4  -Forced Encounter-

 マンハッタン57丁目にある瀟洒なコンドミニアムの一室、リビングルームからセントラルパークを臨む眺望には、この部屋がどれほど高価で贅沢であるのかを窺い知ることができる。
 よく磨かれたガラスに手形を残しながら、夕暮れのセントラルパークを見下ろして光太郎は目を真ん丸にして溜め息を零している。

「この部屋から見る景色が好きでね。お前もあんな安いアパートではなく、此処に住めばいい」

 コーヒーカップを手にして戻ってきた冷徹そうな東洋の面立ちを持つ壮年の男は、摩天楼をポカンと見詰めている青年の背後から苦笑しながら声を掛けた。

「そんな、兄ちゃんに迷惑ばかりかけられないよ」

 背後を振り返ってニコッと笑う光太郎に、BAUにも協力することがある権威ある精神分析医として名高い天羽惟貴(アモウ・コレタカ)は彼に近付くと、整った眉根を寄せて、ミルク多めの甘いコーヒーを手渡しながら不機嫌そうに呟いた。

「子供が余計な気を遣う必要はない。お前はたった一人の肉親なんだ。この物騒な街に独りで置いておくと思うと、胃が痛くて私は夜も眠れないよ」

 不満そうに吐息して片手で腰を掴んでブラックの濃い目のコーヒーを啜る兄を見上げて、光太郎は「俺はもう21歳なんだから子供じゃない」と唇を尖らせたものの、それでも申し訳なさそうにしょぼんと俯いてしまう。

「無理を言って留学してきてごめん。兄ちゃんのいるアメリカがどんなところなのか見てみたかったんだ」

 まだまだあどけなさの残る童顔の弟は、少し見ないうちに人一倍気を遣う、優しい青年に成長したようだった。昔はもっと甘ったれで何処に行くにも着いて来たがっていたと言うのに…いや、それは今もあまり変わってはいないのだろう。だから、こうしてへこたれずに遠い日本から自分を追いかけて来たのだから。
 可愛くないワケがない。
 だが、アメリカに行くことになった日も泣きながら一緒に行きたいと駄々を捏ねていたあの少年は、一緒に暮らさなくても独りで充分やっていけると豪語できるほど成長してしまったのか。
 カッターシャツの袖は捲っているものの、腕を伸ばして見た目よりも随分とやわらかい黒髪に指先を埋めて、わしゃわしゃと掻き回せば吃驚したように目を白黒させる光太郎に惟貴は溜め息を吐きつつ苦笑した。

「お前が杉浦教授を頼ったと知ってガッカリしていたんだぞ。どうして兄を頼らない?」

「う~。だから、兄ちゃんに迷惑かけたくなかったんだよ。それに、俺はちゃんと自分の力で此処に来たかったんだ」

 すぐに子ども扱いする12も年の離れた兄を見上げて、追いつけない身長差にも不平そうに唇を尖らせる弟に、日頃は冷徹だ氷のようだと陰口を叩かれている惟貴は窓際に置いてあるテーブルにカップを置くと、柔和な笑みを浮かべて首を傾げて見せた。

「それで、アメリカで何か面白いモノでも見つけたか?」

「ああ!俺、犯罪心理学を勉強してみようと思うんだ」

 パッと嬉しそうに双眸を輝かせる光太郎に、途端に惟貴の表情が険しくなった。

「犯罪心理学だと?お前には無理だ、やめておけ。臨床心理士になるんじゃなかったのか」

 両肩を掴むようにして顔を覗き込まれて、驚いたように目を瞠った光太郎はしかし、同じようにテーブルにカップを置くと、ムッとしたように唇を突き出して反論するのだ。

「もちろん、兄ちゃんのようにBAUに協力できるようになりたいとか、精神分析医になりたいだとかそんな大それたことは思ってないよ。ただ…リケット博士の講義に参加したら面白いだろうって思ったんだ。だからこっちに居る間は勉強したいなって思ってるんだよ」

「ああ、そう言うことなのか。だったら大丈夫だが、お前は気が優しすぎるからこう言った心理学には向いていないんだよ」

 そもそも、惟貴は臨床心理士…いや、光太郎が心理学に関わることにすら懸念を持っていて、できれば全力で阻止したいと思っていたぐらいなのだ。
 ましてや凶悪な殺人鬼たちに向き合うような犯罪心理学には何があっても携わらせたいとは思っていないし、ましてや関わることになろうものなら、それこそ持てる力を全て行使して防ぎたいとすら思っている。

「うーん、判ってるよ。俺はそう言うの全然向いていないからさ。その点、やっぱり兄ちゃんは尊敬しちゃうんだよな~」

 屈託なくえへへと笑って、却って双眸を覗き込まれた惟貴はその無邪気な発言に面食らったものの、溜め息を吐いて身体を起こし、やはり弟の髪をわしゃわしゃと掻き回してしまう。

「そーだ、今は何か事件に関わってる?シリアルキラーとかと面談してるの??」

 ワクワクと言った感じで聞いてくる光太郎の、その昔の面影を残しているキラキラした双眸を冷ややかに見下ろして、冷たい氷のような鉄面皮と言われる惟貴は片方の口角を吊り上げて腕を組んだ。

「守秘義務だ」

「ええ~…あー、そーか。残念だな~」

 曲がりなりにも心理学に携わる身の上としては、兄の言葉は尤もで、そろそろ夜の帳を下ろし始めるマンハッタンの夕景に気を取られながらガッカリと肩を落とす弟を、唐突にガバッと抱き締めて惟貴は嬉しそうに笑った。

「とは言え、私は弟には弱いからなぁ。少しぐらいなら教えてやらんでもないよ」

「ホントか?!兄ちゃん、やっぱ大好きだー♪」

 エヘヘと笑いあう兄弟、特に兄の姿を見た同僚がいれば、その普段との違いに腰を抜かして、今自分が目にしているモノが全て紛い物で、信じられるモノなど何もないと悲観に暮れて自殺でもしかねないほど、冷徹の仮面をするりと剥ぎ落している惟貴の姿に驚いて寝込むだろう。

「お前と同じ大学に通っていたマーカス・カーウェイが殺されたことは知っているな?」

「ああ…うん。今度犯罪心理学についてカフェで話そうって約束してたのに、殺されたんだよな」

 ふと、寂しそうに眉を顰めて俯く光太郎に、少なからずマーカスと縁があったのかと、兄はポンポンッと頭に乗せた手で軽く叩いた。

「その犯人と思われる容疑者と面会したよ」

「ええ?!容疑者の男が捕まったって聞いたけど、兄ちゃんが面会するほどの容疑者なのか?」

 吃驚する弟を見て、警察が隠しているマーカスの惨状、容疑者の異様な経歴などが未だに漏れていない徹底ぶり…とは言え、光太郎はどこかお人好しで天然な部分があるので、ただ単に彼が知らないだけなのかもしれないが。
 いや、そんなはずはない。
 今回の事件の凄惨さは公表するにはあまりに惨たらしく、現場に駆け付けた屈強なNYPDの警官と言えどもその場で吐き、未だにPTSDに苛まれていると言うのだからおいそれと公にもできないのだろう。

「これは極秘中の極秘だぞ。件の男は男女含む38人以上の人間を殺害したとの容疑がかかっているサイコキラーなんだが、これがなかなか手強いヤツで、我々はまだ彼の名前すら聞き出すことができないでいるんだ」

「サイコキラー…って、じゃあ、マーカスは酷い殺され方をしたんだな」

 兄は難解な事件であればあるほど協力のために駆り出されるのだが、マーカス1人の為に…と思っていたが、現在拘束中の容疑者は実に38人以上を殺害していると言う。しかも、兄の口からサイコキラーと言う言葉が出た以上は、シリアルキラーのように殺害行為を主目的として連続で殺人を犯しているのではなく、快楽のため、もしくは猟奇的な欲求を満たすために殺人を繰り返す殺人犯のことなのだから、光太郎は空調が整っている室内にも拘らず、何処か寒いように我が身を抱き締めてしまう。
 そんな光太郎にまさか殺害方法まで説明できるはずもなく、惟貴はふと、あの魅惑的な容貌を持つ底知れない悪魔のような男を思い出していた。
 当初、凶悪犯であるが故に口に拘束具を嵌められ拘束衣に動きを封じられていたものの、常に口許に微笑を浮かべている彼は、その実ちっとも愉快じゃないのだろう、その暗い光を宿す双眸は少しも笑ってなどいなかった。
 天羽惟貴と言う人間にすら興味がないようで、逮捕されてから現在に至るまで、驚くことにただの一言も言葉を発していないのだ。
 恐らく彼は、頭の中で常に目まぐるしく何事かを考えているのではないかと推測はできる…が、その根拠を糧に、その沈黙の檻から引き摺り出すことがどうしてもできないでいた。

「…すまない。電話だ」

 ブーブーッと無機質な機械音を響かせるスマートフォンを取り出してみれば、今回の事件に関わっているFBI捜査官からの連絡だと言うことが判った。
 若干、青褪めた顔をしている光太郎は素直に頷いて、少し温くなったカップを持ち上げると、夕闇の迫るセントラルパークを見下ろして甘いコーヒーに口を付けた。

『アモウ博士、レビン・ヒュイットです。既に帰宅されているところを申し訳ありません、例の容疑者の件なのですが…』

「ああ、ヒュイット捜査官。ヤツに何か変化でもありましたか?」

『それがですね、えーっと…その』

 背中を向けて表情の読めない弟を気にしながらも、先日面会した時は拘束衣に動きを封じられてはいたものの既に拘束具は取られていた容疑者の顔を思い浮かべながら尋ねると、電話口の捜査官は日頃の快活そうな態度とは裏腹の、要領を得ない酷く言い難そうな物言いに、惟貴はふと苛つくのを感じていた。
 何かあったのではと、必要ないかもしれない警戒心がグッと首を擡げるのだ。

「ヒュイット捜査官?」

『ああ!えーっと…それがですね、ヤツが口を開いたんですよ』

「なんですって?」

 その驚くべき返事に、惟貴は目を瞠った。
 あらゆる手段を高じて、時にはこちらの弱味すらチラつかせて見せたと言うのに、チラッと視線を向けるぐらいで、日頃感情を表に出さない惟貴でさえ激高したくなるほど、やるせないぐらい一切の興味をかなぐり捨てているような容疑者のあの強硬な心境に、いったいどんな変化があったと言うのか。

「ヤツは何を言いましたか?それが今回の事件の謎を紐解く切欠になるかもしれない…これからそちらに伺います」

『それが、博士』

 今までに感じたことのない高揚感を感じながらも、部屋を大股で横切りながら投げ出していた上着を片手に言葉を継ぐ彼を、電話口のヒュイット捜査官は慎重且つ緊張した声音で呼び止めた。
 その声音は、何か只ならぬことを口にする前兆の気配である。

『ヤツは面会相手を指名してきたんです』

「ああ…それはよくあることですね。ヤツは私をどうやら毛嫌いしているようですから…どなたですか?もしやジミー・ファロンとでも?」

 なんだ、そんなことかと溜め息を零す惟貴は、まさかあの理知的な光を宿す暗い双眸を持つ男が、よもやトーク番組の名司会者を指名するとは思えないが、過去にはそんな記録もあるので侮れないだろう…しかし、つい鼻先で笑ってしまう。

『…それが、その』

「要領を得ませんね。それではこちらには何も伝わりませんよ」

 ヒュイット捜査官はどうしたと言うのか。
 淀みのない物言いが好感のある青年だと言うのに、ひとつひとつ言葉を選んでいる様は、どうも不穏な気配を感じてしまう。ましてや自分の仕事柄、大体の予想は的中する。

『博士、冷静に聞いてください。ヤツが指名したのは現在コロンビア大学で犯罪心理学を学んでいる、コータロー・アモウと言う学生です』

「…なんだと?」

 ふと、兄のトーンダウンした声音に気付いたのか、摩天楼から目線を室内に戻した光太郎は不思議そうな顔をして惟貴を見返していた。
 その視線が不安に揺れていることに気付いて、その時漸く、惟貴は自分が光太郎を凝視している事実に気付いたようだ。

『何故、ヤツがコータロー君を知っているのか甚だ疑問なのですが、何度確認しても彼の名前を言うばかりで…彼を連れて来ないと何も話さないと言ってまただんまりを決め込んでいるんです。俺は反対したんですが上司の指示で…』

「いえ、ああ、すみません。だが、その申し出は断らせて頂きたい。明日にでもそちらに伺って正式に辞退させて頂きます」

『いえ、あのアモウ博士…ッ』

 電話口では焦ったように言い募ろうとする声が聞こえていたが問答無用で通話を切断し、日頃何があっても動じず、冷ややかな美しさを持つことから【アジアの雪の女王】と呼ばれている惟貴だったが、今回ばかりはその異名通りに冷静でいるワケにはいかない。

「兄ちゃん?」

 キョトンとする弟はいったい何時の間にサイコキラーに目を付けられていたのか、何時から狙われていたのか、そして何故名無しの殺人鬼はこんな容易い獲物を殺さなかったのか…光太郎はよく言えば鷹揚だが、悪く言えばかなり抜けているところがある。その気になれば38人もの人間を殺害しておきながらのうのうと尻尾も掴ませなかったヤツにとってみれば、それこそ光太郎を殺すことなど赤子の手を捻るよりも簡単だったに違いないはずなのだ。
 惟貴の見解では、恐らく今回の捕り物劇は名無しの殺人鬼が自ら仕組んだことに違いないと思っていた。
 どうして、ただの一度も姿を見せることもその存在自体を嗅ぎ取らせることもしなかったヤツが、【一連の殺人事件が自らの犯行である】と判らせるような、あんな判り易い殺害現場を仕立てあげ、ベタベタとあらゆるモノに指紋を残し、匿名で電話まで入れる念の押しようで捕まることを望んだのか。
 指紋とは言え、結果的には誰もヒットはしなかったのだから…その部分は、彼なりの皮肉だったのだろう。

(!…そうか、今回の被害者はマーカス・カーウェイだったな。光太郎は彼を知っていた)

 ヤツは早い段階で光太郎に目を付けていたのだろう。そうして、彼と親しくするマーカスに嫉妬したのか…しかし、それでは話がおかしいことになる。
 名無しの殺人鬼は典型的な秩序型のサイコキラーだと言って過言ではないほど、理知的で整然とした殺人を好んでいる。心臓に執着しているが、順序立てて正確に開胸術を行っていることから医学的な知識も有していることが判るし、麻酔を使用することでギリギリまで被害者を苦痛なく生かしていることも判っていたが、今回は麻酔を使用しておらず、どうやってそれを成し得たのか説明できない部分があるとは言え、ヤツはマーカスに極限の痛みと苦痛を与えて絶対的な絶望を感じさせながら殺害していた。
 そして何よりも最大の違いは、マーカスはレイプされていなかったと言うことだ。
 猟奇と快楽を兼ね備えたこのサイコキラーは、被害者の開胸術を行う前に、まるで儀式のように彼らをレイプしている。だがコンドームを使用した痕跡も、射精した痕跡もなく、口付けなどの唾液の痕もないことから、挿入はするが性的興奮は感じていない。被害者は一様に性的興奮で達していることが判ると言うのに、この名無しの殺人鬼は挿入に対して性的興奮を求めているのではなく、開胸術を前に、なんらかの儀式として性行為を行っていると考えるしかない。
 このことから窺い知ることができるのは、ヤツはマーカスに対して物言わぬ強烈な嫉妬を感じたことで、いつもの手順を踏まなかったのではないかと言うことになるのだが、それにしてもおかしい。

(光太郎にはマーカス以外にも仲の良い友人はいる。なぜ、マーカスは惨たらしい殺され方をしたのか?そしてこの名無しの殺人鬼はなぜ、今までの整然とした殺害方法を乱してまでマーカスに苦痛を与えようとしたのか…だが、いずれにせよ)

 小首を傾げる光太郎に近付いて、そして惟貴は瞬きする弟の顔を見下ろして、それから包み込むように、何者からでも護りたいようにその両腕の中に光太郎を閉じ込めた。

「兄ちゃん?どうしたんだよ」

 兄の行動に不安を覚えたのか、心許無い表情をしてその腕を掴み、見上げようとする弟の後頭部に回した掌に力を込めて、惟貴は冗談じゃないと虚空を睨みつけた。

(光太郎をお前にくれてやるワケにはいかない)

 何ものにも代えがたい大事な肉親を、どうしてあの悪魔のように不気味な名無しの殺人鬼の玩具にくれてやらなければならないのだ。
 たとえ職を失うことになったとしても、惟貴は全力で腕の中の宝物のような命を護ろうと誓うのだった。