9  -Forced Encounter-

 メリーランド州ボルチモアの州立病院精神異常犯罪者病棟の佇まいは簡素ではあるが、整然とした佇まいで白を基調にした色遣いは、何処か不安にさせるモノだと光太郎はソッと眉を顰めた。

「アモウ博士!それとコータロー君。よく来てくれたね」

 サモンズ捜査官は感情の読み取れない暗い双眸で見詰めてきたけれど、光太郎は気にせずに微笑んで差し出された掌に握手した。

「今日は宜しくお願い致します」

 そんな2人の遣り取りを面白くもなさそうに見つめる惟貴に、やや遅れて駆け付けたレビンが慌てたように挨拶をしてきた。

「アモウ博士!電話ではどうも。あの続きなんですが、警官の報告によるとやはりクローゼットのある寝室に忍び込んでいた男がいたそうです。既に逮捕されていますが、何やら支離滅裂なことを口走っているようで、後ほど精神鑑定に回されるようです」

「ああ、やはりそうでしたか…ところでそちらは?」

 期待通りの内容に内心で舌打ちしたい惟貴だったが、ふと、レビンの傍らで面白くもなさそうにボサボサの茶髪を掻きながら、眠たそうなヘーゼルの双眸の男に気付いて訝しげに眉を顰めた。

「ああ!彼は今回の事件に協力してもらっている市警のヴァル・シャンクリー刑事です。ヴァル、こちらは精神分析医のコレタカ・アモウ博士だ」

 名無しの殺人鬼について当局は極めて慎重な対応を取っていると言うのに…いや、惟貴すらヤツの存在をあまり大っぴらにしてはどうなのかと考えているのだ。

「はぁ、豪い綺麗な博士ですね」

「おい!」

 NY市警の刑事はとぼけた口調で感心したように呟いたものの、レビンにドスッと背中を殴られてやれやれと肩を竦めて『すんませんね』とぼやいたようだ。

「ヒュイット捜査官、この事件は隠密での対応…ではありませんでしたか?」

 不機嫌そうに眉根を寄せる惟貴に、飼い慣らされた犬のようなレビンがビクッとしたようだったが、「あーあ、やっぱりな」とヴァルは気のない感じで溜め息を吐いた。

「いえ、アモウ博士。マーカスをフェアリーキル事件に導く切欠を作ったのは彼なんです。今回の件でとても頼りになっていますッ」

 いつもならすぐに引き下がるはずだったが、レビンが自信満々でヴァルを推すから、サモンズは物珍しそうに眉を上げている。

「捜査に協力者はつきものですよ、アモウ博士。そうピリピリすることもないでしょう。さて、そろそろあの怪物が騒ぎ出さんとも限りませんからな。コータロー君、準備はいいかね」

 惟貴たちの会話を傍目で聞いていたサモンズはどうでもよさそうに溜め息を吐いて言ったが、すぐに光太郎に目線を向けて首を傾げて見せたので、少年のように幼い面持ちの日本人青年は大きく頷いてみせた。
 意志の強さを物語る漆黒の双眸はキラキラとして、既に覚悟は決めているのだろう。

「では、アモウ博士」

「承知しています」

 惟貴が吐息のように呟くその背後で、ふとヴァルがコソコソとレビンに耳打ちした。

「まさかあの子供を名無しの殺人鬼に会わせる…とかじゃないよな?」

「…そのまさかだ」

「!」

 ギョッとしたようにレビンを二度見するヴァルに、若いFBI捜査官はマンハッタンからボルチモアまでの道程で説明しておけばよかったとバツが悪そうな顔をするものの、憤懣そうな面持ちで頷いて見せる。

「やれやれ、殺人鬼だけがバケモンじゃねーな」

 光太郎を連れ立って歩き出す惟貴たちの背中を見ながら、ヴァルは何か悍ましいモノでも見てしまった時のような、嫌なモノを感じてバリバリと頭を掻いていたが、レビンに促されて彼らの後を追うことにした。
 この先にいったい何が待ち受けているのかと、ヴァルは背筋が凍るのを感じたようだ。
 重い鉄の扉を開いた先は、以前のように拘束衣に自由を奪われた名無しの殺人鬼が、背凭れに背中も付けずに前のめりになって、何やらブツブツと呟きながら俯いているようだ。
 扉が開いた瞬間にチラッと目線を上げはしたものの、「また、アンタか」と明らかに絶望したような色をアクアマリンのような青に近いシルバーグレーの双眸に浮かべはしたが、特に期待なんかしてないよとでも言いたげにスッと目線を落としてしまった。
 まず惟貴を筆頭に立ち入った一行は、向かって左手に捜査官と刑事、右手に惟貴が配するような椅子が準備されていて、それぞれが指定された椅子に腰掛けている最中、何故か一番最後になってしまった光太郎はふと顔を覗かせて、恐る恐ると覗いた室内の一番奥にストロベリーブロンドの髪を持つ名無しの殺人鬼を見つけた。
 見つけて…光太郎は思わずポカンッと目を瞠った。

「あー!あなたはセントラルパークで会ったッ」

 書類を両手で抱き締めるようにして持っている光太郎が思わず吃驚して声を出すと、それまで不貞腐れたように項垂れていた名無しの殺人鬼はガバッと顔を起こしてマジマジと目の前を凝視したようだ。
 神秘的な透明感のあるアクアマリンのような青に近いシルバーグレーの双眸も、赤みの強いブロンドも、俯いている姿を見れば全て鮮明に思い出せるのは、忘れるはずもない物静かに本を読んでいた、あの綺麗な青年だったのだから。

「ああ、やっぱりそうだ!…あなたはあの時、僕に『Gesundheit』って言ったけれど、僕はその言葉の意味が判りませんでした。それで調べたんですよ。あれはドイツ語でお大事に、って意味だったんですね。あの時吃驚して満足にお礼が言えなかったから僕もちゃんとドイツ語で言いますね」

 光太郎は目の前にいるのは38人以上を殺害してのうのうと逃げ果せていた殺人鬼であることをちゃんと理解していたが、いつかもう一度出逢うことがあった時、ちゃんと言わなければいけないと決めていた言葉をニコッと笑って言った。

「Danke schön!」

 エヘヘッと満足そうに笑う光太郎に目を瞠ったのは何も惟貴たちばかりではない、面食らったように呆気に取られていた名無しはふと、ハッと我に返ったのか、あれほど待ち望んでせっついていたと言うのに、光太郎を前にしてフイッと目線を逸らすと物言わずに外方向いてしまったのだ。

「あれ?僕、何かおかしなこと言いましたか??」

 キョトンッとして首を傾げたものの、まあいっかと自分に言い聞かせると、無遠慮に少年のような日本人青年は名無しの前にあるパイプ椅子に腰を下ろした。

「えーっと、じゃあお話をしましょうか。あなたが僕を指名したのは、こんな経験もない僕なんかに精神分析をして欲しいからじゃないですよね?お話がしたかっただけですよね」

 こちらをチラとも見ようとしない無言の名無しに、それでも光太郎はお構いなしに思っていたことを喋り続けた。
 部屋に入った時、まさかこのアメリカでもっと頑張ろうと言う気持ちにさせてくれた、あの青年が座っているなんて思ってもいなかったから、考えていた言葉が全部消えてしまって、伝えたかった言葉だけが脳内をグルグルしていた。
 そして全てが真っ白になっていることなんて、きっと兄たちですら気付いていないのだから、こうなったらこのままの勢いで話し続けようとしているのだ。
 光太郎だって、少なからず衝撃を受けている。

「僕、この一週間、ずっとあなたのことを考えていました。でもそれは分析したいからとかそう言ったことじゃなくて、あなたは何も喋らないって聞いていたから、どんな内容の話をしようかな~って考えていたんです」

 持ち前の穏やかさで、光太郎はエヘヘッと笑いながら手にしていた書類を机の上に置いた。
 確かに惟貴が言ったように、名無しの殺人鬼は外方向いたままで何一つ口を開こうとしない。その態度に、実際に腹立たしく苛々しているのはサモンズだった。
 光太郎を連れて来れば何でも話すと言っていたはずだ、苛々して口を開こうとすると、向かいに座っている惟貴に目線で牽制されてしまう。
 惟貴には判っていた。
 今、名無しは凄まじい速度でストロベリーブロンドの下の頭蓋骨に収まる脳で、目まぐるしく考えているに違いないのだ。
 彼は今、沈黙の檻の中に引き籠って何事かを目まぐるしく考えている。それは今までの退屈からや関わりたくない人間を遠ざける為に敢えて取っていた強硬な態度ではなく、実際に欲しいモノが目の前にある時にどうしようと悩む、通常の凡人が考える仕草を大袈裟に取っているに過ぎないのだが、その態度は惟貴にひとつの仮説を疑惑として考えさせるに十分だった。

(信じられないことだが、恐らくこの殺人鬼は、光太郎に何らかの愛情を持っているのではないだろうか)

 目線を交わすことができないほど緊張し、その白人種特有の白い頬は、人工の明かりの下でのび過ぎた前髪が落とす影でよく判らないが薄紅色に染まっているように見える。
 唇は微かに震え、シルバーグレーの双眸は真摯に床を見詰めている。
 それらは此処に来て、ただの一度も名無しの殺人鬼と恐れられている男が見せることはなかった感情の発露だった。

「…俺のことを考えていただって?」

 ふと床を睨み付けていたシルバーグレーの、透明度の高い神秘的な双眸をゆっくりと光太郎に向けて彼を凝視し、名無しの殺人鬼の異名を持つ男は呟くように言った。
 その問い掛けにキョトンとしていた光太郎は、それからニコッと屈託なく笑って頷いた。

「はい」

「俺にとってアンタはただの標的かもしれないのに?ねえコータローくん、俺はこの通り拘束されててさ、アンタに近付くこともできないんだよね。でも、幸いなことに口は自由なんだ」

 そう言って、ストロベリーブロンドの髪を持つ男は、美貌の顔を蠱惑的に歪めてチラリと紅い舌で唇を舐めた。

「キスさせてくれよ。ずっと待っていたんだ。フェラでもいいよ。俺のフェラは巧いんだってさ。俺の舌はベルベッドみたいに心地好いらしいぜ…」

 魅惑的に蠱惑的に…それすらも淫靡な表情で笑うシルバーグレーの双眸を細める男は紅い舌でゆっくりと下唇を舐め、一瞬、同じ室内いる男たちは息を呑んだようだった。
 同じ男だったとしても彼の妖艶な仕草に欲情しても仕方ないと言うのに、惟貴が心配するように、まだまだ幼い光太郎はポカンッと呆気に取られたようにそんな男の姿に目を瞠っていたが、それから途端にムッとしたような顔をして唇を尖らせた。

「ちょっと待ってください。今調べますからねッ」

「……へ?」

 机に置いた書類を取り出して付箋の貼られた幾つかの箇所を確認する光太郎を、それこそ間抜けな顔をしてポカンッと見詰める男は、次いで、ほんの少し頬の緊張を緩めたみたいだった。
 その見落としてしまいそうな変化に気付いた惟貴は、それで漸く信じられない仮説が事実ではないかと思うようになってしまう。
 どうやら目の前に居る悪党は、幼気な日本人青年に少なからず愛情を持っているようなのだ。

「うーん…ほらやっぱり!あなたは自分が選んだ被害者にキスやその、えーっと、唾液が付くような行為はしていません。だから、今のは僕をからかう為の嘘ですよね?」

 プリッと頬を膨らませて唇を尖らせる光太郎に、呆気に取られていた男は不意に何かを思いついたような顔をして、それから少し呆れたようにハハッと笑ってしまった。
 あの顔をして甘やかに強請れば、何処かの馬鹿は自分にペニスを与え、ある者は口付けてきた。
 できれば一番逢いたかった光太郎がキスしてくれたら良かったんだが、やはり彼は、男の想像の斜め上を綺麗に突っ走ってくれる。

「ちぇッ!キスはお預けか。参ったな。ああ、本当に参ったよ」

 ご機嫌そうに笑って俯いた男はまたしても沈黙の檻に閉じ篭もりそうになったが、さして残念そうでもなく、すぐに盛大な溜め息を吐いて首を左右に振りながら背凭れに背中を預けた。

「まあ、いいけどさ。ところであのアパートは引き払ったのか?」

 そしてふと、思いついたようにちらりと横目で光太郎を見ると首を傾げた。

「え?あ、それはその、ちょっとまだです」

 そう言えば、自分が住んでいるアパートに関して、兄からこの容疑者が随分と気にしていると聞いていたが、まだアパートにも帰っていないので曖昧に答えた。

「何をやってるんだろうな?正面から堂々と入るサイコも居れば、馬鹿は浮かれて壊れている西の窓から入って来るって言うのにさ」
 男は口調ほどは軽い気持ちでもないんだろう、心配そうにアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレーの双眸を細めて唇を尖らせている。

「…西の窓が壊れているって知っているんですか?部屋に入ったことがあるんですか?!」

 兄から聞いていたのはアパートを引き払うことに関してのみだったので、ガタガタし鍵がかかり難くなっている西の窓のことだとか、正面から堂々の発言に光太郎は呆気に取られたように吃驚して目を見開いた。
 その仕種が面白かったのか、ストロベリーブロンドのやや長めの前髪の隙間から、人好きのする双眸をやわらかに細めて彼は肩を竦めて見せた。

「入ったことあるよ。夜遅くに帰宅してシャワーを浴びて、よほど疲れていたのか素肌にバスローブだけでさ、ベッドにもぐり込んで寝息を立てるまでずっと見てたし、キュートなパジャマでベッドにもぐり込んだ後、暑いからってシーツを全部床に落とした時は、風邪を引かないようにってさ、シーツを掛けたりもしたよ」

「!!」

 驚愕に目を見開きながらも、思い出せばまとわりつくシーツが嫌で床に落としたはずなのに、朝になったらきちんと着ていて、ああ自分はなんて律儀なんだろうかとか思った日があったのだから、彼が言っていることは妄想でも思い込みでもないんだろうと、パクパクしている口からは言葉が出てこない。

「寝る前にシャワーを浴びるって言うのがいまいち判らないんだけどさ…日本人はみんなそうなのか?」

 酸欠の金魚のようにパクパクと口を開いてはいるものの、答えられない光太郎などお構いなしに、男は最初から答えなど期待していないような仕草で、思い出したように続けて言うのだ。

「ああ、そうそう!それから出て行く時にさ、【おやすみ夢の中の人、良い夢をね】って頬にキスしたら、コータローくんは寝惚けてて、【ニイチャン?オヤスミナサイ】ってニッコリ笑って言ってたよ」

 ハハハッと笑う男に思い切り顔を真っ赤にした光太郎は俯いてしまうが、背後で聞いていた惟貴は喜んでいいのか困惑するべきなのか、いや、もちろんそこまでの至近距離に迫られていたにも関わらず、警戒心もなく笑っているのだから例のアパートはすぐにでも引き払うべきだと決意したようだ。
 日本語が判らないレビンたちですら、光太郎の危機感の無さに絶句したみたいだ。

「…まあ、訪問者が俺だけならいいんだけどさ。そうもいかないと思うんだ。だったらいっそのことボルチモアに住めばいい。毎日俺に逢いに来いよ」

 顔を真っ赤にしてトホホホッと唇を尖らせている光太郎にニヤニヤしていた男は、それから徐に何でもないことのように素っ気なく言ったが、目線を上げた光太郎はその言葉に顔を赤くしたままで首を左右に振って見せた。

「いいえ、それは駄目です。僕は大学に行かなくてはいけません。だから月曜日と水曜日と金曜日に此処に来ます。たまに日曜日にも来ます。僕には大学があるので仕方ないのです」

 慇懃な口調でそう言って、それから仕方なさそうにニコッと憎めない屈託ない笑みを浮かべるから、男はムッと下唇を突き出すような仕草をしながらも、仕方ないなぁと肩を竦めたみたいだった。

「僕はずっとあなたに聞きたいことがあるんです。質問してもいいですか?」

 話に来たんじゃないのかよ?…と、本来なら皮肉めいて受け応えるところだが、限りある時間でできるだけ長く話したそうな男は、そんな無粋な態度で貴重な時間を失くしたくないのか、肩を竦めるだけで否とは言わない。

「…あの、どうしてあなたは僕のことをそんなに気にかけてくれるんですか?」

 実に率直な質問に惟貴はやれやれと頭を痛めたが、さてキョトンッとしている件の容疑者はなんと回答するだろうか。
 四方や、自分が想定している『愛情があるから』などと言った陳腐な返事でもの給うのだろうか。それならそれで、また一興でもあるが。
 ストロベリーブロンドのややのび過ぎた前髪の隙間からジックリと見詰められて、光太郎は不思議そうに首を傾げて見せたが、彼はこの小さい可愛い生き物は何を言ってんだとでも言いたそうな、一瞬困惑した表情をしたが、それでも名無しの殺人鬼の異名を持つ男は肩を竦めるぐらいだ。

「すべてを今すぐに知ろうとは無理なことさ。雪が解ければ見えてくる」

「…はあ、そうなんですか」

 実際はどうして自分が殺人鬼たちに狙われるようになったのかとか、どうしてサイコキラーである彼が自分を気にかけるのかなどと言った、それらの疑問の何かヒントでも貰えるかと期待していた光太郎は肩を落としてガッカリしたようだったが、その姿を見た男は不意にムッとしたように眉を寄せて唇を尖らせた。

「なんてな…そんなことにも気付けないほど能天気なら、そりゃ多くの殺人鬼にも狙われるだろうよ」

「え?」

 兄からも捜査官たちからも一癖ある凶暴なサイコキラーと聞いていたと言うのに、実際に会ってみると、彼はセントラルパークで会ったことのあるあのとても綺麗な青年だったし、こうして話してみると、拘束衣さえ気にしないでいられたなら…まあ、それは無理なのだが、まるでコーヒーでも飲みながら気軽に話せる何処にでもいる普通の青年のように思える。それは彼の風貌があまりに温和そうで、無害そうに見えるからなのだろう。
 だが、その彼の口から飛び出る言葉は、コーヒーでも飲みながら話すにはとても物騒なものだった。

「だって、アレは俺に対する愛の告白だったんだろ?」

「…ええ?!」

 何がそうなってそう言う風に思い込んだのかとか、アレとは何なのかとか、そう言った主語が全て吹っ飛んだ会話に、光太郎は吃驚した目を見開いてしまった。
 開けっ放しの資料など、最早何の役にも立っていない。
 背後では惟貴とレビンたちが揃ってギョッとしたように固まっている。
 また、大方何か勘違いでもしているんじゃないか…と惟貴は考えた時、ふと、名無しの殺人鬼が気のない風で呟いていた言葉を思い出した。

【何故人間が人間を殺すのか、それはそうしたいと思う欲求があるから。そして勘違い】

 アレは自分に対して自嘲したのか、もしくは光太郎に群がろうとする殺人鬼どもに言い放ったのか…恐らく後者であることは確かなのだが、だがそうだとして、彼らはいったい何を勘違いしたのか。

「?」

 不思議なことに名無しの殺人鬼は光太郎の驚きに、困惑したように眉根を寄せたようだ。
 その仕種は、どうして光太郎がその台詞にこんなに驚いているのか、それ自体が全く判らないと物語っているようだ。

「ああ、なるほど…コータローくんは恥ずかしがり屋だから仕方ないのか。家族に聞かれるのは恥ずかしいものな」

「はぁ…」

 ニコッと笑った男に光太郎は呆気に取られていたが、惟貴はそれでいいと内心で頷いていた。
 事の真相をヤツが語る状況になればいいのだ。

「お前、リケット博士の木曜日の講義に出ていたろ?俺は学がなくってさ、火曜日と木曜日はリケット博士の講義に忍び込むんだ。あの日も講義を受けようと講堂に行ったら、セントラルパークで会ったお前が居たから、その後ろの席に座ったんだ」

 ふと、思い出すのはリケット博士から初めて招かれた犯罪心理学の講義の、あの広い階段式の講堂…そこで光太郎はリケット博士に求められた質問に、自論を展開して答えたのは確かだ。
 だが、あの話の何処で彼は光太郎が愛を告白したと思い込んだのだろう。

「コータローくんはさ、俺が居ることに気付いたからリケット博士の質問を利用してあんな形で愛を告白してくれたんだろ?アレが俺に向けてだと言うことは充分判ったし、嬉しかった。でもあの方法はダメだ。誰のことを言っているのか明確にしないと、勘違いした馬鹿はお前が自分のモノだと思い込むんだ」

 ストロベリーブロンドのややのびた前髪の奥から、ほんの微かな狂気を揺らめかせたシルバーグレーの双眸で光太郎を見詰めながら、それでも男は嬉しそうに呟いていた。その仕種で、光太郎が言った言葉の何かに非常に喜んで、そして勘違いしてしまっていることは容易に判ってしまう。
 だが、その彼にそれは違うと上手に言えるほど、今の光太郎には経験値がなさ過ぎる。
 面食らったように息を呑んでいた光太郎は、この場合はここは見送って彼の話を聞いて、それからベテランの惟貴たちとミーティングするべきだと判断したようだ。
 その背後でレビンは会話を聞きながら、光太郎のアパートに忍び込んでいた男が喚き散らしていたと言う不可解な言葉の意味を、今漸く理解できたようだった。

【アイツはオレのモノなんだッ!アイツがそう言ったんだッ】

 犯人はさらに光太郎は自分に殺して欲しいと望んでいるとも喚いていたそうだが…それはその言葉を受け止めた殺人鬼たちの思考によって様々に変化するのだろう。
 だからこそ慎重で臆病なマーカスでさえ、わざわざ獲物にするには難易度の高い光太郎に目を付けたのだ。
 当初は、4人の犯行で度胸がついたから、さらに難易度の高い光太郎を殺害することに興奮を覚えたのではないか…とプロファイルしていたのだが、同じ大学の同じ講義を受ける相手から、常人では理解できない愛の告白とやらをされたと思ったのなら、居ても立ってもいられずに接触を試みたのだろう。

(恐らく、その時にマーカスはこの名無しに目を付けられたんだろう…と言うことはだ、コータロー君。君は大変なことを仕出かしているぞ)

 数多の殺人鬼は、マーカスも含め光太郎を殺す方向で受け止めているようだが、最悪で最凶の殺人鬼である名無しが殺すのではなく、護ろうと動いていることは不幸中の幸いだろう。

(名無しが愛の告白とやらを曲解したおかげで彼を護っていたからこそ、コータロー君は今日まで生き延びることができたんだろう。だが、その庇護がなければ…)

 そこまで考えてレビンがコクリと息を呑んだその目の前で、まるで生贄に捧げられた子羊のような光太郎は、それでも溜め息のように言葉を漏らして頷いたようだ。

「そうだったのですか…」

「そうだよ」

 穏やかな双眸で真摯に見つめて頷いた男は、それから光太郎を狙う殺人鬼どもに思いを巡らしたのか、不機嫌そうに首を傾げている。

「今回は俺を名指ししなかったことで不特定多数が勘違いするような告白になっちゃったからさ、誰かがスマホで録画してネットに晒し、あっと言う間に広まって無知な馬鹿たちは自分に告白したって勘違いしたみたいだぜ」

「ええ?!」

 何処をどうあのたどたどしい英語のまごまごした回答が愛の告白に繋がったのか、ましてやこのストロベリーブロンドの髪を持つアクアマリンのような青に近い神秘的なシルバーグレイの双眸を持つハンサムな青年のうっかり勘違いだけでも瞠目ものなのに、それだけではなくそれを多くの殺人鬼たちまでもが挙って勘違いしていると言うのだから…どう言うことなのか光太郎は信じられないでいる。

「そんなまさか…」

「まさかじゃない。俺には学がないからさ、スマートな解決策は思い浮かばなかったんだよ。だから取り敢えず自作のプログラムをYoutubeと言った動画コンテンツのサイトに仕込んで、拡散されてしまった動画の自動削除だとか、アップするヤツのPCやスマホに入って関連動画を全て削除するとかの対処をしたんだ。それからあの場に居た犯罪者をリスト化して狙いを絞ったりしていたわけだけどさ」

「…」

 思わずポカンとしたのは、リケット博士の講義に忍び込んだのも学がないから勉強するつもりだった…と言外に匂わせているものの、すぐに行動に移したのだろうその手際の良さは目を瞠るものがある。
 さらに講堂に居ただろう犯罪者たちをリスト化…殺人鬼としての勘なのか、いやそうではないだろう。随分前からリケット博士の講義に忍び込んでいたと見受けられるから、彼はもしかして既に全員の素性を割り出していたのかもしれない。
 その周到な準備に瞠目して、光太郎は二の句が告げられずにいる。

「一番厄介なのは動画を見た連中だ。精神を病んでる連中ならたかが知れてるんだけどさ。殺しを快楽だなんて勘違いしている連中は性質が悪い。まあ、先手先手で立ち回れたから楽に始末できたけど…ちょっと面倒になってさ」

「え?」

 ふと、男が口許に奇妙な笑みを刻んだ。
 普通なら見逃してしまうぐらいの僅かな笑みだったが、不思議と、光太郎はその雰囲気の変化を敏感に感じ取ったようだ。
 だが、男は特に何も言わずに苦笑して肩を竦めるぐらいだ。

「…自作プログラムと言うのはウィルスのようなモノなのか?」

 ふと、レビンが口を挟むと、その時になって漸く、男はそこに光太郎と惟貴以外の人物が居たのかと初めて気づいたように眉を上げ、それから興味もなさそうに首を傾げて見せるのだ。

「はあ?なんだそれ、よく判んないな。俺はコータローくんの動画の拡散が怖かったから、それを止めるためのプログラムを作ったんだ。それだけだ」

「あなたは僕の動画を持っているんですか?」

 レビンに素っ気なく答えた男は、小首を傾げる光太郎には穏やかに頷いて答えた。

「何を言ってるんだ?当たり前だ、俺は馬鹿みたいに大事なモノは拡散しようなんて思わない…それに、何度見てもやっぱりアレは拙いと思っているし」

「拙いですか」

「そう、拙い。どうしてお前は俺の名前を呼ばなかったんだ?」

 ふと、ムスッとしたように話していた男は、赤みを帯びた金髪に人工的な光を反射させながら、不思議そうに首を傾げて無害そうな小動物を思わせる黒髪の日本人を見詰めた。
 その仕種に何故か図らずも胸の辺りがドキリとしたが、その意味が光太郎には判らなくて首を傾げながら眉を寄せてしまう。

「えーっと…でも、僕はあなたの名前を知りません」

「え?」

 不意に拘束されている身体を乗り出して光太郎を食い入るように見つめた男は、キョトンッとしながらもコクコクと頷いている光太郎に呆気に取られた顔をして、それから溜め息を吐きながら天を仰いで背凭れに背中を預けてしまう。

「…ああ、なんだそうか。俺のせいだったのか。セントラルパークで名乗ってれば良かった」

 ガックリしたように呟く男は、それからニコッと笑っている光太郎に目線を向けると、苦笑してやれやれと溜め息を吐いたみたいだった。

「俺はヒューゴだ。ヒューゴ・レオン・カーソン」

 不意に光太郎の背後が賑やかになり、彼が思わず振り返ると、ちょうどレビンがヴァルと連れ立って室内を後にする後ろ姿が鉄の扉の向こうに消えた。そして惟貴がメモに何事かを記入しながらスマホで何処かに連絡し、サモンズも同じように電話連絡に余念がない。
 何が起こったのかと目を白黒させる光太郎は、その時になって漸く、目の前の名無しと呼ばれる殺人鬼が何の衒いもなく自分に素性を明かしたことに気付いたのだ。

「あなたはここで名乗ってもよかったのですか?」

(だって、今まで頑なに素性を明かさなかったのに…こんなに簡単でいいんだろうか)

 光太郎は何故かそれがとても不安になっていた。
 被害者の為、兄や捜査官の為には彼の素性が判ることがどれほど重要か判っている。だが、何か思いがあって素性を隠していたに違いないのに、目の前で機嫌が良さそうに笑っている男は事の重大さに頓着していないように見える。
 光太郎は彼を庇いたくてそう思ったのではないが…この一抹の不安は何処から来るのだろうか。

「別に?コータローくんがこれ以上勘違いするようなことを言うぐらいなら、俺の名前を知っておいてもらうほうが随分と得策なんじゃないかと思っただけさ」

 肩を竦めて笑う彼は、本当にどうでもいいことだとでも思っているようなのだ。

「…はあ、じゃあカーソンさん、ええと」

「ヒューゴでいいよ、コータローくん」
 すぐに言い直されて名無しの殺人鬼と呼ばれるにはあまりにも不似合いな、穏やかそうな人好きのするヒューゴを見詰めて、それから光太郎もニコッと笑った。

「判りました。じゃあ、僕も光太郎でいいですよ」

 その言葉に、ヒューゴは最初面食らったような驚いたような顔をしたが、次いで、まるで花開くような笑顔を浮かべて、それから嬉しそうに頷いたようだった。

「そうか、じゃあ光太郎。今度はお前の話を俺に聞かせてくれないか?」

 驚くことにヒューゴは完璧な日本語の発音で光太郎の名前を呼び、それから、拘束衣を窮屈そうに身動ぎしてニッコリと笑ってみせた。
 まず光太郎はもしかしたら随分と長いこと自分の名を呼ぶことを練習していたのかもしれないヒューゴに驚くべきなのか、それとも、自分の何を聞きたがっているのかそのことに警戒するべきなのかと悩んでいたが、感情の入り乱れる複雑な表情をして、それから彼は降参するように苦笑して頷いたのだ。

「あなたは僕の何を聞きたいんですか?」

 観念したように微笑む光太郎の言葉にヒューゴはニッコリと頷いて、そして約束の時間をより延長したい為と、何より自分が明かした秘密への代償に満足して最初の質問をするのだった。