13.過去からの  -Crimson Hearts-

 公園は壊れかけたブランコがポツンとあるぐらいで、他には公園らしいものなんて何もなかった。
 と言うよりも寧ろ、そこは広大な植物園…とでも言えば、思うよりシックリくるような気がするんだけど…なんとも言えないな。
 那智はどうも、暇さえあればこの公園もどきに足を運んでいるのか、歩き慣れた様子で闊歩する姿が獰猛な野生の肉食獣が、本来在るべき姿に戻って伸び伸びしているような一瞬の錯覚を垣間見せていた。
 俺の腕を掴んだままで、嬉しそうに見えるのは気のせいなのか…どちらにしても、今の俺はそんな那智に従順に従う犬でしかないんだろう。12.てのひら  -Crimson Hearts-

「ここはさぁ…もともと、大きな会社があった場所で、ちょうどこの辺りは植物園だったらしーぜ~」

 不意に正面を向いたままで那智が、物珍しさにキョロキョロしている俺に、そんなトリビアを披露してくれたりするから、面食らったままでポカンッと見上げてしまえば、俺の主人はどうでも良さそうに肩なんか竦めやがった。

「そのなれの果てってヤツか?」

「…ってワケでもねーんじゃねーか?よく、知らねーんだよなぁ。つーか、これは蛍都の受け売りってヤツさー」

「…へえ」

 そうか、ここはもしかしたら、那智と蛍都の思い出の場所か何かなのかもな。
 んな、野暮なことを聞けるほど、俺の心臓はまだ頑丈じゃないらしい。

「蛍都はここが嫌いなんだってさぁ。だから、オレはこの場所が好き」

「え?」

 ふと、違和感を覚えて顔を上げてみたんだけど、今にも雫を零そうとしているような曇天の空をバックに、那智は脱色し過ぎて痛んでしまった黄褐色の髪を鬱陶しそうに掻き揚げながら、口元に微妙な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
 違和感は胸の奥で蟠ってくれず、どうも、早急に答えとして弾き出たいようだ。

「…那智は、もしかしたら蛍都が嫌いなのか?」

 いや、勿論そんなはずはない。
 俺は何を言ってるんだ。

「いや、悪い。そんなはずがあるワケないな。蛍都は那智の恋人なんだから」

 こうして腕を掴んでいるのは、本当は蛍都でなければならないのに、その言葉はきっと、この穏やかな関係に慣れ親しんでしまった俺の…嫉妬なんだろうなぁ。
 気恥ずかしくて、バツが悪そうに苦笑したら、那智は口許に相変わらず微妙な笑みを浮かべたままで、ポカンッとそんな俺を見下ろしてくるから、ますます居た堪れなくなっちまうんだけども。

「どうして、そう思ったんだぁ?鉄虎もベントレさまも、そんなこと言ったことないし。なぁ?」

 那智の口から出てくる知人はいつも鉄虎かベントレーだから、無類の殺人好きには友達と呼べる人間が少ないんだなぁと思った。
 まあ、こんなクソッタレな禄でもない街で、友達もクソもないんだけどな。

「いや、なんとなくだけど。いつも、那智は蛍都のことを話すとき、複雑そうな顔をしてるからさ」

 まさか突っ込まれるとは思ってもいなかったから、俺はシドロモドロで弁明をする羽目になった。これからは、できるだけ無駄口は叩かないでおこうと思う、うん。

「ぽちはー…可愛いだけじゃなくて、たまにドキッとするほど鋭いしー、でも、残念。ブー、ハズレ~」

「はは、やっぱりな」

 そりゃ、そうだ。
 ベントレーだって言っていたじゃないか、那智は蛍都を宝物のように大事にしてるって。
 心の底から惚れてるように見えて、毎日セックスしてたような関係なのにさ、俺はどうかしてるよ。

「蛍都のことは好きだし?」

 口許に浮かべた薄ら笑いに感情は読み取れなかったけど、ふと、目線を落としてしまう那智の横顔は、恋焦がれている蛍都のことを思い浮かべているのか、胸をギュッと鷲掴みにされるような錯覚を覚えちまうほど、切なげに見えた。
 ああ、ベントレーの言うとおりだ。
 那智は本当に、蛍都のことが好きなんだなぁ。
 俺が割り込める余地なんてこれっぽっちもねーや。
 ま、当たり前か…って俺!いい、今何を考えてたんだ!?

「早く、蛍都が帰ってきたらいいな!」

 照れ臭さを誤魔化すように笑って言ったら、那智のヤツは微かに俯いたままで、目線だけをキロッと向けて薄ら笑いをニヤァッと浮かべたまま肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 確りと握り締めているはずの那智の腕が、そんなはずはないのに、唐突に頼りないような気がして、俺はいつかこの腕を放さなければいけない時がくるんだろうと、甘ったれそうになる気持ちにもう一度、改めて言い聞かせるように腕を掴む手に力を込めた。
 那智がそんな俺を訝しそうに見下ろしてきたんだけど…オレンジのパーカー男を見つけ出すのが先か、蛍都が帰ってくるのが先か…どちらにしても、俺はあのアンティークな砂岩色のビルから出て行く決意を固めていたんだ。
 勿論、那智には内緒なんだけどな。
 訝しそうに眉を顰めながらもニヤニヤと笑っている那智を見上げて、俺は仕方なさそうに苦笑していた。
 この気持ちは、那智に悟られてはいけない。
 那智は、それほどまでに想っている蛍都と、きっと幸せになるんだ。
 だから、俺はここにいてはいけない。
 そんなこと、誰かに言われなくてもよく判っている。
 僅かな間でも、幸せな日々をくれた那智に感謝しているんだ。だから、今度は那智が幸せになってくれればと思っているよ。

「あ、そーだ。この先にタオの連中の1人が出してる店があるからさぁ、何か買って来てやるってなぁ?大人しく待ってろよー」

 那智は不意に思いついたように頷いて、それだけ言うと、サッサと手を離して歩き出してしまった。
 慌てて追いかけようとして、どうして俺はそんな行動を起こそうとしたんだと、弱気になりそうな自分に叱咤しながら、大人しく待っていようと思ったんだ。
 腕が離れたぐらいで不安になってどうするんだ。何れ、俺はこのクソッタレな禄でもない灰色の町で死ぬんだから、何を恐れることがあるって言うんだ。
 あの頃の俺なら、きっと逃げ出そうとしていたに違いない。この場所にたった独りで残されて、生き延びられる自信なんかありゃしないからさ。でも、今の俺は違う。
 この場所で、那智が好きだと言うこの場所で死ぬのも悪くないなって思ってるからな。
 ただ、那智の好きな場所で死ぬのは、汚すみたいで忍びないんだけど…

「この公園はさー、タオの私有地なワケよ。だから、死のうと思ってもダメなワケ。ぽち、残念だったなぁ?」

 ぶらぶら歩きながらニヤァッと笑って端的言ってのけた那智は、どうやら、この植物園のなれの果ては『タオ』の持ち物で、タオのメンバーは既に那智のペットのことを承知しているから誰も手を出さない、無論、他所から入り込んでくるヤツもいない、だからお前は死ねないよ…と言いたかったようだ。
 あんまり俺が死にたがっていたから、那智なりに、実は心配してくれているのかと、ヘンに胸の辺りがこそばゆくて何故か、俺は照れてしまっていた。

「判ってるさ。さっさと何か買って来てくれよ。俺、腹がペコペコだ」

「リョーカイ♪犬は素直が一番だ」

 ニタァッと笑いながら行ってしまう那智の不気味な後ろ姿を青褪めたままで見送った後、俺は取り敢えずするべきこともないし、仕方なくこの辺りをフラフラ探索でもすることにした。
 思ったとおり、この場所は公園と言うよりも巨大な植物園のようだ。
 それも、ガラスなんかで覆われた温室型ではなく、開放的な野天式になっている。
 それにしてもたいしたもんだな、酸性の強くなった雨に晒されて、大半は枯れてしまっているけど、それでも頑張って枝をめいいっぱい広げながら生きようとしている植物があるんだ。
 『生きよう』としている植物の姿に、『死ぬこと』ばかり考えている俺は、その力強さに自嘲的に笑うしかなかった。
 それでも、下の方は少しずつ枯れてるんだな…そう思って、俺が名前も知らない植物に手を伸ばしたときだった。
 ハッとした時には遅かったんだ!
 しまった!俺としたことが…那智の傍に居過ぎたせいで、すっかり感覚が鈍っちまった。
 常に命を狙われるような町に暮らして、些細な気配にでさえ敏感だったのに、まんまと背後を取られるなんてどうかしてる。
 気付いた時には羽交い絞めにされて、咽喉許に鋭利なナイフを突き付けられると言う、なんとも絶体絶命的な状況に落ち込んでいた。

「…うッ…く、クソッ!……ッッ」

「…」

 背後から襲いかかってきたソイツは無言で、だから余計に、俺はソイツに殺されるんだろうと観念していた。
 生きることには疲れていたし、この場所で死ぬのならそれも仕方ない…ただ、最後にもう一度だけ、那智に逢いたかった…なんて、どこまでも今の俺は女々しくて甘ったれなんだろう。

「?」

 不意に抵抗していた腕の力を抜いて、俺はスパイクの付いた首輪の上の、脈打つ頚動脈を覆う皮膚にナイフの冷たい感触を感じたままで、観念して瞼を閉じていた。その行動が予想外だったのか、俺を羽交い絞めにしている不審者は、微かに動揺しているようだ。

「…お前!もしかして、ギアか!?」

「え?」

 その時だったんだ、ソイツが、あまりにも懐かしい名前で呼んだのは。ハッと双眸を見開いて、首筋にあるナイフすら忘れて振り返ろうとしたら、ソイツは焦ったようにギラつく兇器を引っ込めると、それから驚くほどの力強さで腕を掴んできた。
 この感触は…ああ、忘れもしない。
 俺を、俺のことを…メカに強いから、『ギア』と呼んでいた懐かしい仲間。
 いや、仲間なんて呼ぶのもおこがましい。

「ぼ、ボス…ッ」

 そうだ、俺がずっと所属していたグループの、紛れもない、今のボスだった。
 俺はケチなコソ泥でしかないけど、先代のボスが惨殺されてから抜擢されたこの現頭領は『タオ』ですら一目置くような、ストリートではそれなりに名の知れたグループを統括している。そこまで伸し上げたのもこのボスだし、最初はチンケなコソ泥集団だったんだけど、何時の間にか、俺の所属していたグループは大きくなっていたっけ。
 たった一人の力…と言っても過言ではないほど、今のボスは強い。
 先代のボスに襤褸切れのように捨てられた俺を、この人は、憐れむでもなく、嫌悪するでもなく、ただ、そう、ただ淡々とした眼差しで見下ろして、自分の場所に来るかと言ってくれた。
 全て、自分の意思で動けと、俺が聞いたそれが、ボスの第一声だった。
 そんなボスと暮らすようになって、どうしてこの人が俺なんかを選んだのかは良く判らないけど、まあ、体の良い小間使いにはちょうど良かったんだろうと思う。
 腕を差し伸べてくれたワケでも、救い出そうとしてくれたワケでもなくて…なんとなく、魂の抜けた抜け殻のようだった俺は、言われるままにボスの後を追っていた。
 そうして、ボスと暮らすようになったんだけど…あの日も、居住を共にすることを許してくれていたボスの遣いで、俺は買い物に出ていた。
 その帰り道に暴漢に襲われて…俺は。
 ああ、拙い!俺、何一つ連絡らしいこともしていなかったッ。
 いや、できれば、このまま出逢わずに逃げ出せていたのなら、それはそれで楽だったのかもしれないんだけど…

「あ、す、スミマセンでした!実は…」

「よかった!お前、無事だったんだな?」

 ボスはそれだけを言うと、感極まったように力強く掴んでいた腕を引き寄せて、抱きしめてくれた。
 その感触は、長いこと身体に染み込んだ習性のように俺の中で忘れもしない、従順と言う言葉を思い出させるのに十分だった。

「心配をさせてしまってスミマセン。俺、買い物の帰り道で…」

「あのまま音信不通になっちまっただろ?心配したんだ。お前は逃げ出すようなヤツだとは思っていなかったからな。何か、もしや殺されたんじゃないかと思っていたんだが…ああ、よかった」

 色気もクソもない俺の黒い髪に頬を摺り寄せるようにして、ボスは抱き締める腕に力を込めて、心底からホッとしたように溜め息すら吐いてくれた。
 日頃は冷静が服を着て歩いているんじゃないかってほど落ち着いていて、何事にも動じないボスには、凡そ人間らしい感情なんか持ち合わせてはいないんじゃないかって、グループのメンバーどもはそんなことをほざいていたけど…俺は知っている、どれほどこのボスが、感情的になるかを。
 生易しい奇麗事なんか吹き飛ばしちまうような、荒々しい気性の持ち主だってことを…

「帰り道でどうした?何かに襲われたのか??」

「はい…油断したせいで、脇腹を刺されました」

「なんだと?」

 ボスは俺が毎日死にたがっていることを知っている、だからこそ、こうして腹を刺されながらも生きて立っている俺の姿に訝しげに眉を顰めたに違いない。
 毎夜、組み敷かれるベッドの中で、ボスの激情に煽られるままに死ねたらいいと、睦言よりも甘ったるく、戯言よりも真摯に囁いていたのを覚えている。
 それでも俺は、やっぱり死ねないでいるんだ。

「怪我をしたのか?お前…今まで何処に…ッ!!」

 ハッとした時には遅かった。
 不意に風を切るような鋭い音を響かせて、俺を掴むボスの腕が吹っ飛ぶんじゃないかって思ったけど、流石はボスだ。寸でのところでサッと腕を引っ込めたから、腕を犠牲にすることはなかった。
 ボスはあくまでも冷静だったけど、軽く突き飛ばされた俺はよろけるようにして、バクバクしている心臓を押さえながら振り返った。
 その場所に突っ立っていたのは…決まってる。
 唯一、口にすることができるコーヒーを2本と在り来たりのジャンクフードを小脇に抱えて、鈍い光を放つ凶悪なほど綺麗な日本刀の柄を掴んで立っているのは、他の誰でもない浅羽那智だ。
 俺に、この場所で待っていろと言い付けて何処かに姿を消していた、俺の今のご主人だ。
 貼り付けたような笑みには誤魔化しきれない、険悪なオーラを身に纏った那智は、全身で『不機嫌です』と物語っている。
 だから余計に、俺の心臓は激しく脈打っている。

「…誰だぁ?オレのぽちに気安く触んなよってなぁ?」

 唇を尖らせて、そのくせ、気安さを求められない笑みを口許に浮かべたままで、那智は唯一口にできるまともな飲料物であるコーヒーの缶を無造作にジャンクフードの納まった紙袋に突っ込むと、それをそのまま俺に投げて寄越したんだ。 どうやら、臨戦態勢に入りたいらしい。
 いかん!それはダメだッ。

「な、那智!この人は違うんだッ。俺の…」

「ぽちの知り合いでも関係ねーよ?オレは、自分のモノに気安く触ってくれた、お礼をしたいだけさ」

「ぽち…だと?それに、アンタは浅羽那智じゃないか。これは、どう言うことなんだ?!」

 ボスが冷静の仮面の裏で動揺しているのが手に取るようによく判る。
 事実、俺だって那智が俺を拾って、そのままずっと飼い続けているのには動揺しまくっているんだ、それは仕方ないことだと思う。

「は、話せば長くなるんですけど…」

「話す必要なんて一切ないし?どうして、ぽちはコイツに懐いてるワケ??」

 ムスッとしているのは、飼い犬が主人である自分よりも、見知らぬ男に尻尾を振っている(ように見えるのは那智だけなんだけど)ことが、どうも随分と気に食わないようだ。
 不機嫌のオーラを纏った漆黒のコートにTシャツ、在り来たりなジーンズと言った出で立ちの那智は、片手に凶悪なほど仄かに発光しているんじゃないかと思わせる、人殺しの武器なのにとても綺麗な日本刀を握り締めて薄ら笑いながらムスッとしている。

「…そうか。お前がタオの連中といるところを見た、と情報があってここに来たんだが。ギアを拾ったのは浅羽那智だったのか」

「はーん?ギアなんてヤツは知らないね。ぽちはくたばり掛けていた野良犬ってだけでさぁ、飼い主がいないんなら、拾ってやるのが当たり前ってなー」

 肩を竦める那智に、相変わらず、平静の仮面を被ったボスは、それでも那智の全身から無造作に溢れ出る殺気のような気配に、明らかに動揺しているんだろう、何度も乾いた唇を舐めながら間合いを取っているようだ。

「野良犬?どう言うことだ。タオの一員である浅羽、アンタなら、俺のことも『L(エッレ)』のことも知らないワケではないだろう。ギアは、ソイツは『L』のボスである俺、スバルの所有物だ」

 タオの頭領、下弦でさえも一目置いている『L』のボスであるスバルは、どうも那智のことを知っているような口振りだ。いや、誰だって、この町に住んでいるヤツなら那智のことを知らないとなるとモグリか逃亡者だって相場は決まっているんだけど、そういう意味じゃなくて、ボスは那智のことを識っているようなんだ。

「はーん…『L』のことも、スバルのことも知ってるけどさぁ、ギアなんてヤツは知らねーし?そもそも、ソイツは人間なんだろー?ぽちは犬だろ。スバルも『L』も関係ねっての」

 鞘から引き抜かれてギラギラと凶悪に輝く刀身の刀背で軽々しく肩なんか叩きながら、どうでもいいんだとでも言いたそうに那智は不機嫌そうな薄ら笑いを浮かべている。

「…ギアは人間だ。勿論、そこにいるソイツも人間だろう?何を言っているんだ」

 訝しそうに眉を顰めたボスと、それでなくても、今にも飛び掛りそうな獰猛な野生の肉食獣のような那智の雰囲気に、ハラハラしてその場に立ち尽くしていた俺は、慌てて2人の間に割り込んでいた。
 いや、割り込んだからと言って何かできるってワケでもないんだが、何か言わないと大変なことが起こりそうな気がしていたんだ。

「ボス!俺は、今は浅羽那智に飼われている犬なんです。どう言うワケで俺が犬に見えるのか判らないんですが、取り敢えず、今は那智の犬なんです。俺は…『L』に帰ることはできないと思います」

 那智が帰れと言うのなら、いや、蛍都が退院してきたとしても、俺は『L』に、ボスの許に戻る気はなかった。
 だって俺は、那智に触れてしまったから。
 見返りもなく、傍に置いてくれる、温かくて優しい…人殺しなのに冗談じゃないって笑えるんだけど、それでも、掛け替えのない優しさを知ってしまったから、ボスの許には戻れない。いや、戻りたくない。
 身体を差し出す代わりに得られる安住?…そんなのもう、クソ食らえだ。
 ボスにはきっと、判りはしないだろうけど。

「何を言っているんだ、ギア。浅羽はお前を馬鹿にしているんじゃないのか?犬だと??どう言う了見だ」

 ボスが、あれほど冷静だったボスが、不意にギッと双眸に殺意を滾らせて、軽々しく笑いながら一部の隙も見せない、戦闘のスペシャリストと言っても過言にはならないだろう那智と、あの浅羽那智と、対峙するんだから…やっぱり、ボスはすげーと思っちまう。
 最後の台詞が自分に向けられたと気付いているのかいないのか、どちらにしても、どうやら自分の大事な飼い犬を横取りされそうになっていることにだけは敏感に感じ取ったのか、那智は不機嫌に殺意のオブラートを纏って狩りをする態勢に入ったようだった。
 ああ、だからそれはダメだって!

「ば、馬鹿になんかされてないんですよ、ボス!どう言うワケか、那智には俺が、本当にモノを言う犬に見えてるんです。それに、那智は俺にとっては命の恩人なんです。だから、彼が飽きるまで何処にも行くつもりはありません」

 ハッキリと言い切ったんだけど、蛍都が帰ってくるまで…ってのも、ちゃんと言っておくべきだったかなと思いはしたものの、それ以上は何も言わなかった、と言うか、言えなかった。

「…さっすが、オレのぽち!飼い犬はお利口さんが一番だよなぁ?今日はローストビーフのご馳走かなぁ」

 それまで、あれほど殺気を撒き散らしていた那智のヤツが、一気に殺意をかなぐり捨てたのか、嬉しそうにニタァッと笑って背後から抱きついたりするから、出掛かった言葉だって咽喉の奥に引っ込んじまうよ。

「だいたいさぁ、ぽち嫌がってるんだし。空気読めよ」

「…!」

 グッと息を呑んだボスに、那智は薄ら笑いを張り付かせた表情のままで、冷え冷えとする眼光で『L』のボスを睨み据えたんだ。

「今は殺してやらない。でも…この次はねーかもなぁー?そう言うこと、ちゃんと理解して帰ればいいんじゃね?」

 那智の吐き捨てるような台詞なんか、もう聞いてはいなかったんだろう。
 ボスは、まるで食い入るように、俺の真意を見極めようとでもするようにマジマジと凝視していたけど、応える術を持っていない俺が居た堪れなくて目線を伏せると、何かを感じ取ったのか、それとも、勝手に都合よく解釈したのか、何れにせよボスは、左手の中に何かを握り締めたままでゆっくりと間合いを取りながら、じわじわと後退を始めていた。
 その立ち去り際にハッキリと言い残して行ったんだけど。

「ギア、お前はきっと後悔する」

「ボス…」

「後悔?ナニ言ってんだか判んねっての。とっとと失せろよ」

 それがいったい何を意味するのか俺には判らなかったけど、那智には何か理解できたのか、片手で俺を抱き締めたままで一気に興味が失せたのか、肩を竦めながらどうでもいいことのように吐き捨てたんだ。
 植物園もどきの公園から完全にボスの気配が消えて、俺はどうして、あの時差し伸ばされたボスの腕を掴まなかったんだろうと、目線を伏せて自嘲的に笑うしかなかった。
 那智には蛍都がいる。
 俺の存在は、いつかきっと那智に迷惑をかけちまうんだろう。
 その時…ああ、そうだ。
 ボスが言うとおりに俺は、きっと後悔するに違いない。

「アイツ…スバルってさぁ、もともとタオの一員なんだぜ」

「ボスがタオの一員だって!?」

 唐突に那智のヤツがそんなことを言い出したりするから、思わずギョッとして見上げたら、那智のヤツはフンッと鼻を鳴らしてどうでもよさそうだ。
 いや、那智にしてみたら全てがどうでもいいことなんだろうけど…

「じゃないと、『L』のボスになんかなれるかっての。大方、下弦が何かを命じでもしたんじゃね?あの古狸の遣りそうなことだし。まあ、今日は新発見だったけどなー」

「は?」

「ぽちがさぁ、『L』なんて言う下らねー組織のメンバーで『ギア』って名前だったってこと」

「コソ泥だって、言っただろ?それにギアって言うのは通り名で本当の名前は…」

「はーん?『L』はコソ泥集団じゃないし?ま、名前とかどうでもいいんだけどさぁ」

 だって、ぽちはぽちだしーと、那智らしい気だるげな口調で不機嫌そうにそう言ってから、漆黒の外套に身を包んだ、派手なTシャツにジーンズ姿と言うスパンキーなネゴシエーターはニヤニヤと薄ら笑いながら身体を離した。そこで漸く俺は、ずっと那智が抱き締めていたことに気付いたんだ。
 壊れた人形みたいにボスに抱かれていたあの頃でさえ、夜以外の時に触れられると鳥肌が立って、息ができなくなっていたのに…俺は、那智だけには免疫があるようだ。
 それはたぶん、那智にセクシャルなモノを感じないからだろう。
 たとえ、蛍都と毎晩抱き合って寝ていると聞いたとしても、どうしても、それが信じられないぐらい浅羽那智はストイックなハンサムなんだよ。
 でも、なるほど。
 ちゃんと、ボスの台詞は聞いていたんだな。俺のことを野良犬だと言いながらも、ちゃんと『ギア』と言う名があったことをは認めてくれたんだ。

「そんな…じゃあ、もしかしたら。7年前のあの事件は…」

「あぁ?…あー、そう言えば。確かスバルが潜り込んだコソ泥集団がいたっけなぁ?そこのお山の大将が証人で、生きたまま捕まえろとか命じられてたっけ」

「え!?じゃあ、ボスはネゴシエーターだったのか!?」

「だった、じゃない。今も、ネゴシエーター」

 初耳だった。
 物言わぬ影のように静かで、そのくせ絶大な存在感でグループの連中に慕われていたスバルと言う青年は、あのクソッタレの頭領が死んでから、すぐに次のボスの座に君臨したんだけど、誰もがそれに否は唱えなかったし、却って大歓迎だった。
 そのボスが、俺たちが憎んでいる集団の一員だったなんて。
 そりゃあ、『タオ』は魅力的だし、誰もが憧れていたから一員になりたいと思っていたさ。
 でも、根本のところでは、仲間をメンバーの一員にしてやると甘い言葉で誘っては、集団で弄り殺すだけが目的だと知っていたから、そんな最強ファミリーに憧れながらも俺たちのような下っ端は、『タオ』と言うこの町の巨大組織を憎んでいた。
 その話は、もちろん、タオの連中に知られるワケにはいかなかったから、密やかにグループ内でだけ話していた。その輪の中に、スバルもいたのに…ボスは、何も言わずに、那智とはまた違った静かな笑みを浮かべたままで黙って聞いていたっけ。
 どんな思いで聞いていたんだ?
 クソッ!

「大方、俺たち雑魚がほざいてろとでも思ってたんだろうな」

「ぽちは雑魚じゃないぜ~?」

「…あぁ?」

「犬でしょ?ワン!ってさぁー」

 思わずその場に蹲りたくなったものの、それでも俺は、屈託なく、ニヤニヤ笑っている最強のネゴシエーターに、仕方なくボディブローを食らわせるしかなかった。
 もちろん、悪乗りをする那智は素直にボディブローを食らいながらも、ニヤァッと笑って楽しそうだ。
 確かにだ、ヒットなんかしてるワケじゃないんだろうけど、少しぐらい痛そうな顔をしてくれよ。
 だがまあ、このタオが支配する(していない場所なんてもう、この街の何処にもないんだけど)所有地で、組織の頂点に立つ『下弦』ですら一目置いている、お客さんネゴシエーターに平気でボディブローなんか食らわせることができるのは、恐らく、鉄虎やベントレー、そして蛍都ぐらいだろうと思う。
 そんな錚々たるメンバーの末席にでも名を連ねることを許されるのだとしたら、それはそれだけでもいいんじゃねーのかと思ってしまう辺り、俺もこのクソッタレな禄でもない世界に順応しちまったと言うワケか。
 那智の傍にいることは心地いい。
 だけど、俺はあくまで犬でしかない。
 犬は従順に従わなければ捨てられる…友人や、肉親や、仲間や、恋人のような確信は何一つない。
 言われなくても判っているよ、ボス。
 きっと俺は、後悔する。

 …だけどな、ボス。
 俺だって大人しく後悔ばかりするワケじゃないんだ。
 人間なんだから考えて、ちゃんと行動してみせるさ。
 それまでの僅かな間、俺はこの幻のような甘ったれた生活を満喫してるだけなんだ。
 そう、ちゃんと判っている。
 ここは俺のいる場所じゃない。

 縋り付く指先に未来を見ていた。
 迷信に揺れる双眸を瞬かせて。
 世界が回る。
 まるで無頓着に。
 全てを信じる余裕さえないのに。
 呆然と立ち尽くす、僕がいる。