4.雨の町  -Crimson Hearts-

 言葉は噛み砕く度に不思議なほど苦く身体中に浸透していた。
 フワリフワリと宙を歩くような奇妙な違和感に、気付けばいつも笑みが零れていた。
 両手を持ち上げてふと見下ろしてみれば、べっとりと張り付いた血生臭い液体が指の隙間を伝っていくつもいくつもボタボタと零れ落ちている。
 あまりにも当たり前すぎる日常に忘れていることが多すぎて、たまに自分が何処にいるのか判らなくなってしまった。
 世界はまるで無頓着に回転し、気怠い午後の日差しのように、どうでも良い日常に無情の光を投げ出している。
 当て所もなく流離うこの世界が回る、そんな馬鹿げた錯覚に囚われながら、オレは瞼を閉じて無常の雨を受け止めていた。

 雨が降り続いていた。
 もう、止むことはとっくの昔に忘れてしまったんだろう、酸に侵された雨は鬱陶しいぐらい空を舐めるように覆いつくす曇天の空から降り頻っていた。
 きっと、この世界のどこかで日毎、夜毎繰り返されている殺戮の血を洗い流そうと、自然の浄化作用でも働いているんだろう。
 そんなもの、人間が抱える欲望が産み落としたこんな世界では、まるで無意味だと言うのに、地球は諦めてはいないようにこんな風に四季を残していた。
 差し詰め今は、雨期に当たるんだろう。
 浅羽那智だと名乗った俺のことを『ぽち』と呼ぶあのふざけた男は、雨が好きなのか、こんな酸性濃度の強い危険極まりない、いつもは悪事なんか見て見ぬふりの機動警備隊ですらも『外出禁止令』等と言うものを発令しながら空を飛び回っているって言うのに…平気で出掛けて行ってしまった。
 今のこの荒んだ世界にも、高度成長期だった電脳文明の名残が息衝いていて、警備システムが未だに起動している。俺も良くは知らないんだが、遠隔操作?或いは何らかのコンピュータで制御されているらしいって噂は聞いたけど、その実体がどんなものかはよく判らないんだ。
 ただ、警察が使っている番犬みたいなもので、俺たちはそのコンパクトな銀色のボディが凶悪な空飛ぶ鉄の塊をコソリと『K-9(ケイナイン)』と呼んでいる。
 そいつに見つかったら最後、些細な喧嘩だって容易く通報されちまうからな。
 そんなことになったら機動警備隊の連中がすっ飛んできて、容赦なく捕獲すると収容所に連行されちまう。そうなると、生涯出てくることはないかもしれない…
 俺は実際にその場所に行ったことがないから知らないが、簡単に『収容所』と呼ばれているその場所は旧時代の産物で、第三次大戦が勃発する前まで世界中が行っていた『クリーンシステム』の名残だと言われている。
 俺たちは第三次大戦前を『旧時代』と呼んでいるんだ。
 もう、知ってるヤツなんて殆どいないんだろうけど…その当時、世界中は高度に発達した電脳文明を思う様駆使して、なんともバカらしい『浄化システム』なんて言うのを作り出して実行していたんだそうだ。
 その概要ってのがなんともお粗末で、簡単に言えば『悪事をなくして住み易い町作りをしましょう』ってのが根本のスローガンだったらしい。そうして配備されたのが警察とは別の『機動警備隊』と言う組織で、その連中が世界規模に張り巡らせた警備網が俺たちが俗に『K-9』と呼んでいる警備システムのことだ。
 機動警備隊は少しばかり形が変わっているんだが今も健在で、各主要都市には必ず配置されている。それも大規模な部隊編成だから、警備システムがワンワン吼えれば何処にいても数秒で駆けつけてくる。見つかれば最後、奴らが居座る巨大ビルの地下に設置された収容所に叩き込まれるんだ。
 引き摺って連れて行かれてたのをもう何人も見たことがあったけど…戻ってきた奴は1人もいなかった。
 だから俺たちはその収容所のことを『エル・ヘヴン』と呼んでいる。
 この世界で生きる連中の誰もが心のどこかに必ず、永遠の安らぎを求めているんだ。それはこんな世界に生まれてしまった奴なら誰だって抱える、心の闇の部分だったから、収容所でどんな極悪な日々が待っているのか、或いは生きることよりも辛く苦しい責め苦を与えられる場所かもしれないと言うのに俺たちは、まるでそこを天国か何かのように考えていた…のかもしれない。
 そうでも考えていないと、それでなくてもこの日常だって充分、極悪すぎるほど極悪な毎日なんだ。町のどこかでは必ず殺人が起こっているし、女は必ず一度は犯されている。子供は哺乳瓶の代わりにナイフを与えられて、仲間と過ごすことを教わる代わりにどれほど敏捷に人を殺せるかを生きていく中で覚えていくような、そんなクソッタレな世界なんだ。
 両足で立っている俺ですら『ぽち』と呼ばれて、首から兇悪なスパイクが禍々しい首輪を下げて町中をうろついたとしても、誰も気にも留めやしないだろう。それどころか、スパイク部分の鉄を奪おうとして襲い掛かって来る、それぐらい、無頓着で凶暴な町だった。
 ここだけじゃない、世界中がそんな風に荒んでいたからな。
 その荒んだ世界で未だに『クリーンシステム』が起動してるなんて、一体誰の悪い冗談なんだ?
 チャリッ…と無機質な音を鳴らす首輪の違和感に、未だに慣れないでいる俺はアンティークな窓枠に凭れながら冷たい雨にけぶる灰色の町を見下ろしていた。

 浅羽那智は、ちょうど『ぽち』が物思いに耽って世を儚んでいるその時、腰のベルトに無造作に突き刺した対の日本刀を両手で掴んで笑っていた。
 その血の気の失せた白い頬にはたった今噴出した断末魔の名残が飛び散り、紅い舌がペロリと伝い落ちてくる鮮血を舐めて味わっていた。
 漆黒のコートが吸い込んだ血の重みでズシリと重くなっているはずだと言うのに、那智はさほど苦にした風もなく、降り頻る雨の中で呆然と突っ立っていた。

「あーあ、また殺っちまったよ。コイツ等から聞きてーことがあったのによ」

「またまたぁ~そんなご冗談を」

 背後から呆れたようにニヤニヤと笑いながら姿を現した頑丈な体躯の男と、ヒョロリと頼り甲斐のなさそうな男が那智の言葉にヤレヤレと肩を竦めて顔を見合わせている。

「おーかたどっかのジャンキー君だろ?全く、つまんねーな」

 那智は呟くと、たった今アスファルトに上半身と下半身をバラバラに撒き散らした男たちの亡骸を蹴飛ばしながら、肩を竦めるどうやら『仲間』らしき連中を振り返った。
 その脱色し過ぎて黄褐色になった髪を持つ、どこか飄々として馬鹿にしたような、気楽そうな双眸に射竦められただけで男たちは微かに息を飲んでいた。
 しかし、流石に長い付き合いなのか、ヤレヤレと溜め息を吐きながらすぐに気を取り直したようだった。

「つまんねーつまんねー言ってろよ?それで証人どもを殺されてちゃたまんねーんだがな。ええ?」

「証人だと!?ハッハ…」

 まるでどの口で言ってるんだとでも言いたげに、瞼を閉じて口許を笑みに象る那智の単純な笑い方にも、底知れない恐怖を感じているのか、ヒョロリとした男は寡黙そうにソワソワと辺りを見渡している。

「そろそろ『K-9』が嗅ぎつける頃じゃねーか?こんな場所からはサッサとおサラバ…」

「はーん、ワンコがなんだって?」

 口許に笑みを浮かべたままで、那智は2本の刀にベットリと付着しているどす黒い血液を一振りして散らしながら、腰のベルトに無造作に突き刺している鞘に納めて黒コートの下に隠してしまうと馬鹿にしたように腕を組んだ。
 この世界に生きる住人ならば誰しもが怖れて震え上がる『K-9』の存在も、浅羽那智と言う男にはそれでも纏わりついて煩い蚊程度にしか考えていないようだと、ヒョロリとした男は薬でボロボロになったギザギザの歯をカチカチと鳴らしていた。

「まあ、ベントレーの台詞じゃねーが。『K-9』が来れば確かに厄介じゃねーか?」

「ふーん…」

 ベントレーと言う明らかに名前負けしているストリートキッズ崩れの男をチラリと見た那智は、全く面白くもなさそうに目線を落としてバラバラになってしまった亡骸を無表情で見下ろしていた。

「どーせ、後始末は『機動』の連中がするんだろ。マズソーだしつまんねーし…オレは帰るよ」

「…って、おい。ちょっと待てよ?お前、最近やたらサッサと帰るじゃねーか。ニヤニヤ笑ってるしなぁ、何かいいことでもあったか?」

 感情を読み取らせない無表情で突発的に踵を返そうとする那智を呼び止めたガタイの良い男は、腰に手を当ててニヤニヤと鋭い犬歯を覗かせながら笑っている。その顔をチラリと肩越しに振り返った那智は、相変わらず何事かを企んでいるようにニヤ~ッと笑って肩を竦めるのだ。

「知りたいかぁ?鉄虎(テツトラ)。ワンコだよ、ワンコ」

「あん?『K-9』でも落っこちてたか」

「バッカ!違うよ、違う。ワンワン吼える『ぽち』を拾ったのさー」

「あーん?」

 いまいちワケが判らないと言ったように眉間に皺を刻む体躯の良い男、鉄虎にニヤニヤと笑う那智はもうそれ以上は何かを言うつもりはないようで、そのまま片手を振って雨を蹴散らすようにして灰色の町に踏み出していた。

「那智よぉ。『下弦』が会いたがってたぜ」

 鉄虎の台詞にピタリと足を止めた那智はしかし、微かに首を傾げるだけで振り返ろうとはしなかった。
 その様子にベントレーと鉄虎が一抹の不安を覚えながら顔を見合わせている。

「まさかとは思うけどよ。那智、『下弦』を忘れたとか言うんじゃ…」

 ベントレーが恐る恐ると言った感じで訊ねると…那智は背を向けたままで両肩を振るわせた。
 その仕種には見覚えのある2人は、呆れたように肩を竦めるのだ。

「ハッハ…忘れるかよ。あの老い耄れめー。まだ生きてんのかぁ?」

「あーあー。ボスを忘れてちゃ、おめーもお終いだろーからなぁ」

「まー…『証人』を見つけ次第、会いに行ってやらぁ」

 振り返ることもしない浅羽那智は、ゆっくりとポケットに両手を突っ込むと、降り頻る雨の中を飄々と立ち去ってしまった。灰色の町には不似合いなほどどす黒い存在だと言うのに、まるで溶け込んでしまうようにして消える那智に出会う度に、鉄虎は思っていた。
 この町に落ちた一滴のどす黒い不協和音だと言うのに、那智はともすればここに生きる誰よりも、この町に溶け込んで馴染んでしまっているのではないかと。

「アイツはよぉー、死にたがっちゃいねーんだがなぁ。なんつーか、生きてることには頓着がねーからまあ、珍しいっちゃ珍しい…珍獣ってとこかぁ?」

 突拍子もなく呟いてガッハッハッと大いに笑う鉄虎を、訝しそうに眉を寄せたベントレーが怪訝そうに頭1つ分上にある顔を見上げている。
 どうやら鉄虎も少なからず浅羽那智の毒に当てられているんだろう。
 確りしてくれよぉとグニャッと細い眉を歪めるベントレーの、ジャラジャラとピアスや安全ピン、鎖と言った飾りの下がった耳に耳障りな電子音が響き渡った。
 聞き覚えのあるそれは…

「やっべ!ホラ見ろッ。『K-9』が来やがったじゃねーか!」

「そう気色ばむなって。要はトンずらすりゃいいってことよ」

「軽く言いやがって!鉄虎よ、今日も報酬はナシ!なんだぜ~」

「まあ、那智だし」

「あー…那智だしなぁ」

 ベントレーが思い切りガックリしている間にもドンドン電子音が近付いてくる。
 だが2人とも、口ほどには然程気にした風もない。
 それもそのはず…溜め息が零れ落ちるその前に、2人の影はまるで掻き消えるようにしてその場から消え去ってしまったのだ。 
 大地を踏み締めた2人の巨体が宙を舞い、信じられないことに廃墟となったビルの二階部分に着地していたのだ。割れ放題のビルの窓からワンワンと吼えながら近付いてきた『K-9』を見下ろしていた2人は、『緊急事態発生!緊急事態発生!』とがなり立てる無機質な声を尻目に那智がそうしたように、灰色よりももっと暗い町に姿を隠してしまった。

 世界が回る。
 いっそ、殺してくれと悲鳴を上げるように軋みながら…