8.こころ  -Crimson Hearts-

 ぽちに別れを告げてから、那智が今にも倒壊する恐れもあるんじゃないかと思わせる、そのボロいビルの二階から砂利だらけのアスファルトに着地したときには、既に取引相手であるSRSの連中は路地に立っていた。
 派手な真っ赤なコートに身を包んだ三人組は、ともすればヘビのように纏わりつく、嫌な目付きをした連中だなぁとぽちは窓枠に手をかけて、眼下の路地を見下ろしながら思っている。

「那智くん、相変わらず美しいねぇ」

 今にも抱き付きそうな勢いで、SRSの先頭に立つ男、恐らくリーダーなのだろうが、彼はコートの裾を翻して立ち上がったなんとも面倒臭そうにニヤニヤ笑いながらぼんやりしている那智に、その黒革の手袋を嵌めた両手を差し出した。が、もちろん、そんなことを気にするような男ではないのが、那智の那智たる所以なのだが。

「鉄虎ぁ、今日の品物ってなに?」

「あ?あー…食料と武器だ」

「はーん…SRSつったら、武器しか能がねーもんなぁ」

 面倒臭そうにまるきり無視した那智が首を左右に振ると、鉄虎がクククッと人の悪い笑みを浮かべ、ベントレーが呆れたように肩を竦めている。
 そんな彼らの態度を別段、気にもとめていないのか、或いは慣れているのか、どちらにしろSRSのリーダー格らしき男は伸ばしていた腕を仕方なく腰に当てると、舐めるような目付きで繁々と久し振りに会う愛しい人を舌なめずりでもしてるんじゃないかと言う勢いで見詰めている。

「今日は那智くんの為に、私が特別にプレゼントを用意したのだよ。ゼヒとも、受け取って貰い…」

 流れるような、腰までもある茶髪を無造作に後ろで束ねている男の、その台詞が終わりもしないと言うのに、那智はぼんやり笑いながらベントレーに言ったのだ。

「借りるぜ?」

「は?」

 ベントレーが首を傾げるよりも早く、ツンツンに立てた髪をヴィヴィッドなオレンジに染めた青年の、その腰に隠されたホルダーから45口径を2丁、素早く引き抜いた那智は電光石火で笑いながら発砲していた。
 それは或いは向かいのビルに、もう一方はまるで見当外れな倒壊寸前のような3つ先のビルに向けて…
 那智はまた驚くことに、そのどの標的にも視線を向けてはいなかった。
 野生の生き物が本能で動いたような、そんな錯覚すらも起こしそうになる一瞬の出来事だった。

「ベントレー、またカスタマイズした?2ミリずれる。うざー」

 声すらも上げる暇などなかったに違いない銃器を携えた男達は、まるで無口にビルからどさりと重い音を立てて落ちてしまった。

「ああ!?また勝手に人の銃を使いやがって!!俺専用なんだからいいの!」

 そんなことを言いながら引っ手繰ろうともせずに額に手を当てるベントレーの腰のホルダーに、那智はキチンと2丁の45口径を戻してやった。

「2ミリもずれると眉間を狙えないし?ま、ベントレさまの腕じゃそれでいーのか」

「…そりゃ、どう言う意味だよ?ああ??」

 シレッとしてニヤニヤ笑う那智を振り返ったベントレーの額に血管が盛り上がっていて、どんな理不尽なことでも仕方なさそうな顔をして受け入れているこのオレンジのツンツンヘアの男には、それほどまでに愛用しているカスタマイズ済みの45口径が大事なのだろうと、ぽちは一部始終を呆気に取られたように見ながら思っていた。

「さすが!…いや、全くお見事。それでこそ私の那智くんだ」

 パンパンパンッと、やたら気障ったらしく手を叩いて喜ばしそうにフッと笑う赤コートの長髪野郎に、ニヤニヤ笑いながら呆れているらしい那智は肩を竦めると、今更気付いたとでも言うように眉をヒョイッと上げたのだ。

「ああ!クルーガー。あれ?お前、SRSにいたっけなぁ??」

「…私はSRSのネゴシエーターどもを総括しているリーダーだ」

 あからさまに馬鹿にしたように聞こえる口調も標準装備の那智だと知っているのか、それでも声音は先程よりもワントーン低くなったような気がする。

「おお、そうか!私としたことがしまった。今回のプレゼントが気に喰わなかったのだね、マイスウィート!」

 大袈裟に額に片手を当てながら胸元を押さえるクルーガーに、ぽちはどんな人種なんだろうアイツはと思いながら、そのとき那智が、いったいどんな顔をしているのか見てやろうと目線を移した。
 呆れたようなうんざりしたようなベントレーの傍らで、何が面白いのか鉄虎がニタニタと笑い、その前で漆黒のコートの腰を両手で掴んで面倒臭そうに突っ立っている那智は何やら企んでいるのか、ニヤニヤニヤニヤ、ある意味何か恐ろしいものを感じてしまう笑みを浮かべている。
 そんな那智に気付いているのかいないのか、それとも那智の心情は即ち自分へと一心に傾けられているとでも思っているのか、大きな勘違い野郎さまは困ったように眉を寄せながら嬉しそうに笑ったのだ。

「この次の取引のときは美味しそうな若者を用意するよ。あのようなところに隠れていたとは…おおかた、ドラッグでもやっていたんだろうね。申し訳ない」

「なー、鉄虎ぁ」

「なんだ?」

「オレはコレも飼ってみたいんだがなぁ…ククク」

「やめとけ」

 同じく内心で「やめとけ」と言ってしまったぽちは、呆れたように自分を見上げているベントレーと目が合ってしまった。その目付きは、那智ってのはこんなヤツなんだが、ちゃんとついて来れてるか?と言いたそうに見える。ぽちは、なぜかそんな風に溜め息を吐きながらも仕方なさそうに那智たちに付き合っているこのベントレーと言う男を、仲間たちが噂していたほど冷酷なヤツではないように思っていた。
 大丈夫だとジェスチャアで示すと、ヤレヤレと言いたそうにベントレーは肩を竦めて首を振っている。

「いや、那智くん!この際だ、どうだね?古めかしい戒律のあるタオなど抜けて、私の許へ来ないかね?君ならば喜んで歓迎するよ。もちろん、ベッドの中まで一緒だ」

「ベッド?」

 ふと、那智が口許に笑みを貼り付けたままで首を傾げると、何かまたしても勘違いしたのか、クルーガーはパッと表情を綻ばせて、またしても嬉しそうに両腕を差し出すのだ。

「モチロンだとも、那智くん!朝も昼も夜も、私は君を離さないだろう。マイハニィ!さあ、私の腕の中へ!!」

 目許の泣き黒子が色気のある、冷たい美貌のクルーガーは、そんな吐きそうな台詞さえ言わなければ一流のネゴシエーターだと良く判る。使用する武器は恐らく、ベントレーと同じで、いや或いは、そのコートの中にえぐい兇器をわっさり抱えているんじゃないかとさえ思えてしまう、胡散臭さだ。
 仲間のSRSの連中すらも蒼褪めて、暴走する自分たちのリーダーに「おいおい」と言っているような有様だ。

「ベッドねぇ…あのさぁ」

 ふと、那智がニヤニヤしながらクルーガーを見詰めた。
 まるで愛の告白でも待っている乙女のように、長髪を優雅に揺らして頬を染める期待に満ち溢れるクルーガーが、そんな那智を熱っぽい眼差しで見つめ返した。
 そんなSRSのリーダーの前でスッと腕を持ち上げた那智は、吃驚するぽちを指差してニッコリ笑ったのだ。

「あそこにぽちを待たせてんだよなぁ。オレ、さっさと帰りたいし?早く荷物を見せろ」

「ぽち…?なんだね、それは」

 ふと、眉間に皺を寄せてギロリと見上げてきたクルーガーに、ぽちは一瞬息を呑んでしまった。
 まるで、そうだまるで、蛇に睨まれた蛙のように身動きすら出来ない威圧感は…彼が、間違えることなく勢力を誇るSRSの、荒くれどもを統括しているボスなのだと言うことを物語っている。
 全身から吹き零れる殺気は舐めるように路地に蟠るが、那智も鉄虎も、ましてやベントレーですらどうでも良さそうな顔をしている。いったい、タオのネゴシエーターはどれだけ凄いんだ!?と、ぽちが思ったかどうかは定かではない。

「首輪をしているようだが…?」

 ムッとするクルーガーに、とうとう噴出してしまった鉄虎が目尻に浮く涙を親指の先で拭いながら肩を竦めると、クックックと笑ってその疑問に応えたのだ。

「お前さんの那智様がお拾いなすった捨て犬さぁ。ぽちっつってなぁ、ええ?そりゃあ、可愛いもんだぜぇ。あれで耳と尻尾がないってのは下手な冗談より性質が悪ぃよなぁ」

「バカだな、鉄虎。あれだからいいんだ。なまじ尻尾があると振って欲しくなっちまうだろぉ?」

 ムッとしたように眉根を寄せてニヤニヤ笑っている那智のと、そのなんとも言えない壮絶な顔付きも意に介さない鉄虎の会話を聞いていたクルーガーは、途端に不機嫌そうなオーラを垂れ流しにして腕を組むと、けして逸らさない双眸に更なる憤りを込めてぽちを睨み据えている。
 その目付きに、もともとただのコソ泥だったぽちに好奇心以外に睨み返すなどと言う度胸があるはずもなく、思わず腰を抜かして失禁でもするところだった。
 それだけの殺意が込められた目付きだったのだ。

「ぽちをさぁ、睨んでじゃねーぞ!この変態クルーガーがよぉ。おめーは那智にだけ血迷っとけばいいんだよ!」

 指を気障ったらしくパチンッと鳴らして、苛立たしそうなリーダーの合図で二人掛かりで持ってきた木箱を思い切り蹴り上げたベントレーが忌々しそうに言うと、那智に血迷っているからこそ不機嫌なクルーガーが殊更嫌そうな顔をして腕を組んだ。

「ベントレーくんは短気が欠点だね」

「うるせーよ!お前に言われたかないね」

「いやぁ?ベントレーはお人好しがいまいちっつーだけだなぁ」

「そうじゃない。ベントレーはぽちに優しいだけさ」

 憎々しげに吐き捨てるクルーガーに牙をむくベントレーの背後で、鉄虎がニヤニヤしながら言うと、那智がオレには冷たいんだぜーとニタァ~ッと笑っている。いったいお前たちは誰の味方なんだとぽちが真剣に悩み出したときには、漸く彼らはネゴシエーターとしての仕事を始めたようだった。

 散々易く叩かれたものの、思う以上の収穫があったのか、SRSのネゴシエーターたちは顔を見合わせると納得して取引を成立させた。その立ち去り際に、抱き締めたそうに名残惜しげにいつまでもうだうだと未練がましく居残っていたクルーガーは、だが、そんな彼をサッサと残した那智がまたしても砂利だらけのアスファルトを蹴って廃ビルにぽちを迎えに行ってしまうと、仕方なさそうに、そして地獄の底から恨めしいと思っているような目付きをして戻って行った。

「クルーガーって言ったっけ?すげーな、俺初めてSRSのネゴシエーターを見たよ」

 身軽な仕種でトンッと窓枠に乗った那智を見上げながら興奮の冷め遣らぬぽちが言うと、那智は何がそれほどぽちの好奇心を満たしているのか判らず、結局どうでも良さそうに肩を竦めてビルの床に降り立った。

「クルーガーに会えて嬉しいワケ?ふーん」

「いや、嬉しいとかそう言うんじゃなくってさ。まだ、グループにいた時、仲間は見たことがあったんだけど俺はてんでダメで、きっと死ぬまでネゴシエーターとは会わないんだろうと思ってたからさ」

「…オレも、ネゴシエーターだけど?」

「ああ、知ってるよ。この町でタオのネゴシエーターの浅羽那智って言ったら、神様と一緒だ」

「神さま?はーん…随分と安っぽい神なんだなぁ」

 那智があの、瞼を閉じる独特の笑みを浮かべたままで肩を竦めてみせた。
 那智にしてみたら、どうして自分がそんな馬鹿げたものに奉られなければいけないのかとでも思っているのだろう、肩を竦めて直接床に腰を下ろしているぽちの傍らにしゃがみ込んだ。

「なに言ってんだよ!那智は強いんだ。俺みたいな底辺を這いつくばって生きいる連中にしてみたら、こうして話してるのだって奇跡じゃないかと思っちまうぐらいなんだぜ」

「…そのワリにはさぁ、最初の頃は思いきり威嚇してたし?何言ってんだか全然判んねーよ」

「し、信じられなかったんだ。あの那智が俺なんかを拾うなんて…つーか、こんな性格とか全然知らなかったしな」

 ブツブツ言うぽちの顔をニヤニヤ笑いながら覗き込んでいる那智に、ぽちは嫌な予感を感じながら眉を寄せて、そんな最強のネゴシエーターを見返した。と言うか、睨み返した。
 なぜか、あれほどクルーガーには恐怖心しか感じなかったと言うのに、那智にはそんな気持ちがこれっぽっちも沸き起こらない。それはきっと、那智が本気の怒りだとか、殺意と言うものを匂わせないからなどと言うことに気付けるほど、ぽちはまだ人生経験が足りてはいない。

「どう言う性格?…ぽちは面白いことばかり言うなぁ」

「面白いのは那智の方だ」

「あ?そうかぁ??」

 ニタァッと笑って擦り寄るようにして近付いてくる那智に、なにやら只ならぬ気配を感じて、ぽちがちょっと後退さった。が、その腕はすぐに掴まれて、ぽちは気付けば那智に抱き締められていた。

「なな、なにすんだ!?」

「本当は喜んでるくせに。犬はこんな風にヨシヨシと構ってもらうと嬉しいんだろ?」

「そりゃ、犬だったらだろ!俺は犬じゃないし…だいたい那智は俺のこと犬とか言いやがるけどなぁ」

「ぽちは犬だし?なに言ってっかわかんね」

 この可愛い犬はどうしてしまったんだろう?どうしてご主人様が可愛がっているのに威嚇してるんだろう…と、那智の張り付けたような笑みの表情からでは読み取れないものの、どうやら困惑していることは確かなようだった。
 そもそも、だがぽちは最初から那智は少し変わっていると思っていた。だから少々珍奇な台詞を言ったとしても、それが那智のモチベーションなら仕方ないのかもしれない、とまで思っていたのだ。だが、どうして那智は自分のことを『犬』だと言ってきかないのか判らない。
 尋ねたところでこの男は、ニヤニヤ笑いながら「犬は犬でしょ?」と言うだけだ。
 那智は満足そうに膝の上に抱え上げた大型犬もどきのぽちの頭をヨシヨシと撫でながら、ちょっと嬉しそうな顔をしている。
 そこでふと、ぽちは思うのだ。
 もしかして那智と言うこの、泣く子も黙るタオ最強のネゴシエーターは、人一倍の寂しがり屋なのかもしれないと。そんな恐ろしい妄想を青褪めながら考えてしまう自分は、いったい何を考えてるんだと危うげな思考を振り払おうと首を微かに振ってしまった。
 それでも。
 ぽちは思う。
 仕事が終わると確かに一直線に家を目指して帰ってきていたこのニヤニヤ笑いの男は、窓辺から見下ろしているぽちの姿を認めると、一瞬、本当に僅か一瞬にすぎないのだが、ホッとした顔をしてニヤァッと笑うのだ。
 那智にとってぽちはただの犬なのかもしれない。
 多くの人間を生きる為に殺している那智にしてみたら、犬と言う傀儡に隠された人間であるぽちを傍に置くことで、長く不在している心の拠り所を見つけたつもりになって自分を慰めてるのかもしれないなぁ…と、そんなことを思っていたぽちは、それから唐突に自分は何を考えているんだろうと激しく照れてしまった。
 ぽちは溜め息を吐いて、それから大人しく那智の血臭の漂う胸元に頬を寄せた。
 つい先ほど、喰らうために殺した人間から溢れ出た夥しい血液の生臭い匂いは、まるで死神のように那智に付き纏っている。
 帰ってきてからすぐに浴室に直行する那智の心は、思うほど冷たいわけではないのか…付き纏う血臭を一番毛嫌っているのは、ともすれば那智だったのかもしれない。
 ぽちは、人間に抱き締められることが何よりも、嫌だった。
 できればソッと、突き放してくれる方が楽なのに、と思っていたのだ。
 なぜならそれは、ぽちは人間が嫌いだったからだ。
 半ば、犯されるようにして関係を結んだ娘は、彼を利用して、そして彼から最愛の養父母を奪って行った。それから孤独になった彼は、薄汚い路地裏を徘徊しながら、それこそ残飯でもなんでも漁って、明日のために必死で足掻きながら生きていた。そうまでして、この荒んで見捨てられた世界にしがみ付いていたのは、彼には養父母が遺した幼い妹がいたからだ。
 妹のために、まともな食事は全て彼女に食べさせて、自分は落ちたものでも誰かが投げ捨てた食べ残しでも、それこそなんでも口にして空腹を満たしながら、ケチな盗みを繰り返して夜に怯えながら妹と肩を寄せ合って生きていた。
 それが、このクソッたれな世界で唯一遺された幸福なのだと、彼は信じて疑っていなかった。それは妹も同じだったのか、瑣末なねぐらで極力目立たないように熾した小さな炎で暖を取りながら、彼の妹は幸せそうに笑っていたから…
 だが…彼の目の前から、驚くほど呆気無く、その幸福は掻き消えてしまった。
 彼は、那智に会うまで属していた強盗集団の頭領に、手酷く犯されたのだ。何が気に食わなかったのか、或いは理由もなく目障りなだけだったのか…いずれにせよ、彼は3日3晩犯され続け、それからほぼ監禁状態で長いこと拘束されていた。
 妹が、お願いだから妹がいるから…帰してくれと泣く彼の前で、強盗集団の頭領はゲラゲラ笑いながら言ったのだ。
 お前の妹は餓死した、と。
 どれほど、あの小さな妹は恐怖に怯えながら空腹に苦しんだんだろう。
 可哀相な妹は、ひもじさを凌ぐために枯れかけた草を食い、落ちている砂利を口にしていたと言う。 
 なぜ、そこまで知っていながら助けてくれなかったんだと出鱈目に暴れて叫んでも、あの男は馬鹿にしたように。

「人間が死ぬところを見たかったからだ」

 と、酒に酔ったまま笑いながらそう言った。
 彼は嘆き悲しんで、ああそうかと、その時になって漸く気付いたのだ。
 自分が嬲り者にされて監禁されたのは、たった1人の小さな妹を死の淵に追いやる為だったのだと。
 自分さえいなかったら…養父母が死ぬことも、妹が死ぬこともなかったに違いないのに。
 彼は一方的に叩きつけられた残酷な仕打ちによって、たったひとつの大切な幸福を奪われ、心まで亡くしてしまったのだ。
 それから彼は、もうずっと、毎日死ぬことばかり考えるようになっていた。
 だが、できることなら、必ずや妹の仇は討ってやらねばと思い、妹が死んでからまるでもう興味がないとでも言うように打ち捨てられた彼は、奥歯を噛み締めてこの腐敗した世界でもう一度死ぬ為に必死で生き続けたのだ。
 だが、妹の時と同じように、強盗集団の頭領も呆気無く死んでしまった。
 その現場を、頭領を付け狙っていた彼は偶然見てしまったのだ。
 ヴィヴィッドなオレンジのパーカーを着た、目深にフードを被った男がブラブラと裏路地を歩いていた。
 強盗の頭領はソイツを獲物にして、今夜の酒代とでも思ったのだろう。
 だが男は、フードの奥に隠れた酷薄そうな薄い唇をニヤッと歪めて、集団で襲いかかる連中を悉く殺してしまった。その素早さは驚くべきもので、手にした特徴的な銃身の長い銃を器用に操りながら、応戦する連中のひとりひとりを、まるでちょっとした体操のように残酷に殺していった。
 ある者は、驚くほど呆気無く、その身体に挿し込まれた腕で心臓をもぎ取られ、ある者は軽く首を圧し折られ…頭領は四肢の自由を奪われると、一番最後に跪いた格好のまま、怯える眼窩に指を捻じ込んだパーカーの男が、断末魔のような悲鳴を上げる頭領の目玉をずるり…っと、眼窩から引き摺りだすと視神経が切れずに血液と一緒に引っ張り出され、ぶつりと千切れた。
 連中を殺しながら笑っているのだろう男を、彼は驚きと、そして恐怖に震えながら見詰めたものだ。
 命辛々逃げ出した彼は、走りながらそれでも笑っている自分に気付いて、とうとう狂ってしまったのかと、どこかでホッと安堵していた。
 翌日、それなりにダウンタウンで名を馳せていた強盗集団の頭領の凄惨な殺害現場の噂は、噂話にすら事欠くような腐敗した町には瞬く間に広がったと言うのに、誰一人として、頭領を殺した人物を知る者はなかった。
 そう、彼ひとりを除いては。
 高い酒代を払ってしまった頭領の死は、少なくとも狂うこともできなかった彼から復讐と言う言葉を奪い、生き残ると言う気力さえ奪い去ってしまったようだった。
 まるで心を亡くした人形のようになってしまった彼を拾ったのが、あの強盗集団を引き継いだ今の頭領だった。ケチなコソ泥をしながら、それでも彼がもう少し生きているのは、あの時頭領を惨殺した男に、できればもう一度会ってみたいと思ったからだ。
 なぜか、よくは判らなかったが、殺人を楽しんでいるような男に、嬲り殺して欲しいと思ったのかもしれない。
 そうでもしないと、生きてここに立っているこの罪深い自分は、恐らくこのまま死んだとしても養父母と妹たちに合わせる顔がないのだ。
 そう思い込んで生きていた、そんな矢先に那智に出会ったのだ。
 自分を抱き締めるこの腕のぬくもりに慣れてしまったら、退き返せないような奇妙な予感がして、ぽちは恐ろしくなっていた。

 そうだ、自分はあの男を捜さなければ。

 もう、7年も前に出会った6人を相手しても怯むこともなかったあの男は、那智までとはいかなくても、それなりに強そうだった。
 恐らくどこかで、或いはネゴシエーターでもしているかもしれない。
 あの当時、ちょうど今の那智ぐらいの年齢だったから、あれから7年ほど老けたとしても、今でも立派に人殺しはしているだろう。

「そうだ、那智」

「んー?大人しくなったなぁ、やっぱ気持ちいいワケ?」

 気付けば延々と頭を撫でてニヤニヤ笑いながら抱き締めていた那智に、ハッとしたぽちは顔を上げると、そのニヤニヤ笑っている顔を覗き込んでいた。
 首を傾げながらも頭を撫でる手は止めないから、どうやら本気で、那智はぽちを誉めていたようだ。
 どうして、あんなに『男』に触れられることに怯えていた自分が、この男の腕は振り払わないんだろう?どうして…グルグル脳内を巡る理不尽な思考を振り払うように、勤めて平静を装ったぽちは『タオ』に属している那智なら、或いはあの男の素性を知っているかもしれないと訊ねることにしたのだ。

「アンタに聞きたいことがあるんだ」

「あーん?嘘吐くかもしれないけど、聞くぐらいならいくらでも」

 ニヤニヤと笑う那智にぽちが思わずムッとすると、最強であるはずのネゴシエーターはニヤァッと笑いながら色気も何もない黒髪に頬を寄せて笑っている。

「7年前に…ある強盗集団のボスが殺されたんだけど、知ってるか?」

 ニヤニヤ笑いながら真正面を見据える那智に気付かないぽちは、たぶんきっと、この町では殺人など日常茶飯事で、常にどこかで小競り合いが発展した殴り合いの喧嘩が頻繁に起こっているのだから、毎夜殺人を繰り返す那智が知っていても覚えているはずがないと覚悟は決めている。
 だが那智は、その頭脳をフル回転させて思い出そうとしていた。
 悲しいかな、あまりに他人に興味がないせいか、彼は昨日の仕事内容すらケロッと忘れてしまうのだ。

「ん~…思い出せないなぁ」

「ヤッパリか…じゃ、じゃあさ、那智ほどには強くないとは思うんだけど。オレンジのパーカー…いや、もう着てないかもしれないけど、特徴のある、銃身の長い銃を持った、強い男を知らないか?」

「オレンジのパーカー?銃身の長い…銃?それから強い男…ねぇ」

「タオにいないか?そんなヤツ。強かったから、たぶんネゴシエーターになってると思うんだけどな」

「ふーん…見つけ出してどーするワケ?知り合いなのかぁ??」

 然して興味もなさそうに呟く那智に、ぽちは一瞬息を飲んで、それから諦めたように溜め息を吐いた。
 那智のぬくもりに慣れてしまっていた事実を見せ付けられたような気がして、ソッと瞼を閉じながら決意していたはずの想いを思い出したのだ。
 こんな世界で生き続けるには、あまりにも悲しいことばかり起こってしまって、その疲れた心にこの不可思議な生き物である那智は、ある意味想像以上にぽちを癒していたのかもしれない。
 その事実が、ぽちに反抗心を芽生えさせてしまう。
 照れ隠しが、萎えた心を奮い起こさせるには十分だった。

「殺してもらうんだ」

「…は?誰に?その男を殺せばいいのかぁ??」

「違うよ!俺を…俺を殺してもらうんだ!」

「…」

 那智は黙り込んで、それから不安になったぽちが顔を上げようとすると、ニタァ~ッと笑っているネゴシエーターに頭をその胸元にを押さえつけられてしまった。

「なな、なにす…ッ」

「その男をさァ、見つけ出してたワケ?7年前から追いかけてるのかぁ。誰かの仇とか?」

「…いや、恩人なんだ」

「へー」

 尻上がりの口笛を吹いた那智にしてみたら、恩人などと言う言葉は彼の辞書の中にはないのか、よく判らないなぁとでも言いたそうに首を傾げている。その瞬間には、彼の脳内から彼を迎え入れたはずの『下弦』に対する恩義などはこれっぽっちも残ってはなかった。
 そんな那智に、ぽちはふと苦笑した。

「おかしいよな?こんなクソッたれな町で、恩人もクソもないとは思うんだけど…俺にとってアイツだけは、殺しても殺したりないぐらい憎んでる男だったから。アイツを、あのパーカーの男がまるであっさり殺してくれたとき、この手でなかったことは口惜しかったけど、それでも仇は討てたと嬉しかった。俺は弱いから」

「…」

 無言で聞いている那智は、何かを考えているかのように顎を少し上げてぽちの黒髪を見下ろしている。何を考えているのか読み取らせないその貼り付けたような微笑の下の、素顔を見てみたいとぽちが思ったとしても仕方がない。

「確かに、あの日アイツが死んでから、生きていく希望もなくなったような気はしたけど…でも、どうせ死ぬんなら、あの男に殺してもらいたいって思うようになったんだ。あのパーカーの男は、人殺しを楽しんでいるようなところがあったからな」

「…なるほど、7年前にオレンジのパーカーを着てて、銃身の長い特徴的な銃を持った、人殺しを楽しんでいる強い男ねぇ。はーん?判った、捜してやるよ」

「本当か!?」

 パッと顔を上げるぽちに、那智はニヤニヤと笑いながら頷いた。

「ソイツがさぁ、ぽちを殺るってんなら話しは別だけど?まあ、捜すぐらいなら簡単だし?鉄虎に聞いてやるよ。鉄虎は物知りだからなぁ」

「…ありがとう、那智」

「嬉しいかぁ?」

「ああ」

 ぽちが大きく頷いて見せると、那智はふと、ニタァッと笑ってその黒い髪をワシワシと掻き回した。
 その仕種は乱暴だったが、どこか優しくて、ぽちは那智に向けていた猜疑心がほろほろと崩れ去っていくような気がしていた。

「なんて言うんだぁ?ぽちがさぁ、嬉しそうにしてるとオレも嬉しいのか?」

「いや、聞かれても俺には判らないよ」

「嬉しいんだろうな。まあ、よく判らないけどさぁ」

 そう言って那智はぽちの腕を掴んで立ち上がった。
 さて、そろそろ帰ろうかとニヤァッと笑いながら、「今夜は何が食いたい?」と聞く那智に眉を顰めたぽちが考え込んだ時、路地から鉄虎の張りのある声が響き渡った。

「那智よぉ。今日は蛍都んとこに行くんだろぉ?ぽちはベントレーが送るってよ」

「ゲッ!俺そんなこと言ってね…ふぐぐぐッ!!」

「あー…」

 素っ気無い鉄虎の語尾に被さるようにしてベントレーが何か喚いていたが、不意にその声がくぐもってしまって、どうやら鉄虎に口を塞がれたんだろうなぁと、ぽちは内心であのオレンジのツンツン頭をご愁傷様だと合掌していた。
 そんなぽちの傍らで、その言葉に顔を上げていた那智は、ニヤニヤ笑ったままで「忘れてた」と呟いたが、その顔は、ぽちが今まで見た以上に、頗るご機嫌で、そして嬉しそうだった。
 そんな見たこともない那智の姿に驚きながら、ぽちはソッと眉を顰めてしまう。

(…ケイト?蛍都って誰だ??)

 聞いてみたい。
 だが、ぽちは那智にしてみたらただの野良犬で、気紛れで飼い始めたにすぎないのだから、恐らく答えてはくれないだろう。
 何故か那智は、真剣にぽちのことを犬だと思っているのだから、ぽちがそんな風に思い悩んだとしても仕方のないことだった。

「用事なんだろ?その、気を付けてな」

 この町で最早那智を殺せるものなどいやしないのだろうが、それでも習慣的な挨拶をしてしまうぽちに、既に行動を起こしていた那智は、その時ハッと、ぽちがいたことを思い出したようだった。
 あれほどベタベタしていた那智の豹変ぶりに吃驚するぽちをさっさと抱きかかえると、さらに慌てる可愛い愛犬をまるで無視して、死神だと恐れられるネゴシエーターは有無も言わさずに走り出すとハードルを飛び越える要領で、まるでそこに地面でもあるかのように軽やかに窓から飛び出したのだ。

「わわ!?」

 慌ててしがみ付くぽちを抱いたままで地面に到着した那智は、もちろん那智ともども重力の餌食となって頭をクラクラさせるぽちの両脇を掴んでベントレーに差し出した。
 それはまるで、本当に犬猫の扱いだった。

「夕食がまだだからさぁ、何か食わせといてくれ」

「あぁ?面倒くせーなー」

 それでもベントレーはなぜか嬉しそうにぽちを受け取っている。
 ぽちにしてみたら那智も長身だが、十分、ベントレーも長身だった。だからと言って、軽々と抱え上げられてしまうと、やはり男としては沽券に関わってしまう。

「お、下ろせよ!」

「あー?うるせーなー。下ろして逃がしてみろ、俺が那智に殺されるんだぜ」

「殺されはしないって…って、もう那智はいないのか」

 ギャーギャー、ベントレーと言い合っていたぽちは、ふと、那智の姿がないことに気付いて少しだけしょんぼりとしてしまった。

「那智はよぉ。町外れに薄汚れた灰色の建物があるだろ?あの病院に行ったのさ」

「病院?那智は病気なのか??」

「んなワケないっての。蛍都に会いに行ってんだよ」

 ぽちは、聞いてみようかと思った。
 もしかしたら、那智は教えてくれなくても、ベントレーたちは教えてくれるかもしれない。
 いや、恐らく那智に「犬だ」と紹介されても「へー」で終わった連中である、犬に教えてやる謂れはないぐらいは平気で言うのではないだろうか。いや、或いはアッサリ教えてくれるのか…ぽちがグルグルと思い悩んでいる間に、鉄虎が「先に帰ってるからな」と言って、サッサと木箱を担ぎ上げて立ち去ってしまった。
 まるで那智と同じように、歩いているのに足音がしていない。

「あのさ、ベントレー」

「あーん?」

 ご丁寧に首輪をしているぽちを物珍しそうに繁々と見ているベントレーは、ともすればやんちゃな子供のような表情をしている。珍しいおもちゃを前に、さてどうしようと考えてでもいるのか。
 彼の左右の色が違う双眸を覗き込んで、ぽちは決意したように口を開いた。

「蛍都って誰だ?」

「あ?お前のご主人様の恋人だよ」

「…は?那智って恋人がいるのか??」

「ああ。週に一回、蛍都の調子が悪いときは月に一回しか会えないけどな。那智が『タオ』に来た時から一緒だったから、もう誰でも知ってるぜ」

「…そうだったのか」

 ぽちはてっきり、那智は孤独なのかと思っていた。
 人間を喰らう特殊な嗜好を持っているがために、那智は人間と過ごすことができなくて、彼を『犬』と見る擬似的な感覚で孤独を癒す為に傍に置いている…と、思っていたのだ。
 だが…

(そうか、那智には寄り添いあう相手がいたのか…)

 ふと、どこかホッとしたような、そのくせどこか物寂しい思いを感じて、ぽちはどうして自分がそんなことを考えているんだろうかと首を傾げる。
 那智に恋人がいる、ただそれだけのことなのに、気にしてしまう自分の行動が判らなかった。
 ベントレーの肩越しに見えた空は、俯きがちな今のぽちの心を表しているかのように、どんよりと曇って今にも泣き出しそうだった。

 少しずつ狂いだした時計の秒針みたいに。
 少しずつ狂いだしていく世界の秩序。
 軋む運命の歯車に。
 飛び乗る勇気すらもなくて…