第一話 花嫁に選ばれた男 12  -鬼哭の杜-

 暫くぼんやりと日本庭園から月を見上げていた俺だったけど、いつまでもぐだぐだとここにいても仕方ない。意を決して、俺は歩き出していた。
 もちろん、母屋じゃない。離れだ。
 蒼牙がいつも仕事に遣っている仕事部屋で、最近はそうでもないけど、最初の頃はその部屋から出てこないこともあったりして、ほんの1日ぐらい俺は自由だった。
 あの頃は蒼牙の不在なんかへの河童で、一秒だって戻ってくるなって真剣に願っていたってのに…俺は。
 どうしてこんなに、アイツがいないと思うと心許無くて戸惑ってしまうんだろう。
 どうしてこんなに、寂しいんだろう。
 夏の夜の月明かりはよく晴れている証拠のように、俺の影をクッキリと白い砂の上に描き出している。
 月光と陰のコントラストの中をサクサクと足音を忍ばせて近付けば、母屋から少し離れた先にある蒼牙の仕事部屋は、月明かりに浮かび上がるようにして古い家屋が威風堂々とした面構えで佇んでいた。
 きっと、蒼牙は今、俺がここに立っていることにだって気付いているんだろう。
 アイツには何か、よく判らないんだけど勘が鋭いところがあるから、どんなに足音を忍ばせてもシレッと気付いてることが多いからドキッとするんだよな。
 だから、コソコソと近付いていくつもりなんか毛頭ない。
 爆弾娘がワケの判らんことを言ってたけど、男は度胸だ!
 俺は庭の砂を蹴散らすようにしてズカズカと蒼牙がいると判る部屋の前まで行くと、わざと乱暴にスニーカーを脱ぎ散らかして、縁側に上がるとその手でスパーンッと裁きを下す水戸のご老公が引き連れる助さん格さん宜しく障子を開け放ってやったんだ。
 蒼牙は俺に背中を向けるようにして文机に向かってキーを叩いていた。
 まるで過去と現代の融合はどこかアンバランスで、そのあやふやさを暴き出しているような蒼牙の背中の潔さは、見ているこっちが切なくなってくる。
 着流しで胡坐を掻いて、送られてくるメールの数は半端じゃないのか、常に受信ありの電子音が鳴り響いている。手際よく、あらゆるものを片付けている蒼牙は、エクセルで立ち上げている報告書らしきものを睨みつけながら、ついでのように言ったんだ。

「何をしに来た?」

「お構いなく、眠りに来ただけだから」

 眠った形跡なんかこれっぽっちもない、桂が丁寧にメイキングしている布団は太陽の匂いがした。
 俺は背中を向けたままで忙しなくキーを叩く蒼牙に軽く言って、本来ならコイツが眠るはずの整えられた布団の上を捲ってやれやれと腰を下ろしながら軽く言ってやった。
 すると、一瞬だけど、手の動きを止めた蒼牙が微かな溜め息を吐いて、パチパチとキーを叩くのを再開したようだ。

「俺はアンタに、自室で休めと言ったはずだ」

「は?そんなこと言ったっけか??俺は『ゆっくり休め』としか聞いちゃいないけどな」

 パチパチパ…また手が止まる。
 暫く何かを考えて、どうやらニヤニヤ笑っている俺の思惑通り、漸く自分の失態に気付いたのか、蒼牙は胡乱な目付きを隠さないまま肩越しに振り返ったんだ。
 その目付きの…空恐ろしいことと言ったらなかった。

「屁理屈は覚えたようだな。それで、ここに来て説教でも垂れるのか?」

「いや、俺さ頭悪いから。そんなつもりはないよ」

 肩を竦めてなんでもないことのようにそう言ったら、蒼牙は参ったとでも言いたげに頭を抱えるようにして文机に頬杖をついた。
 やけに疲れているように見えるのは…そうだよな、俺や繭葵なんかより、人の死に直接関わった蒼牙の方が、今夜は眠れないぐらい草臥れているに違いないってのに。
 蒼牙はバカだ。

「ただ、自分の旦那さまがどんな仕事をしてるんだろうなぁと思ってさ。俺だってこう見えても、サラリーマンだったんだぜ?仕事内容に興味ぐらいはある。まあ、平社員だったけど」

 努めて軽めの口調で言ってやると、蒼牙は頭を抱えるようにして頬杖をついたまま、呆れたように溜め息を吐いた。

「下手な嘘がうまいんだな。それで?」

 聞いてやるよとでも言うように肩を竦める蒼牙に、俺はゆっくりと膝でにじり寄るようにして近付くと、不機嫌そうに見下ろしてくる間近の蒼牙の顔を見上げたんだ。

「そうだなー…それから、意地っ張りな俺の旦那さまにお休みのキスでもしようかなってね」

「…!」

 蒼牙は頬杖をついたままで酷く驚いているようだった。
 そりゃ、そうだよな。
 今まで、散々嫌がって逃げていた俺が、不機嫌そうな蒼牙の唇に苦笑しながら口付けたりするんだから。
 瞼を閉じて、すこしかさついた唇、もう馴染んでしまって覚えてしまった蒼牙とのキスは、どんなに濃厚なセックスをしたって得られない、なんだかホッとするような快感がある。
 口に出して言ってしまえばあまりにも陳腐だけど、それでも俺は、蒼牙とのキスだけは魂を分かち合って対になれるのならそれでもいい…なんて、ワケの判らないことまで考えてしまえるほど好きだった。
 戯れに触れ合うだけだったキスは、なんとも言えない複雑な表情をした蒼牙の意思1つで、深くなるも浅くなるも決まってしまうんだけど…蒼牙は、暫く逡巡した後、思い切るように瞼を閉じて、甘えるようにキスを強請っている俺を抱き締めてきた。
 そのまま、肉厚の舌が歯列を割って、俺がそうして欲しいと願っていた激しい口付けをくれたんだ。
 舌と舌が絡み合って、吸い付いて離れて、また吸い付いて…魂までも吸い尽くしてしまいたいようなキスをする俺を、蒼牙は荒い息を吐きながら愛しそうに、深い深い深淵の底まで一緒にダイブするような、クラクラする口付けをくれるから、背中に回した腕に力を込めて、まるで溺れている人みたいに必死にしがみ付いていた。
 蒼牙、お前は独りぼっちじゃないよ。
 俺がここにいる、だから、なぁ…
 そんなに意地を張るなよ。
 こんな夜中に俺たちは二人きりで、まるで互いを庇いあうようにして抱き合って、溺れてもいいキスさえできるんだから…だから、蒼牙。
 泣いていいから。
 俺が、ちゃんと確り受け止めるから。
 だから、泣いていいんだ。

「…ッ」

 まるで俺の願いが通じたかのように、蒼牙は俺との深いキスを一瞬でも長く続けようとするように抱き締めながら、声を殺して泣いているようだった。
 背中に回した腕に力を込めて、どうか、どこかに行ってしまわないように。
 俺は気付かないふりをして蒼牙にキスをした。
 自分でも驚くほど、それは深くて濃厚で優しくて…そして、愛しかった。

 翌日、結局あの後、俺たちは何をするでもなく同じ布団で寝たわけなんだが…
 いつもは俺を抱き枕だと勘違いしているんじゃないかって腹立たしく思うほど抱き付いて眠る蒼牙を、その日の朝は、俺が抱き締めていたんだ。
 珍しく蒼牙は、今まで寝ていなかったとでも言うようにぐっすりと熟睡していて、揺すっても叩いても起きそうもなかったから、俺は寝起きでボーッとしながらもクスクスと小さく笑ってしがみ付くようにして眠っている美丈夫の顔を覗き込んでいた。
 目許が僅かに赤いのは…気のせいなんかじゃない、きっと昨夜泣いたせいだ。
 うん、少しでも泣いた方がいいんだ。
 鬱憤ってな溜め込むよりもだな、泣いたり喚いたり、みっともないことをしてだって晴らしちまうのがいいに決まってる。現に俺はいつだってそうだ。
 大声出して喚いてみたり、派手に泣いたりとかな…蒼牙の立場だと難しいんだろうけど、だから俺がいるんだ。俺の前でだけ泣けばいい。
 ん?でも、そう考えるとなんだか俺、ちょっと得してる気がするなぁ~
 あの泣く子も黙る呉高木蒼牙の泣き顔を世界でたった一人、この俺様だけが拝めるんだぜ?そいつは凄いなー…なんつって。
 朝の清廉とした日差しが障子を透かして入り込んできて、蒼牙の幻想的な青白髪をキラキラと光らせている。よくよく見ると、白髪だとばかり思っていたんだけど、少し輝いて見えるから…うーん、でもやっぱこれって青白髪だよなぁ。
 なんて、そんなどうでもいいことばかり考えている間に、ピクリッと青白髪の睫毛が震えて…って、そうか、蒼牙って睫毛も眉毛も青白髪なんだな。ゆっくり、顔を見ることもなかったから気付かなかった。
 そんな1人で「すげーな、おい」とか思っているなんて露知らずの蒼牙が、ふと、瞼の裏に隠れていた青味がかった黒い双眸を開いたんだ。

「…おはよう」

 まるで秘密を囁くように呟けば、蒼牙の腕が伸びて、上半身を起して覗き込んでいた俺は気付いたら後頭部にあてた手で引き寄せられるようにしてキスしていた。

「…ふん、なんだか照れ臭いな」

 鼻の頭をちょっぴり赤くした蒼牙が、ムスッと不機嫌そうに俺の顔を覗き込みながら、それでも俺がニコニコ笑っていたら気後れでもしたのか、仕方なさそうな苦笑を浮かべてもう一度キスしてきたんだ。

「朝日の中のアンタは綺麗だな…俺の花嫁になる覚悟はできたのか?」

「…当り前だろ?もともと、俺は蒼牙の花嫁になるために来たんだ。いまさらお前が嫌がったって居座ってやるからな」

 フンッと鼻を鳴らして知らん顔したら、蒼牙のヤツは偉く吃驚したように目を瞠ってマジマジとそんな俺を覗き込んできやがったけど、それでも俺は、慌てたりとか言い換えたりとかはしてやらなかった。
 本気だから仕方ない。

「たとえ、蒼牙が愛人を作ったって俺は文句は言わない…でも、これだけはお願いだから約束してくれ。何人愛人を作っても構わないから、男は俺だけにして欲しい。愛してくれとか言わないから、だから…ッ」

 驚いた。
 まだ言いたいことが山ほどあるのに、覚悟はこんなものじゃないのに、すげー勇気がいるってのに上半身を起していた蒼牙は、俺の言葉の半ばでいきなり抱き締めてきたんだ。
 不安で、どうしようもなく不安で、こんな寂しい山間の鄙びた村で、余所者は俺だけだから、それでもこの見知らぬ土地に骨を埋めようってんだから、不安になったってしょうがないだろ?なぁ、蒼牙…
 俺は泣きじゃくるようにして、抱き締めてくれる蒼牙の首に腕を回しながら抱きついていた。
 頼れるものも、信じられるものも、愛しいと想うものも…それは全部、蒼牙になるんだ。
 俺の世界はきっと、蒼牙になるんだから…だから、お願いだから蒼牙、他の誰でもない男は、男だけは俺だけにして欲しい。
 子供のために女を何人侍らせてもいいから、俺のところに来てくれなくなっても構わないから、だからどうか、男は俺だけにして…

「…人殺しの嫁になるのか?」

 本気でなれるのか?…と、俺を抱き締めたままでそんな下らないことを言いやがるから、俺はますます腕に力を込めて抱き付きながら言ったんだ。
 お前があの時、彼の咽喉を切り裂いてやらなかったら、彼はずっと地獄の苦しみを味わったままで生き長らえさせられるんだ。どんなに酷くて残酷か、激痛にのた打ち回るその姿をずっと見詰め続けてきたお前だから、あの瞬間に怯むこともなく苦しまずに逝かせてやったんだろう?
 俺は気付きもしなかった。
 そういう形でも、人を救っているんだってことに。
 安楽死すらできない、苦しみの淵に立つ哀れな魂。
 どんなに強烈な反動が返ってくるか知りながらも抱き締めることのできるお前だから、俺は腹を括ることができたんだ。
 もう、躊躇ったりしないからな。

「こんなの、嘘や冗談で言えるかよ!もう決めたんだ。俺は呉高木蒼牙の花嫁になる」

「…夢みたいだ」

 ポツリ…と、蒼牙が信じられないことを呟いた。
 思わず、呆気に取られてポカンッとしてしまいそうになった俺に、でもすぐに蒼牙はいつもの蒼牙に戻って傲慢不遜に言いやがったんだ!なんだ、ちょっと可愛いかなとか思って損したぜ。

「アンタにその覚悟ができたのなら、俺が妾を娶る必要なんかないだろ?アンタ、本当に頭悪いな」

「悪かったな!天才さまよッ」

 抱きついたままで悪態を吐く俺に、蒼牙のヤツはクスッと笑ったようだった。
 その顔が見たくて身体を起したら、蒼牙はそれでも俺を抱き締めるようにしたままで…そこらへん、まだ俺を離そうって気はないらしいんだけど、まあ俺も望むところだ!って感じだし別に構わずに見上げたら、俺の顔を見下ろして笑ってるんだ。
 思わず、その男らしい笑みを湛えた顔にドキッとしてしまった。

「恐らく俺は、アンタを永劫に離さないだろう。それでも、俺について来るんだぞ」

「…ああ、お前についていくよ。蒼牙」

 何が起こっても、この先に何が待ち構えていても…それでも俺は、きっとこの先もずっと、蒼牙の傍らにあり続けると思う。
 そう、夢の中のチビ蒼牙と約束したんだ。
 何よりも俺は、俺だけを見詰め続けるこの青白髪の鬼に、心を攫われてしまったんだから。
 初めてお前と会ったあの山の中で、幹に凭れた姿にドキッとしたのは、何も本気で鬼だと思ったからってだけじゃないんだぜ?
 蒼牙…きっと俺は。
 あの瞬間から恋に落ちていたんだ。
 嘗て、お前がそうだったように。
 俺たちは、清廉と昇る朝日の中で、逸早くではあるんだけど、気の早い誓いのようなキスを交わした。