第一話 花嫁に選ばれた男 10  -鬼哭の杜-

 夕食に食いっぱぐれることなく主屋に戻った俺たちは、夕食までの時間をブラブラとして過ごしていたんだ。途中で高遠先輩にばったり会ったけど、気まずいのか、どちらも目を合わせずに通り過ぎようとして、擦れ違いざまに先輩から「このオカマがッ」と小さく吐き捨てられた時は正直少しショックだったけど、ムキィと腹を立てて牙をむこうとする繭葵の口許を押さえて、俺はサッサとその場を後にした。

「どうして黙ったままで逃げるんだい!?」

 向かっ腹を立てている繭葵が凄まじい形相で振り返るから、俺は肩を竦めて息を吐いたんだ。

「まあ、一般常識で考えれば仕方ないだろ?」

「ふん!判ったような顔してさ。それじゃ、蒼牙様だって馬鹿にされても仕方ないって、君はそう言うのかい?」

 繭葵が詰め寄るようにして俺を見上げてくる。
 言いたいことがよく判るから、俺は仕方なさそうに目を伏せた。

「そんなこと言っちゃいないさ。ただ、先輩は明日にはもう帰るんだ。こんなところで事を荒立てたって、却って蒼牙に迷惑をかけるだけだろ。今夜は大事な神事があるワケだし」

 な?っと目線を上げると、繭葵は納得がいかないとでも言いたそうな悔しそうな顔をして、高遠先輩が立ち去った方向に向かって思いっきりあっかんべーと舌を出したんだ。
 まるで子供みたいな仕種をした繭葵は、それでも憤懣やるかたないのか、俺に振り返ると。

「なんだよ、大人ぶっちゃってさ!臭いものには蓋をしろって?そう言う、事勿れ主義だから小雛に付け入られるんだよ!」

 俺の鼻面にビシィッと指先を突きつけてくる。
 う。
 なんだよ、繭葵のヤツ…

「話を…聞いてたのか?」

「ううん、別に。なんとなく、そうかなーって」

 思わずガックリしそうになった俺は、もういいから、飯に行こうぜと言ってプリプリと腹を立てている繭葵を促して広間に向かった。飯と聞くとこの、驚くほど好き嫌いのない健康優良不良爆弾娘は、コロッと今まで険悪だったムードを払拭すように機嫌がよくなるから…コイツってホント。
 広間に入って繭葵と顔を見合わせたのは、上座に蒼牙が面倒臭そうに胡坐を掻いて座っていたからだ。
 注目されることはとっくの昔に慣れているのか、気怠そうに片手で扇を弄びながら、肘掛に頬杖をついて立て膝で座っている蒼牙は、浴衣の裾から素足を覗かせていて、ガラにもなく俺はドキッとしてしまった。
 巫女装束の時もそう思ったけど、蒼牙は確かに綺麗だと思う。
 ただ綺麗ってだけじゃなくて、なんと言うか、危うさが常に漂っているような、傍にいて腕を掴んでいてやらないとどこかに行ってしまいそうな、そんな物憂げな雰囲気がある。
 まあ、どう言ったってよく判りゃしないんだけどなー

「光太郎くん!…蒼牙様、どうしているんだ?弦月の儀はどうしたんだろう。あ!まさかもう、終わったとか!?」

 メチャクチャ動揺する繭葵に、俺はいつもの席に繭葵と一緒に腰を下ろしながらコソッと耳打ちしたんだ。

「バッカだなぁ。飯時にいなかったらすぐに弦月の儀の時間帯が俺たちや先輩たちにバレちまうだろ?だから、食事とか風呂には入ると思うぞ。たぶん、ホントに弦月の儀が行われるのは…真夜中じゃないかな」

「…そうか、弦月の儀。つまり、呉高木家の神事は月に左右されるんだったね。月が真上に来る真夜中…そう考えれば合点がいくね。光太郎くん、あったまいーじゃん!」

 お前のことだ、俺の脳味噌なんかスカスカで、聞いた端から耳やら鼻の穴から零れ落ちてるとでも思ってやがってたんだろ。俺だってこう見えても、イロイロ考えてるんだぞ。
 繭葵は相変わらず失礼なヤツだなー
 そんなことを考えながらチラッと蒼牙を見たら、ヤツは扇で遊びながらこちらをジッと見詰めていた。
 だから、俺がドキンッとして顔を真っ赤にしたとしても何も問題はないと思うし、そんな俺を蒼牙がニッと笑う方がおかしいんじゃないかと思うんだけど。
 いつもは人目なんか憚りもせずにこっぱずかしい台詞をガンガン並べ立てるくせに、今日の蒼牙は殊の外静かだった。
 俺の大嫌いな魚料理に黙々と舌鼓を打っているし、半分以上残してる俺に対しても別に身体を気遣うようなこともなかった。まるで別人みたいだと思って眉を寄せながら庭に出ると、空にポッカリと下弦の月が浮かんでいる。月齢20歳、旧暦名だと二十一夜になる半月、今夜、何が起こるんだろう?
 弦月の儀とは、いったいどう言うものなんだろう。
 別に、それほど気にもしていなかった呉高木の神事が、唐突に気になりだしてしまったのは、それはたぶん、俺の中の本心が花嫁になることを受け入れてしまった証で、そして、小雛の言葉のせいなんだろうと思う。
 何より、桂の話では普通の朔の礼、つまり婚礼では『弦月の儀』は執り行われないんだそうだ。蒼牙のお袋さんで、桜姫のときも『弦月の奉納祭』しか執り行われなかったらしい。特別な時にだけ執り行われる神事は、呉高木家の歴史では遠い昔に、一度あったのを最後に現在までは誰も行っていない。昔は比較的よく執り行われていたらしいんだけど、現代に入ってすっかり鳴りを潜めていた『弦月の儀』を、蒼牙はどうして執り行おうなんて思ったんだろう…まあ、俺なんかが考えたって判るもんじゃないんだろうけどな。

「楡崎様。夜風はお身体に障ります。どうぞ、屋敷にお戻りくださいませ」

「桂さん。うん、でもさ。月が綺麗なんだよ」

 俺の身体を案じてくれる、蒼牙の影のように付き従う桂に振り返りながら、天空にポッカリと浮いている半月を指差しながら小さく笑った。すると桂は縁側に正座したままでハッとしたような顔をしたけど、すぐにもとのポーカーフェイスに戻って微かに頷いたんだ。

「月は時に人を惑わせてしまいます。楡崎様のお姿がお隠れあそばせば、蒼牙様がお気に病みますのでどうか、屋敷にお戻りくださいませ」

 そうか、今夜は大事な神事があるもんな。
 それでなくても大切な神事があって神経がピリピリしているときに、俺がウロウロしてたら気になって仕方ないんだろう。桂は表情こそ変えないけど、心配そうなその気配を、迷惑そうだと思い込むのは天邪鬼な俺の悪いクセだ。

「あー、はいはい。判りました、戻りますよ」

 桂が幾分かホッとしたような表情を見せたから、どうしてそんなに心配するんだと首を傾げてしまう。
 まあ、昨日逃亡としたときも、夜はヤバイと蒼牙も心配していたから、こんな妖怪でも徘徊してそうな村なら何が起こっても不思議じゃないんだろうがな。
 小手鞠の正体を知ってしまえば、素直に桂の言うことを聞くほうが賢明だとは思う。
 あ、それとも。
 昨夜俺が逃亡したから、また逃げ出すんじゃないかって心配してるのかな?拙いことをしちまったなぁとは思うけど、あの時はああするしかなかったんだ。それに!そもそも蒼牙が悪いんだ!勘違いするようなこと───…そう言えば。

「そうだ、今日の蒼牙はちょっとヘンじゃなかったか?桂さん、アイツ。本当に蒼牙だったのか??」

 首を傾げる俺に、はて?と言いたそうな顔をした桂は、ああ…と思い至ったのか、畏まって正座したまま首を左右に小さく振って答えてくれた。

「奉納祭を終えてから神事を執り行うまでは、嫁御さまと言葉を交わすのは禁じられているそうでございます。なので、蒼牙様は楡崎様がお食事を召し上がっておられなかったのを大層心配してお出ででしたが、お言葉に出来ないと悔しがっておられました」

「そうだったのか!…なんか、神事ってイロイロあって大変なんだなぁ」

「世にも得難い嫁御さまを娶られますので、それは致し方ない試練でございます。蒼牙様は喜んで臨まれてお出でだと思いますよ」

 蒼牙が言わなきゃ桂が言ってくれるこっぱずかしい台詞に、俺は頬が熱くなるのを感じながら困ったように苦笑してしまった。

「楡崎様。蒼牙様からの言伝でございます。今宵は仕事部屋に篭もられるそうですので、お先にお休みになってくださいとのことです」

「え?ああ、そっか。はい、判りました」

 俺が素直に頷くと、桂は小さな微笑を口許に浮かべて深々と頭を下げたんだ。
 この人のこう言うところって、なかなか慣れないんだけど、その微かに見せるようになった微笑は、案外お気に入りだったりするんだ。
 もっと笑ってくれたらもっと親しみ易くなれるのに、でもそれは、ポーカーフェイスが専売特許の桂としては、執事の鑑のような彼には無理なことなんだろうなぁとは思うから、無理強いはしたくないけどな。
 広間はお手伝いさんたちが片付けを始めていたし、不機嫌のオーラを漂わせていた高遠先輩は時折ギロッと蒼牙を睨んでいたけど頭から無視されて、さらに湯気でも出そうなほど腹を立てて民俗学研究部の仲間を引き連れて早々に部屋に引き揚げてしまっていたし、伊織さんも眞琴さんもさっさと部屋に戻ってしまったようだった。残されているのはお手伝いさんと、俺が食べ残してしまった魚を物欲しそうに見ていたら、見兼ねたお手伝いさんが台所にあったらしいお菓子をくれるのを喜んで戴いている繭葵ぐらいか…

「大概、食い意地が張ってるよな」

「うっさいね。魚を半分以上も残す光太郎くんには言われたかないね」

 フンッと外方向いてムシャムシャと饅頭を頬張る繭葵に、なんだと、この野郎と睨んでいると、クスクスと笑う声がして振り返ったら、手を止めてしまっていたお手伝いさんたちが慌てたように作業を再開するから、俺は肩を竦めながら意地汚い繭葵を指差して言ったんだ。

「コイツに餌付けしたら駄目だよ。懐かれるからな」

「えー、いーじゃん。いつも食後のお菓子は貰ってるもんね♪」

 繭葵が反論するように言うと、引っ込み思案なのか、それとも俺と口をきいてはいけないとでも思い込んでいるのか、お手伝いさんたちは顔を見合わせると、恐る恐ると言った感じで口を開いた。

「はい。繭葵様にはいつも、残り物で申し訳ないのですがお菓子を差し上げています。ですが、迷惑ではありません」

「え?そうなんだ。じゃあ、俺にも頂戴よ」

 エヘッと繭葵を見習って笑ってみると、妖怪娘は「むむ!?ボクの専売特許を取ったね!父さんだって取ったことないのに!!」と、どこかで聞いたことがありそうな台詞を言いやがるから、お手伝いさんたちは肩を寄せ合うようにしてクスクスと笑ったんだ。

「私たちのくわっしゃるもんで宜しければ、ようけありますから、嫁様もどうぞたべなっしてください」

 この村の方言なのか、蒼牙たちが標準語で話しているせいで少しも気付かなかったけど、聞きなれない言葉で話す彼女はニコニコ笑いながらエプロンのポケットから紙に包んだ饅頭を取り出して両手に包み込むようにして俺に差し出してきたから、俺は礼を言ってそれを受け取った。

「ありがとう。丁度甘いものが欲しかったら嬉しいなぁ」

 笑いながら早速口にすると、どうもそれは手作りのようで、合成甘味料の使われていない自然の甘さは、ほろほろと口の中で溶けていく。一言で言うなら、正直旨い!
 さすが、繭葵。食い意地が張っている分、旨いものは見逃さないと言うことか。

「旨いなー、これ。繭葵が内緒で餌付けされてるワケだ」

「む!人聞き悪いこと言うじゃないか。どーせ、光太郎くんもその味を覚えたらメロリンになるんだからねー」

「もうなってます」

「うは♪」

 俺たちの会話を聞いていたお手伝いのお姉ちゃんたちはクスクス笑ってるし、俺に饅頭をくれた子も嬉しそうに頬を染めながらニコッと笑った。

「それは私が作りましたけ、毎日ようけあります。嫁様にも差し上げます」

「ホント?いえー、やったぜ♪」

 そう言って親指を立てながら繭葵を見下ろすと、ヤツは胡乱な目付きで俺を見上げながら、クッソーッと言いたそうに歯を剥いていたけど、すぐにニシシシッと笑いやがったんだ。

「ね?食後に部屋にすぐ戻るんじゃなくて、ここにいたらこんな美味しいデザートに有りつけるんだよ♪新発見におっどろきだね!」

「だなー」

 そんな遣り取りをお手伝いさんたちは互いの顔を見て笑いながら、そろそろ部屋の片付けに取り掛かったから、俺たちは邪魔にならないようにお礼を言って広間を後にした。

「じゃあ、真夜中…そうだね、でもやっぱり確実に神事を見たいから、11時半に集合しようよ」

「ああ。一風呂浴びて、散歩がてら小手鞠たちのところに行ってみるよ」

「コテマリ?」

「ああ、あの地蔵さん…」

 そうか、繭葵は知らないのか。
 そりゃあ、そうだな。この民俗学のことしか頭にない爆弾娘に小手鞠たちの正体でもバレようものなら…うわ、想像しただけで鳥肌が立っちまった。

「地蔵がコテマリって名前なのかい?」

「…いや、ごめん。間違えた」

「んー?なーんか、怪しいなぁ。光太郎くん、ボクに何か隠してない?」

「いや?別になんにも」

 空惚けて知らん顔すると、繭葵は回り込むようにして俺の顔を見ようとしていたけど、どうしても外方向くもんだから悔しかったのか、「とお!」と言って向こう脛をまたしても蹴りやがったんだ!

「いってー!!」

「そりゃ、痛いよ。痛いように蹴ったんだ。だがまあ、今回の件は光太郎くんの痛がる顔を見られたから許すけど、この繭葵ちゃんに隠し事なんてナッシンよ!」

 お前はどこの何様だよ、くそぅ。

「じゃあ、11時半に絶対だからね!」

「はいはい、必ず行くよ」

 じゃないと、お前1人で行かせたら絶対!何か良からぬことが起こるって嫌でも予感がヒシヒシしてるもんな。絶対について行かないと、いや、ついて来るなって言われてもついて行きたい気分だぞ。
 最初は嫌だったんだけど、繭葵を1人ってのも怖いしなぁ。
 知ってて知らないふりなんて、やっぱり俺にはできないから。
 それじゃあね、と言ってから、繭葵はまるで野兎のような敏捷さでサッサと何処かに消えてしまった。
 アイツ、いつもどこに行ってるんだ?
 なんにせよ、ここは妖怪も住まう奇妙な屋敷だ。
 繭葵が調べたいことなんか山ほどあるんだろう。
 厄介なことにならなきゃいいんだが、とか思いながらも、何処かでワクワクと楽しんでいる自分がいることもまた事実だから…俺は、仕方なく溜め息を吐くんだ。
 俺も大概、野次馬だよなってさ。

 小手鞠たちがジーッと俺を見上げている。
 屈みこんで自分の腿に頬杖を付きながら見下ろす小手鞠たちは、小さな石の身体を寄せ合うようにしてニコニコと笑っている。でもよく見ると、その笑顔が困惑してるのか、月明かりの下だと劇画ちっくで不気味だ…

「今夜は喋ったらダメなんだぞ。繭葵のヤツが来るからな。そうしたらお前たち、あの妖怪娘に石の髄までしゃぶり尽くされて、学会で発表されたら一生見世物扱いだ」

『うぬ、嫁御よぉ』

『儂らを見世物にできる者など誰もおらんのじゃぁ』

『その妖怪娘とやらをのぉ』

『儂らが喰ろうてしまうぞぉ』

『ふぉっふぉっふぉ』

「だから、笑い事じゃないんだって」

 一部で聞き捨てならない台詞に眉を寄せながら、付いていた頬杖を解いて溜め息を吐いて立ち上がると、やっぱり小手鞠たちはジーッと笑顔で俺を見上げてくる。

『時にのぉ』

『嫁御よ』

 やれやれと眉を寄せながら、繭葵が来るまでになんとかこの判らんちんの小手鞠たちを言い包めようと企んでいる俺は、にこにこ…と言うか、困惑したような劇画顔でニタリと笑っている地蔵の群れを見下ろしていた。

「な、なんだよ?」

『こんな夜更けに散歩かのぉ?』

『桂の姿が見当たらんがのぉ』

 ギクッとした。
 そうか、昨夜も俺は逃亡して小手鞠たちに心配かけたんだった。
 あの時は頭が痛くなるほど泣いて、泣いて泣いて…もう、何もかもどうにでもなれって思ってたら、小手鞠がぴょんぴょん飛び跳ねながら上から降りてきたんだっけ。
 それで俺を取り囲んだんだ。
 何があったんだって、泣いてる俺を随分と心配してくれて…困ったな、また、小手鞠たちに心配かけてしまうんだなぁ。

『じゃがまぁ、今夜は泣いておらんのぉ』

 良かった良かったと言いたそうに顔を見合わせて笑う小手鞠たちに、俺は申し訳なく思いながら苦笑していた。何か言おうと口を開きかけた時だった、慌てたような足音が響いてその瞬間、小手鞠たちはまるで地蔵なんじゃないか!?と疑いたくなるほどコチンッと硬くなって、そのままムッツリと黙り込んでしまった。
 思わず突きたくなったが、肩で息をしながら大袈裟にゼィゼィ言ってる繭葵を見下ろしたら、小手鞠たちにちょっかいを出す気なんか失せてしまっていた。

「ご、ごめ!出掛けにさぁ…はぁ、疲れた。伊織さんから呼び止められちゃって。全力疾走で走ってきたよ」

「お前なぁ、そこまで飛ばさなくてもまだ充分、時間はあるはずだろ?」

 そう言って見上げた空には、下弦の月がポッカリと頂点に来ることもなく浮かんでいる。
 その姿は清廉な光に輝きながら、まるで無頓着に、俺たちなんか本当にちっぽけな存在だなぁと思わせるほど、淡々と浮かんでいるからちょっと哀しくなった。
 欲望の多い人間は、その高みに近付くことすら出来ないんだなぁ。
 月に降り立った宇宙飛行士は、その実態すらあやふやなんだから、人間は今一歩で立ち止まってしまうからいけないんだろう。

「…で、そうなるんだよ。ボクの狙いだとね」

「あ?あー、ごめん!聞いてなかった」

「グハッ!やっぱりそうじゃないかって思ったんだよね!なんか上の空っぽかったし、最近どうしたんだい?ボーッとしてることが多いみたいだけどさぁ」

「いや、なんでもないよ」

 そうは言ったが、良く考えるとホントにボーッとすることが多くなったような気がする。
 きっと、この村がいけないんだ。俺を花嫁として本気で迎えるなんて…誰か、誰かが反対してくれれば、今頃その傍らに寄り添っているのは小雛だったのに。
 あ、そっか。
 直哉は反対したってのになぁ。
 唇を噛んだら、呆れたように繭葵が溜め息を吐きながら見上げてきた。

「また下らないこと考えてるんだね。でも、今夜はもう相手にしないからね!今日は待ちに待った『弦月の儀』だよ!!ほら、ボサッとしてないでついて来るッ」

 ボグッと、何やら鈍い音を立てて背中を殴ってきた繭葵に、俺は思い切り咳き込みながら涙の霞む目であの健康優良問題児を睨み付けながら、サッサと山の中を掻き分けて入っていく唯我独尊娘の後を慌てて追ったんだ。
 その背後でふと、小さな声が聞こえたような気がした。

『嫁御が弦月の儀に向かう』

『なんたることか…いや』

『或いは罪深い龍の子』

『侮れぬ龍の子』

『致し方あるまい、見守るのじゃ』

 呟きは突風に吹き消されて、俺の空耳でしかなかったのかもしれない。
 いや、そんなことよりも、早いところ繭葵に追いつかないと。
 俺は暗闇の中、繭葵が持参した懐中電灯の明かりを頼りに奥へ、さらに深い山の奥へと、まるで永遠にぽっかりと開いている無限の闇の中に飲み込まれるような錯覚がして、思わず身震いしてしまった。

「ふふーん♪今から震えてたら吃驚することが起こったときに腰を抜かしてしまうよ」

「ふ、ふん!これは武者震いだ」

「へー、そう言うことにしといてやるよ♪」

 どうだかねーと言いたそうにニヤニヤと双眸を細める繭葵に、本当だってばと言い訳しながら、俺はひょっこりと毒蛇でも顔を出してくるんじゃないかと冷や冷やしながら歩いていた。
 ふと、躊躇いもなく真っ直ぐに進んでいた繭葵が、そのまま歩きながらポツリと口を開いたんだ。

「光太郎くん。今回は巻き込んでしまってごめん」

「へ?なんだよ、突然。急にしおらしくなったらビビッて腰抜かしちまうぞ♪」

 唐突な繭葵の声音の低さに、ふと、何か嫌な響きを感じたような気がして殊更俺は、明るく振舞ったんだと思う。
 繭葵はそんな俺に溜め息を吐いたけど、それでも毅然と前を見据えたままで言ったんだ。

「光太郎くんは何も知らないのに…ボクはきっと、蒼牙様に殺されてしまうね」

「な、何言ってんだよ?そんな、改まるなよ」

 繭葵の声音は低かったし、その言葉はとても慎重だった。
 こんな山の中でそんな物騒なこと言ってくれるなよ…と、俺が思わずにはいられないってのに繭葵のヤツは、それでも黙ろうとはしないんだ。それならいっそ、もっと楽しい話をして欲しい。

「あのね、光太郎くん。この山は通称、『鬼哭の杜』って言われてるんだ」

「山なのに、杜なのか?」

「うん、だってここは巨大な神社だからね」

 神妙に頷いて小さく笑う繭葵に、自分のボキャブラリーのなさにバツが悪く思いながら、俺はもう黙って彼女の話しに耳を傾けることにした。
 繭葵は少し言葉を詰まらせて、眉間に皺を寄せながら首を傾げている。

「その意味がどんなものなのか、ボクには判らないんだけど…『鬼哭』と言われるぐらいなんだから、何だか凄惨なイメージって浮かばないかい?」

 そう訊ねられても単純な俺の脳味噌だと、周囲を見渡しても、毒蛇だとか薮蚊とかさえ気にしないんでよければ、それほど陰鬱なイメージを感じることはできなかった。

「いや、言葉だけならそうかもしれないけど。俺はこの山は好きだけどな」

「好き嫌いの問題じゃないってば。うもー、ちゃんと言葉の意味判ってんのかい?」

 失礼なヤツだな!…と、俺は肩を並べて道とも言えない獣道を、ああスニーカーを履いてきていて本当に良かった!と心底思いながら、草木を揺らしてムッツリすると、繭葵のヤツは仕方なさそうに鼻先で笑いやがったんだ。
 とことん、失礼なヤツだ。

「この村は驚くことばかりだよ。ちょっと話せば親しみ易い人ばかりなのに、核心に触れた話しをすると途端に擦り抜けて行くんだ。まるで、そうだね。まるで、余所者には用はないって言われてるようで悔しいよ。その点で言うなら、光太郎くんはもう呉高木のお嫁さんだから、もしかしたらこんなことしなくても蒼牙様が弦月の儀について説明してくれたかもしれないのに。ごめん」

 繭葵は一気にそこまで話すと、申し訳なさそうに、まるで溜め息みたいに語尾を呟いたんだ。

「謝るなよ!ハッハ、最初からヘンな出会いなんだしさ。俺たち、どーせ悪さして見付かるのは運命共同体なんだぜ?グチグチ思い悩むのは繭葵らしくねーよ」

 そう言って軽くその背中を叩いてやると、繭葵はちょっとキョトンッとして、それからどこか痛そうな、ムスッとした顔をして俯いてしまったんだ。
 うわ、俺ヘンなこと言っちまったかな?
 慌てて弁解しようと言葉を探していたら、繭葵のヤツは子供みたいに唇を尖らせると、俺の背中を、俺が叩いた3倍にして殴り返してきやがったんだ!グヘェ!!

「イッテーなもぅ!お前は手よりも先に口は出せないのかよ!?」

「こう言う性格なんだ、仕方ないでショ?光太郎くんって凄い親しみ易いって思ってたんだ。話せば話すほど魅力的だし。強ち、ボクが朝に言ったことは嘘でもないんだよ」

 ん?朝に言ったことって…あの、俺を好きだとかなんだとか言う話か?
 また、コイツ特有の冗談が始まった。

「ボクは光太郎くんが好きだよ。でもそれは、友人としてなんだ。だって君は…」

「俺は?」

 いつもだ、いつもここで話が途切れてしまう。
 あの時もそうだった。
 繭葵が何か言いかけたとき、眞琴さんがさらりと止めてしまった。
 でも、いまは期待なんかしちゃいない。
 どうせ繭葵のことだ、だって光太郎くんは蒼牙様のお嫁さんだもんねーとかなんとか、そんなことでも言い出すんだろうと高を括っていたから。

「君は、欧くんにソックリだからね♪もうね、あの子も抜けてて困るんだよ。大事な資料とか平気で忘れてくるし、ボクがいないと今日からでも生きていけないんじゃないかって思ってさ。お人好しでどんなことにも心を砕いて…絶対、振り込め詐欺に引っ掛かるタイプだよ」

 ハァッと溜め息を吐いて頭を左右に振る悩める繭葵には悪いが、俺はその話題になっている欧ってヤツが可哀相になっていた。
 コイツといれば振り回されっぱなしなんだ、そりゃあ、随分とお人好しなんだろうなって思うよ。
 繭葵と一緒に行動ができてるぐらいなんだからな。

「…そんなに心配してるのに、欧ってヤツは置いてきぼりか?」

 ニヤニヤ笑ったら、繭葵のヤツはムーッと下唇を突き出すようにして俺の顔を見上げてきたんだ。

「ボクは曲がりなりにも花嫁候補だったんだよ?男である欧くんを連れて来るワケにいかないじゃないか。欧くんはついて来たがっていたんだけどね」

 その口調は、どうやら繭葵もついて来て欲しかったようだ。
 それでなんとなく、本当は繭葵のヤツは『生涯独身宣言!』なんて馬鹿なこと言ってたけど、その欧と言うヤツに惚れてるんじゃないだろうかと…勝手に妄想してしまった。
 そうして考えると、この勝気そうな瞳をした、真っ暗な闇が支配する山の中で、やけに物騒な『鬼哭』なんて発言する豪胆振りを窺わせはしているとしてもだな!…やっぱ、女の子なんだなぁと思ってしまう。
 よく見れば身体も小さくて、肩も驚くほど細いし…そんなことを俺が考えていたら、繭葵のヤツは軽く息を吐き出してフイッと視線を外してしまったのだ。

「くっそー、ここにアイツがいたら、光太郎くんを抱えさせてもっと早く進めるんだけどなぁ」

 ああ、利用してるだけなのか。
 そうか、少しでも繭葵に女らしさを求めちゃいけなかったのか。
 頑張れ、俺。
 ひっそりと笑いながら拳を握ったら、不意に足を止めた繭葵に思わずぶつかりそうになって俺は慌てて謝ろうとして、問題娘に「シッ!」と片手で制されてしまった。
 小さな身体ではあるがそのぶん小回りが利いて、フットワークのよさはぴか一だ。

「どうやら、本番には間に合ったみたいだね」

 そう言ってニヤリと笑った繭葵に倣って腰を屈めようとして、ふと、繭葵が草や木の影に隠れながら睨むようにして見詰めている先を見て驚いた。
 そこには、夕方に見た巫女装束とは違う、まるで平安時代の着物とでも言えばいいのか、真っ白なのに銀糸で彩られた着物は月明かりの下で幻想的だった。なのに、その顔をスッポリ覆ってしまった白頭(しろがしら)…まあ、能とかで蓬髪に般若の面(おもて)の、良くある赤い髪じゃなくて白髪バージョンのことなんだけど、専門用語は繭葵が興味深そうに教えてくれた。
 その目付きは爛々としていて、なんだか訊ねるのが申し訳なく思ってしまう。
 だってさ、すげー楽しそうなんだ。
 俺にしてみたら、こんな真夜中、篝火と月明かりだけで観客もいない舞台で舞を舞うなんかどうかしてると思うんだけどなぁ…

「違うよ、光太郎くん。あそこには、この村の龍神が舞い降りてるんだよ。だから、誰にも見せてはいけない能楽なんだ」

「へ?」

 コソコソと覗き見している身の上としては極力聞こえないようにひそひそと話してくる繭葵に、俺は眉を顰めながらその顔をチラッと見た。あそこのどこに、そんなご大層なヘビもどきがいるってんだ?

「祝言能にしてはヘンだね。高砂でもないし、あれは…岩船?それとも…春日龍神かな。どちらにしても、あの能楽の演目、ボクはまったく見たことがない。ってことは、あれが代々呉高木家に伝わる曲目なんだね」

「そ、そうなのか?」

 ポンポンッと聞き慣れない名前が次々と出て俺が戸惑っているからって、脳味噌がスカスカなんて笑うなよ?どうせ、今の繭葵の台詞を聞いてるヤツがいたとして、その半分だって理解してないんじゃないかって思うしな。

「曲目は『鬼哭の杜』。そんなの初めて聞くよ」

「あれ?その名前って…この山のことだよな」

「うん、たぶんそう。シテは蒼牙様だよね、やっぱり」

「シテ?」

「主人公のこと」

 軽く答える繭葵にそうかと頷いて能を舞う蒼牙に目線を移したとき、どうしたんだろう、俺はゾクッとしていた。
 蓬髪に埋まるように見える鬼の面をつけた蒼牙と、こんな草叢に身を潜めてビクビクしながら見ている俺の目が、まさか合うなんてことは…起こり得ないだろう。
 そんな有り得ない錯覚に冷や汗を浮かべた俺は、きっとアレだ、コンサートなんかで歌手と目が合うって言うあの現象だ。
 そうに決まってる。
 自分に言い聞かせるようにして気を落ち着かせた俺は、あの鬼の面の向こうからこんな所まで見えるわけがないんだと思い込んだ。
 だってさ、面に開いている視界のための穴って、驚くほど小さいんだそうだ。
 恐る恐る真剣に見ている繭葵に聞いたら、上の空でそう教えてくれた。

「そうか…流れはきっとあの舞が…」

 ブツブツと呟きながら眺めている繭葵を見ていると、どうやら、この『弦月の儀』は繭葵にとっては本当に興味深くて、どうしても見ずにはいられないぐらい魅力的なものだったんだろう。
 んー…この民俗学に於いては自分こそが神だとでも思っている唯我独尊問題児が、まるで知らない演目を蒼牙が舞っているんだ。そりゃあ、見たくて仕方なかったんだろうな。
 鬼哭の杜…か。
 それにしたって、ゾッとしない曲目だな。
 亡者の嘆き哀しむ声って意味だったよな、確か。
 亡者の嘆き哀しむ声のする杜…ってのも、なんか嫌な通称だなぁ。
 俺はこの山は好きなのに、こんなに清々しくて清廉とした静けさを持つ綺麗な場所なのにな。どうして呉高木の連中はこんな綺麗な場所で、そんな寂しい演目を舞うんだろう?

「…あ!子供が出てきたよ。ふーん、在り来たりといえば在り来たりなんだけど。時の帝が治める朝廷で叛乱が起こった。そこにいた近衛府の武士が、命辛々逃げ出して山村に下る。そこで鬼に間違われ斬り殺されたことを怨んで、とうとう怨念の塊に成り果てた武士が、村人たちを山中で惨殺していく。でもある時、村の娘が許しを請うんだけど。その時鬼になった武士は娘の胎にいた子を差し出せ、その子供の血を差し出せばなんでも一つ願いを叶えてやる。たとえば、村を救う…とか。そんな内容みたいだね。で、今、子供が元服を迎える年になったんだよ」

「…やっぱ、こう。お祝いの能なんだから、最後はその子供に助けられて、武士は救われる!…とかじゃなさそうだな、あの雰囲気は。うわ、俺見たくないなー」

 繭葵の長ったらしい説明をそれでも俺は興味深く聞いてたけど、僅かでもこの凄惨そうな演目に希望でもありやしないかと期待してみていたんだけど、怯えたような寂しそうな、そのくせ、覚悟すら決めているような気丈な眼差しをした少年が舞いながらシテ柱、えっと大きな舞台の向かって左奥にある柱の辺りに座り込んでしまったのを確認したら、どうも俺の考えは浅はかだったと思い知らされてしまった。

「なに、ホントに殺されるわけでもないのにヘンな顔してるんだい?光太郎くんがそんなに
感化され易いなんて───…ッ!」

「ッッ!!!」

 お互い、悲鳴を上げなかったのは天晴れだと思う。
 それもそのはずだ、気付けば俺たちは互いの口を押さえ合っていたんだ。
 悲鳴が息と一緒にコクンと咽喉の奥に嚥下されたとしても、俺たちは目の前の凄惨な光景から目が離せないでいた。
 覚悟を決めたように瞼を閉じた少年の頚にスラリとした、真珠色の月の光を反射させる綺麗な人殺しのための道具、刀が押し当てられていた。それで、演技なんだから終了じゃないのかよ!?って、思わず喚き散らしたくなったのは、蒼牙が躊躇いもせずに少年の頚をその刃で切り裂いたからだ!
 咽喉がパックリ割れて、鮮血が吹き零れた。
 頚動脈が断絶されて、止め処なく溢れる血液は蒼牙の真っ白な蓬髪と白い着物を真っ赤に染め上げていく。それでも蒼牙は何事もなかったかのように舞って、娘役の眞琴さんが至極当然のように、悲しげな女性の面をつけて舞いながら登場すると、その吹き零れる血を壷に受けて着物の袂で涙を拭うような仕種をしながらゆっくりと橋掛かりを渡って鏡の間に引っ込んでしまった。
 バクバクと心臓が飛び出しそうなほど動揺している俺がハッと繭葵を見ると、さすがに蒼褪めた彼女は額にビッシリと嫌な汗を浮かべたままで食い入るように舞台を睨んでいる。
 渇いてしまうんだろう唇を、何度も何度も舐めていた。
 きっと、今の俺もそうだ。

「冗談…だよな?」

「演技だって…信じたいね」

 少年の身体から生命の名残りのように流れ落ちていた血液でべったりと着物を真っ赤に汚したまま、彼はふらふらと何度か上半身を揺らして、それからガクリッと倒れ込んだんだ。ジクジクと板張りの床に染み渡るようにして流れて行く少年の生きた証は、まるで無情な鬼そのままのように、蒼牙は踏み締めて少年の周囲で扇を翳して舞っている。
 あまりに無頓着で、無関心な冷たい月のような姿は鬼の役としては上出来なんだろうが、見ている俺にとっては心臓がつぶされるような思いだった。
 そうして般若の形相で舞を演じていた蒼牙に、ふと、最後の名残りのようにガクガクと震える指先を伸ばした少年が、ヤツを見上げて何かを呟いたとき、蒼牙は微かに頷くような仕種をしていた。それにホッとしたような少年がガクリと倒れると、蒼牙は躊躇いもせずにその背中に留めでも差すように刀を突き立てたんだ!
 信じられない。
 ああ、とても信じられることじゃない。
 目の前が真っ赤になったような気がして、何か、これは遠い世界で起こっている非現実的な嘘なんじゃないかって…
 だって蒼牙が、人を…それも年端も行かない子供を…

「う、うわぁぁぁッ!ひ、人殺しだぁぁぁッッ!!」

「キャーッ!」

 俺たちとは反対の茂みに隠れていたのか、高遠先輩とあれは…確か香織とか言う先輩の連れだ。
 腰を抜かしたようにしてヘタれる彼女の腕を掴んで立たせながら、先輩は猛然と山の中に走って行った。その後ろ姿を…あれは、桂じゃないか!
 内容は知らないとか言いやがって!!
 桂が腰に差した鞘から抜刀でもする勢いで飛び出そうとしたが、ふと、鬼の面をゆっくりと外した蒼牙がまるで光の加減のせいなのか、それとも篝火を反射して?どちらにしても、まるで金色に見える双眸を細めながらニヤリと笑ったんだ。

「捨て置け、桂。今宵は『弦月の儀』、鬼哭の杜の亡者どもが魂までも喰らってしまうだろうよ」

「ですが、蒼牙様…」

「ククク…物見遊山の鼠などどうでもいい。愛しい妻に、滞りなく神事が終わったと報告をしてやらねばな」

「…出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません、蒼牙様。光太郎様がお待ちでございます」

 桂が恭しく地面に直接膝を付きながら頭を垂れると、面と血塗れの刀を持った蒼牙は何がそんなに可笑しいのか、咽喉の奥でクククッと笑いながらゆっくりと背中を向けたんだ。

「高柳の息子の葬儀もしてやるんだぞ」

「畏まりました」

 平伏したままで桂が言うと、蒼牙はそれっきり振り返りもせずに仮設の舞台の橋掛かりを渡って鏡の間に姿を消してしまった。

「…た、大変だよ!光太郎くん、戻らないと」

「あ、ああ…判ってる」

 それでも膝が笑って思うように立ち上がれない、それは繭葵もそうだったのか、どれほど豪胆な気性の持ち主だとしても、繭葵も女の子なんだ。堂々とした殺人現場を見て気丈でいられるはずがない。
 ここは男の俺が確りしないと!
 笑い出す膝を叱咤しながら立ち上がった俺は、最後にチラッと舞台を肩越しに振り返ったけど、やっぱりあれが夢じゃないことを叩きつけるように、桂が事切れてぐったりとした少年を抱え上げて連れ出すと、他の呉高木の重鎮どもが舞台に飛び散ってしまった夥しい血痕を清め出していた。
 桂に抱えられた少年の、力をなくしてぶらぶらと揺れている血の気の失せた腕が、何故か脳裏に焼き付いて離れなかった。

「警察に…言うべきかな?」

 なんとか立ち上がってコソコソと山を降りる道すがら、繭葵がポツンッと呟いた。

「先輩たちが言うだろうから…明日には警察も来るさ」

「そっかな…さっき、蒼牙様が仰ってた言葉」

 覚えてる?と、眼差しだけで聞いてくる繭葵に、俺は息を呑みながら頷いた。
 もう慣れてしまっているはずの山道にそんなに息苦しくなるはずはない…から、きっとこれは、まだ動揺が収まっていないんだろう。

「鬼哭の杜の亡者ども…って、あれか?」

「うん。まさか、冗談だよね?」

 民俗学の中枢を担う期待の新星が、何を弱気な口調で言ってるんだよ!…って、励ましてやれたらよかったんだろうけど、ここは妖怪も棲みついてる奇妙な山だ。
 何が出てもおかしかないとは思うけど…それでも、一概には信じられない。

「なんとも言えないけど…取り敢えず、今夜は寝よう」

「う、うん。でも…光太郎くんは感情が顔に出易いから。蒼牙様に悟られないように気をつけるんだよ?」

「あ、ああ。任せとけ!」

 どこをどう歩いて下山したのかは判らないけど、俺たちは互いの顔を見合わせて必ず明日の朝日を見ようと約束し合った。どうしてそんなことしたのかは判らないけど、できれば、2人ともきっと、離れ難かったんだと思う。
 あんな場面を見せ付けられて、俺が平常で蒼牙の胸に抱かれて眠る…なんて器用なこと、きっとできないだろうと繭葵は心配しているんだろう。俺としては、トラウマにもなり兼ねないショックを受けたに違いない繭葵を、独りぼっちにするのが忍びなかったんだ。
 俺の空元気に一瞬困惑したような顔付きをした繭葵はしかし、それでも仕方なさそうに首を左右に振って溜め息を吐いたんだ。

「今夜はなんだかヘトヘトだね。眠れるかどうか判らないけど、眠れるんだったら、グッスリ眠ろう」

「あ、ああ。お前、大丈夫か?」

「なっ、に言ってんだよ、もう。ボクは光太郎くんの方が心配だよ。蒼牙様と夜明けまで一緒なんだからね?もうね、眠れるんなら寝る。それか、蒼牙様が来る前に寝たフリでもかましちゃえよ!」

 ウィンクされて、任しとけと反撃してやると、繭葵は少しホッとしたように溜め息を吐いて、それから名残惜しそうに別れたんだ。
 トボトボと歩いて行く繭葵の小さな背中を見送ってから、まだ動揺から立ち直れていない俺はそれでも、グッと拳を握り締めながら息を飲んでいた。
 きっと、大丈夫だ。
 そんな、途方もないことを考えながら、俺は鬼の寝室を目指すと震え出しそうになる両足を叱咤して歩き出していた。