1  -愚者は真夜中に笑う-

 その日の俺はかなりムシャクシャしていた。
 バイトがなかなか終わらなくて焦っていたってのに、結局終電を逃しちまって、たまたま近くまで行くって言う先輩の車に乗っけてもらったまでは良かったけど、降りた場所はアパートから1時間も歩かなきゃならないわで、ホントに踏んだり蹴ったりだった。
 その上、提出しないといけないレポートは明後日までなんて悪夢に、できれば誰か引っ叩いて起してくれねーかなとか思ってしまった。
 急ぎ足で誰もが眠る丑三つ時、2時を少し回った人通りの全くない寂しい道を歩いている、そんな凶暴な思いを抱えた俺の足許に、突然塀の上から降って来た真っ黒い猫が『にゃあ』と啼いて擦り寄って着たりするから…

「うるせーんだよッ」

『ぎゃんッ』

 俺は思わず蹴飛ばしてしまっていた。
 日頃はこんな凶悪な気持ちなんて持つこともないし、ましてや擦り寄ってくる野良猫を蹴飛ばすなんてことは絶対しなかったって言うのに、その日の俺は本当にどうかしていたんだと思う。
 闇夜に紛れてしまうほど黒い猫は蹴飛ばされて、道路の上をスライディングしたものの、ゆっくりと起き上がるとよたよたと俺の傍まで近寄ってきて、黄金色の大きな瞳で見上げると、やっぱり『にゃあ』と啼いたんだ。

「~~ッ」

 その怒ってもいないし、ましてや恨んでもいないような綺麗な瞳を見て、その時になって漸く自分が仕出かしちまった事の重大さに気付いたんだけれども、強情で素直じゃない俺は謝ってやることも怪我を心配してやることも忘れて、そのままそんな黒猫を無視して足早にアパートまで歩いて行った。
 にゃーんにゃーんと啼いて呼ぶ猫のことなんか無視して、とうとう振り返ってもやらなかった。
 きっと、痛かったに違いないだろうに…

 おんぼろアパートに着いて古い鉄製の階段を駆け上がって、嫌な気分だったってのに、自分のせいでますます嫌気がさしていた俺は、乱暴に鍵を開けて部屋に転がり込むと、こんなアパートでも風呂付を選んでいて良かったんだが、シャワーもそこそこに万年床に潜り込んで眠ることにした。
 バイトの疲れに加えて1時間近くも歩いたせいか、その時の俺は草臥れていたんだと思う。あんな嫌なことをしたんだから緊張して感情が昂っていてもちっともおかしくないし、それで眠れなくなるんだろうと思い込んでいたってのに、よほど疲れちまっていたんだろうなぁ、俺は程なくして深い眠りについたみたいだった。
 ウトウトしていて、ふと腕に違和感を感じで目が覚めたはずなのに、辺りは見渡す限りの漆黒で、気付けば俺はどうやら全裸で吊るされているようだ。

「???!」

 細い鎖のようなのに力いっぱい引っ張ってもビクともしないし、何より、この完全な闇はどう言うことなんだ?!
 …ああ、そうか。俺は夢を見ているんだ。
 どんな悪夢に魘されるんだとうんざりしていたら、不意に背後に人の気配がして、俺は咄嗟に自分が全裸であることに気付いて赤面したものの、これは俺の夢んだからきっと綺麗なお姉ちゃんが魅力全開で登場していつもみたいに派手にエッチなことをするんだろうと思った。
 いつものエッチな夢にしては珍しいシチュエーションだな。

『よくも蹴ってくれたな』

 不意に野郎の声がして、俺は思わず「え?」と声を出して振り返ってしまった。
 そこに立っていたのは鼻の頭に皺を寄せて下唇を突き出した、真っ赤に滴るような紅い虹彩を持つ褐色の肌の、ゆるやかなウェーブが肩を覆う漆黒の髪と、それを突き出して覗く捩じれた角を持つ、どうやら外見は悪魔みたいな野郎が、豪く不機嫌そうに腕を組んでいたんだ。
 呆気に取られて目を瞠る俺に、ヤツは黒髪を掻き揚げながら不機嫌そうに言いやがった。

『夜道に独りじゃ不用心だからってほんの気紛れで懐いてやろうと思ったのに、なんだお前は。ひ弱な猫を蹴るなんて上等な根性をしてるじゃないか』

 苛々としている感じはビンビン伝わってくるのに、この俺の夢の産物であるはずの悪魔みたいな男は、態度のワリには冷静な口調でブツブツと悪態を吐いている。

「…猫には、悪かったと思ってるんだ」

 それでも痛いところを突かれた為か、罪悪感に苛まれていたせいか、俺はモゴモゴと口籠るように言い訳を試みてしまったんだ。

『悪かっただって?そんな綺麗事で許されるとでも思っているのか?』

 禍々しいほど真っ赤な紅蓮の双眸で俺を睨み据えるソイツは、いや、この際悪魔と呼んでも間違いじゃない出で立ちの…と言うのも、上半身は裸なんだけど、下半身はジーンズみたいなズボンを穿いているから角だけで一概に悪魔と呼ぶのもどうなんだろう?そんなコスプレでもしてるキャラを登場させるぐらい、俺の脳内は何かに汚染でもされてるんだろうか。

「朝にでも様子を見に行こうと思って…」

『遅いんだよ。何もかも遅い。蹴り所が悪くて死んでいるとは思わないのかよ?』

 腕を組んで下唇を突き出すようにして責め立ててくるこの悪魔みたいなヤツは、きっと俺が作り出した罪悪感が具現化した姿なんだろう。
 甘ちゃんな俺のことだから、きっと天使のように綺麗なお姉ちゃんが現れて、俺の罪を判り易く説いてくれて、そして苛まれている俺を優しく抱きしめて慰めてくれて、それからエッチに突入!…な夢かと思ったら、どうやら俺は、責め立てる相手を悪魔に見立てるほど、今回のことを後悔しているんだな。
 よかった、まだ真面な心ってヤツが残ってたんだ。

「それは…」

『ふん!大方、考えてもいなかったんだろうよ。オレはインキュバスだから本来なら人間の女しか相手をしないんだが、今夜は特別だ。蹴られたお礼をしてやるよッ』

「え?…ッ」

 両手を吊り上げられたままの不安定な状態の俺に、悪魔みたいな野郎が鋭く尖った爪を有した指先を持つ腕を伸ばしてきて、無防備な裸の胸元を触れた瞬間だった。
 ゾクリッと背筋に奇妙な怖気が這い上がって、次いで、信じられないことに興奮して勃起してしまっていたんだ。
 な、なんなんだ、これ?!
 ただ、ゆるやかに触れられているだけだって言うのに、脳天がスパークしてそれだけでイッてしまいそうなほどガチガチに俺の逸物は勃起して、先走りの雫が震えるみたいに盛り上がっている。
 頭ではこんなのはおかしいと判っているのに、身体はゾクゾクして、もっとソイツに触って欲しいと望んでいるみたいだ。自分では意識していないってのに俺は頬を染めながら欲情に濡れた双眸で縋るように、ムスッとしている俺とは対照的な不機嫌そうな表情の悪魔みたいな男に救いを求めるように見詰めてしまっていた。

『どうだ、誘惑を拒否できないだろう?女なら優しく大切に抱いてやるところだが、お前には愛撫だってしてやるかよ』

 言うが早いか、ヤツは吊るされている俺の身体を反転させて、背中から覆い被さるようにして抱き締めてきたんだ。それだけでもう、イきそうになったのに、すぐに俺の口からは悲鳴のような叫び声が漏れていた。

「ッ…い、いてッ!いた…やめ…いーーーッッ」

 ぎちっ…と、視覚を伴うような音が聞こえた気がした。
 血管の浮かび上がった灼熱の鉄の棒を、何かやわらかいオブラートで包んだような、ぬらりとしたその先端が、本来なら排泄行為にしか使うことなんてないだろうって場所にグイグイと押し付けられて、そしてあろうことか潜り込もうとしやがってるんだ!
 我慢ならない痛みに全身で拒絶してるって言うのに、鋭く尖った爪を持つ指先で、じっとりと汗が滲む額に張り付く鬱陶しいぐらい真っ黒の髪を掻き揚げられたら、ほんの少し欲情に意識が逸らされてホッとした…のもつかの間、その瞬間を狙い定めたみたいにグイッと窄まりを突き破るようにして灼熱の杭をねじ込んできやがった。

「あ!ッッ…い、ひぃッッ!!」

 もう、悲鳴しか口から出てこない。
 こんな悪夢があるんだろうか…俺はそのまま意識を手離して目覚めたいのに、俺をこんな極限の激痛と恐怖に叩き落としてくれている男は、そうすることを拒むようにするすると脇腹から腹を指先で辿り、苦痛と快楽に俺を喘がせる。
 いっそ、殺してくれたいいのに…
 ブツ…ッと、何かが切れたような破れたような音が、いや実際は音なんかしていなかったかもしれないけど、俺には感覚的に胎内で音が響いたように感じたんだけど、ポタポタッと足許に鮮血が零れて、長大でガチガチに硬くてゴツゴツしたモノがスムーズに潜り込んだから、ああ、きっと切れてしまったんだ。
 口に出すのも悍ましい、その器官が。
 同時に襲ってくる激痛にのたうつこともできなくて、俺の全身から力が抜けたみたいだった。
 その俺の身体を片手とアレで支えながら悪魔みたいなヤツが鼻で息を吐き出す気配がした。

『ふん、自分が痛めつけられれば弱音を吐くのか?だがまあ、男もなかなか悪くないって新境地を発見させてくれたんだ。今回はこれで許してやるよ』

 耳元で甘ったるく囁かれて、あれ?コイツってこんな声だったっけ?
 もっと不機嫌そうで苛々していたみたいな…ああ、もう怒っていないのか。
 ズッ、ズル…ッと引き抜かれては内臓を全部持っていかれるような違和感に吐き気がして、挿し込まれる瞬間には痛みに唇を噛み切りたくなって目尻から涙を零していると、よく判らないインキュ…バス?と名乗ったソイツは、俺の耳元で気持ち良さそうに溜め息を吐いている。
 俺の狭くて小さい器官は切れているとは言えまだぎゅうぎゅうみたいで、喰い千切らんばかりになっているんじゃないかって思うのに、インキュバスはちっとも辛そうじゃないから…なんだよ、この不公平さは。

「ヒッ…あ、い、いぁ…ッ、……ぅ」

 涙をぽろぽろ頬に零して声にならない悲鳴を上げる俺を見ているのかいないのか、何故か紅蓮色の視線を感じたような気がしたけど、今の俺はそれどころじゃない。
 この世で感じたこともない痛みを感じさせられているって言うのに、気絶することもできなくて、その痛みで目覚めることもできず、じっとりと全身に脂汗を滲ませて、ひたすら胎内の男が出て行ってくれるのを待っているって言うこの状況で、ヤツは俺の肩口に咬みついて気持ち良さそうにしてるんだから泣きたくなる。

『ああ、なんだ凄くイイな。まさかこのオレが感じるとはね。よし、もうお前もイけ』

 俺の血液とヤツの先走りで卑猥な音と腰を打ち付ける音が混ざり合って、聴覚でも犯されながら涙を流していると、そんなことを呟きながらインキュバスは背後から俺の頭を押さえるようにして振り向かせて、牙のある唇で口付けてきた。
 痛みに引き攣れる舌に舌を絡めてきて、噎せ返るような男の色気が媚薬みたいに俺の脳内を麻痺させながら、深く深く口付けてくるから、俺は泣きながらその舌を受け入れていた。
 次の瞬間には鋭い爪を持つ指先で萎えて縮こまっている俺自身を掴み、根元からねっとりと扱かれて、それだけだと言うのに、そんな単純な行為だと言うのに痛みも苦痛も何もかも一瞬で忘れて、得も言えぬ激しい快感には目がチカチカすると頭の天辺で何かがスパークしたようで、俺は一瞬でイッてしまっていた。
 その衝動とほぼ同時に俺の胎内にインキュバスが吐精して、噴き上がったマグマのような熱を持つ体液が最奥に注がれたようだった。
 何か言われたような気がしたけど、それで漸く、俺は悪夢の中で意識を手離すことができたんだ。
 やっと、悪夢が終焉を迎えたみたいだった。

 チチチ…ッと鳥の鳴き声が聞こえて、俺は上半身を起こした万年床の上でぼんやりと布団を掴んでいた。
 なんだかガチガチに緊張したみたいな身体は強張っているのか、若干息も荒いような気がするし、何やらぐっしょりと汗ばんでいる気もしていたから、昨日はバイトも忙しかったし1時間も歩きまくって心身ともに疲れたんだなぁと実感したよ。
 何か夢を見ていたみたいなんだけど思い出せない。
 うーん…俺は夢の内容を忘れることはあっても、大概その断片は記憶しているんだけどさ、今回は何故かサッパリと忘れてしまっているみたいなんだ。
 とは言え、本能の部分が思い出さない方がいいと言っている感じがするから、たぶんいい夢じゃなかったんだろうな。
 俺は溜め息を吐いて起き上がると伸びをしたんだけど、その瞬間、何故かズキリッとあらぬ部分が痛んで飛び上がってしまった…けど、それは何かの名残りみたいなものだったのか、恐る恐る歩いてバスルームに向かったけど、その時はもう痛くなかった。
 なんだったんだ。
 俺は大学に行くための準備をしながら、予測不能の事態に不安を感じていた。