先に入室してその様子を窺っているサモンズとレビンは、特にレビンに至っては、それまでの酷薄そうな冴え冴えとした陰鬱な表情からは読み取れないポーカーフェイスの悪魔の、そのガラッと変わった雰囲気に面食らっていた。
そうして見ると、今までの陰湿で重苦しい雰囲気など何処吹く風とでも言うのか、今の彼を何も知らない者が見れば、恐らく取っ付き易くて人好きのする、是非とも知り合いになりたいと思わせるその絶対的な魅力に惑わされるに違いない。いや、どんな事件を起こしたのか理解している人間ですら、その魅力に惑って、一連の事件に本当に彼が関わっているのかと疑い始めるのではないかとさえ思わせるほど、ワクワクしているらしい彼は陽気で、人好きのする笑みには邪気がない。
(この悪魔め…)
だが、サモンズはその雰囲気に騙されはしなかった。
それがたとえ偽らざる本心の笑みだったとしても、この殺人鬼が何を仕出かしたのか、目の当たりにしたことのあるサモンズには全てが偽りとしか言いようがないのだ。
鉄の扉が重苦しく軋む音を立てて開いた瞬間、拘束衣に戒められている身体の不自由さを内心で嘆きながら、漸く対面できるそのひとへ期待を向けた眼差しで見つめていたが───…不意に人好きのする笑みが引っ込み、全てに興味を失くしたようにシルバーグレーの双眸から光が消えてしまった。
溜め息も吐かずに椅子の背に凭れるように座り直して、名無しの殺人鬼に戻ってしまった男は目線を外して外方向いた。
「コータロー・アモウじゃなくて悪かったね」
書類を手にした惟貴が口角を上げて瞼を閉じながら笑って言っても、既にだんまりを決め込んだ彼は何か言うつもりもないし、勿論目線を向けるつもりもないらしい。
「心配しなくても来週には彼が接見しにくるよ」
椅子に腰掛けながら言ったその言葉に、漸く双眸に光を取り戻した男はゆっくりと惟貴と目線を交えた。
視線を合わせることなどただの一度もなかったし、惟貴にもその他の誰にも興味らしい興味など示さなかった男は、その言葉だけに反応して目線を合わせてきたのだ。
(これはこれは…それほど光太郎を待っていると言うのか)
どれほどの期待と興味を持って天羽光太郎と言う存在を待っているのか…そこで漸く、惟貴は彼が、どうやらこの場所で光太郎と逢う為だけに本気でわざと逮捕されたのではないかと真剣に懸念した。
「その前に君に幾つか尋ねたいことがあるんだが…話す気はないんだろうね?」
まんじりともせずに沈黙の檻に閉じ篭もるのだろうとやれやれと溜め息を吐く、と。
「知的な馬鹿は物事を複雑にする傾向があるな。それとは反対の方向に進むためには、少しの才能と多くの勇気が必要なんだぜ」
不意に口を開いた名無しの殺人鬼にハッとして顔を上げたのは、何も惟貴だけではない。サモンズもレビンも同様に件の殺人鬼の顔に目を瞠って見詰めていた。
低い声はともすれば心地好いとさえ思え、これで本当に完全無欠の美貌が完成してしまったのだが、一度、「ねえ、捜査官」と声を掛けられたレビンですら、改めて目を瞠ってしまうのはこの美貌の殺人鬼の成せる業なのだろう。
「俺はコータローくんに逢って話がしたいと言ったはずだ。そうじゃないなら、話す気なんかさらさらないね」
身体を起こして暗い双眸で惟貴を見詰めながら、赤みを帯びたブロンドの男はその神秘的なシルバーグレーの双眸を細めて口角を僅かにクッと上げて、自分を騙して話を聞きたくないのなら、どうぞ存分に物事を複雑にしてくださいとでも言いたげだ。
「…なるほど、アインシュタインの言葉か」
多くの勇気には、自分の弟を差し出す勇気が含まれるとでも言いたいのか。
「アインシュタインなんてどうだっていい。俺はアイツに逢いたいんだよ。逢って早く話がしたいんだ」
ハァッと盛大な溜め息を吐いて背凭れに背中を預けて双眸を閉じた男は、どこか上の空で誰かを思い浮かべているようだ。
「今日はよく話すんだな」
苦笑して煽ってみれば、そんなことにも一切の興味が失せてしまったような男は、不満そうに酷薄そうな唇を尖らせて呟いた。
「いつもは下らない話しかしないしさ…言葉が役に立たないときには、純粋に真摯な沈黙がしばしば人を説得するって言うじゃないか。条件を出して黙っていれば、いつかアイツは俺のところに来るんだろ」
(今度はシェイクスピアか…どうやら、随分と格言じみた言葉が好きみたいだな)
「別に好きじゃないさ」
常にポーカーフェイスを意識している惟貴は、いとも容易く自分の思考を読まれたことに内心は動揺したが、それこそその動揺を表に出さないように一瞬だけ息を呑んで、それから探るように名無しの殺人鬼を見た。
「読んでいた本の内容が頭をグルグルしてるんだよ。気付いたら口から出てくるってそれだけのことだ」
だが、そんな惟貴の思惑などまるで興味がないのか、彼は欠伸など噛み殺して瞼を閉じると既に退屈し始めたようだ。とは言え、こんな話にでも口を開いたのは、どうやらレビンが言ったようにその根底の話題に彼が渇望している天羽光太郎の存在があるからではないか。
光太郎の存在がない会話なら、きっと今でも彼は純粋に真摯な沈黙を何日だって貫いて沈黙の檻から出てくることはないのだろう。
「お前は光太郎を何処で知ったんだ?」
本当はこの契機にヤツの名前、年齢、殺人に関して等々、あらゆる情報をより多く聞き出さなくてはいけないのだが、惟貴はどうしてもその事実を何よりも確認したかった。
あの穏やかで優しい弟をどこで見初めて、何故殺さず、そんなにも無性に逢いたがっているのかが知りたいのだ。
「…呼び捨てにしてるな。ああ、そうか。アンタはアモウ博士だったな。もしかして、アイツはアンタが言っていた大事な者なのか?」
ふと、双眸を開いてゆっくりと惟貴を見た男は、何も掴めない無に近い感情で首を傾げている。以前、自分にも大事な者がいる…ようなことを匂わせた会話を思い出したのか、あの状況でも聞いていたのかと底知れない男の闇に眉を寄せると、不意に物言わぬ殺気のようなモノを感じてハッとした。
その、シルバーグレーの双眸の奥深くにチラチラと燃えている光は狂気なのか、それともまさか怒り…?
「アイツはアンタのパートナーなのか?」
兄弟…と言う認識よりも、ニューヨークでは同性婚が認められているのだから、この名無しの殺人鬼にとって問題なのはその部分なのだろう。
「パートナーだったとしたらどうするんだい?」
「…いや、違うな。そんなはずはない」
不意に彼の台詞など完全に無視し自己完結して不貞腐れたようだったが、それから男は徐に挑むような双眸で自分の心理を分析する惟貴を見据えた。
その双眸には数多の殺人鬼と対峙した惟貴ですら背筋を凍らせる、何か一種独特の凄味のようなモノがあった。
それは光太郎のパートナーと言う信じたくない存在に対する猛烈な嫉妬なのか、はたまた全く別の何かなのか…いずれにせよ、男は惟貴を見据えたままで酷薄そうな薄い唇を開いた。
「なあ、何故人間は人間を殺すと思う?」
唐突な、通常のサイコキラーらしい問答に一瞬、訝しげに眉を顰めてみたものの、何かの新たな前触れか、もしくは何らかの事件解決のヒントに繋がる遣り取りになるのではと思い直し、惟貴は机の上に両肘をついて指先を組んだ。
「…さあ、何故かな?」
「答えになってないなぁ…理由は簡単だよ。そうしたい欲求があるからさ。それと、勘違いだ」
それまで一瞬たりとも視線を外さなかった、鳩尾の辺りがゾクリとする薄ら寒い狂気の色を宿していた双眸を瞼で隠すと、名無しの殺人鬼は肩を竦めて溜め息を吐いた。
「勘違い?」
拘束衣によって身動きが取れないとは言え、隔てる壁も鉄格子も強化硝子も何もない、同じ空間に居ると言うだけで、他の犯罪者にはない冷ややかな空気が満ちているようにすら感じるのは、恐らく気のせいではないのだろう。
「アイツの部屋はダメだな。西の窓の鍵が壊れている。だが殺人鬼ならそんなチンケなところは狙わない。堂々と玄関から侵入するんだよ。俺みたいにさ」
「…なんだと?」
ふと、シルバーグレイの神秘的な双眸を開いて、口角を上げて嗤う名無しの殺人鬼に、惟貴はハッとした。
この男は既に光太郎の住居も知っていて、尚且つ、その室内にも足を踏み入れていたのだ。
これだけ用意周到であるのなら、それぐらいは予想もできる…だが、だったら何故、コイツはすぐ目の前に居る光太郎を殺さなかったのか、執着している心臓を狙わないのか、それだけ執着しているのなら何処か遠くに連れ去らなかったのか…考えれば考えるほど、全てが闇の中に消えてしまう。
答えは、そのアクアマリンのようなシルバーグレイの瞳の奥に横たわる、奥深い、覗き込んでしまえば二度と後戻りのできない深淵の底に蹲っているのだろうか。
「今はアンタの家に居座ってるからよしとしても、戻らせたらダメだ。俺が居る間は問題なかったんだけどさ、今はこんなところにぶち込まれてるんでね」
やれやれと溜め息を吐きながらもニヤリと嗤う男の顔を、惟貴は忌々しそうに見据えて言い返した。
何故か、咽喉の奥が渇いている。
「お前は何を言っているんだ?」
ヒョイッと、映画俳優でも気取っているのか、しかしこんな場所に居ること自体が間違っていることのように、とても似合っている仕草で眉を上げた名無しの殺人鬼は、少し声を立てて笑ったようだ。
「ははッ…まあ、冗談だと思って聞けばいいさ。アイツの部屋に何人か警官を送り込んでみろ。恐らくクローゼット付近のドアの影にでも一匹ぐらい隠れているんじゃないか?」
笑っているのだがさして面白くもなさそうに彼は言葉を続けた。
「本当は今日、俺が自分の口でアイツに伝えたかったんだけど…アパートを引き払って、俺が戻るまではアンタのコンドミニアムに居るように伝えてくれ」
面白くもなさそうに瞼を閉じて肩を竦めると、まるで兎にも角にもどうでもいいからこれだけは伝えてくれよと言外に言い放つ男に惟貴は無言で睨み据えた。
「…」
「なんだ、此処まで言ってもまだ判らないのか?お偉い博士なのに頭の融通が利かないんだなぁ、コータローくんのお兄ちゃんはさ」
「!」
呆れたように訊ねてから、当の昔に惟貴の正体など判っていたんだよ…とでも言いたげな、まんまと罠に嵌めたらしい名無しの殺人鬼のその馬鹿にした態度に苛々としたものの、やはり彼はそうして何かを伝えようとしているようだ。
「俺はアンタに随分と多くのヒントをくれてやった。それなのにどうだ。アンタはこんなところでのうのうと俺の相手なんぞしているんだからな」
フンッと鼻先で笑ってから首を左右に振ると、まるで突き放すように吐き捨てる男を見据え、そうして惟貴は先ほどから目まぐるしく脳内で交差する考えを纏めようと双眸を細めた。
(光太郎が狙われていると言うのか?勘違いだと??何か勘違いされるような行動、もしくは発言をしたと言うのか?そのせいで、光太郎は殺人鬼どもに狙われていると言うのか、だがそれならばまず…)
「アモウ博士!マーカスを洗い直しますッ」
傍らに黙して控えていたレビンが、サモンズに促されてそう叫ぶようにして言うと、そのまま脱兎の如く室内から駆け出して行った。
どうやら、彼らも時を同じくして惟貴の考えと同じ考えを持ったようだ。
さすが、選び抜かれた名無しの殺人鬼の担当捜査官である。
だが、それよりも、そんなことよりも惟貴は確認しなければならないのだ。
悍ましいが、彼が何よりも執着している心臓よりも興味を見せる光太郎の為に、その手をなぜ血塗れにしたのか、その理由を…
「お前は…マーカスを殺して、それをただの警官に発見させ、当局が事件を伏せるだろうことも予想したうえで、警官から仲間へ、そして家族、その恋人や友人へとひとの口伝てに噂を広めさせたのか?マーカスを利用して光太郎を狙うだろう殺人鬼どもに見せしめをしたと言うのか?!」
「質問にたどり着いたなら、答えはすぐそこだ」
満足したようにニッコリと嗤う名無しの殺人鬼は、そうして、見る者を地獄に叩き落とすような、地獄に堕ちることも厭わないような、とても魅力的で蠱惑的な表情をして、慌てて立ち去る精神分析医とFBI捜査官を満足そうに見送った。