第二部 8  -悪魔の樹-

 その後の俺と言ったら、振り返ったらきっと後悔するに違いないってのに、やたら浮かれてはしゃぎまくっていた…って、いや勿論。
 ここは薄ら寒い殺気のような、どこか落ち着かない気配が漂う魔界なのだから、はしゃぐと言っても声を上げて笑うとか、転がり回るとか、んな場違いな行動を起こしてるワケじゃないんだぜ?
 いや、俺だって命ぐらいは惜しいよ。
 ヘラヘラ笑ってる…ってのが、正しい表現かもしれんな。
 それこそ、今は俺のご主人になっているルシフェルでさえ、ポカンッと、呆気にとられたような間抜け面をするぐらいなんだから、その顔のしまりのなさは余程だったんだろう。

『顔が溶けそうだな、おい』

「気持ち悪ぃ発言するな…つっても、全然気にならないけどな~♪」

『…ぐは、気持ち悪ッ』

 俺の浮かれぽんちに、ルシフェルはやれやれと溜め息を吐くものの、それでも何処かホッとしたように笑う辺り、この(レヴィにとってもだけど)悪友は、見た目以上に極悪…ってワケでもないんだろう。
 まぁ、そりゃそうか。
 俺やレヴィのために、悪魔なのに、無罪放免で俺たち人間が暮らす世界に戻ってたって言うのに、わざわざうんざりする魔界に帰ってきてくれたんだからな。
 本当なら、感謝するべきところなのに、俺も大概、恩知らずだって反省してしまうよ。
 でも、顔は笑っちゃうんだよなぁ…いや、ホント。
 友達甲斐のないヤツでスマン、篠沢。

『まぁさぁ、つれない顔して、寂しそうに俯いてばかりいられるよりは、オレとしてはこっちの光太郎の方が随分とマシに思えるからいいんだけどさ』

 瞼を閉じてバフンッと幾つも積まれている、豪奢なクッションに背中からダイブしたルシフェルは、頭の下で両手を組んで機嫌が良さそうだ。
 やっぱ、眉間に皺を寄せてムッツリ黙り込んでばかりいたから、そんな俺を見るよりは、鬱陶しくなくて気が楽にでもなったんだろうな。

「ところどでさ、篠沢。そろそろ、出発してもいいんじゃないのか!?」

 機嫌が良さそうなルシフェルに、俺はベッドに飛び乗って、頭の下で腕を組んでグーグー眠りそうな綺麗な顔を覗き込んでせがんでみた。
 もう、何度となく繰り返しているんだけど、やっぱり、ルシフェルは機嫌が良さそうにキッパリと宣言した。

『まだダメだ』

「…またかよ。もう、その返事は聞き飽きたんだけどよ」

 ムッとして、ジトッと睨み据えても、さすが魔界に君臨する泣く子も黙る堕天使様は、全く意に介した風もなく素知らぬふりで寝たふりなんかしやがるんだ。
 そうなると、傲慢が服を着てるような頑固な悪魔は何が何でも、梃子でも動こうとしないから厄介だ。
 だから俺は、仕方なく溜め息を吐いて、もう暫くだけ幸せの余韻を噛み締めておくことにした。

 それから暫くして、俺はまた、ルシフェルが城を留守にするからと、くれぐれも目立つことはするなと言い付けられて残った魔城で、灰色猫も、最近は忙しそうで相手してくれないし、またふらふらと城内を歩き回ることにしたんだ。
 この魔城ってのはヘンなところで、常に空間が移動してるとか何だとかで、この間行けたはずの食堂に辿り着くことができなくなってるから、まるで迷路、目的地まで延々と探し回らないといけない。
 ルシフェルの部屋に戻るときは、それでも便利なんだよな。
 俺のご主人になってるから、アイツの部屋に戻りたいと願えば、自然と目の前に扉が出てくるんだ。そこがたとえ、廊下の真ん中でも平然と。
 疲れたなー、もう歩きたくねーな、ルシフェルの部屋って何処だったっけ?…とか、そんなことを考えていたら、いきなり目の前にデーンッと現れたりするから、思い切り鼻っ面をぶつけてしまった嫌な思い出がある。
 だから、最近はちゃんと立ち止まって、一呼吸おいてから、部屋よ現れろ!…とか、カッコ付けて言ってみたりする。
 今はまだ、出てきたばかりだから部屋はいらないけどな。
 ふらふら歩いていたら、ふと、目の前に天使が悪戯に人間に化けました…ってな面をした、品の良い顔立ちのヴィーニーが足音もなく近付いてきた。
 たぶん、滑るように歩くとか、優雅だとか、そんな形容詞が良く似合う美少年なんて、うげーな呼ばれ方をする綺麗なヴィーニーは、俺になんか目もくれずに真っ直ぐに前を向いたまま通り過ぎていく。

 おい、ちょっと待てよ!レヴィは何処にいるんだ!?…腕を掴んで引き止めて、捲くし立てられたんだったら俺も天晴れなんだろうけど、近寄り難い品のようなものを撒き散らすヴィーニーを、引き止めて悪態を吐くなんて芸当は、一般市民の俺には到底できない芸当だと、トホホな心境で見送るしか術がない。
 駄目なヤツだなぁ、俺って。
 でも、ふと俺は思うんだ。
 あんなに綺麗な、なんでもそつなくこなせる完璧なヴィーニーでも、やっぱり、何か罪を犯してこの魔界に堕ちてしまったんだな…でもなんか、ヘンな気分だ。
 きっと、向こうの世界で生きていれば、誰からでもちやほやされるに違いないのに、どんな罪でヴィーニーはこの魔界にいるんだろう。
 魔界…ってのも、ヘンな言い方だよなぁ。
 肌寒いような、常に鳥肌が立つようなこの感覚は、たぶん、恐怖だとか殺気だとかが渦巻いているせいだと思うんだけど、それよりも、深い深い…俺たちなんかじゃ想像もできないほど凶悪な何かが潜んでいるような、魔城の窓から覗くこの惨憺たる景色は、どこをどう見ても、立派な地獄に見える。
 こんなところにレヴィはいて、そして、ここで世界の果てを見ていたんだなぁ。
 通り過ぎるヴィーニーの身体からは、嗅ぎ覚えのある、忘れることなんかできるワケがない甘ったるい、あの桃に似た芳香が漂っていた。
 できればいつまででも嗅いでいたいその匂いが、今は吐き気を覚えるほど嫌なものに感じてしまう。
 その匂いが、ヴィーニーだけじゃない、俺以外の他の誰かから漂うことが、こんなに気分の悪いものだったなんて…そんな風に考えてしまう自分の浅ましさみたいなものを見せ付けられたような気がして、地獄の奥深い陰険さにムカついただけなのかもしれないけど。
 ヴィーニーをやり過ごして俯いていたんだけど、もしかしたら、あのままヴィーニーの後を追えば、もう一度白い悪魔に逢えるんじゃないかとか…そこまで考えて苦笑してしまう。
 逢ったって、どうせレヴィは俺のことを覚えてはいないし、お気に入りのヴィーニーにコソコソくっ付いている俺なんか、小煩いハエぐらいにしか思わないような目で見られるのも癪じゃねーか。
 やめた、ヴィーニーを追おうなんて、何馬鹿なこと考えてるんだよ。
 …太陽が眩しくて、見上げれば、変な話なんだけど、青空の下で真っ白な髪をした悪魔が嬉しそうに笑うから、その声を聞けるから、それら全てが当然のことで、まるで当たり前だなんてどうして考えていたんだろう。
 悪魔なのに、悪魔の癖に人間みたいに優しくて、ちっとも悪魔らしくない、そんなレヴィが好きだった。
 陰険で嘘吐きで、凶暴そのもので冷酷無情だなんて、いったい誰が言ったんだ?
 俺が知っているレヴィアタンと言う悪魔は、揺ぎ無い自信を持っている威風堂々とした、海の王者だ。
 津波を起こすこともなく、悪魔に不可能のない、優しさを持っていた。
 でも、たとえば、それら全てが悪魔の樹が成しえたことだったとしたら…俺はどうするんだろう?
 本当は無情な悪魔で、俺なんか、虫けらぐらいにしか思っていないような、酷い(本来はそれが当たり前なんだろうけど)悪魔だったら…それでも俺は、レヴィを好きなんだと思う。
 与えられた優しさを、忘れてしまうには、あまりに鮮烈で強烈な印象だ。
 忘れられやしない。

「ご主人さま」

 きっと、思い切りニッコリと微笑んだに違いない声音で、ヴィーニーの弾んだ声がした。
 思わず振り返りそうになるのを必死で耐えて、耳に届くだろう、あの聞き慣れた声を待ち焦がれていた。
 そんな自分の姿は滑稽で、できれば消えてしまいたい衝動にも駆られたのに、それができないほど俺はその声を…いや、声の持ち主を待ち焦がれているんだ。

『…』

 それでも、待ち望む声は聞こえなくて、ふと、肩越しに振り返ったら、それでも白い悪魔は冷徹な眼差しでヴィーニーを尊大に見下ろしていた。
 そのふてぶてしい態度は、ヴィーニーなんかどうなっても構やしないとでも言いたげで、あんなに上機嫌だったはずなのに、その目付きはもう、興味の失せた人形でも見るような声を出すのも億劫だとでも言いたげな、侮蔑の態度だったと思う。
 その180度豹変した、お前どうしちゃったの!?と、思わず聞かずにはいられないような態度の変化に、それでもヴィーニーは弾んだ声で自らのご主人に擦り寄ったんだ…胸はズキリと痛むはずなんだけど、そんなことを考えるよりも早く、レヴィは煩いハエでも払うように、絡み付いてきた華奢な腕を振り払った。

『馴れ馴れしくするな。下賎の輩は性質が悪い』

 不機嫌そうに振り払った腕は、そんなに大したようには見えなかったのに、ヴィーニーは派手にすっ転んで、一瞬、何が起こったのか判らない顔をした。それでも、動揺したようにレヴィを見上げたんだけど、心の芯まで冷え込むようなブリザードを纏う白い悪魔の声音に、凍りついたように身動きできずにいるようだった。

『レヴィアタン様、如何なさいましたの?』

 ふと、そんなレヴィの背後から声を掛けるヤツがいて、どうしていいのか判らないまま、呆気に取られたように事の成り行きを見守るしかない俺の目の前で、レヴィは冷徹な黄金の双眸で、やっぱりどうでもよさそうに声の主を見ることもせずに吐き捨てた。

『アスタロトと交換した奴隷だが、もう飽きた。欲しければやるぞ』

『えぇ?本当??』

 声の持ち主は、やたら胸元を強調する古風な深紅のドレスを着て、豊かに結い上げた漆黒の髪が気だるげに解れて頬にかかる、退廃的な美貌の女だった。
 レヴィと並べば完璧な対になるほど、整った顔立ちの女は…って、どうして悪魔ってこんなに美形が多いんだ?…なんか知らねーけど、非常に腹立たしいんだが。

『でもねぇ、アスタロトの奴隷でしょ?あたしはいらない。彼女に返してあげればいいわ』

『物好きなベルフェゴールがいらないとはな』

 フンッと鼻先で笑いながらも、けして相手を見ようとしないのは…もしかしたら、ルシフェルよりも、本当はレヴィの方が傲慢なんじゃないかと疑ってしまう。
 いや、その前に、どうしてアスタロトが【彼女】なんだ!?
 今のこの状況で、驚く部分が微妙に間違っているような気もしなくもないんだけど、緩やかな濃紺の巻き毛の、あのチャランポランそうで怠惰な、それから、寂しげな悪魔が女だって言うのか!?…うぅ、信じられん。 だって、俺はアイツに散々お、犯されたんだぞ。
 身体で思い知ったって言うのに…

『あらぁ?ルシフェル様の奴隷ちゃんじゃない』

 思わずガックリしそうになる俺に、退廃的で気だるげな美人がゆったりと声を掛けてきた…んだけど、俺はこんな綺麗な悪魔のおねぇちゃんは知らないし、でも、(気持ち的には冗談じゃないんだけど)ルシフェルの奴隷になったことには間違いないから、仕方なく!ご主人のために笑って愛想良くすることにした。

「こ、こんにちは」

 思わずはにかんだら、女悪魔は気だるそうなのにニコッと笑い返してきた。
 思わず、ほやんっとなる笑い方に、悪魔なんだけど、このおねぇちゃんは害がなさそうな気がした。
 いや、あくまで気がしただけであって、悪魔なんだから害がないワケないことは十分、アスタロトで承知しているから警戒は怠らない。魔界で覚えた護身術だ。

『…なんだと?』

 ふと、そんな美人な悪魔とヘラッと笑い合っている俺の耳に、氷点下よりももっと冷たい、心臓が凍り付いちまいそうな声が滑り込んできて、意味もなくビクッとしてしまった。

『ルシフェルの奴隷だと?』

 軟なハートでは到底、太刀打ちなんかできない魔界の実力者の凄味に、思わず青褪める俺なんか無視して、手許で弄んでいた漆黒の羽根の扇で口許を隠しながら、女悪魔は殊更のんびりと答えてレヴィを苛々させたようだ。
 スゲーな、悪魔のねーちゃん。

『あらぁ、レヴィアタン様は知らなかったの?この子はルシフェル様の奴隷で、一番のお気に入りだそうですわよ』

『まさか!』

 レヴィの即答に、どうやら真剣にそんなはずはないと思い込んでいる様子が伺えて、俺は怪訝そうに眉を寄せてしまった。
 どうして、こんなに全否定するんだ??
 だって、悪魔なんて連中は、常に奴隷を侍らせてるんだから、俺みたいな奴隷の1人や2人…って、そうか。悪魔のねーちゃんが【お気に入り】なんて言ったからビビッたのか。まぁ、そりゃそうだよな。俺みたいな何処にでもいそうな人間がお気に入りじゃ、あの幻みたいに綺麗なルシフェルに失礼だよな。
 そう言ってしまうと、俺を愛していると言ってくれるレヴィの立場もなんだかな…ってことにはなるんだろうけど、この白い悪魔と俺の悪友であるルシフェルの為にも、ここは俺が大人になるべきだ。うん。
 レヴィの氷の美貌に怯んでる場合じゃない。

「とんでもありません」

 えーっと…確か。

「ベルフェゴール様、俺はルシフェル様のお気に入りなんかじゃないです」

 名前、間違ってないよな?
 さっき、レヴィは確かに、この悪魔のねーちゃんのことをベルフェゴールって呼んでたからな。

『うふふ。謙虚な奴隷ちゃんねぇ』

 ホッ、どうやら、名前は間違ってなかったみたいだ。

『…そんな、馬鹿な。ルシフェルが』

 レヴィは雷に打たれでもしたように、黄金の双眸を見開いて俺を睨み付けるから、どれだけ憎まれてるんだと、あらぬ疑いを自分自身に持っちまうじゃねーか。
 コイツの、この目だけはどうしても好きになれない…と、今、気付いた。

『そうですわねぇ。奴隷を1人もお召しになったことがないあのルシフェル様が、お気に入りとまで呼ばれて、寝所を共にされているんですもの。驚いてしまいますわ』

 どうやら、全く悪気はないんだろう。
 まるで世間話でもするかのように、って事実、悪魔のねーちゃんにとってはただの世間話に過ぎなかったのに、どうもそうではなさそうなレヴィの態度に俺がビビたって仕方ない。
 だって、相手は俺を完全に忘れてる魔界の実力者で海の王者なんだ。

『そんな話は聞いてないッ』

 別にレヴィが聞いてなくても、そんなのルシフェルの勝手じゃねーのかと、思わず突っ込みを入れたくなる俺の前で、白い悪魔は綺麗な顔に似合わずかなり怒っている様子で踵を返したんだ。

『あらぁ…ルシフェル様のところに行かれますの?では、この奴隷は如何致しますの?』

 踵を返すついでに、どうしてか、レヴィはガシッと俺の腕を掴みやがるから、引き摺られるようにして連行される俺に言ったのか、はたまた湯気が出るほど怒り狂っている白い悪魔の背中に言ったのか、恐らく後者に決まってるんだろうけど、情けないほど泣き出しそうな顔をしているヴィーニーの前で、気だるげに扇を弄んでいる中世の貴婦人…ってのは言い過ぎの美貌のユルイ女悪魔にレヴィは短く吐き捨てたんだ。
 勿論、振り返りもしないで。

『くれてやる!』

『あら、まぁ』

 心底困ったように眉根を寄せる悪魔のねーちゃんと、気の毒なヴィーニーには悪いんだけど、もしかして、今一番危機なのはズバリ俺じゃないのか!?
 どうして俺が怒られなきゃならないんだ、心外だぞ!
 と、捲くし立てられたら俺も天晴れなモンだけど、やっぱりしがない普通の高校生は、青褪めたままで引き摺られる羽目になるんだろう。
 うぅ、俺、どうなるんだ…ッ!?