5  -Forced Encounter-

 マンハッタンから容疑者が収容されているメリーランド州ボルチモアの精神病院までは車で約3時間半の道程だった。
 大学の講義を休んでまで同行するように求められた光太郎は、兄の真摯な横顔に不安を抱きながら、初めてマンハッタンから出て遠方までのドライブだと言うのに、全く楽しめずに唇を尖らせるしかない。
 道中のガスステーションに隣接する売店で遅い朝食を摂り、日頃なら不味いジャンクフードに悪態のひとつでも吐いているはずの兄は、文句も言わずに光太郎の差し出したブリトーに噛り付いていた。

「…言えないこともあると思うから聞いちゃダメだとは思うんだけど、これから何処に行って何をするのかぐらい教えて欲しいよ」

 不味いコーヒーは早々に諦めて、甘ったるいコークで咽喉を潤しながら、重い沈黙に居た堪れなくなって光太郎は傍らの惟貴に訊ねていた。
 早朝、スマホで何やら喧々囂々と遣り合っていた兄は、叩き壊すような勢いで電話を切ると、寝惚け眼を擦りながら何事かと首を傾げる光太郎に旅支度をするように指示してきた。
 大学にも連絡を入れて、問答無用の態度に只ならぬモノを感じてはいたが、ムッツリと黙り込んでいる兄の機嫌の悪さは半端じゃないが、この状態があと1時間以上も続くかと思うと頭が痛くなってきたのだ。

「…ああ、すまないな。頭に血が昇ってお前に説明していなかった」

 ハッと漸く我に返った惟貴は、不安そうに自分を見詰めてくる弟の顔を見て、自分の不甲斐なさに溜め息を吐いてハンドルを掴んでいる手に力を込めた。

「昨日、話した容疑者だが…今はボルチモアの州立病院精神異常犯罪者病棟に収容されているんだが」

「容疑者なのに犯罪者の病院に収容されてるのか?!それっておかしくないかな…」

「極秘だと言っただろ?これは異例の措置なんだよ」

「…」

 なんとなく理不尽に感じているのか、少しムッとしたように唇を尖らせているあどけなさを残す弟に苦笑して、惟貴は話を続けた。

「名無しの殺人鬼と呼んでいるんだが、ヤツは収容されてから一切口を開かない。話せないのではなく、自らの意思で話そうとしないんだ。ソイツが昨日珍しく口を開いて面会者を指名したそうだ」

「ああ!それで兄ちゃんが行くのか…って、でも兄ちゃんは最初から話してるし、それに俺が行っても足手纏いなだけじゃないかな」

 精神分析医として名を馳せている兄は、そのハンサムな美貌から犯罪者に人気があるらしく、接見交通権を行使して面会者として指名されることが多いと日本の大学でも噂されていたから、事情は知らなくても合点がいったようだったが、ふと、最初から兄が接見していること、その職場に自分なんかが行っても邪魔にならないのだろうかと言う疑問が首を擡げて、光太郎は不意に困惑したような顔をした。

「ああ、職場訪問させてくれるんだ!」

 なるほどと頷こうとする弟の黒髪に片手を伸ばして、兄はその見た目よりもやわらかな髪をグシャグシャに掻き回しながら溜め息を吐いた。

「…その指名された相手が、天羽光太郎。お前だよ」

「ええーッ?!どど、どうして、俺ぇ?!」  最初は吃驚したように目を見開いていたが、次いで、スーッと青褪めた光太郎はすぐにバタバタと両手を振りながら激しく拒絶した。 「無理無理無理無理!!そんなの絶対無理ッ!犯罪心理学も学んでいないし、何より、俺はまだ臨床心理士の資格すら持っていない、ただの学生なんだよッッ!!」

 見たこともない凶悪なサイコキラーに本気で怯えたような情けない顔で眉は八の字になってしまっている。

「そう、だから私もそう言って断ったんだが、法の力を行使されてね。こうしてお前を連れて行かないといけないことになっているんだが、この件はどんなことになろうとも断ろうと思っている。名無しの殺人鬼の酔狂になど乗ってやる義理はないんでね」

 前方を睨み据えたままで素っ気なく、且つ、静かな怒りに内心打ち震えながら吐き捨てる兄を見て、恐怖に青褪めていた光太郎はしかし、すぐに申し訳なさそうに兄の横顔を見詰めた。

「…でも、そんなことしたら兄ちゃんが」

「構わんよ。そろそろ日本に戻りたいと思っていた頃だ。こんなクソッたれな申し出を引き受けるぐらいなら、平和な日本に戻る方が随分と楽しいしな」

 ともすれば氷のように冷たい美しさを持つ兄は、こんな風に二カッと笑っておどけて見せればナイスガイのハンサムにしか見えない。アメリカの食生活のせいなのか、10年前は頼りなげな細身の青年と確かに記憶していたはずなのに、袖を捲ったシャツからのびる腕も肩幅も記憶の中のそれとは大きく違い筋肉に覆われて随分とガッシリした体型になっていた。
 身長もかなり高くなっていて、オンラインでは何度も話していたはずなのに、久し振りに会った実物の兄は同一人物なのかと一瞬疑いすらしたぐらいだ。
 スーツ姿であれば昔の面影もあるものの、着痩せするタイプだったのだと知った時の衝撃は半端なかった。
 だが、だからこそ、兄はこのアメリカで伸び伸びと活躍しているのだろう。
 今更、窮屈な日本に戻って、あの傷付けられたような冷めた表情を浮かべる昔の兄に、できれば戻って欲しくないと光太郎は考えて、そして俯いてしまった。

「俺、どうして殺人鬼に名前を知られたのか判らないけど、俺がアメリカに来なければ良かったんだ。そうしたら兄ちゃんはもっともっと此処で活躍できたのに…」

「馬鹿だな。可愛い弟を犠牲にしてまで得る地位なんざクソ喰らえだ。まだ少し時間がある。朝も早かったから眠っているといい」

 悲しそうに俯いている弟をチラッと見やって、それから、彼は愛しそうにその頭を優しく撫ぜる。

「兄ちゃん…ごめんね」

 溜め息のように零れ落ちる声音に、この10年、どうして弟を独りにしてしまったのかと舌打ちしたい気持ちに駆り立てられていた。

 メリーランド州ボルチモアにある州立病院は最新の設備を備えて…いるワケではなかったが、名無しの殺人鬼が収容されている部屋は特別に設えられているのか、エレベータは惟貴と光太郎を地下に導いている。
 心臓の音が外からでも聞こえてしまうんじゃないかと懸念するほど、空調が整っていると言うのに光太郎は嫌な汗で前髪を額に貼り付かせて、それからドキドキと脈動を刻む胸元をギュッと掴んだ。

「顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」

 心配そうに顔を覗き込んできた長身のスーツ姿の男は、レビン・ヒュイットと言う名のFBI捜査官だと紹介されたが、その屈託のない明るい性格には助けられているが、心配そうな表情に応えてやれるほど大人じゃない光太郎は困ったようにはにかんだ。
「だ、大丈夫です。たぶん…」
 顔色が悪くなるのも頷けるからこそ心配だなぁと眉を顰めるレビンに、同じくエレベータに同乗しているボルチモア州立病院精神異常犯罪者病棟の責任者である、暗いブロンドと蒼い瞳を持つディビッド・グレンバーグが整った眉尻を跳ね上げてそんな捜査官と名もなき大学生を見た。
 その鋭すぎる視線に思わず首を竦めたくなる光太郎は、ソッと傍らの兄に身体を寄せてしまった。

「彼に…心理学を学んでいるに過ぎない大学生を引き合わせるなど、私は歓迎しませんがね」

「全く同感ですよ、グレンバーグ博士!」

 何もかもが気に喰わないと言いたげな不機嫌な呟きに、傍らに立っている天羽惟貴は口角を吊り上げるようにして笑い、そして語尾に力を込めて言った。

「アモウ博士。あなたは確かに素晴らしい経歴の持ち主だ」

「いえ、まさか。グレンバーグ博士には遠く及びませんよ」

 謙遜に肩を竦める惟貴に、グレンバーグは不愉快そうに鼻で息を吐き出したものの、腕を組むと、殊更神妙な口調で言葉を続けた。

「彼はそんなあなたの弟だと仰るが、博士号もない、ましてや経験値の足らないただの学生なのです。コータロー君を彼に引き合わせて、どんな悲劇が待ち受けているか目に見えるようじゃありませんか」

「その通りです。グレンバーグ博士、私は弟をヤツに会わせる気などさらさらありません」

 薄笑いを口許に浮かべる冷たい美貌のアジア人を横目で睨み、だが、グレンバーグは面白くもなさそうに溜め息を吐くのだ。彼にとって表面上の美しさなど何の意味もなく、また興味すらない。
 そんなことよりも今心を占めているのは、あの無言の殺人鬼のことである。
 心理学を一通りマスターし、経験値も充分に積んでいるはずの自分にも、ましてや天羽博士にでさえ全く心を開かない、それどころか、そこに居る全ての人間に興味も関心も示さないあの名無しの殺人鬼が、初めて口にした人物は調べてみても、名前こそ立派な大学に所属しているものの、パッとしない日本人留学生だった。
 不愉快で不機嫌になったとしても致し方ない。

「正直、俺も反対ですよ。俺でもできれば勘弁願いたいのに君はとてもか弱そうだから、あんな化け物を相手にしたら寝込んでしますよ。俺からも無理だって言おうと思ってるんだ」

 コソコソと耳打ちしてくるレビンに、なんだそのか弱いってのはとムッとしたモノの、屈強なFBI捜査官ですらマジでビビると言うのだから、もしかしたらとんでもなくいかついおっさんなのか、はたまた、病的にヤバイ、目の逝っている精神異常者なのか…いずれにしても、日本ですらお目にかかったことのないヤバイ類の人物であることは間違いないんだろうと思わず身震いしてしまった。

「僕、きっとお役に立てないと思います。だから、兄が言う通り、断るのが妥当なんだと思います」

 身体を屈めて安心させようとしていた長身のレビンは、身長は175センチもないんじゃないかと思える小さい、ともすれば中学生ぐらいに見える少年のような光太郎を繁々と見下ろして、尊敬する天羽惟貴博士とは全く似ていない柔和な雰囲気に、やはりヤツに会わせるのは拙いんじゃないかと胸騒ぎを覚えた。

「役に立つ立たないは関係ない。お前には何も経験がない。こんな素人を玄人ですら手古摺る容疑者に引き合わせるなど正気の沙汰じゃないだけさ」

 しょぼんと俯く光太郎の頭に手を乗せ、元気付けるようにポンポンと軽く叩いてくる兄を見上げて少しホッとしている穏やかそうな青年と、あまりにもこの場所は世界が違い過ぎて、レビンは殊更光太郎が気の毒に思えた。

「だがね、アモウ博士。そうも言っていられないのが実情なのだよ」

 軽いベルの音を響かせてエレベータが重力を伴って目的地に着くと、開く扉から歩み出ながらグレンバーグは肩を竦めて見せたのだ。
 38人以上を殺害していると思われる猟奇殺人犯の容疑をかけられている男は、違法性はあるのだが異例の措置と言うこともあり、自白剤を使用したにも拘らず、驚くべきことに耐性があるのか、どんなことをしても口を開こうとしなかった。その名無しの殺人鬼が漸く重い口を開いて求めたモノが、21歳のほぼ素人とも言えるただの大学生で、だが、当局はその存在に藁をも縋る思いで賭けることにしたのだ。
 たとえ名声を誇る精神分析医の猛反対に遭おうと、そんなものは権力の元では風前の灯に過ぎないと言い切るように、レビンの上司であるサモンズ捜査官が強い表情で彼らを迎えた。

「ようこそお越し頂いた。ええと、君がコータロー・アモウ君だね」

 恭しく挨拶をしたものの、すぐに興味は優秀な精神分析医の傍らに居る光太郎に移されたが、惟貴が背後に弟を隠すように一歩踏み出し、ハッキリとした明朗な口調で言い切った。

「弟をヤツに会わせる気はないと電話でも言ったでしょう。今日は断りに来たのです」

「それは困ります、アモウ博士。既に段取りは整っている。ヤツも上機嫌で待っているんです。この機を逃したら未だ遺体さえ見つからない被害者の無念はどうするんですか」

 若干小太りのサモンズは暗い双眸で惟貴を見上げて、まるで咳き込むようにひっそりと吐き捨てた。
 たった独りの肉親である弟が可愛いのはよく判るが、その為に多くの家族の無念を犠牲にできるのか…と言外に語っているのだが、実際、惟貴にとってそんなことはどうでもいいことだった。
 彼にとって光太郎こそが全てで、光太郎独りの為に多くを犠牲にすることなど造作もないことだと認識していたのだ。
 だが…

「…遺体が見つかっていない人もいるんですか?」

 長身の兄の背後に隠されていた、傍に居る者が一様にホッとできる、不思議なやわらかさと穏やかさを持っている少年のような青年は顔を覗かせて、そして真摯な双眸でサモンズを見詰めたようだ。

「光太郎!」

 惟貴が鋭く叱責したが、感情の読めない暗い双眸のサモンズは、自分と身長があまり変わらない大学生と言うよりも中学生と言った方がしっくりくるような、光太郎の邪気のない双眸を見据えて頷いた。

「そうだよ、コータロー君。ヤツは身元も知れない被害者たちの情報に口を噤んで、一切何も語ろうとしない。だが、君になら話していいと言っているんだ。どうだろう?協力してくれないかね」

 躊躇うように一瞬目線を泳がせてしまう光太郎はだが、気弱そうな双眸に意志の強さを物語る光を浮かべて唇を噛んだ。
 彼がこの表情をする時、一途な思いはいっそ頑固とも呼べるほど決意が固いことを物語っているし、言い出したら聞かない表情であることも、幼い頃から傍に居た惟貴は嫌と言うほど思い知っている。

「お前は気が優しい。そんな情に流されていたら今に痛い目に遭うぞ」

「でも兄ちゃん、俺は人助けがしたくて臨床心理士になりたいと思ったんだ。これから酷いことだって経験すると思う、それなら、今必要とされているのなら協力するべきだと思うんだよ。お願い…」

 真摯な眼差しで必死に食い下がる光太郎を、あれほど怯えていたくせに、その身体の何処にそれだけの勇気が隠れているんだと惟貴は少し辛そうな表情で見下ろした。
 だが、惟貴の中にもまた奇妙な好奇心が芽生えつつあることを感じていた。
 あの何があっても決して口を開かない、そしてどんなに調べてもなんの痕跡すら見つけることもできない全くの透明人間のような、不気味な名無しの殺人鬼がただ独り求めている光太郎を、ヤツに引き合わせた時、一体何が起こるのだろうかと。

「…馬鹿野郎」

 日本語の会話であるため、居並ぶ連中は理解することができないでいるが、それでもどちらにともなく吐き捨てるように呟く惟貴の表情で、どうやら事態は彼らの思惑通りに進んでいるらしいことが判る。

「判りました。光太郎に接見させましょう。だが、条件がある」

 弟の肩に手を乗せ、思いを断ち切るようにして振り返った惟貴はサモンズ捜査官を見下ろして明朗な声音で宣言した。

「条件?」

 腕を組むサモンズに惟貴は頷いた。

「そうです。まず、ヤツの真意を確かめたい。光太郎にはヤツの資料を読ませる必要もあるので、一週間後に再度日時設定をして頂きたい。今日は私が会います」

 何の知識も入れずにライオンの檻にリスを放り込むような真似ができるかと、その険しい双眸が物語っているのは充分よく理解して、サモンズ捜査官は顎を擦るようにして唸ったが、渋々頷いて承諾した。

「ううーむ…だがそうだな、まるで丸腰で挑ませるには忍びない。その点は了解した」

「今日の面談でその件は私からヤツに伝えましょう。そしてもう一点、光太郎とヤツの接見に私も同席すること。以上の条件を飲んで頂きます」

 この2点は譲れない条件だった。
 たとえ今ここで光太郎が大丈夫だなどと言うふざけたことを言ったとしても、その口を捻りあげてでも黙らせて、サモンズには従ってもらうつもりでいた。
 幸い、光太郎の口が捻りあげられることはなかったし、サモンズもその条件に頷いて快諾することとなった。

「了解した。ヤツも2人きりでとは言っていなかった。その条件でいきましょう」

 惟貴はやれやれと溜め息を吐いたが、その傍らで申し訳なさそうに見上げている光太郎に気付いた。

「そんな顔をするな。ヤツが何を考えているのか確認してくるよ。お前の出番は後回しだが、楽しみにしていろ」

 コツンと拳骨で頭を叩いたものの、その痛くないお仕置きに泣きそうな顔で笑って、自分の我儘に付き合ってくれる兄に感謝した。