2  -Forced Encounter-

 犯罪心理学とは犯罪者の特性や環境要因の解明を通して、犯罪予防や犯罪捜査、また犯罪者の更生に寄与することを目的とした心理学の一分野である。
 日本から心理学の先進国であるアメリカに留学している日本人青年、天羽光太郎が専攻している臨床心理学の専攻選択のなかに犯罪心理学がないワケではないが、彼は精神医学、産業心理学、臨床福祉心理学の分野を選択していたため、犯罪心理学は実はよくわからなかったのだ。

(こんなことなら選択しておけばよかったかなぁ…)

 自信のない面持ちで講堂の中頃の席に腰を下ろした光太郎は、それでも犯罪者自身の心理や犯罪に至る具体的な心理的プロセスなどに関しては興味がないとしても、被害者の心の支援や犯罪者の更生に関しては、少なくとも臨床心理学的な分野にも大いに役立つし、何より臨床心理士を目指す身のうえには重要な経験になるだろうと考えていた、その為、今回は初めてリケット博士の講義に参加させてもらったのだ。
 彼が纏めたレポートは、犯罪心理学を学ぶ者ならまず触れるであろう犯罪者側の心理には触れず、被害者の心の問題やその支援について記載されていたのだ。
 それは臨床心理士的な見地からのアプローチであるのだが、敢えて犯罪者ではなく被害者側に起こり得る問題について紐解いている。

(俺の場合、産業心理学とかだったら得意なんだけど…でも心理学ってのは統計学的な部分が重要だから、ここに居る人たちに比べたらまだまだヒヨッコなのに…今日は笑われるんだろうなぁ)

 図書館に通い詰て過去の犯罪記事などを漁り、その中の興味深い事件の被害者たちのその後をリサーチして、何が彼らに必要だったのか、また不要だったのかなどを書き出して、心のケアに関するレポートを書いてみたのだ。
 僅か一週間弱、しかも見知らぬ土地での見知らぬ事件に関する自己見解に過ぎない自己満足的なレポートは、本当にこれで良かったんだろうかと気恥ずかしくて仕方がない。
 そのことばかりに気を取られつつあったものの、実際にリケット博士の講義を受けてみて、光太郎は犯罪心理学の奥深さに興味を持つようになっていた。
 留学では致命的と言えるかもしれない未熟なヒアリング力ではあるものの、論文を仕上げるだけの語学力は持っている彼のことだ、その講義の内容はよく理解できたようだ。
 求められた質問へレポートを利用して発言してみたものの、多少の失笑は買ったものの、それでもそれほど悪い出来ではなかったようで、気恥ずかしさに頬を赤らめながらも大役にホッと安堵して光太郎は席に腰を下ろした。
 リケット博士の講義では珍しい日本人と言うこともあって、物珍しそうに遠慮なく見詰められることに慣れないでいる光太郎だったが、それほど酷い評価じゃなかったことに胸を撫で下ろした瞬間、背後の席からクスッと鼻先で笑うような気配がした…が、まあ、大半の生徒がそんな態度だったので、光太郎は振り返ることもなく照れ隠しにエヘヘッと頭を掻いていた。
 鼻先で笑われるぐらいでちょうど良いのだ。

(もっともっと、せめてアメリカに居る間は頑張って犯罪心理学も学んでみようっと)

 背後のひとの気配と、物珍しそうな周囲の眼差しに照れ臭そうに頬を染めながら、それでもひとつ、光太郎はこの異国の地で興味深いものと出逢えたことに感謝した。

「アモウ、コータローって言うの?」

 講堂から出て、春とは言えまだ肌寒い中庭でふと声を掛けられて振り返ると、そこには先ほどの講義に参加していたと思しき学生が佇んでいた。
 自分よりも随分と年嵩に見えるが、それでも実際は同じ年なんだろうと、ここに来た時に驚かされているので今は身構えるコツを掴んでいるから驚くことはない。

「はい…ええと、どなたですか?」

 ニコッと、はにかむように微笑むと、暗いブロンドの髪を持つ青年は吃驚したような顔をして、それから照れ臭そうに笑って頭を掻いた。

「さっきの質問の回答だけど、アレはちょっとよかったと思うよ。具体的に被害者の実情がよくわかるし、犯罪心理学はどうしても犯罪者視点になりがちだからとても興味深かったよ」

 自分が感じたことを思わず捲し立てて、キョトンッとしている光太郎にハッと気付いた彼は、それから慌てたように両手をバタバタと振っている。

「ああ、すまない!俺はマーカス、マーカス・カーウェイって言うんだッ。今までにない視点の話だったからつい興奮しちゃって…」

「いいえ、気にしないでください。犯罪心理学は日本では専攻していなかったので、僕のスピーチは粗末だったと思います。でも、そう言って頂けると嬉しいです」

 声を聞いているだけならなんて冷静な物言いだろうかと目を瞠るが、まるで咲き初めの花のように頬を染めて嬉しそうに感謝している表情を見てしまうと、決して嫌味の慇懃な口調ではないことがよく判る。
 それどころか、屈託ない表情は却って取っ付き易くさえあるのだから不思議だ。
 だからこそ、マーカスもこの随分と若そうな日本人青年を不愉快に思うよりも、彼の柔和な態度に絆されて、できればもっと話をしてみたいと思ってしまったようだ。

「君は犯罪心理学は専攻していないのかい?きっと面白いと思うよ。良ければこの後カフェで少し話せたらいいんだけど」

「あ、ごめんなさい。僕はこれからリケット博士に呼ばれているので」

 愛想など振りまいているつもりはないのだが、いつだったか教授からもう少し警戒心を持たないと危ないよと注意を受けていたものの、光太郎は気さくなマーカスの態度をすっかり気に入っていたし、犯罪心理学についてもっと知りたいと思っていたからその申し出は魅力的で是非とも受けたかったのだが、いかんせん、気難しいと噂のリケット博士のお呼びとあっては断るしかない。

「博士に?ああ、そうか。君は確か博士の知り合いの紹介でこの大学に留学して来たんだよね。でも、こんな時期に珍しいね」

 ややムッとしたような表情をしたものの、珍しい時期の物珍しい日本人留学生にも事情はあるのだろうと、少し溜め息を吐いて頷いたようだ。

「そうですね。ちょっと、僕の都合で無理を言ってしまって…」

「ああ、いいんだ!俺に気を遣わないで。日本人って本当に心遣いが素敵だね。それに君はとても素直でとても素敵だ」

 少し困惑して、しかし迷惑をかけてしまった恩師を思い出して微かに苦笑すると、マーカスは慌てたようにバタバタと両手を振って、それから心底からそう思っているように彼はニッコリと微笑んで光太郎の手を取って包み込むように両手で掴んだ。

「え?えーっと…」

(外国の人ってこう言うことガンガン言えるしこんなスキンシップもできるんだからスゲーよなぁ…こういう時、どう答えたらいいんだろ?)

 握手でもなくなんと言えばよいのかわからない態度と口調に、スキンシップに慣れていない日本人の光太郎はドギマギしたように頬を染めながら、それでもグルグルと回る頭で切り返しを考えていた…が。

「天羽くん?儂は時間がないんじゃがなぁ、お友達とは後でお話してくれんかね」

「あ、リケット博士!…じゃあ、マーカス。悪いけれど、僕はもう行かないといけません」

 天の恵みのような助けに感謝して、光太郎はソッとマーカスの両手から掌を奪還しようとしたが、それよりも逸早くパッと両手を離した暗いブロンドの青年は首を左右に振って笑った。

「ああ、うん。行ってくれ。引き留めてしまってすまない」

「ううん、いいんです。じゃあ、またあとで」

「今度カフェで話そう!」

 屈託なくニコッと笑う光太郎に、憎めない顔で二カッと笑ってウィンクなどするから、光太郎は釣られたようにやっぱり二カッと笑ってつい頷いてしまう。

「はい!」

 片手を振って別れを告げた光太郎は、心からこの大学に来てよかった、恩師の杉浦教授に感謝しなくてはと思って、サンタクロースのようなお爺ちゃん博士の元に駆け寄るのだった。
 春とは言えまだ冷たい風が中庭を吹きすぎてゆく。