんだ。

『そうかそうか、じゃぁ、いいんだ』

 そう言って、俺の頬に思い切り頬擦りしてくるから吃驚して、また俺は目を瞠るしかない。
 7つの大罪の嫉妬を司る悪魔は、俺には理解不能の感情を持ち合わせてるみたいだ。
 愛を知らないと言った大悪魔は、少しずつ、俺に興味を持って、何時か俺が目の前からいなくなるときまでに愛を覚えたら、リリスが傍に居るんだから寂しくないだろうなと思う。
 愛を知るために、レヴィアタンが俺を選んだのなら…俺は、甘んじてそれを受け入れるしかない。
 優しいレヴィを心から愛しているけど、あれは【悪魔の樹】が見せた幻影だったとしたら、大悪魔であるレヴィアタンこそが真実なのだから、俺はこれからゆっくりともう一度、あの夢のように幸福な日々を築いていくしかないんだ。
 嬉しそうに笑って頬擦りをしてくるレヴィアタンに、俺は目蓋を閉じると、その白磁のような頬に口付けた。
 愛しているよ、と、言葉にできない想いを込めて。
 何時か、この想いが凍てついたレヴィアタンの心に届くように…