11.散歩の理由  -Crimson Hearts-

 あのドーナツ事件以来、那智がまともに食事をし始めたかと言うと、答えはNO。
 相も変わらず、未だに食事は咽喉を通らないんだそうだ。
 当たり前か、あの後も盛大に吐いてたしな。
 何があったのか知らないけど、那智はそれでも、あの日以来とても不機嫌になることが多くなった。それは本人もどうしていいのか判らない感情の起伏のようでもあるけど…その凶悪な思いと言うものが、手当たり次第に身近にあるものを壊してしまいたい衝動を突き動かしてしまっているんじゃないかって思えるほど、最近の那智は荒っぽくなったし、何より、殺人の回数が増えたような気がする。
 まるで月に狂う人間のように、漸く縋り付いている理性の欠片を弾き飛ばした那智は、ネゴシエーターの仕事の範疇ではない場所でも、平気で人殺しをするようになった。
 そのせいで、随分と命を狙われるようにもなったようだったが、それすらも本人は何処吹く風でサラッと聞き流しながら最も危険だと言われている南地区のろくでもない区域をぶらぶらしては、世の中を拗ねたような顔をして嗤っていた。
 ベントレーのお願いとかで、那智は渋々と言った感じで俺を散歩に誘ったのがついさっきのことで、あれほど仕事に連れて行くと言って躍起になっていたヤツとは思えないほど、苦渋に満ちた笑みは見ていて不気味だった。

「…どうしたんだよ、この間からおかしいぞ?」

 スタスタと淀みなく前を歩く黒コートを掴んで首を傾げると、ニヤニヤと不機嫌そうに笑っている那智は目線だけでチラリと俺を見下ろすと、シレッとした態度で肩を竦めやがったんだ。

「別にぃ?なんでもないさ」

「なんでもない、ってツラじゃないんだけどなぁ。気付いてもいないんだろ?」

 なんだか那智のその態度があまりにも子供っぽすぎて、俺は苦笑を禁じえなかった。
 つーか、プッと噴出して黒コートから手を離しながら、おおかた、不機嫌の固まりになっているんだろう那智の顔を覗き込んだんだ。

「ぽちが悪いんだぜ~」

「へ?俺か??」

「そーだ!…ったく、誰にでも尻尾振るから見ろよぉ。ベントレさままでお気に入りなんだと」

 ははーん…なるほど。
 飼い犬が自分以外の人間に懐いているような仕種が気に喰わないんだな。

「オレには最大限警戒してたくせにさー。ベントレさまには尻尾振るのな」

 ムスッとしてニヤニヤ笑うと言う、なんとも奇妙な表情をしながら肩を竦める黒コートの男は、その図体とは裏腹にあんまり子供っぽくて本気で笑ってしまいそうになる。
 別に俺、ベントレーに懐いてるってワケじゃないんだけどなぁ。
 ただ、ベントレーがこの禄でもない世界では珍しく、あんまりいいヤツだからついつい、話し掛けてしまうってだけでさ。
 その態度がイケナイのか?
 なんだ、那智のヤツ、ホントにガキみたいだ。

「普通、そこで笑うかぁ?ぽちって冷たいしー」

 不機嫌そうにツーンッと外方向く那智にクスクス笑っていたら、そんな俺たちをそれはそれは不気味そうにベントレーが蒼褪めて振り返っていた。

「なんだよー、ベントレさまめ」

「なんでもねぇっての!…ただ、なんつーか。那智が蛍都以外のヤツに懐くなんざ珍しいからな~」

「オレは見世物じゃございません」

 珍しく語尾を伸ばさないキチンとした物言いでキッパリと言い切った那智の表情は、薄ら笑いこそ浮かべているけど、大変機嫌が悪いらしいことは俺じゃなくて、長年の付き合いであるベントレーには逸早く判ったようだった。

「へーへー。んなの、おっかなくて見世物にしようなんて気持ちはこれっぽっちも起きませんよーだ」

「うるせ」

 これまた子供のように唇を尖らせて言い返すベントレーに、薄ら笑いが絶対に違うとは思うんだけど、でも仕種は充分子供っぽく中指を立てた那智が軽くあしらっている。その光景は、こうして傍らで見ているのならそれほど害はないものの、第三者として遠目で見る立場にあるとしたら多分、俺は間違いなくダッシュでこの場から立ち去っていたに違いない。
 それほど、凶悪なオーラを纏っている那智に対抗できるのはベントレーと、あの鉄虎と言う大男だけだと思い知ることができた。
 心底、おっかない。

「でー?これからどこに行くワケ??」

 ご丁寧にぽちまで引っ張り出しやがって、これで下弦のところにでも連れて行きやがったらベントレ様は宙吊りで一週間ね…とでも言いたそうな、凶悪な双眸をスゥッと細めてニヤニヤ笑う那智に、それこそベントレーは蒼褪めながら嫌なものでも見ちまったとでも言いたそうな顔をして目線を逸らすのだ。

「下弦のところじゃねーよ。蛍都から珍しく電話があってよぉ」

「蛍都が?なんでベントレーに??」

 蛍都、の名前だけで敏感に反応する那智を盗み見ながら、それでも、どうして自称なりなんなり、セックスをするほどの仲であると言うのに、蛍都が那智ではなくベントレーに電話を入れたのか俺も興味深くオレンジのツンツン頭の返事を待っていた。

「知るかよ。お前にしろ蛍都にしろ、大方俺を伝言板か何かと勘違いしてんじゃねーのか??」

 フンッと不機嫌そうに外方向くベントレーの、その肩に背後からゆっくりと腕を回した那智が底冷えのする目付きでにやぁ~と笑いながら、左右の色の違う双眸を覗き込んで繊細そうな、人殺しの時には優雅ささえ感じる指先で、ひぇぇぇ~…と息を飲んでいるベントレーの顎を擽った。

「そんなこた聞いちゃいません。蛍都がなんつってたんだぁ?」

「ぅ判ってるよ!こん畜生!!来週末に蛍都が退院するんだろ?それで…那智が犬を飼ってるらしいから、捨てさせろだってよ」

「…え?」

 思わず、言葉が漏れたのは俺だった。
 別に、この生活がいつまでも続くなんざ思っちゃいなかった。
 幸福だと感じる時間は、いつだってあっと言う間に指の隙間から滑り落ちる砂みたいに消えてしまう。
それはどうしても、止めようとして留まってくれるものじゃないってことぐらい、俺だってよく判ってら。
 ポツリと呟いた俺を、ベントレーから邪険に振り払われた那智が足を止めて、ふと、振り返った。
 その顔は、相変わらず何を考えているのか良く判らない、ニヤニヤ笑いのポーカーフェイスだったけど、ベントレーが不機嫌そうにムッツリと黙り込んでいるのを見れば、それはもう那智も知っていることだったんだと判った。
 なんだ、そうか。
 そりゃ、そうだよな。
 ずっと、お互いの身体すら知り尽くしている恋人なんだ、帰宅して見知らぬ男が一緒にいて、それだって不気味なのにましてや自分も眠るだろうベッドまで使用されていると知れば、誰だっていい気分になるワケがない。
 判ってたんだけど、あまりにも突然すぎて、一瞬ワケが判らなくなってしまったんだ。

「蛍都が…帰ってくるのか?」

 ふと訊いたら、ベントレーは外方向いたけど、那智は笑ったままで肩を竦めて見せた。

「そうか、よかった」

「…あーん?」

 ポツリと呟いて俯いたら、那智のヤツが訝しそうに眉を寄せて首を傾げたから、俺は顔を上げると驚くほど爽快に笑ってやったんだ。

「よかったな、那智!やっと好きな人が帰って来るんだろ?なんてツラしてんだよ。もっと喜ばないと」

「ぽち?」

 驚くほど、那智のヤツが動揺しているのが手に取るように判って、そんな初めて見る態度に、なんでだろう俺は、可笑しくってさ。ホントに笑っちゃったんだよ。
 でも、当たり前だろ?
 あんなに目をキラキラさせて、蛍都の名前を聞くだけで嬉しそうな反応を示すアンタに、俺が何を言えるって言うんだ?

「そうだよな、あんな狭い部屋に犬が居座るのもどうかしてると思うぞ。来週末に帰ってくるんだって?それじゃあ、それまでに出て行くように準備しておくよ」

 自分でも驚くほどスラスラと言葉が出ていた。
 感じていた不安は、那智から離れる時間が近付いていたからなのかとか、心のどこか奥の方でぼんやりと考えながら、それでも表面上ではなんでもないことのように振舞えるのは、俺が身に付けた処世術だ。
 なのに、どうして那智のヤツはそんな、寂しそうな顔をするんだろう?
 蛍都が帰ってくることを、きっと誰よりも待ち望んでいたに違いないってのに。
 馬鹿だなぁ、那智。
 俺は気紛れで飼ったんだろ?それも、誰が捨てたかも判らないような野良だったんだ、事情が出来れば捨ててしまっても仕方ない、だって俺は犬じゃないから大丈夫だ。
 これが本当の犬だったら大問題なんだけど、やめてやれよ、可哀相だからな。
 独りになることは慣れてるから、そんな寂しそうな、心配そうなツラなんかするなよ。
 思わず笑っちゃうじゃないか。
 アンタらしくないってね。

「で、これから保健所にでも連れてってくれるのかい。ベントレー?」

「…なんだよ、案外平気そうだな」

 ベントレーがムスッとしたままでそんなことを言うから、俺は呆然と突っ立ったままで何も言おうとしない薄ら笑いの那智の腕を掴んで、その冷たくなっている指先に指を絡めながらニッと笑ったんだ。

「野良だからな。こうしてご主人さまが拾ってくれたお陰で命拾いはしたけどさ、恩義はあっても忠義ってのはないのが野良なんだ」

「そんなもんかよ」

 心配して損したぜ、とでも言いたそうなベントレーから目線を那智に移して、思わず息を飲んでしまった。
 その目付きが、冷ややかに俺を見下ろしてきた那智の目付きが、まるで今にもその腰に下がった鞘から抜刀して、微塵に切り刻んでやろうかとでも企んでいるような殺意を秘めた暗い双眸が、俺の腹を震え上がらせたんだ。
 な、なんだってそんな目付きをするんだよ?
 恩義はあるってちゃんと言っただろ!?

「…ぽちはさぁ、オレから離れるのが嬉しいのかぁ?」

「は?いや、別に」

「じゃあ、どうしてさぁ、そんなに平然としてるワケ?」

「平然って…あのなぁ、那智。アンタが心から大好きな恋人が帰ってくるんだろ?その恋人が、アンタは俺のことを犬だと思っていても、ちゃんとソイツには俺が人間に見えるんだから俺がいちゃ不都合だろうがよ。那智、俺は犬じゃない。人間なんだ」

 ちょうどいい、ここでちゃんと那智に俺が何者なのか判らせてやろう。
 ずっと、那智が犬だと思い込んでいるならそれもいいかと思って放っておいたけど、今回ばかりはちゃんと説明しておかないと、後々那智が苦労するだけだ。
 俺を捨てろって言うぐらいだ、当初感じていたイメージとは違って、蛍都はどうもかなり嫉妬深いと睨んだからな。

「…?」

 ワケが判りませんってな顔をして、そのくせ、食い殺すぞと冗談じゃない冷えた目付きで睨んだままで、那智はそれでも黙って俺の話を聞こうと思ったようだった。
 こんな往来の真ん中でだって、どこでだって気が向けば立ち止まって話をしたがる那智の突拍子も無い行動に、ベントレーはモチロンだが、俺も随分と慣れてきていたし嫌でもなかった。それどころか、今はそれが有り難いとすら思えるから終わってるんじゃないかな、俺。
 それでも、ベントレーだけでもその名は轟いているのか、それにあの浅羽那智が加わったとなれば賑やかだった往来も、急にシンッと静まり返ってしまう。
 それが、那智とベントレーが持つ絶対的な実力の表れなんだろう。

「どこをどう見たら俺が犬なのか良く判らないんだけどな、俺は人間だよ、那智。犬は四つん這いで動くけど、俺はちゃんと2本の足で立ってるだろ?言葉だって喋る。そんな犬がこの世界のどこにいるんだよ?まあ、アンタが俺を下等動物的な扱いをしてるだけならそれでもいいけど、でもそれなら尚更、どうして蛍都が俺を捨てろなんて言ったのか判ってやれるだろ?」

 上手い具合に説明なんか出来ないけど、それでも手を繋いだままで話す俺を見下ろしながら那智は、唐突に不機嫌そうに口許を歪めたんだ。
 あれほど、貼り付けたような笑みしか見たことがない俺の前で、那智は悔しそうに唇をキュッと引き締めた。
 何が起こったのか一瞬判らなくて呆気に取られていたら、俺たちの傍らで話を聞いていたベントレーがヤレヤレと溜め息を吐いたようだった。

「テメーを捨てろと言ったヤツの気持ちを判ってやれか…んなこと、ぽち以外の誰が口にするんだよってなぁー…まあ、いいか。これから行こうと思ってるのは、俺の居住区さ」

「ベントレーの居住区?なんでそんなところに…」

「俺がお前さんを引き取ろうと思っただけだ」

「嫌だ!」

 首を傾げてベントレーと話していた俺の繋いだ手にギュッと力を込めて、那智は駄々を捏ねる子供のようにムッとしたままでオレンジのツンツン頭を睨み付けたんだ。

「もうさぁ、ぽちがなに言ってんだか全然判んねってのにベントレまで妙なこと言いやがってさぁ!そもそも、コイツの飼い主はオレなのに、どうして勝手に話が進んでるんだ??別にオレは、ぽちを手離そうなんざ思っちゃいないし!」

「…蛍都が、どーせ那智は駄々を捏ねるだろうから、そのときはこう言ってくれって言ってた

ぜ。お前が犬を捨てないんなら、俺がお前を捨ててやるってよ。まんま、蛍都の言葉だからな。脚色は一切ナシ!」

「蛍都って男だったのか!?」

「はぁ?当たり前でしょ、蛍都は正真正銘の男だけど??」

 ギョッとして目を見開く俺に、何を今更とでも言いたそうな胡乱な目付きで見下ろしてきた

那智に素っ気無く言われて…って、アンタたちは古くからの知り合いだから当然知ってるだろうけどな、こっちとしては恋人とかセフレだとか聞いてたら誰でも女だって思うじゃないか!
 いや、確かに男にその、だ、抱かれた経験がある俺としてはなんとも言えないんだけど…
いや、何もかも、本当は気紛れな冗談で犯られちまったってだけのことで…って、俺の方が何がなんだかだよ!

「オレを捨てるって?…ふーん…どちらにしたって、できもしないくせに」

「その言葉、そのまま蛍都に言えるのかよ?」

 ベントレーが意地悪く腕を組んでフンッと鼻を鳴らしながら言うと、那智のヤツはウザそうな表情をして鬱陶しそうに脱色し過ぎて黄褐色になっている髪を掻き揚げた。

「言えるさ!ずーっと、蛍都に言われてからなんか引っ掛かってたんだけどさぁ、どうしてオレが犬を飼っちゃダメなんだ??いや、ここで話してたって埒があかないし?もういい、ぽち、おいで」

「は?は?…って、どこに行くんだ!?」

「蛍都のところに決まってる!」

「ええ!?」

 そんな、イキナリ恋敵と対面かよ!!?…って俺、何を言ってるんだ。
 いや、蛍都にしてみたらもしかして、俺と言う存在を疎ましく思ってるぐらいなんだから恋敵と思っていたっておかしくはないと思う。
 手を繋いだままで引き摺られるようにして那智に連行される俺を憐れに思ったのか、いや、それじゃどうしてベントレーのヤツはあんなにホッとしたような嬉しそうな顔をしているんだ??
 必死に救いを求めて目線を向けると、ベントレーのヤツは呆れたように肩を竦めるとそんな俺たちを追って来ながらニヤニヤと笑っている。

「ぽちは蛍都とは初対面だったよなぁ~?第一印象ぶっ壊された時のぽちの顔が見物だぜ」

 明らかに楽しんでいるようなベントレーの言葉なんか耳に入っちゃいねぇ不機嫌のオーラ出しまくりの那智に引き摺られるまま、俺はあわあわと泡食いながらどうするべきなのか最早当てにはならないベントレーに救いを求める術は断たれたと知ったから、それでなくても乏しい脳細胞をフル回転させて大いに考えてみた。
 考えてみて、出てきた答えはひとつしかない。
 出たとこ勝負。
 まあ、そんな感じで一路、町外れの古惚けた病院へと赴くことになっちまった俺の運命は…
 悲惨でないことだけを祈ろう、と、思う。
 うん。

 ここから先に未来はありません。
 と、君が言うのなら。
 ぼくはその未来さえ。
 君の為に手に入れようと思っていた。