16  -EVIL EYE-

 ビルとビルが鬩ぎ合う薄暗い路地裏で、俺はコンクリートの壁に片手を付いて背中を丸めるようにして荒く息を吐き出していた。
 咽喉が奇妙な音を出して、息遣いは酷く荒い。
 苦しい、スゲー苦しいんだけど、それ以上に残酷な場所に安河を残してきてしまったんだから、俺はなんとしてもカタラギを見つけないといけないんだ。
 捜せばいいとか言いやがって!…本当に、アイツは何処にいるんだよ。
 こめかみから零れ落ちた汗は頬を伝って顎から落ちるから、俺はそれを片手で拭いながら、キッと薄暗い路地裏を睨みつけたんだ。
 俺の身体はカタラギの女になってから、エヴィルを引き寄せるようになっているはずなんだ。だから、安河と一緒の時も現れたに違いない。
 それじゃあ、今だって、こんな薄暗い絶好の場所に俺と言う餌を撒けばエヴィルは現れるだろうし、カタラギじゃないにしても、誰か近くにいるハンターが来てくれるんじゃないかと思う。
 日本には7人しかいないエヴィルハンターだから、遭遇する確立は低いだろうけど…でも、今の俺はその砂粒ほどの確立にも縋りたかった。
 さあ、来い!エヴィル、絶好の餌だぞ。
 意を決して狭くて薄汚くてジメジメした路地裏に足を踏み入れた。
 踏み入れたのに、何時まで経ってもエヴィルは現れない。ジリジリと無駄に時間ばかりが消費されて…って、それでも、本当はほんの数分だったに違いないのに、俺には永遠にだって感じられていた。

「やい!エヴィルどもッッ。ここに餌がいるんだぞ!出て来いよッッ」

 しーん…カサリと小さな風がゴミを散らしたぐらいで、俺の声に応答するヤツは1匹もいない。
 こうしている間にも、安河はあの不気味な粘液のエヴィルに襲われているに違いないのに…俺は、無力だ。何もできない。
 あんな風に身体を奪われても、件のカタラギすら、俺なんか相手にしないのに…それなのに、安河は馬鹿だ。こんな俺なんか相手にしなければ、たとえエヴィルに襲われるにしても、今じゃなかったはずだ。
 ポロ…ッと涙が零れ落ちて、零れ落ちてしまうと、まるで堰を切ったみたいにポロポロと涙

が止まらなくて、そんなに弱気じゃないはずなのに、俺は唇を噛んで声も出せずに泣いてしまった。
 平凡を望み過ぎて、手に入れた友人である安河を犠牲にすることで、俺は『普通』に生きていると思い込もうとしていたんだ。そんな馬鹿みたいなこと考えて、俺は安河の友達になったはずじゃないのに。
 仕方なさそうに笑う顔だとか、嫌がっているくせに、それでも、俺に付き合ってくれる優しさだとか気安さが、凄く好きだったんだ。
 その安河を、俺は利用していたのか…嫌だ。
 こんなことは考えたくない、それだとまるで、もう安河が死んだと決め付けてるみたいじゃねーか!

「クッソー!!カタラギぃーーーッッ!!!これだけ捜してんだッ!何処にいるんだよ、出て来いよッッ」

 頬に涙を零したままで、なんつーか、手当たり次第に何もかも壊してしまいたいような、当り散らしたい感情が爆発したみたいに俺は叫んでいた。
 不況ばかりのせいってワケじゃなく、静まり返ったビル群に俺の声は虚しく木霊するだけで、誰にも届かなかったみたいに路地裏は静寂を取り戻しやがるから…俺はギリッと唇を噛み締めた。
 俺が弱くなくて、カタラギたちみたいに強いハンターだったら、こんな悔しい思いとかしなくてもよかったのに!
 俺は、俺は…!
 目線を落とした砂利だらけのアスファルトは寂しげで、俺はギュッと目蓋を閉じていた。
 と。
 首筋にボタリと何かが落ちてきた。 
 この感触を、俺が忘れるはずがない。
 ボタ…ボタ…ッと首筋や制服の肩を濡らしている、これは…
 恐る恐る落としていた目線を頭上に向けて、俺は息を呑んだ。
 そこには巨大な鳥のような姿をしたエヴィルが、燃えるような真っ赤な双眸で俺を睨み据えるようにして見下ろしていたからだ。
 鋭く尖った嘴の端から零れる粘液のような唾液は、美味そうな獲物を見つけて、狂喜している化け物の意思表示なんだろう。
 今からお前を食うぞ…なんて、ゾッとしない想像に眩暈を覚えながら、俺はジリッと後退った。
 背後は路地裏の行き止まりだし、目の前の化け物の身体の下を潜って走り抜ける自信は勿論ない。そんなに抜け目があるはずもないし、図体のデカいエヴィルは賢いからな。
 ゴクッと息を呑んだ瞬間、まるで待ち構えていたかのように鳥型のエヴィルが襲い掛かってきたんだ。
 目蓋を閉じる前に見た鳥らしい足の先端の兇器の、禍々しいまでの鋭さは、切れ味のよさを物語っているみたいに硬質に電灯の明かりを反射させていた。
 きっと、この風圧が覆い被さった瞬間、俺はあの爪に切り裂かれるに違いない。
 両手を庇うようにしてあげた瞬間だった、俺は鋭い凶悪な爪に引き裂かれることはなかった、でもその代わりに、夥しい何かがビシャッと全身に叩きつけられたんだ!
 独特の生臭い匂いは、前にも嗅いだことがある。
 これはたぶん、間違えることのない血だ。
 しかもまだ生きていた名残りを漂わせるように温かくて、全身を自分のものじゃない血液で濡らしたまま、冷えていく血液のせいか、それとも新たな敵の出現に怯えているからなのか、俺は震える身体を持て余すようにして顔を上げた。
 どうせ、あの時のOLの姉ちゃんエヴィルのように、また巨大なエヴィルが現れたんだろうと思った。でも、それならそれで、誰かハンターが嗅ぎ付けてやって来てくれるんじゃないかとか、そんな甘いことを考えてなかったと言えば嘘になる。
 だから、俺は期待していた。
 巨大なエヴィルを…なのに。

「元気にしてたか?」

 緊迫しているってのにあっけらかんと能天気そうにそんなことを言ってのけて、片手の日本刀で肩を叩きながら、もう片方の鉤爪のある片手で震える俺の身体を引き寄せると、カタラギはエヴィルの血に塗れた身体を頭の天辺から繁々と見ているみたいだ。
 元気にしてたか…だと?

「俺は!お前を捜したんだぞッ、なのに何処にもいなくて…何してるんだよ!自分の女が助けを求めてるのにどうして姿を見せないんだッッ」

 俺はむずがるガキみたいに両手を伸ばして、そのデカいガタイの胸元を突っ張りながら、眉を寄せてギッと睨み付けながら叫んでいた。
 そんな風にして、必死にその腕から逃れようとする俺の身体をガッチリと引き寄せたままで、カタラギはフンッと鼻を鳴らしやがった。

「光太郎のためじゃないからさ」

「…は?」

 何を言ってるんだ、カタラギは?
 漸く逢えたのに、相変わらず何か理不尽な物言いに眉が寄る。
 これだけ捜し回って、漸く見つけ出したんだ…と言うか、見つけ出したのは俺じゃなくてカタラギなんだけど、それでもコイツは素知らぬ振りして外方向くのかよ。

「だってさ、お前。ヘンな野郎の為に駆けずり回ってるじゃねーか。んなの、オレの知ったことかよ」

 冷めた双眸で繁々と俺を見下ろしているカタラギは、思い切り不機嫌そうな顔をしている。
 その顔を見上げて俺は…

「な、なな…おま、もしかしてずっと見てたのか?」

 …って、おいおい。
 まさか、あの廃工場の時みたいに『今来たんだ』はないだろうけど、ずっと見ていたって言うのか?
 だったら、せめてエヴィルに襲われる前に助けてくれよ。
 思わず半泣きで睨む俺を見下ろしたまま、カタラギは面白くないと全身で物語りながらも、素直じゃないツラをしてニヤッと笑うんだ。

「途中からな。オレだってお前がいるんじゃねーかと、毎晩、この辺りを捜してたんだぜ?今だってそうだったんだ。なのに光太郎ときたら、ヘンな野郎と楽しげに話しなんかしやがってさ。ムカツクに決まってるだろ」

 それでも、言葉を言い終わる頃にはガキみたいに唇は尖ってる。
 半分以上、呆れ果てて見上げていた俺は、唐突にハッとして、それから、あれだけ嫌がって逃げようとしていたカタラギの腕を掴んで身体を寄せたんだ。

「あ!そーだ、こんなこと言い合ってる場合じゃなかったッ。頼む!お願いだから、一緒に来て安河を助けて欲しいんだ」

「やだね」

 間髪入れない返答は判っているつもりだったけど、それでも引き下がるワケにはいかないから、俺はさらに身体を寄せて、まるで他人事…事実そうではあるんだけど、みたいなツラをして見下ろしてくるカタラギを見上げていた。

「安河は俺の友達なんだ!友達を助けてくれるなら、俺、何でもする。約束するから…」

「…信じらんねーな。人間は簡単に嘘を吐く」

 吐き捨てるように言うくせに、身体を寄せる俺を片腕で抱き締めたまま、カタラギは必死な俺の顔を愉しんでいるのか、繁々と覗き込んでくるけど、そんなこと気に留める余裕もない。
 だから俺は、掴んでいたカタラギの腕から手を離して、ニヤニヤと意地悪そうなツラをしてオッドアイの双眸を細めているカタラギの頬に両手を添えて…それから、その、やっぱり覚悟は決めないといけないと思う。
 だから俺は、ギュッと両目を閉じると、意を決してその薄い唇に口付けたんだ。

「…これで、本気だって判ってくれよ。これ以上は、今はダメだ。安河を助けてくれてからじゃないと…」

 俺は、たぶんこの時までに自分からキスしたことはなかったと思う。
 男が男にキスするなんて『うぎゃー』としか言いようがないんだぞ。
 確かに、俺だってぶつけるようにして唇に唇を押し付けただけとは言え、内心で『うぎゃー』とのた打ち回ったんだ。だからこそ、俺が真剣だって判って欲しかった。
 …なのに。

「キスもセックスも、オレの女なら当然だろ?どうして、わざわざ当たり前のことでオレがくだらねーエヴィル狩りなんかしなきゃいけねーんだよ」

 とかあっさり抜かしやがるんだ。
 俺は思わず呆気に取られてカタラギを見上げていた。
 いや、もしかしたら、カタラギの言うとおりなのかもしれない。
 カタラギにしてみたら俺なんか、気が向けば何をしても構わない…殺すことだって許されている存在なんだから、その俺が何をしたってそんなの当たり前になっちまうのか。
 じゃ、じゃぁ、俺の取り柄ってなんなんだ?!

「…じゃあ、どうしたらいいんだ?どうすれば、カタラギは俺が本気だって判ってくれるんだよ?」

 あわあわと脳内では思考回路が破裂寸前になりながら、俺は平然としている小憎たらしいカタラギの胸元を引っ掴んで言い募った。
 言い募って俺は…
 俺ができることは……

「そうだなぁ…って!お前、何してんだ」

 俺が口付けた唇をペロリと舐めながらニヤニヤ笑っていたカタラギは、不意にギョッとしたようにして力を込めようとしていた俺の口に手を差し込んできたんだ。
 思わずハッとしたけど、気付いたらカタラギの手を噛んでいた。

「…だ、だって!お前は何をしても信じてくれないじゃないか。だったら、死ねば信じてくれるだろ?それだったら、何時だって死んでやるよッ」

 俺が噛んだ手はさほどダメージを与えていないのか、暴れるようにして、戒めているような腕から逃げようとする身体を易々と片手で封じ込めやがって、カタラギは忌々しそうな、腹立たしそうなツラをして歯型から薄っすらと血の滲む箇所をペロッと舐める。

「バッカじゃねーの?んなに大事なヤツなのかよ。だったら、オレは絶対に…」

 鼻に皺を寄せて、まるで見たこともないような険悪なツラで吐き捨てようとする語尾に被せて、俺は叫ぶように口走っていた。

「違う!死ぬのはお前の為だ。だって、そうしないと信じてくれないんだろ?安河は確かに大事な友人だ、それを判って貰えるなら、俺は死んだっていいよ」

 だってよー、ちゃんと判って欲しいんだ。
 俺、安河に恋愛感情なんか持ったことはないし、いや、それ自体、考えているカタラギがどうかしてるだろ。
 スゲー真剣なのに、カタラギは何を言っても信じてくれない。
 勿論、本気で死ぬ気とかないんだけど、少しでも俺の心意気ってのを判ってくれればいいとか、考えてたってのに…まさか、カタラギが手を犠牲にするとか思わなかった。
 ただ、信じて欲しいだけなのに…犠牲にした手にはそれほど関心を示さずに、何か面白いものでも見るような目付きをして、カタラギのヤツは平然とした口調で言った。

「別にさ。誰も死ねとは言ってないだろ?オレを信じさせるのにいちいち死んでたら、命が幾つあっても足らねーじゃん。まぁ、そうだなぁ…お前からのキスは初めてだったしな、じゃあ、カタラギ愛してるって言えよ。ちゃんと、感情もたっぷり込めてな?」

 少なからず、俺を死なせないと思っているカタラギの意思に動揺していた俺は、不意にその口から飛び出したふざけた台詞に目をむいてしまった。
 あ、愛してるだと?!
 死ぬ覚悟でいた俺に、なんだよ、そのふざけた要求は??!!
 …ってか、俺。
 そんな言葉、まともに言ったことねーぞ?!
 顔が一気に茹蛸みたいに真っ赤になっちまった。
 その一部始終を、カタラギはスゲー楽しそうにじっくりと拝んでやがるから…うぅ、時間がないのは良く判ってるんだけど、それでも、なかなか言い出せないのは、その言葉は心の奥底に仕舞いこんでいて、何時か、大切な時に然るべき覚悟を決めて言うべき言葉だと思っていたからだ。
 こんな時に、こんな場所で言うべき言葉じゃないだろ。
 でも、本当は簡単なことだと思う。
 嘘で言えばいいんだから…なのに、どうしてだろう?俺はその言葉はとても大切で、こんなことで言ってはいけないような気持ちになっている。
 でも、それをカタラギは要求しているし、安河を救うためなら…俺の感情は無視しないといけないんだよな。
 …。
 ……。
 ………。
 カタラギの大馬鹿野郎。
 こんな時に、こんなに大事な言葉を言わせて、カタラギなんか大嫌いだ。
 俺はムッとしたままで、覗きこんでくるカタラギの右目が金色のオッドアイを見詰めながら、顔を真っ赤にしたままで不機嫌に口を開いた。

「…カタラギ、愛してるよ。俺、お前のこと、大好きだ」

 ワクワクしてるように覗き込んで待ち構えていたカタラギは、そんな風に、ムッとしたままで言ったはずなのに、それでも、俺にとってはとても大切な言葉だったから、驚くほど心が篭ってしまった愛の告白を聞くなり、不意にすっ呆けたようなツラをして身体を起こしやがったんだ。

「へー、それは知らなかったな。てっきり思い切り嫌われてるんだとばかり思ってたよ。まぁ、そんなに愛されちゃってるんなら仕方ねーな。助けてやるよ、安河って言ったっけ?そのお友達を」

 そのくせ、確り俺の背中に回している腕の力を抜くつもりはないらしい。
 こんな形で、ワケの判らないまま愛の告白をやらかしてしまった俺は、だからと言ってカタラギを好きなのかと言うと…実はよく判らない。
 そりゃぁもう、あんなことやこんなことも犯っちゃってるワケなんだが、それでも、俺はカタラギに要求されたままに口にした愛の言葉が本物だなんて思っちゃいない。
 カタラギは何か勘違いして…何時もの曲解で満足してるみたいだけど、俺は嫌だ。
 でも今は、約束を破らないカタラギの言葉を受け入れるしかないんだけどさ。

「カタラギ、有難う!」

 今は、俺の心なんかどうだっていい。
 良かった!安河、待ってろよ。

「どー致しまして。ま、それなりの見返りは要求するけど」

 俺が嬉しくて満面の笑みで感謝してるってのに、どうしてコイツはこんな風に、水を差すんだ。
 うぅ~、ホントはできれば殴りたい。
 思い切り噛み付いたってへっちゃらなツラしてるカタラギに、俺のへなちょこパンチがどこまで効くか判らないけど、それでもできれば殴りたい。
 だけどさ、これは俺が言い出したことなんだし、今は安河救出が最優先なんだから大目に見て頷くしかないワケだ。

「う…わ、判った」

 顔は湯気が出そうなほど真っ赤だったけどな!