1  -Forced Encounter-

「えっと、何度も言っていますけど、俺は英語で話すことが苦手なんです。それなのに講義で発言するなんて…あ!ダメですってば、切らないで博士ッ」

 虚しいかな、既に受話器の向こうは単調な機械音しか響いていない。
 ニューヨークに来て漸く1ヶ月が過ぎようとしている小春日和の午後、名立たるセントラルパークのベンチに腰かけた日本人の青年は困惑したように眉を顰めている。
 電話の相手は犯罪心理学の権威と誉れ高い博士ではあるが、本来、臨床心理士になるために勉学に勤しみ、こうして喋ることは不得手の英語に苛まれながらも留学までしているというのに、件の博士は自らが受け持つ大学の講義に参加しろと言う無理難題を言い渡して来たのだ。
 尊敬する博士ではあるけれど、彼にしてみれば犯罪心理学と言うもの自体に馴染みがないし、何より、今の日本ではその分野で活かせる職業など限られている。
(俺は別に犯罪者を見つけたいとか関わりたいとか全く思っていないんだ。BAUなんて雲の上だし…そう言う方向性じゃない方法でもっと社会の役に立つような仕事をしたいだけなのに)
 はぁ…っと溜め息を吐いて青い空を見上げると、小春日和だと言うのに時折吃驚するほど冷たい風が吹くベンチに腰掛けたまま、嫌になるほど真っ黒な髪がサラサラと風に踊っている。
 臨床心理士になるために心理学に先進的な米国を選んで留学したものの、苦手な英語に四苦八苦する羽目になっていると言うのに、その彼に発表の場を設けてあげるよと意地悪な博士は流ちょうな日本語で仰られた。

「クリミナル・マインドなんかに憧れてないですよッ」

 犯罪心理学も面白いよ、クリミナル・マインドみたいでしょうと言ってホッホッホッと笑った博士の電話越しの優しい声に、今更反論しても後の祭りではあるのだが、恩師の知り合いの博士を頼って来たのは自分なのだから、それはそれで仕方ないのかと諦めるしかない。

「ハックシュン!…っと、ごめんなさい」

 ビュッとまた冷たい風が吹きすぎて、思わず首を竦めながらくしゃみをしてしまった青年は、先ほど同じベンチに同席を求められて笑顔で応えた相手に、ハッと我に返ってすみませんと言うつもりでつい習慣で頭を下げてしまった。

「Gesundheit!」

 ストロベリーブロンドの髪を風に散らして、物静かに本を読んでいた青年は顔を上げると、ともすれば透明度の高いサンタマリア地方産のアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレイの双眸で僅かに微笑んだようだ。

「…え?Pardon?」

 その同じ人間とは思えない、有り得ないほど美しい面立ちに気を取られていた日本人の青年は、微かに首を傾げて悪戯っぽく肩を竦めた異国の、いやニューヨークに在って彼こそがこの街によく似合っているのだろう面立ちの青年が立ち上がり、さようならと片手を振るに至って、漸く英語で言う『Bless you!』を異国の言葉で言ったのではないかと思い至ったようだ。

「えっと、あの…Thank you」

 立ち去る後ろ姿に感謝の言葉を投げると、彼は振り返ることもなく、どう致しましてとでも言うように肩を竦めたようだった。
 博士との電話での攻防で声を掛けた人をよく見ていなかったし、あまりに物静かで気配を感じることもなかったせいで、彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。
 しかし意識してしまうと、彼はとても鮮烈な印象を日本人の青年の心に焼き付けてしまったようだ。

(此処に来てまだ1ヶ月ぐらいだけど、あんな綺麗なひとは初めて見たな。凄いなぁ…世界にはあんな綺麗なひともいるんだな)

 あらゆる人種が集まる小さいのに巨大な都市であるニューヨークには光も闇も矛盾なく存在し、混沌とせめぎ合っているのに整然と行き交う人々の波…臨床心理士と言う仕事に就きたいと思い、心理学を専攻している身の上だと言うのに、それでも彼はこの都市が恐ろしく、そして苦しいほど魅力的に感じるようになっていた。
 彼は、僅か半年の滞在予定ではあるのだが、既に嫌気がさして逃げ出したいと思っていた。だが、不意に、こんな貴重な体験をできることはとても素晴らしいことだったのに…と思い直し、小春日和だが冷たい風が吹き抜けるセントラルパークの頭上、切り取られたような青空を見上げながら、よい思い出も悪い思い出も何もかも、確りと脳裏に焼き付けて日本に持って帰ろうと決めるのだった。

「天羽光太郎くん!」

 きちんとした日本語の発音で自分の名を呼ばれて、臨床心理士を志す日本人青年、天羽光太郎は少しはにかむようにして大柄のお爺ちゃん博士に振り返った。

「リケット博士…この度はお招き頂き有難うございます。拙いながらレポートを纏めてみました」

 目線はずっと上の方にあげなければいけないが、恰幅の好い、まるでサンタクロースのような好々爺はしかし、なるほど、犯罪心理学に心を砕いているだけあって双眸には鋭い光が宿っている。
 求められるままに握手を交わし、一週間、寝ないで書き上げた論文をたどたどしい英語とおずおずと差し出す日本人らしい奥ゆかしさに、リケット博士は鋭さを宿す眼光を和ませてしまう。
 心理学に長けている博士は、この日本から来た青年について初めて会った時から不思議な気持ちを感じていた。
 日本に戻ってしまった教え子が大事にしているのも頷けるのは、彼は傍に居る者を善しにしても悪しきにしても和ませてしまう独特の感性を持っているようなのだ。
 それは使い慣れない英語に四苦八苦しているせいで、慇懃な口調になっているからだ…と言うわけではないのだろう。

「ああ、どうも有難う。だがね、堅苦しい挨拶は抜きでいいんだよ」

 リケット博士は鷹揚に笑うと、はにかむ青年を見下ろしてざっと手渡されたレポートに目線を落とした。
 今回はただ単に犯罪心理学も面白いよと教えたくて講義に参加するように求めただけとは言え、それでなくとも時間がないうえに専攻しているわけでもない犯罪に関する心理学のレポートを纏めたと言うことは、この物腰のやわらかい日本人青年は少しは興味を持ったのだろうか…そんなことをリケット博士が考えているなど露とも知らない光太郎は、酷評あって然るべきとは判っているものの、恩師の杉浦教授がわざわざ預けてくれた博士なのだから少しは何か褒められたいとドキドキしたようにサンタクロースをまんじりともせずに見詰めていた。

「ああ、うーん…なるほど。なんとも面白いアプローチをするね」

「え?ええ??…あの、ダメでしょうか」

 髭のせいでよく聞き取れない、それでなくてもヒアリングとトークに自信がない光太郎は、リケット博士の奇妙な表情と聞き取り難い発音にまごまごしてしまって、おずおずと首を傾げるしかなかった。

「いや、これはこれで充分、面白いと思うよ。よし、このレポートを使用して午後の講義で発言してくれるかな?」

「あ、はい!了解しました」

 パッと嬉しそうに微笑む彼を見下ろして、リケット博士は思うのだ。
 黒い髪も黒い双眸もともすれば冷徹な印象を与えがちで、しかも彼はトークが苦手とみえて、とても慇懃な話し方をしてしまう。今時の若い子ならばクールかキュートで受け入れるかもしれないが、滅多に発言を求めない自分が依頼したとあっては、幾分かのやっかみでこき下ろされるかもしれない。
 だが、彼には独特な場を和ませる雰囲気を持っている。
 こうして話している今でさえ、慇懃な物言いが既に標準となって、少しも窮屈に感じなくなっているのだから不思議である。

(それは彼の、この柔和な表情なのだろう)

 日本人は感情表現が下手だと言う認識があったのだが、この青年はとてつもなく素直なのか、返してもらったレポートを両手で受け取ってホッと安堵したように嬉しそうに笑うのだ。
 ほんの一週間前、電話越しで切迫した声を聴いていれば、その安堵の表情も頷けるのだが、それ以上に、よく頑張ったと褒めたくなる愛嬌がある。

(ううーむ、教え子に厳しいこの儂が困ったもんだよ)

 ともすればその雰囲気のせいで若干幼く見えることも、気難しいリケット博士の庇護欲を掻き立ててしまっているのかもしれない。