もう随分と、長いこと降っているように感じるのは俺の錯覚なんだろうか?
いや、そんなはずはないな。那智と別れてからベントレーの肩の上に担がれて、オレンジのツンツン頭の行き付けとか言うファーストフードから出てきた時にはもう、泣き出しそうな曇天の空から大粒の雫がポツポツと落ちてきていたから…那智は。
ふと俺は、いつも座っている場所から見える、窓の外に陰鬱に広がる空を見上げていた。
夜の帳は雨のせいで思うよりも早く下りてきているし、かと言って、それに怯むほど俺が待っているヤツは臆病者でもなければ腰抜けでもない。
やたら機嫌の悪かったベントレーが『土産』だと言って寄越したお持ち帰り用に用意されたビニールの袋は無造作に床に転がって、それが却ってこのアンティークな部屋を薄ら寒くしているような気がして、俺は縮こまるように膝を抱えて座りなおした。
那智は、蛍都がいる病院に行ったきり戻って来ない。
ベントレーが言うには、面会時間ギリギリまで一緒にいるから、大方、戻って来るのは夜中になるだろうと言っていた。
確かにそうなのかもしれない。
いつもはそれなりに賑やかな通りには、既に夜の気配が濃厚になり始めた夕暮れ時には人影もなく、車すらも走らない、一種のゴーストタウンのようになっている。
仕事が長引いて真夜中に戻って来ることもあった那智は、そんな薄気味の悪い通りを、まるで何事もないかのように鼻歌なんか口ずさみながら足音高く帰って来ることがあった。そんな時は決まって、誰かが犠牲になるワケなんだけど、もうこの近辺に息を潜めている悪党どもは心得ているのか、そんな那智を暗がりに身を潜めてビクビクと見守っているようだった。
泣く子も黙る浅羽那智。
その那智を、さらに黙らせることができる蛍都。
一瞬、脳裏に閃くように掠める嫌な想像に、俺はギュッと瞼を閉じて唇を噛み締めた。
どうして…こんなに嫌な気分になるんだろう?
那智を、癒して支えている蛍都のことを考えるだけで?
もしかしたら蛍都は、やわらかな栗色の髪をしているんじゃないか…色が白くて可憐で、那智がそのやわらかな胸元に頬を埋めれば、まるで女神のように優しく微笑んで、痛んでしまって傷付いた黄褐色の髪に唇を寄せるんだろう。
そんな妄想が脳裏に浮かべば、それだけで嫌気がさす。
なぜだろう…そんな自分が嫌で、なぜ自分がそんなことを思ってしまうのか、判らなくて不安になってくる。
「いーじゃねーか。那智は幸せなんだ…」
もし今、妹が、可愛かったふわふわくるくるの栗色の髪をした紫苑が生きていれば、俺はこんなに不安を感じなかったのか…よく、判らない。
この世に漸く、何か救いのようなものを見つけ出しちまったせいで俺は、その存在が自分ではない誰かのものだと知ったからこんなに不安になっているのか。
判らない。
判らない。
心を寄り添いあえる家族が生きてさえいてくれたら、那智の不在をこんなに不安には思ってはいないんだろう。
俺はきっと、那智を家族のように考えてしまっているのかもしれない。
あの雨の日、俺はまるで雛鳥のすり込みのように、瞼を開いて見た那智を、あのクソッタレな街角から引き摺り上げてくれたあの腕を、家族のように大事だと思うようになったんだろうなぁ…
窓の外に広がる夜の帳を下ろして雨に濡れる灰色の町を見詰めながら、俺はちょうどこんな日だったと思い出していた。
そして、そんな思いにふと囚われそうになった時、まるで俺の妄想から抜け出してきたみたいに漆黒のコートのポケットに無造作に両手を突っ込んで、まるで無頓着に飄々と歩いてきている那智に気付いたんだ。
少し俯き加減ではあるけれど、別に機嫌がよさそうもないし、俺を見ようともしない。
どうしたってんだ、那智は?
いつもなら何処にいたって一目で俺の動向なんか捕らえてしまうはずの那智の、その眼差しは今にもショートしそうな、チカチカと切れかけている街灯が作り出す陰影に隠れて確認することもできない。
一抹の、不安。
何が?とか、どうして?とか、聞かれてしまっても判らないんだけど、胸の辺りをギュッと掴まれるような、そのくせ、素っ気無く突き放されるような心許無さに俺は、慌てて膝立ちになると窓ガラスに掌の体温を吸われながらへばりついてしまった。
「那智…?」
聞こえないって判ってるんだけどな、どうしても呟かずにはいられない俺の口から零れ落ちたその声を、まさかお前、聞こえたなんて言わないでくれよ?
ふと、名前を呼んだら、那智はまるで返事でもするようにヒョイッと顔を上げたんだ。
いつものニヤニヤ笑いは相変わらず口許に貼り付けて、そのくせ、どこか不機嫌そうな目付きは凶悪なオーラを垂れ流しにしている。
この辺りの人影を、いつもより余計に失せさせたのはまさか、那智のその目付きなんじゃなかろうか…と、俺が思ったとしても致し方ないと思う。
何か、俺は那智を怒らせるようなことでもしてしまったかな?
ベントレーや鉄虎に蛍都のことを聞いてしまったのがいけなかったのかな…そんな風に、那智に一睨みされただけで竦んでしまう俺は、自分の根性のなさにどうしようもなくて泣きたくなってしまった。
どうして、胸の辺りが痛いんだろう。
那智の眼光に怯んでしまったせいなんだろうなぁ、やっぱり。
胸の辺りが痛くて思わず顔を歪めたままで見下ろした那智は、飽きもせずに降り続ける雨の中で呆然と突っ立っているようだった。
降り頻る雨にすっかり濡れてしまった前髪の隙間から、物言わぬ影のように、ひっそりと、そのくせ雄弁に語り掛けてくるような目付きをした那智を、俺はどんな顔をして見下ろしたらいいのか判らなかった。
町の喧騒も、今はそれすらも鳴りを潜めて静寂に静まり返った町に、只管降り続ける雨の音さえも遮断されたこちらの世界から、現実を真っ向から叩きつけられる殺伐とした世界にいる那智を見下ろす俺…まるで、そうだ。
こうしている今でさえも俺は、那智が与えてくれた安楽な場所で、あれほど殺気だって怯えまくっていた世界から護られるようにして『生きている』と言う事実を、今更ながら気付いてしまった。
(俺は…あれほど死にたいと思っていたこんな薄ら寒い町で、生きているのか)
硝子に蒸気で手形を残しながら拳を握った俺は、淡々と見上げてくる薄ら笑いのそれこそ不気味としか形容できない男を、見下ろしたままで笑っていた。
そんなつもりは全くなかったけど、気付いたら口が勝手に動いていた。
「お帰り」
声のない、唇だけの言葉に、いったい那智が何を感じるのかなんてことはケチなコソ泥の身分じゃ…いや、今はただの野良犬の身分では理解なんかできるはずもないけど、ふと瞬きをした那智は漸く、貼り付けただけの口許の笑みを感情的に歪めて見せた。
それは、那智らしい不器用な笑い方だった。
どこかホッとしたような、いつも見せるあの一瞬しかない、ホッとしたような笑顔。
「ただいま」
俺の真似でもしたのか、声に出さずにそう言った那智はニッコリ笑うと、やっといつものように大型の犬がするような素振りで頭をブルブルッと振って水を弾き飛ばすと、サッサと砂岩色のアンティークなビルの扉を派手に開けて飛び込んだようだった。
那智には『何故か』だとか『どうして』と言う副詞がまるでない…と、ずっと思っていたし、本人もそのつもりでいるようだった。でも、最近の那智には『何故?』や『どうして?』の言葉が多くなったような気がする。
那智自身、無意識のうちに呟いているだけなのかもしれないけど、それでも、なんだか今まで無機質のように感じていた那智の感情が、やっと人間らしくなったような気がして少しだけ嬉しかった。
(あれ?なんで俺、そんなことで喜んでるんだ??)
ハッと我に返ったら、そんな馬鹿げた思想に首を傾げてしまった。
ちょうど俺が首を傾げたぐらいの時に那智がニヤニヤ笑いながら部屋に入ってきたんだ。
いつものように盛大に扉を思い切り蹴り開けて…と思えるほど乱暴にドアを開いて入ってきた那智は、窓から見下ろした時には気付かなかったけど相変わらずその脇に買い物袋を抱えていた。
「遅かったな」
できるだけ気のない風に言ったつもりだったけど、那智にしてみたら俺の感情なんかどうでもいいことなんだろう、瞼を閉じてハッ…と笑っただけだった。
「…ところでさぁ、これってナニ?」
俺の質問には肩を竦めるだけのくせに、床に転がっているビニールの袋を取り上げてニヤァ~ッと笑ったままで首を傾げてくるから、俺も素っ気無く肩を竦めながら答えてやった。いや、答えてやるだけ俺のほうが優しいと思うぞ。
「ドーナツなんだと。ベントレーの行き付けの店らしくてさ、結構旨かったぞ…って、アンタには関係ないか」
「…ドーナツねぇ」
どうせ興味なんかないくせに、那智はそれでも紙袋をテーブルに投げ出すとビニール袋からドーナツを一つ取り出して繁々と眺めているようだ。
粉砂糖を散らしたドーナツは、揚げ立ての時はそりゃあ旨かったけど、今は少しだけしんなりしているようで不味そうとまではいかなくても、旨そうと思える代物でもなくなっていた。
そのドーナツを何か物珍しいものでも見るような目付きでニヤニヤ笑ってマジマジと見詰めながら、目線だけを動かすと言うヤツらしい芸当でもって俺をチラッと見てから言ったんだ。
「今夜の飯はコレ?」
「え?あ、ああ…そうだけど?」
「ふーん、ベントレさまめ。こんな安上がりしちゃってさぁ、明日は文句を言うべきかぁ?」
「あ!いや、なかなか旨かったって!!いや、マジで」
「ホントにぃ?」
疑い深そうな目付きでニヤニヤ笑う那智に肝が冷えたが、ここは正念場だと頷いて見せた。脳裏にはどうしても、あのお人好しそうなヴィヴィッドなオレンジのツンツン頭が浮かんで離れないからなぁ。
ビルに独りで残すのは忍びないんだが、と前置きしてからベントレーは、自分はこれから用事があるから仕事場に向かわないといけないと言って不機嫌そうに行ってしまった。
ベントレーの不機嫌さは、ある意味、優しさの裏返しだと言うことに気付いたから、あのお人好しに迷惑を掛けるワケにはいかないんだ。
「そもそもだ。飼い犬を他人に預けた那智が悪い。預けた段階で、ソイツが何をやろうと文句を言うのはお門違いだと俺は思うぞ」
俺が精一杯尤もらしくそう言うと、那智のヤツは口許に貼り付けたような笑みを浮かべたままで、優しい甘い匂いを漂わせる粉砂糖のまぶされたドーナツを見下ろした。
「別にさぁ、預けたかったワケじゃないけどー」
不貞腐れたように唇を尖らせるワケでもなく、那智はどこか、叱られた子供のような目付きをしてドーナツを見下ろしたままだ。
「コレ、旨かったって?」
「ああ!もう随分昔のことなんだけど、子供の頃、クリスマスにサンタから貰ったドーナツにソックリで旨かった!」
独り言のような呟きに大きく頷いて俺が笑いながら応えると、暗黒がよく似合うはずのネゴシエーターには絶対に不似合いだと思っているドーナツを手にしたままで、那智は小さく笑ったんだ。
「クリスマスにサンタ?はーん?ぽちはサンタを信じてるのか~」
「別にだ!今も信じてるってワケじゃないぞ。チビの頃に甘いお菓子を貰ったらこんなご時勢だ、誰だってサンタぐらい信じたくなるさ」
「…子供の頃に喰ったって?旨かったかぁ??」
だから、そう言ってるだろ…と、思わず言ってしまった昔話を鼻先で笑われた気になっていた俺は、顔を真っ赤にしてブツブツと悪態を吐きながらも頷いた。
恐らく、那智にどんなに説明しても、人肉にしか興味を示すことの出来ない彼には、そのほろほろと甘い、優しいドーナツの味など伝わりはしないんだろうけど…それでも俺は、できる限り那智にその気分を味わって欲しいと思っていた。
「ああ、妹と半分こにしたんだけど。まだちっちゃくて、食べられやしないんだけどさ。あんまり甘くて旨かったから無理に食べさせて泣かせてしまったんだ。そんなことしてしまうぐらい、甘くてホッとする味だったよ」
アンタには判らないだろうけど…そう思うことが、少しだけ寂しいな。
もっと那智を身近に感じたいのに感じられない…蛍都は、きっとそんなアンタの全てを受け入れて、やわらかく微笑みながら抱き締めてやるんだろうな。
俺には到底できない判りあえて、許しあえた者だけが持つ特権のような触れ合い。
俺は、アンタの過去を知らないから。
「どうやって妹に喰わせたんだ?オレに同じようにしてみろよ」
唐突にそう言って、那智がドーナツを持つ手を俺の目の前に突き出してきた。
その顔は、どうも俺を馬鹿にしているとか、茶化しているとか、そう言った感情は微塵も浮かんでいなくて、どうやら本気でその時を再現させて、純粋に見てみたいと思っているようだ。
俺は呆気に取られながらも仕方なく、那智の差し出したドーナツを受け取って、それを半分に割ると黙ったままでジーッと見詰めてくるずぶ濡れの黒コートの男に近付くと、その口許に歪な形で半分になってしまったドーナツを近付けたんだ。
こうして妹に食べさせた。
むずがるようにして嫌がっていた紫苑はでも、その甘い匂いに誘われるようにして嬉しそうに笑いながら食ったっけ。結局、少しも食べられなかったんだけどな…
ほんの僅かな時間、回想に耽った俺のドーナツを持つ手をガシッと掴んだ那智の動作にハッと我に返ったときには、俺がギョッとするのもお構いなしで、前髪から水滴を零している那智はそのままパクッとドーナツに食いつきやがったんだ!
「なな、那智!アンタ、大丈夫…」
「…ぅ、ぐ…ッッ!…ぅぅ…うん、旨いな」
脂汗をビッシリと額に浮かべながらも、俺の腕を掴んだままでニヤァ~ッと笑ってモグモグと口を動かせて上目遣いに見上げてくる那智に、「なのか?」と続きそうになった言葉が咽喉をするりと抜けて胃の辺りまで落ちてしまった。
いったい、何が起こったって言うんだ??
「旨いって…アンタ、なに無理してんだよ!?そんなんじゃ、味だって判らないだろうに。苦しんで食ったって旨かないだろ!?」
「そんなこたないさ。甘くて旨かったし?」
飄々とそんな風に嘯くけど、俺にはちゃんと判ってるんだぞ。
その額に光る雫が、雨粒だけのせいじゃないってな。
「ど、どうしたんだよ?ドーナツなんてそんな珍しいもんじゃないし…」
こんなクソッタレなご時勢でも、ファーストフードは手頃な値段で腹を満たしてくれる、俺たちの最後の砦のような場所だ。那智ほどに稼いでいるのなら、そんな物など口にしなくったっていつものように自慢の手料理を無理してでも食べればいいのに…そもそも、ドーナツなんか無理して食べるもんじゃないだろ!?
ハラハラしながら俺が見上げたら、掴んだ腕をそのままに、那智は、那智らしくもなくニヤニヤ笑ってそんな俺を見下ろしてくる。
「ぽちがさぁ、子供の頃に喰った味なんだろ?どんなモンかと思ってさ。まあ、キョウミホンイってヤツ??」
「興味本位ってな、アンタ…なに考えてるのか判んないよ」
あれほど苦しそうにドーナツを食うヤツなんか初めて見たし、きちんと租借して嚥下した那智を見るのも初めてだったから…とは言え、俺が那智と一緒に過ごしだしてから、それほど長い月日が流れたってワケじゃないからな。せいぜい、2ヶ月かそこらだ。
それで那智の何が判るんだと言われても、言葉に詰まって黙り込むしかないんだけどさ…
「甘い…ぽちの指も甘いなぁ?」
ペロペロと、まるで巨大な猫科の肉食獣がそうするように俺の指先を舐めていた那智は、不意に舐めるのをやめて、どんな顔をすりゃいいのか判らないでうろたえるしかない困惑した俺の顔を、まるで穴でも開くんじゃないかと言うほど、暫くマジマジと見つめていた。
「…な、なんだよ?」
わざとぶっきら棒に唇を尖らせたら、那智はそれでもニヤニヤ笑ったままでジーッと俺の顔を食い入るように見詰めていた。
一抹の、不安。
まただ。
また、競り上がってくるこの胸の息苦しさ。
不安で、不安で…思った以上に俺は、那智に依存しているのかもしれない。
こんな風に那智が突拍子もないことを仕出かすのはいつものことだと言うのに、どうしてだろう?今夜はやけに胸の辺りに何かが引っ掛かって、それが却ってこの現状がより一層いつもとは違うんだとでも言うように胸を奇妙な焦燥感が駆り立てて仕方がないんだ。
いつもと変わりないはずなのに。
いつも通りのはずなのに。
いつもと何が違うって言うんだ!
不安で、不安で…思わず眉を寄せてしまった俺は今にも泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。
那智が一瞬、ハッとした様な顔をしてから、それからニヤァ~ッと笑いやがったからだ。
「ぽちはさぁ…やっぱ、可愛いのなー」
そう言って、ずぶ濡れの那智のコートに押し付けられるようにして抱き締められても俺の、胸の中に湧き上がったどす黒い何かは大きなシコリのようになって蟠ったままだ。
その正体が判らなくて、俺は暗闇を手探りで探るようにしながら必死で答えを探していた。
手探りで伸ばす指先で那智の黒コートを掴んだとしても、答えなんか見付かるはずもないのに。
俺は、どうしていいのか判らなくて無性に泣きたくなっていた。
こんなのは、俺らしくないと言うのに…
揺れる想いを繋ぎとめる鎖のように。
あなたの指先が触れる琴線。
後には戻れないこの道がたとえ棘だったとしても。
もう、後悔などしない…