人気の絶えない大通りを抜け、少々治安の悪い下宿のアパートに向かう裏通りの道すがらで、帰宅途中のマーカス・カーウェイはふと呼び止められて振り返り、唐突にそう言われて面食らったようだった。
「…誰だ?」
「アイツは俺のモノなんだ。他の誰のモノでもない。勘違いされちゃ困るんだ」
春まだ浅いとは言っても闇色のカシミヤのコートは冷たい風を孕んでいると言うのに、口許に薄気味の悪い薄ら笑いを浮かべる男の表情は冴え冴えとして、マーカスは一瞬怯んだように目を瞠ったが、次いで、すぐに口許を歪めるようにして笑ったようだ。
「それはあのカワイコちゃんのことかい?」
身形も良く、品の良さそうなシックな出で立ちの男はだが、日常とは掛け離れた、どこか虚ろな寒々しさを宿した薄ら笑いをクッキリとした口許に浮かべ、そして小首を傾げてみせる。
「カワイコちゃん?」
「そうだ。彼はとても素敵だ。一緒に居るととても落ち着くし、そんな彼の怯えた顔を見てみたいとは思わないのか?」
自分と同類の匂いを感じ取ったマーカスは、掌の中で怯えて恐怖に竦む人間の表情の、その性交渉よりも淫靡な悦楽を同じ嗜好とする者なら判るだろ?とでも言いたげに唇を歪めて肩を竦めた。
男は静かに笑っている。
何処か壊れている表情は、自分と通ずるものがあるとマーカスは思っていた。
彼は既に4人の少年を殺していた。
今までは家出少年や男娼と言った、世間の誰もが見向きもしない打ち捨てられたような哀れな少年たちを見繕っては、泣き叫ぶ彼らを犯し、散々に痛めつけたうえで咽喉を裂いて殺していた。
だが、あの講堂で見た青年と言うにはまだ幼さを残す彼は、マーカスが悦楽の為に犠牲にした少年たちとは違う、何処か鷹揚としたやわらかさを持っていた。
凡そ無垢とも呼ばれるその存在を散々汚して叩き堕として、その双眸から希望の光を奪いさったその瞬間に、生命を物語る真紅の血潮を撒き散らせばどれほど素晴らしい世界が広がるだろうか。
だからこそ貴重で得難いモノであることを彼は知っていた。
同じ殺人鬼の匂いを敏感に感じ取ったマーカスは、目の前の男が彼は自分のモノなのだとあからさまに主張しているところを見ると、あの存在を自分が思うのと同じように極上の獲物だと嗅ぎ取って目を付けたのだろう。
マーカスは本来はとても臆病で、そして慎重なシリアルキラーだった。
たとえば、こんな風に接触してくる人間は極力避け、自分の趣向などおくびにも出さない神経質な青年で、こんな場合は相手にもせずに先を急いだはずだ。
だが、彼はそうすることができなかった。
目の前の男の双眸の奥にちらちらと見え隠れする狂気が、自分の胸の内に眠る深い闇よりもさらに奥深く、覗いてはいけないと判っていると言うのに、どうしても覗かなければいけないような、そうしなければ目の前の化け物に喰い殺されると言うような、途方もない戦慄のような強迫観念に苛まれてしまったのだ。
「ああ、そうだ。彼は可愛いのさ。なあ、コータローくん?」
男はうっそりと嗤った。
そうして瞼を閉じて余韻に浸るようにその名を甘ったるく口にして、それから、徐に竦んで動けないでいる蛇に睨まれた蛙のようなマーカスの首の辺りに手を伸ばした。
閉じていた瞼を開いて、彼はマーカスの首に腕を回して引き寄せると、その暗い深淵のような双眸を覗き込んだ。
堕ち果てている彼にしてみれば、その戯れのような貧弱な闇は心地好いもので、取るに足らない玩具でしかなかったのだろうが、狂気を内包した暗い双眸に覗き込まれて、マーカスは声を出そうとして失敗した。
いや、悲鳴のような声を上げたはずなのだ。
だが、そうすることができなかったのは、首筋をチクリと刺した何かのせいで。
「鍼って知っているか?ツボをかなり細い針のようなモノで突く中国の古い治療法らしいぜ。だけど鍼には治療以外にも有効な使い道がある。身動き取れなくなるツボってのがあるんだってさ。しかも痛みも感じなくなるツボもあるらしいぜ。今、お前に刺したところが動けなくなるツボってヤツだよ。声も出せないだろ?」
男はマーカスの首を抱きかかえるようにしてクスクス嗤うと、誘うような心地好い低い声音で耳元に囁いて、次いで彼の背中を労わるように支えると大袈裟に声を上げた。
「おいおい!だから呑み過ぎるなって言ったじゃないか。こんなところで吐くなよ?ああ、大丈夫だ。俺が家まで送ってやるよ」
嫌な汗が背筋を伝い落ちていたが、彼が言うように、声はおろか指先だって動かすことができないのだ。
最初から狙われていたのか…いや、あの少年のような日本人青年に目を付けた時から、マーカスはこうなる運命だったのではないかと引き摺られながら考えた。
全身にじっとりと汗が噴き出し、見開いた双眸から涙が零れそうになる…だが、それすらも許されず、気付けば電気の点いた自分の安っぽいアパートにあるベッドに投げ出されていた。
男は盛大に息を吐き出すと、暑苦しそうに高価なカシミヤのコートを脱ぎ捨てて前髪を掻き揚げたようだった。
それから虚空を見詰めるマーカスを見下ろして満足そうに小さく嗤うと、ベッドを軋らせて傍らに腰掛け、手にした細い金属性の光を反射する鍼をチクリと刺した。
「そしてこれが痛みを感じさせなくするツボ───…とは言っても、これで本当に効いてるかってのは俺にも判らないけどね。でもまあ、ここには麻酔なんて洒落たモノはなくってさ。お前、獲物を嬲るのが好きみたいだな」
この部屋で殺害したことはないのだが、血の匂いを嗅ぎつけたのか、もしくは薬剤の匂いがしないことに気付いたのか、どちらにしてもマーカスは男の洞察力に怯えてしまった。
「…ああ、大丈夫だ。お前が俺に心臓を見せてくれるまでは生かしておいてやるよ。だってそうじゃないと意味がない」
シャツの袖を捲りながら嬉しそうに言う男の姿を捉えることができなかったが、そう言えば、とマーカスは気付いた。
自分と対峙した時は確かに何も持っていないはずだったのに、自分の傍らにあるこの黒い鞄はなんだろう?
そうして彼は眩暈を覚えるのだ。
自分がまごまごとカフェで時間を潰したり図書館で本を読んでいる間に、この男はマーカスの部屋に入って物色し、全ての段取りを恙なく整えていたのだと。
「心配するなよ。ちゃんとその後で動けるようにしてやるさ」
嬉しそうに嗤う男の手に閃くのは鋭利なメス。
彼は医学的に言えば緊急開胸術を施すことに決めているようだった。そんなことを医学に無知なマーカスが知っているはずもなく、鋭利で冷たいメスが皮膚に喰い込む感触をまざまざと感じていると言うのに、彼は痛みを感じることはなかった。
それが幸いしているとは到底思えないものの、大量の汗がドッと吹き出している時点で、彼は精神的に追い詰められ、そして気絶してしまいそうな恐怖と戦わなければならない。
まるで死ぬことが判っているのか、或いは蘇生させるつもりなどさらさらないのか、嬉々として開胸術を行う男は、感染症を心配するでもなく、マスクもせず素手で全ての感触を確かめるように淡々と作業として進めているようだった。
彼はまず、第4肋間に沿って皮膚切開をおき、肋間筋と壁側胸膜を切開・剥離、続いて開胸器を肋骨にかけた。
「…お前はさ、獲物の首を切り裂く時に性的興奮を覚えるんだろ。でもどうだ?自分が切り裂かれている今、獲物の気持ちを感じることはできているか?なあ、興奮するんだろ。冷たい刃が肉に喰い込んで皮膚も筋肉も胸膜すら切開されて、そして無機質な開胸器が肋骨を固定している感触を感じてみろよ…でも、俺はそんなことじゃ興奮しないけどさ」
クックックッ…と咽喉の奥で嗤った男は、彼が尤も必要として、そして望んでいるモノが大きく開いたマーカスの胸元で剥き出しにされた事実に目を瞠り、そして落胆したような表情をしたのだ。
「ああ、また同じだ」
大きく口を開いた胸壁には脂肪が黄色い粒として点在し、血に塗れたピンク色の肺、そしてところどころに黄白色の脂肪の点在が見られる脈打つ肉色の心臓…彼はその事実に落胆し嘆息していた。
ガクガクと身震いするマーカスの涙すら零すことのできない双眸を覗き込み、男は残念そうに呟いた。
「お前の心臓は俺が喰うよ。こんな在り来たりの心臓はいらないんだ」
遠くの方で緊急を告げるパトカーのサイレンが響いている。
だが、この時マーカスは自らの死を覚悟していた。
瞼を閉じることもできずに震える彼の心臓に手を伸ばした男は、その命の源を掴み引き摺り出しながら、彼の痛みを忘れている身体に本来の痛覚を取り戻してやった。
マーカスの目玉がぐるんと回転し、そして白目を剥いたままで絶命するのを確認もせずに、血潮が滴り落ちる自らの手と死して尚力強く脈打つ強靭な筋肉の塊に舌を這わせ、血液だけではない人体から垂れ流される臭いが充満する室内で、彼は筋肉の塊に真珠色の歯を立て、そして血潮を溢れさせる肉色の心臓から筋組織を引き千切りながら口に含むとゆっくりと租借した。
味も他のモノと大差ない…残念だと嘆息して項垂れる。
階段を駆け上がるようなけたたましい足音が響いている。
自らが連絡し、引導を渡す為に訪れるソレは、できれば派手にFBI捜査官が良かったのかもしれないけれど、制服警官でもこの際いいのかと彼は口許に鮮血を滴らせて嗤う。
この異常な惨劇の目撃者になってくれるのなら、いっそ一般人でも構わないと思っていた。
だが彼は、いずれにせよこの惨状を目の当たりにした人物は、当分の間悪夢に悩まされ、安穏とした睡眠を貪ることはできないのだろうと、やれやれと肩を竦めて嘆息したようだ。