第一話 花嫁に選ばれた男 11  -鬼哭の杜-

 月明かりに浮かび上がる純和風の家ほど怖いものはない。
 何故そう思うのか、俺には判らないけど、今目の前の状況を説明しろと言われればそんな答えしか浮かんでこない。まあ、今の心境がなんてこたない日本家屋に凄味を感じてしまってるだけなのかもしれないけどな。
 俺は溜め息を吐いてもう歩き慣れてしまった山道を下ると、特別に蒼牙の部屋に面した庭に続く抜け道から屋敷に戻ってきた。
 そう言えば繭葵のヤツはちゃんと戻れたんだろうな?確か、この家って夜は和風の厳つい木の門を閉めるんじゃなかったっけ。
 でも、繭葵のことだ。
 大方、子兎みたいにまたちょこちょこと秘密の抜け道でも見つけてるに決まってる。
 俺と違ってアイツは結構しっかりしてるからなぁ…まあ、問題は繭葵が推察したとおり、つまり『俺』ってワケだ。
 これから、あの血塗れの舞台で壮絶な笑みを浮かべて立っていた、あの鬼と対面しなくちゃいけない。
 ふと見上げたよく晴れた夜空に、下弦の月はどこか物寂しそうにぽっかりと浮いていて、その月を見上げていたら、どうして蒼牙はあんなことを仕出かしてしまったんだろうと不思議で仕方なかった。
 確かに、初対面はやっぱり蒼牙は鬼の出で立ちだったし、ただちょっとおかしいと言えば俺が巫女装束だったってだけなんだけど…それでも、あの時も、それからあの山で出逢った時だってお前、そんな恐ろしげな顔なんかちっともしなかったじゃないか。呉高木の当主と言う重圧にいつも凛と顔を上げていて、俺なんかじゃ到底、敵いっこないって思うほど、シッカリと未来を見据えた大人びたヤツだったじゃないか。
 ああ…でも、もしかしたら。
 その呉高木の伝統として何らかの事情で受け継がれてきた儀式だとしたら?
 蒼牙は何よりも呉高木を大切に思っているようだったし、まだたった17歳なのに、圧し掛かる責任を受けて立っちまったんだとしたら…それは果たして、本当に蒼牙だけの責任になるんだろうか。
 あんな子供に全てを任せて、安穏と胡坐を掻いている俺たち大人が、どうして平然としていられるんだ。
 だから俺は、さっき繭葵に「警察には…」って言われた時、ギクッとしちまったんだ。
 どうかしてるのかもしれないけど、警察には届け出たくなかった。
 俺はまだ、蒼牙のことを何も判っちゃいないし、この全てを蒼牙の肩にぶっつけて、それで平然と普通の暮らしに戻ることなんてできないと思ったんだ。
 もしかしたら、あの禁域に入るだけでも殺すと脅した蒼牙のことだ、今回の神聖な『弦月の儀』を穢した咎だとか何とか言って、俺も殺されるかもしれない。
 そう考えるだけで、鳩尾の辺りに何か冷たいものがヒヤリと落ちたような気がした。
 それでも、話を聞こう。
 蒼牙一人が抱えるにはあまりに事態は大き過ぎると思うし、そして何よりも、誰か一人ぐらいはアイツに「お前が悪いんじゃないよ」って大人がちゃんと伝えてやらないと。
 蒼牙はまだ子供なんだ。
 本来なら、両親の保護下で大事に大事に守られてるはずなのに…呉高木と言う大きな何か、得体の知れないものをその双肩に背負いながら、それでも毅然と立っていないといけない蒼牙の、その心は一体どこにあるんだろう?
 アイツの屈託なく子供らしく笑う顔を、俺は今まで見たことがあったかな。
 蒼牙を『鬼』に変えたのは一体誰だ?
 無頓着に放棄した身勝手な大人たち…なんだろうなぁ、やっぱり。
 俺はもう一度溜め息を吐くと、月明かりに照らされた庭を通り抜けて、明かりもついていない蒼牙の部屋に面した広縁に靴を脱いで上がった。
 上がったまでは良かったんだけど、さすがにやっぱり障子を開けるまでの勇気がない。
 俺の不在を、蒼牙はどう感じたんだろう。
 今、この部屋の中で、お前は何をしてるんだ?
 向かっ腹を立てて胡坐でも掻いて布団の上に座ってるのか?
 それとも…俺の不在に少しホッとしてたりするのか?
 疑問ばかりがグルグルと脳内を循環するくせに、これと言った答えは出てきちゃくれない。それどころか、実際は部屋に入りたくないもう一人の俺が、きっと往生際悪く偽善的に考え込んでいるフリをしてるんだろう。
 これじゃ、ダメだ。
 俺は意を決してへたり込んでしまっていた良く磨かれた廊下に立ち上がると、主を隠し込んでいるに違いない障子をスパーンッと思い切り小気味よく開け放ってやった。
 さあ、ジャでも蛇でも何でも来いだ!

「…?」

 勢い込んでいたくせにやたらあっさりと、その出鼻を挫かれてしまった俺はへたへたとよろけながら無人の室内に入り込んで、キチンと整えられている布団の上に座り込んでしまった。
 蒼牙はいなかった。
 俺を捜しに行ったとか?…いや、そんなはずはないな。それだったら、もっとこの屋敷が賑やかになってる。
 こんな風に静まり返ってるってのは、屋敷の中では今は何も問題が起こってないってことだ。
 じゃあ、蒼牙はどうしたんだ…

「あ!」

 そこで唐突に思い出したのは、食事の後、月を見る為に庭に出た時に桂に言われた言葉だった。

『蒼牙様は今夜、仕事部屋に篭もられるそうです』

 そうだ、蒼牙は今夜いないんだった。
 なんだ俺、あれだけ意気込んでたくせに、ホントはメチャクチャ緊張してたんだな~
 そのまま布団に倒れ込みながらハァ…ッと溜め息を吐いていたら、極度の緊張を強いられた俺の軟弱な脳細胞は、その太陽の匂いがする布団についウトウトとしてしまった。
 ここ最近、先輩の件だとか、花嫁の件だとか、弦月の事件だとか…あまりにもイロイロと起こりすぎてしまったせいで、それでなくても頭を使うのが苦手な俺なのに、よく今日まで持
ち堪えてると我ながら感心してるくらいなんだぜ。
 イロイロ…ホントに良く起こったもんだ。
 ウトウトと浅い眠りに沈みながら、それでも俺は考えていた。

(この村に来てから常識の範疇を超えたことばかり起こってる。そんな最中にいて、蒼牙は何を思ってるんだろう…)

 俺はふと、奇妙な夢を見た。
 暗い山の中、ともすればそれは裏山だったのかもしれないけど、とても珍しい青みがかった白髪の子供がトボトボと歩いていた。その手には、俺と蒼牙が初めて出逢ったあの場所に咲いていた、小さな白い花が握られていた。

(誰かにあげようとしたのかな)

 あれ、どうして俺、そんなこと思ったんだろう?
 不意に脳内に浮かんだ言葉に俺自身首を傾げていると、ふと、小さな男の子は立ち止まるとハッとしたように顔を上げて俺を見たようだった。

『こんな所で何してるんだ?お前は誰だ??』

 ちびでも相変わらず高圧的なものの言い方をするクソガキに、ムッとする俺はそのガキっぽさを必死で抑えながらたぶん、ニコッと笑いかけた。

『その花、綺麗だね』

 クソガキの質問には答えずに変態さん宜しくそう言ってやると、不思議な青い白髪の子供は自分の手の中にある花を、まるで今更気付いたとでも言うようにジッと見下ろしてから差し出してきたんだ。

『欲しいならやる。千切ってしまうのは可哀相だったんだけど、母様に差し上げようと思ったんだ。でも今日はお加減が悪いから…捨ててしまうのも可哀相だから、お前にやる』

 不貞腐れたように唇を尖らせるまだ本当に幼い子供は、年の頃、4つか5つぐらいで、そのくせ口調はまるで大人びていて…ああ、こんな時からお前、そんなに意地を張って生きてたんだなぁ。
 まだ、こんなに小さいのに。
 小さな手に握られていた花は、それでも瑞々しく咲き誇っている。
 この小ささで、花を『可哀相だ』と言えることができるお前は、なんだ、ちっとも鬼なんかじゃないじゃないか。
 差し出された花を『ありがとう』と言って受け取ったら、小さな青白髪の蒼牙は、不思議そうな顔をして俺を見上げてきた。

『お前は、この山に棲む精霊妃か?』

『…は?』

『なんだ、違うのか?この山は鬼哭の杜って言って、太古からの亡者たちが棲み付いてるんだ。ソイツらを管理してるのが呉高木家で、精霊妃と言うのは、亡者たちを統べる龍の花嫁のことだ』

 そんなご大層なものは知りませんし、全く違うと思います。
 第一、花嫁って言うんだからその人はきっと女性だと思いますよ、常識的に言ったら。
 だいたい、男の俺を花嫁に迎えようってのはな、やいちび蒼牙!ちょっと大きくなったお前ぐらいなんだぞ。
 思わず大人顔負けのクソガキにハハハ…と乾いた笑いを浮かべていたら、ちび蒼牙は『そうか、違うのか』と呟いて少しだけ俯いてしまった。

『…精霊妃ってひとに、何かお願いがあったのかい?』

 その姿があんまりしょんぼりしてるから、俺が声を掛けたら、小さな蒼牙はちょっとムッとして首を左右に振りかけたけど、まるで思い直したように俺を見上げてきた。
 相変わらず、今の蒼牙を思わせるような強い意志を秘めた、その青みを帯びた双眸には思わずドキッとしてしまう。こんなチビにドキッとする俺もなんだかな、ってとこだけど。

『母様の…お身体を直して欲しい。そして、母様の願いを叶えて欲しいんだ。もうずっと、山の神様にお願いしてるのに、ちっとも叶えてくれない。心優しい精霊妃なら叶えてくれるって思ったんだ』

 小さな蒼牙は、今のあの小憎たらしいほど世の中の酸いも甘いも知り尽くしてますってな見慣れた顔と違って、いや、子供なんだから見慣れてるわけはないんだけど、その一生懸命な表情に俺は思わず小さな蒼牙を抱き締めてしまっていた。

『どうしたんだ??』

 不思議そうに首を傾げるチビ蒼牙に、ひとこと『ごめん』と謝りながらも、それでも俺はそ
の身体から腕を離すことができないでいた。
 そうだ、お前。
 こんなに小さいのに、この頃にはもう、お袋さんは心を病んでお前のことが判ったり判らなかったりを繰り返すようになっていたんだよな?
 眞琴さんに聞いていた話を思い出したら切なくて、蒼牙の根性が捻くれてしまった大概の要因は、やっぱり大人にあるんだろうなぁと思っていた。

『ごめん、蒼牙。大人はみんな、お前に冷たすぎるんだよな。だからお前、あんなに大人びて、子供らしさを忘れてしまったんだ』

『…ぼくの名前を知ってるのか?』

 キョトンッとする、俺が見たこともない子供らしい表情の蒼牙の顔を覗き込んで、ああ、この時代が、お前にとってはきっと凄く辛かったに違いないけど、もう少し続けばよかったのに。それでもお袋さんは生きていたし、お前は花を摘む心のゆとりがあったのに。
 全部が切なすぎて、俺は気付いたらハラハラと涙を零していた。

『蒼牙。お母さんのことは俺にはどうしようもないけど、でも、できるだけ俺が一緒にいてやるからな。今は無理だけど、遠い未来に必ず、俺はお前の傍から離れないよ。だからこれだけは信じていてくれ、この世界中の全てがお前を見放してなんかいないから』

『…よく判らないけど、お前がぼくの傍にいてくれるのか?』

 ふと、俯きがちでどこか大人びた顔をしていたチビの蒼牙が、ほんのり頬を染めて嬉しそうな顔をしたのが俺の見間違いじゃないのなら、どれほどこの小さな身体は孤独や寂しさを知っているんだろうかと、自分の安穏とした子供時代と比較しても更に泣きたくなるだけだ。
 それでもお前は、花を摘んで心を病んでしまった母親を気遣うだけの優しさを持っている。
 それはきっと、矛盾なく、今の蒼牙の心の中にもあるんだろう。

『今は無理だけど、桂さんがいるから寂しくないだろ?』

『…うん、桂は大好きだ』

『そっか、よかった。じゃあもう少し、あともう少し大きくなったら、俺を見付けだしてくれ。俺は馬鹿だから、お前が見付けてくれないとここに来れないんだよ。もし見付けてくれたら、その時はもう、お前の傍から離れたりはしないからな』

 どうしてそんなことを言ったのかよく判らないけど、どうせこれは俺の都合のいい夢なんだから、せめて寂しそうに俯いている小さな蒼牙を励ましてやりたかったんだと思う。

『それ…ホント?』

 まるで子供のように、いや実際には夢の中の蒼牙は立派に子供なんだけど、子供らしいあどけない仕種で首を傾げながら不安そうに聞いてきた。

『ホントに、ホント?』

『ああ、約束だよ。忘れるんじゃないぞ』

 やわらかな青白髪が覆う小さな頭に掌を置いて、優しく撫でてやると小さな蒼牙は一瞬、本当に一瞬だったけど、極上の幸せそうな、子供らしい笑顔を見せてくれた。

『うん、忘れない』

 せめて、大人である俺ぐらいはお前を裏切ったりしないよ、蒼牙。
 だからどうか、花を労わるその優しさは忘れないでくれ。

 ふと、目が覚めたら枕が濡れていた。
 ああ、俺泣いてしまったのか。
 自分に都合のいい夢だったけど、やたらリアルで、あれがもしホントの蒼牙だったとしたら、俺はきっとアイツの上辺ばかりを見ていて何ひとつ気付いてやることもしていなかったんだなぁと、少し自嘲してしまった。
 大人だなんだと嘯きながら、一番、自分らしく生きていたはずの蒼牙を身近に感じたような気がして、俺は横になったままで小さく笑っていた。
 抱き締めた身体は驚くほど小さくて頼りなげで、掴んでいてやらないと壊れてしまうんじゃないかって思うぐらい、たくさんの感情を抱え込んでいるみたいだった。
 想像上の蒼牙だったけど、もしアイツが、夢の通りの子供時代だったとしたら俺は、蒼牙を見直してしまうかもしれない。
 村を思い、当主としての地位に甘えないあの蒼牙が、たくさんの感情をただ身体の内に隠してるだけで、ちゃんと人間らしく笑えるんだと思えば、俺はこの先ずっと、アイツの傍にいてやりたいとさえ思っていた。そんな感情の変化が自分でもすげー驚きなんだけど、幼さと大人と言う境界線上で揺らいでいるアイツをしっかりと、もう一度この腕に抱き締めてやれたらいいのにって…夢に感化されて豪くロマンチックになっちまってるな、俺。
 あんなのはただの夢なのに。
 人殺しの蒼牙をどうするかって言う、根本的に頭を痛ませる現実がかもん!と指先を振って挑発してくれてるってのに…はぁ、どうするかな。
 枕元に置いてある時計を見たらまだ午前3時で、どうやら一時間も寝ていなかったようだ。
 おかげで身体が酷くだるくて、倦怠感がガッチリと羽交い絞めにしてきてるみたいに腕を上げるのも億劫だ。
 辺りはまだ夜明け前で暗くて、このまま目を閉じていたらもう一眠りできるんじゃないかと思っていた矢先、静まり返っている空間に何かを踏み締めるような音を聞いたような気がした。

(あれ?もしかして、また小手鞠たちが来たのかな)

 ふと上半身を起こした俺は、ちょっとした好奇心も手伝って、障子を少し開けて庭にいるだろう小手鞠たちの様子を窺おうとした、窺おうとして、ドキッとしてしまう。
 そこに、月明かりに幻想的な庭に佇んでいたのは、不思議な青みを帯びた青白髪の蒼牙だったからだ。
 腕を組んで、静かに下弦の月を見上げている。
 その横顔は夢の中の小さな蒼牙と違い、大人びて、もう誰の手助けだっていらないんじゃないかって思えるほど毅然として、そして凛としていた。
 蒼牙…その手を血に染めて、手に入れようとしたのはなんだったんだ?
 盗み見ていることを知っているのかもしれないし、もしかしたら全く気付いていないのかもしれないけど、それでも俺はこのままただ呆然と月を見上げる蒼牙を見ているのもどうかしてると思って、意を決したようにソッと障子を開いて広縁に出ると、靴を履いて庭に降りたんだ。 その時ですら蒼牙が俺を見ることはなかったけど、同じように肩を並べて半月を見上げる俺に、引き締まっていた蒼牙の口許がほんの僅かに緊張を解いたのが見て取れた。

「目が覚めたのか?」

「おかげさまでね、庭に闖入者がいたからなー」

 俺を見ようともしないで話し掛けてくる蒼牙に、ああ、もしかしたらやっぱりコイツは、あの場所に俺がいたことに気付いていたんじゃないかって思ってしまった。
 その閃きは十中八九当たってると思う。

「月が綺麗だな」

 呟けば、蒼牙のヤツは少しだけ眉を上げてから、その口許に笑みを浮かべながら「そうだな」と頷いた。

「弦月の儀は済んだのか?」

「…見ての通りさ」

 あらゆる意味合いに取れる返事の仕方をしてから、蒼牙は仕方なさそうに肩を竦めて見せた。

「…俺を殺さないのか?」

 ポツリと呟いたら、その時になって漸く、蒼牙は俺を見た。
 その眼差しには何の感情も浮かんでいないくて、見詰め合ったままで弱気の俺は、言ってしまった言葉を取り消すことも出来ずに内心でどうしようとアワアワと七転八倒していた。まさか、そんな内情が判ったとか言うんじゃないだろうけど、蒼牙のヤツはもう一度肩を竦めてから、ゆったりと腕を組んで半月を見上げて言ったんだ。

「呉高木の神事は神聖だ。だが、これから花嫁になり、生涯を俺の傍らで過ごすアンタをどうして殺さないといけないんだ?」

「…」

 その言葉になんと言ったらいいのか判らなくて、いや違うな、ホントは聞きたいことが山ほどあったんだ。
 先輩たちはあの後どうなったんだ?
 どうして、人を殺めてしまったんだ…
 何か言いたいのに、さっきはあれほどスラスラと言葉が出てたって言うのに、重要な部分になると咽喉の奥に何か錘でも押し込まれちまったみたいに言葉が出てこない。

「…聞かないのか?」

 クスッと笑った気配がして、俯きがちになっていた俺が顔を上げると、下弦の月をバックに蒼牙が笑いながら俺を見下ろしている。
 その目が、どうしてだろう、まるで取り残された子供みたいに寂しげに揺れているような気がして、俺は居ても立ってもいられなくなっていた。
 思わず組んでいる蒼牙の腕を掴んで、不思議そうな顔をするヤツを、あの夢とダブってしまっているその顔を覗き込んで俺は言ったんだ。

「悪いのは蒼牙じゃない。こんな辺鄙な場所で、過去の因習に囚われてる大人たちが悪いんだ!」

 少しだけど、呆気に取られたような驚いたような顔をする蒼牙に、それでも俺は言わずにはいられなかった。
 人殺しだと、罵られるって思っていたんだろうその顔は、ほんのちょっと、ともすれば見落としてしまいそうなほどほんの僅かだったけど、ホッとしたように安堵を浮かべているようだった。
 お前にそんな顔をさせるのは、出来損ないの大人たちなんだ。
 まだたった17歳なのに、本当なら高校に通って、友達と試験の結果に一喜一憂しながらバイトの話とか、もしかしたら隣りの女の子の話とかで盛り上がってたってちっともおかしかないんだぞ。
 こんな辺鄙な村で、孤独ばかり抱えて、呉高木と言う重圧に耐えながら未来を見据える、そんな顔をする年齢じゃないんだ。

「蒼牙!一緒に警察に行こう。一から遣り直して、今度こそお前らしい人生を生きるんだ!」

 警察に行ってしまって、もう一度更正できるかどうかなんて判らないけど、でも、蒼牙ならきっと遣り直せる。それだけの強い意思を持っているんだから…

「警察?」

 ふと、蒼牙は笑ったようだった。

「駐在さえ認めない、起こってもいない事件に日本の司法が動くとでも思っているのか?アンタはお目出度いな」

「でも、あの子は…」

「高柳の息子は長らく癌を患っていた。今日、明日の命だったのさ。だから、医師の診断では『病死』だ」

 何もかもが、今日の為にお膳立てさせられていたような奇妙な違和感に、目の前が思わずぐにゃりと拉げてしまったような気がして、俺は蒼牙の腕を掴んだままで蒼褪めていた。

「長いこと延命に金をかけてきたが、それも限界だった。できれば助けてやりたかったんだが、今の医学では末期の悪性腫瘍は治らない」

 どこか言い訳でもしてるように呟いた蒼牙に、それで俺はますます、さっき感じた違和感が確固たるものになったような気がしたんだ。

「この日の為に、生き長らえさせたって言うのか?」

「…家族がそれを望んだ。俺が口を出す範囲の問題じゃない」

「どうして!」

 どうしてお前はそんなに冷静でいられるんだ!?
 ひと、一人の命をその手にかけて、病気だったからいいのか??
 悔しかった、ほんの少しでも蒼牙の気持ちを信じてみようと思っていた矢先に、こんな風に自分の為だけに人の命すらも利用しようとする蒼牙の気持ちが、判らなくなっていた。

「俺には理解できない。この村はどうなってるんだ?蒼牙、お前は一体何者なんだ!?」

 思わず掴んでいた腕に力を込めて、引き寄せるようにしてその顔を覗き込めば、屈託さもあどけなさの微塵もない冷めた双眸で俺を見詰め返した蒼牙は、唇の端をシニカルに捲りあげたんだ。

「俺は、俺だ。アンタが理解しようがしまいがそんなことはどうでもいい。アンタは俺の妻としてこの屋敷にいればいいんだ」

「俺の感情なんかお構いなしなんだな。呉高木家は人の命すらも自由にできる神にでもなったつもりなのか?」

 辛辣に言い放ったら、蒼牙のヤツは肩を竦めながら呆れたように笑いやがるから余計に俺の神経を逆なでしやがるんだ、畜生!

「…この世に神などいやしないさ」

 ふと、ポツリと呟いた蒼牙を、ギリギリと奥歯を噛み締めて睨みつけていた俺は、その人を喰ったような小生意気そうな顔が一瞬、物言いたげな表情に変わった気がして激しく憤っていた激情が消沈してしまった。
 神などいない、蒼牙の呟きには心情が篭もっていて、激しく責め立てたところで答えなんかきっと見付かりっこないってこと、俺だって充分よく承知してるはずなのに…
 俺は、蒼牙を大人として裏切らないって覚悟を決めていたじゃないか。

「いるとすればそれは、人の皮を被った化け物だ」

 毅然と言い放った蒼牙は、掴んでいる俺の腕を離させると、食い入るように、きっと泣き出しそうな顔をしているに違いない俺を見詰めてから、何かを思い切るように溜め息を吐いたんだ。

「もう、寝ろ。今日は何かと心身に負担をかけただろう。できるならゆっくり休め」

 そう言って、蒼牙は俺を振り返りもしないで離れに向かって歩き出した。
 その背中を呼び止めて、もう一度話がしたいと思ったけど、それを絶対的に拒絶する蒼牙の背中は言葉を掛ける隙すら与えてはくれなかった。
 そうしてまた、お前はたった独りで孤独を、永遠に拭い去れない罪を罰として心の奥深い場所に抱え込むんだろうな。生まれてから、いったいどれほどこんなことが起こっていたんだ?
 実の祖父と義父に抱かれていた過去すらも、お前は胸の奥に秘めて語ろうともしない。
 誰にも言わないし、誰も聞いてくれないと思ってるんだろ?
 俺は。
 蒼牙の立ち去った後の庭に佇みながら、両の拳が白くなるほど握り締めていた。
 俺は…
 夢の中で幼いお前に約束したんだ。
 きっと。
 お前を独りぼっちになんかしない。
 その腕を今度こそ、離したりはしない。