10  -Forced Encounter-

「よーう!レビン、久し振りだなぁ」

 幾つかの書類を手にしたままで大きく片手を振って注意を引く男に、レビン・ヒュイットは気付いて片手を挙げて見せた。
 背後に従えたヴァル・シャンクリーのようにボサボサの髪に度のきつい眼鏡をかけて、お決まりのネルシャツにジーンズ姿の、凡そFBIに所属するとは思えない出で立ちの男は、ヒョコヒョコと近付いてきて、それから改めてヴァルの姿に気付いたようだ。

「おーっと、これは珍しい顔だね?どなたさん?」

 その前にお前が名乗れと言いたいところだが、ボルチモア本部に入るのは初めてだったヴァルは若干緊張でもしていたのか、肩を竦めて見せる。

「市警のヴァル・シャンクリーだ」

「へぇぇ!市警かぁ、ここいらじゃ珍しい組み合わせだな?おい!」

 陽気に背中をバンバンッと叩かれてうんざりしているようなレビンは、ゴホンッと咳払いして陽気でギークそうな男を渋々と言った感じで呆気に取られているヴァルに紹介した。

「コイツはネットワーク関連のスペシャリストでベニー・バー…」

「そうそう!オレはベニー・バーリンって言うんだ、どーぞヨロシクッ」

 レビンの紹介を遮るようにして握手をする気が全くなかったヴァルの片手を両手で掴んだベニーは、それはそれは嬉しそうにブンブンッと振り回して自己紹介をしてくれた。

「はぁ…どーも」

 なかなか中年のヴァルにしてみると、20代後半の若造の突拍子もない行動には閉口気味にならざるを得ないようだ、が、それは顔見知りでも同じだったようで、ムッツリと不機嫌そうなレビンがヴァルを救出して苛々したように首を傾げて見せた。

「それで、ベニー?何か判ったのか」

「へ?…ああ!例の殺し屋さんのプログラムね」

 ポンッと手を叩いて合点のいったベニーの、そのいちいち大袈裟なジェスチャーにうんざりしているレビンは、殺し屋じゃねーよと呟きながら首を左右に振っている。
 どうやら陽気な性格のレビンでも閉口しているぐらいなのだから、このあからさまにギークな男は驚くほどクレイジーでもあるのだろう。

「今日は出払ってていないんだけど、シャリーンと一緒に調べてみたんだよね。そしたらどうだ!ごく単純なアルゴリズムだってのにさ、これを考えたヤツはなかなかキレるヤツだろうね。いや、寧ろ天才と呼んでもいいんじゃないかと思うよ。判り易く説明すると、動画が流れてるじゃないか?その動画の中には色んな情報が組み込まれているんだよ。だがそれはアップする時に組み込まれるワケだ。Youtubeで言えばコンテンツIDやコンテンツ検証プログラムを使用すれば自動でサクサク削除できるって言うアレだな。ただそれに対応していない動画はYoutubeに削除を申請しないとダメだろ?AVや版権モノならば検出は可能なんだけど、個人がアップする動画は特にコードなんか組み込まれていないワケだから自動で検出して自動で削除するなんてことはできないって思われるワケだ…が、このプログラムはそうじゃない。面倒な申請なんか必要ないし、動画サイト側の意図で削除したように偽装して、何よりすごいのはアップしている相手のOSに忍び込んで対象の動画を自動削除までするってことだ」

 そこで一旦、言葉を切ったバリーは興奮しているようにゴクリと息を呑み、呆気に取られたように聞いているレビンとヴァルに頷いて言葉を続けた。

「動画ってのは自動で判断できない部分があるんだが、このプログラムは何らかのコードを検出する特性を持っているようなんだよ。その情報を自動的に読み取って、その中にある特定のコードを割り出して抽出し判定して自動で削除。ヘンな話、その特定のコードを持った動画をアップしたと同時に削除されてしまうって感じだな。それだけじゃないぜ、さっきも言ったけどさ、このプログラムはアップ中に特定のコードに反応して即座に起動すると、アップしているOS、媒体はなんでもいいんだが、その中に勝手に入り込んで特定コードと同じコードを持つ動画まで削除しちまうんだ。しかも侵入者側の情報は一切残さないから、とんだ高性能のスパイウェアだぞ」

 興奮したようにそこまで話すと、その2人の顔付きに一抹の不安でも覚えたのか、まあ、まずは自分の目で見た方が良いだろうと判断したようで、こっちにおいでおいでと身振り手振りで自室に案内され、レビンとヴァルは薄暗い部屋に所狭しとディスプレイを並べているかなりヘビーで胡散臭いベニーの部屋に、一瞬立ち竦み、そしてやはりうんざりした顔で招き入れられた。

「オレが仮想サーバに同じようなシステムを作って検証してみたんだよ。まあ、見てろよ」

 カタカタと幾つかのキーを叩くとひとつのディスプレイにYoutubeのインターフェースが表示された。そのYoutubeにログインすると、彼は動画のアップを開始した。

「ほら、こっちを見ろよ。例の殺し屋さんのプログラムが反応しただろ?で、検証に入る。コードが特定され削除…すると、アップされた画像はご覧のとおり」

 アップ開始と同時に左側に置かれていたディスプレイの中で何かが起動したらしく、小さな窓が開くと多くのコンピュータ言語がかなりの速度で上に流れていく。その中で特定されたコードが検出されたのか、また幾つかの言語が表示されると、右のディスプレイに表示されているYoutubeにアップされるはずの動画が表示されない。
 ご丁寧に【この動画は著作権…】と言ったアナウンスと砂嵐のオマケ付きで、あたかもYoutubeの規約に引っ掛かったような演出まで用意されているのだ。

「へえ…俺はパソコンのことはよく判らないけど、これは凄いんだろうな」

 ヴァルが感心したように呟くと、ディスプレイの前に腕を組んで立っていたベニーは、なんて当たり前のことを言ってるんだと、驚いたように振り返った。

「ああ!凄いさッ。だが凄いなんてモンじゃない。見ろよ、動画削除だけじゃなく、こっちのOSにもぐり込んでアップされた動画を探しているだろ?この間、僅か数秒なんだぞ。しかもアップした本人は画像が差し替えられたことにすら気付けもしないんじゃないかな」

「なんだって?」

 ワクワクしたようにしてベニー詰め寄られたヴァルが息を呑んでいる傍らで、レビンが眉を顰めてクレイジーなスペシャリストを見ると、彼はニヤッと笑ってレビンに振り返ると楽しそうにコクコクと頷いた。

「そうそう!聞いて驚け。コイツはコッソリと忍び込んでさもその動画ですよってツラさせて、実際は別の動画になってるんだ。見ろよ」

 マウスでカーソルを動画ファイルに置き、クリックして見せるとそこには何の変哲もないおもしろ動画が流された。

「非常に面白いことに、僅か数秒でOS内にあるファイルから傾向を読み取って、Youtubeにアップされている動画をダウンロードして置き換えるんだ。元の動画は完全に削除される。コイツは凄いんだぞ、レビン。このプログラムで一儲けできるぐらいだ。オレはこんな代物を短時間で作り上げたってヤツを是非ともFBIにお招きしたいね」

 ベニーは甚く興奮しているように捲し立てたが、パソコンに関してはチンプンカンプンの2人にはいまいちその凄さが伝わっていないようだ。

「なあ、ベニー。もう少し判り易く説明してくれないか?」

「はあ?!これ以上、どうやって判り易く説明しろって言うんだよッ。あのなぁ、これは完璧なスパイウェアだ。このアルゴリズムの作成者は単純に何らかの動画の削除を目指したんだろうが、情報の検出が難しい動画を自動削除させるプログラムを作り、ましてやなんの痕跡も残さずに他人のOSに忍び込むことができるんだ。今回は判り易く視覚的にお前たちに見せているが、実際は水面下で全てが完結されるんだ。このプログラムを応用すればどうなると思う?しかもだ、このプログラムを組み込むために、例の殺し屋さんは幾つかの企業のサーバにアタックして易々と侵入したってことだ。あながち、オレがFBIに招きたいってのも満更じゃないんだぜ」

 そこまで聞いて、漸くレビンとヴァルは納得したようだった。

「ふーん、なるほどねぇ。例の名無しは企業サーバに侵入したってのに、どの企業も侵入に気付いていないから大騒ぎにもなってない、ってことも問題なんだろうな」

「ああ、そうだ。なんだ、市警さんはよく判ってるじゃないか!内々でどうにかしてるってワケでもなさそうだから、どの企業もクラッキングに気付いていないんだろう」

 ヴァルが感心したように呟くのに被って、ベニーは嬉しそうに笑ってその背中をバンバンッと叩いてきて、ボサボサ頭の市警の刑事を噎せさせた。

「なあ、レビン!頼むよ、このプログラムの作成者に会わせてくれ。少しでいいからさッ」

 レビンはだからコイツに頼むのは嫌だったんだ…と言いたそうな顔をして、この世の終わりのような表情で盛大に溜め息を吐いた。

「…俺がウィルスなのかって聞いたら、ソイツはなんて答えたと思う?【はあ?なんだそれ、よく判んないな。俺はコータローくんの動画の拡散が怖かったから、それを止めるためのプログラムを作ったんだ。それだけだ】って言ったんだぞ。一言一句間違いなく。そんなヤツがお前と仲良くお話をすると思うのか?」

「…ぅぉおおお!スゲーな!拡散が怖くてアップしてられっかよ!じゃなかった、拡散を止める為だけに作ったって?!ますますお話したいです~」

 甘えるように付き纏うベニーに、レビンがいい加減うんざりしたようにその肩を押し遣りながら吐き捨てるように言った。

「ヤツはコータロー君以外に興味なんてないんだよ!つーか、離れろッ!お前はゲイか?!」

 グイグイと肩を押し遣るレビンにそこをなんとかと食い下がるベニー…ボリボリと頭を掻いていたヴァルはやれやれと溜め息を吐いたようだ。

「仲が良いのは結構だが、まだまだやることがあるんだろ?そろそろ時間じゃないのかい」
 ああ…とレビンが頷くと、実際は物分かりの良いベニーはすぐに身体を離して、それから首を傾げて眉を顰めた。
「なんだなんだ、レビン。まだ何処かに行くのかい?相変わらず忙しいヤツだなぁ」

「名無しの名前が判明したんでね、ヤツの素性の洗い出しさ」

「へーえ!名無しの殺し屋さんはなんて名前なんだ?」

「ヒューゴ・レオン・カーソンだそうだ」

 特に気もない仕草で聞いてきたのは、恐らくプライドの高いベニー・バーリンを以てして天才と言わしめる名無しの容疑者に対して、微塵もなかったはずの興味と言うモノを持ったのだろう。

「ヒューゴ・レオン・カーソンだって?」

 ふと眉間に皺を寄せたベニーの仕種にレビンが訝しそうに双眸を細めた。

「何か知っているのか?」

「あ?ああ、いや。どっかでチラッと聞いたような気がしたんだけど。どうも気のせいだったみたいだ」

 顎に片手を添えて伸び始めの無精ひげを擦って考えるような仕草をしたものの、記憶の隅に引っ掛かっているようなモヤッとした塊は出てきそうにないので、ベニーは諦めたように早々に降参して両手を上げた。

「何か思い出したら連絡をくれ」

 はいはいと気のない返事をしたものの、ベニーはヒョイッと肩を竦めて腕を組むと、すぐにでも次の行動を起こそうとする若い捜査官と物珍しい市警の刑事を見据えて口を開いた。

「まあ、今度の件は上にも一応報告はしておくけど…気を付けろよ。そのカーソンとか言う容疑者は、恐らく無知のふりをした曲者だぜ。足許を掬われないように精々注意するんだな」

 レビンとヴァルは一瞬目線を合わせたが、そんなことは一連の流れを見れば百も承知なのだ、行く先に蛇が出るのかジャが出るのか…いずれにしてもレビンは肩を竦めて苦笑しながら旧い友に感謝した。

「ああ、そうするよ」

 ディスプレイの置かれた机に凭れるようにして腕を組んでいるベニーは、そんな彼らにか、それとも何処かに居る誰かにか…どちらにせよ彼は、意地の悪い笑みをニヤリと浮かべて呟くのだ。

「…ったく、とんでもないヤツだから、きっとあらゆる機関は欲しがるだろうな。そうしてこう思うんだ。ヤツが殺人鬼でさえなかったらってね」

 その薄ら寒い笑みにレビンは寒くもないのに腕を擦り、それから首を左右に振って来た時と同じように片手を挙げて別れを告げた。

「今度来る時はベリーのタルトでも持って来いよ!」

 ふざけた調子で声を掛けるベニーを無視した2人の行く先に、蛇が出るのかジャが出るか、いずれにせよ…彼ら行くしかないのだ。

 名無しの殺人鬼ではないかと疑いをかけられている、ストロベリーブロンドにサンタマリア地方産のアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレーの双眸を持つヒューゴは、目の前で困ったように微笑んでいる異国の青年…まるで少年のようなあどけない表情の、無垢と言うモノが形作るのだとしたらまさにこんな器になるだろうと思わせる、思わず微笑まずにはいられない容姿の光太郎を嬉しそうに見詰めている。
 最初の質問として訊ねたのは、ずっと観察していたのだからとっくの昔に知り尽くしていることではあるけれど、できれば彼の口から聞きたいと言う欲求に抗えずに聞いてみたことだったが、思う以上に彼を悩ませてしまったらしい。

「僕の好きな食べ物ですよね…うーん、たくさんあるから絞れないけれど。そうですね、僕、甘いモノが大好きなんです!アメリカってお菓子は全部甘いですよね?僕はそれがとても嬉しくて…僕、スニッカーズも好きなんですけど、ミルキーウェイとかツイックスも好きです。でもアーモンドジョイも大好きです」

(ふふ…可愛らしいよな。どんな甘いモノでも喜んで喰うんだよな)

 確かに甘いものに目がない光太郎ではあるけれど、だからと言ってこんな場所で熱弁を奮う必要はないだろうと頭を抱える惟貴の前で、ヒューゴは嬉しそうにうんうんと頷いて聞いているのだが、惟貴はどうもその姿に薄ら寒い気持ちになっていた。
 何が、と言うワケではないのだろうが、本能的な部分で警戒するような感じである。

「市販の菓子なんて百害あって一利なしだってのにさ、それでも嬉しそうに喰っちゃうんだもんなぁ」

 やれやれと溜め息を吐く仕草も様になるハンサムなヒューゴの台詞に、やぱり光太郎はニッコリと笑ったままでゴクリと息を呑んだ。

「ええーっと…その言い方は、やっぱりその…」

 自分が好んで菓子を食べていることを知っているのかと聞きたいような、もちろんさ!と答えられたらどうしようと言うおっかなさが相俟って、その先を言えずにモゴモゴしていると、ヒューゴはそんな光太郎を華麗に無視して口を開いた。

「光太郎はなんでも甘いモノは自販機で買うだろ?あれはさ、やっぱり言葉に自信がないからか?」

「え…」

 少しドキリとしたような顔をして、それから光太郎は徐に俯いてしまう。
 確かに売店を利用せずに自販機に頼ってしまうのは、苦手な英語で相手が不快に思うことを避けているからなのだが、それ以前に少し怖いと言う思いがあることは兄にも言っていない。

「自販機ってのは便利だな。物言わずにお辞儀してりゃモノが落ちてくるって仕組みだ。それで生きていけりゃ楽なんだけど。やがてはそれだけじゃダメだって気付くだろ?気付いた時には何もかも遅かった…なんてことになったら悲惨じゃないか。だったらさ、そうなる前に話しちまえばいいんだよ。言葉は話せば話すほど上達するんだ。黙ってたら馬鹿になるんだぜ。俺みたいにね」

 ハハハッと声を出して笑うヒューゴに光太郎は一瞬呆気に取られたような顔をしていたが、それからふと、納得したように微笑んだ。

「僕、話すことが怖いんです。この言葉で誰かを傷付けないかとか、ちゃんと気持ちが伝わっているのかとか…相手の反応を見るのも怖くて、ダメですね。なかなか踏み出せない」

 語尾は溜め息のように零れ落ちてしまったが、ヒューゴはそんな光太郎を食い入るように見つめていた、が。

「…俺はさ、失敗したことなんてないんだぜ。ただ、何万通りもあるうまくいかない方法で試してるってだけのことさ。頭のいいヤツはなんでも小難しく考えるからいけないね。道理なんてモノはさ、驚くほどあっさりしてんだよ」

 あっけらかんと言い放つヒューゴの双眸は憎めない笑みに揺れていて、それで初めて、光太郎は彼が何を伝えようとしているのか判ったような気持ちになった。
 そしてそれがとても不思議で、同時に何もかもを素直に受け入れたくなっていた。

「ああ、そうか…僕は失敗を懼れていたんだ」

「気持ちだけじゃダメな時だってあるんだ。心で思うだけで伝わればいいなんて、そんなモンは驕りだよ。口に出さなけりゃ、優しさだってなんの意味もなければ価値もない」

 やれやれと肩を竦めるヒューゴに、光太郎はクスッと苦笑して頷いた。
 確かにいちいちヒューゴの言う通りではあるのだけれど、その想いを伝える方法がとても簡単だが難しいなんてことは、きっと言わなくても判っているんだろう。だからこそ彼は、失敗してもいいんだから口に出せばいつか成功することもあると言っているのだろうか。
 誰にも相談できず…ましてや反対を押し切ってまでアメリカに来てしまったのだから、兄に言うことも侭ならなかった光太郎は、四方や一級殺人罪の容疑者から諭されるなど思ってもいなかったが、その言葉は正論で真摯で…静かに心にすとんと降りて来た。

(ああ、本当だ。言葉に出してくれたらこんなに簡単に優しさを受け入れることができるんだ)

 背後で兄やサモンズ捜査官が小さく溜め息を吐いて落胆しているのはよく判るのだが、光太郎はそれでもめげることはなかった。
 聞き出さなければいけない情報は幾つか聞き出したのだから及第点をもらってもいいだろうぐらいの気持ちだし、自分は彼と話をしようと思って此処に来たのだから、今は話すことが仕事だと思っていた。

(何万通りもあるうまくいかない方法で話しているに過ぎないんだよ)

 そう思ってクスッと笑っていて、ふと気付くと、ヒューゴが少し嬉しそうに頬の緊張を緩めて見詰めている。
 この人はどうして、自分を見る時にこんな風に優しい双眸をするんだろうかと光太郎は不思議な気持ちになっていた。
 何十人と言う人間を無情にも惨殺した人物だと言うのに、狂気に彩られた暗い深淵の持ち主だと言うのに、光太郎は彼の心の在り処が判らずに困惑してソッと眉を顰めてしまう。
 犯罪心理学は犯罪者の心理を究明することに特化している心理学だったが、光太郎が目指す臨床心理士は被害者の心のケアに重点を置く。リケット博士の講義でその内容を絡めて発言したに過ぎないのに、その中のどの言葉が彼の残虐性や凶暴性を抑え込んでこんな表情を浮かべさせているのだろうか。
 ともすれば、その全てか真実で、本当は彼は殺人など犯していないのではないか…そこまで考えて光太郎は唇を噛んだ。
 彼はマーカスの殺害現場に居て、駆け付けた警官に両手を上げて薄ら笑っていたんだそうだ。
 ヒューゴは光太郎が自分に愛を告白したのだと言う。
 だから、自分は光太郎を守るのだと。

(ヒューゴの心を動かしたその言葉が、本当は何の意味も成さないと知った時、君はどれほど傷付くんだろう…)

 沈黙は心地好いと学んでいるのか、黙り込む光太郎の仕種にも別に気にした様子もないヒューゴは、思い悩んでソッと眉根を寄せる日本人青年の機微に心を配り、恐ろしいほど上機嫌で見詰め返している。

(ダメだ。こんなこと考えちゃダメなんだ。ヒューゴはたくさんの人を殺して、まだ見つかってない人もいるんだから、俺はその人たちを見つけ出すために此処に来たんだから)

 唇を噛んで止め処なく流れていこうとする思考の波を引き留めて、光太郎は本来の自分の役目に終始しようと心に決めた。
 とは言え、百戦錬磨の惟貴と言えど、彼の重い口を開かせることができなかったのだから、自分が彼の思考に潜入することなど…端から無理な話なのだ。
 それならばたくさん話をして、その話の中に何かの切欠を見つけ出せば、少しずつ物事が進んでいくのではないかと考えていた。それが、光太郎がこの一週間で考え出した戦略だった。
 嬉しそうに首を傾げるヒューゴに口を開きかけたその時、不意にアラームの音が響き、背後に控えていた惟貴が無機質な電子音を停止させて低い声で言った。

「時間だ」

「あ…はい」

「え?!もう??」

 三者三様の声ではあったが、一番不満そうなヒューゴに惟貴は咳払いしながらやれやれと首を左右に振った。

「本来の刻限はとっくに過ぎているんだ。これでも延長した方なんだぞ」

「マジか」

「大丈夫です。また金曜日にお話に来ますから」

 ガックリしたように眉根を顰めたけれど、立ち上がる光太郎がにこやかに屈託なく笑ってそう言うと、ヒューゴは何か言いたそうな表情をして見上げていたものの、困った顔をして溜め息を吐いてしまう。

「それじゃ仕方ないな。また2日間は無意味な日々だ」

「それは違いますよ、ヒューゴ。無意味な日々なんてないです。だって、僕はこの2日間、きっとまたあなたに何を話そうかって考えると思いますから。あなたも僕と何を話そうかって考えればいいんですよ」

 エヘッと笑う光太郎を見上げたままで、仏頂面だったヒューゴはキョトンとして、それからふと、困ったような嬉しそうな、とても複雑な表情をして笑ったようだった。

「そうだな。そう言う時間も悪くないんだろう」

 だが、とヒューゴは暗い思考の片隅で静かに思っていた。
 そうじゃない、と、こんな風に僅かに離れることも嫌だと思うほど、心から必要なこの小さな存在の姿が見えないことなど考えたくもないんだと。
 自分の目が届かない何処かで、得体のしれない異常者に大事な【彼】を奪われるとしたら…

(ゾッとしないからな。まあ、今回は緊急だったから力技でやっちまった感はあるんだけどさ…毎日来るように仕向けるべきか)

 見上げている黒髪のやわらかな表情を持つ少年のような日本人青年は、嬉しそうにニッコリ笑っているが、その癒される雰囲気の光太郎を抱き締められたらいいのにとヒューゴは心から思っていた。
 両手にぬくもりを感じるチャンスは幾らでもあったくせに、そうしなかったのは自分に勇気がなかったからだとややのび過ぎているストロベリーブロンドの前髪が影を落とす、神秘的なシルバーブロンドの双眸を自嘲的に細めて苦笑した。

(いや、そうじゃない。そんなことは考えるな…光太郎には学位が必要なんだ。そのために、FBIを利用することにしたんだから。俺も大概だな)

 やれやれと内心で肩を竦めるヒューゴが沈黙の檻に引き籠ったと判断した惟貴は、資料を抱える光太郎に退室するように合図を送った。当初に決められた合図に気付いた光太郎は、慌てて頷き、それから何事かを考えているようなヒューゴは気付かないだろうがと思いながらも、もう一度微笑んで小さく呟いた。

「では、さようなら」

「さよならじゃないさ。また金曜日」

 俯きがちになっていたヒューゴはすぐに顔を上げて、別れの言葉を告げる優しい日本人青年を見上げて言った。
 その双眸には離れ難い気持ちが滲み出ているのか、彼にしては珍しく【寂しい】と言う感情が揺れているように見える。
 惟貴は一瞬目を瞠ったが、ヒューゴの寂しさはまるで幻のように霧散して、そしてもう興味を失くしたようにふぃっと目線を逸らしてしまった。
 彼にとって重大な名前を暴露し素性を明かしたものの、光太郎から得られたご褒美はほんの細やかなモノだったに違いない。
 だが、その細やかなモノこそがヒューゴが望み、そして手に入れたい何かだったに違いないのだ。

「今日は驚くほどお喋りだったな」

 退室を促そうと資料を抱えたままキョトンとして見上げてくる光太郎の肩を抱いたまま、惟貴が興味を失せた硝子玉のようなシルバーグレイの瞳を見詰めて呟くと、そのあまりにも冷たい双眸のままで自らの精神分析医をチラッと見たヒューゴは嫌味たらしく鼻先で嗤ってみせた。

「俺はいつだってお喋りだよ。ただ、知的な馬鹿との遠回りなお喋りは退屈なだけさ」

 拘束衣に阻まれることがなければ、大袈裟に肩を竦めるジェスチャーでもして、机に頬杖でもついていたのだろうが、ヒューゴはただ吐き捨てるだけだった。
 やれやれと溜め息を吐く惟貴が光太郎を促して退室するその後ろ姿を、感情を失くしたような…綺麗に感情を隠してしまった双眸で、訝しそうに眉を顰めながら兄を見上げていたが、ジッと見つめる自分に気付いて肩越しに微笑む光太郎を見詰めてヒューゴは苦笑した。

(だが、これでいい。そうさ、これでいいんだ。いずれにせよ、ゲームオーバーだ)

 ヒューゴは立ち去ろうとする光太郎の後ろ姿をチラッと見詰めて、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
 極めて異例の事態であり、且つ異例の処遇の容疑者は、嘗てないほどの異例の面談をそれでもどうやら満足したように終えたようだった。