第一話 花嫁に選ばれた男 15  -鬼哭の杜-

「…判った。鬼哭の杜について、話してやろう」

 そう言った蒼牙の双眸は仕方なさそうで…どうしても話したくはなさそうだったんだけど、それでも、意を決したように掠めるキスをくれて、話し出そうとしてくれたってのに…クソッ、こんな時に限って、邪魔って入るんだよな。

「…話し声がしたのでね、失礼。お邪魔だったかな?」

 長身の、ともすれば青年になった蒼牙がその場所に立っているような、そんな奇妙な違和感を感じさせる男、不二峰は口許を僅かに歪めるようにして、チラリと俺を見たぐらいで、その双眸は真っ直ぐに蒼牙に注がれていた。

「邪魔じゃなかった…とは言えないが。何か用か?」

 あれほど、警戒しているようだった蒼牙だと言うのに、どこかホッとしたように俺を抱き締める腕の力を緩めて、縁側に立ち尽くしている不二峰に不機嫌そうに呟いた。

「用がなければ君に話すこともできないんだな。まあ、それはいいんだけどね。ところで、直哉さんが呼んでいらしたから、これから行けるかい?」

 肩を竦めながら酷薄そうな薄い唇で笑みを浮かべる不二峰に、蒼牙は仕方なさそうに首を左右に振って、それから、呆然としてしまっている俺を見下ろしてきたんだ。

「そう言うワケだ。鬼哭の杜の件は、今夜にでも話してやる」

「…判った」

 そんなのはズルイよ、と言えるのなら、どれほど天晴れか、それでも俺は、仕方なく目線を伏せて唇を突き出すしかなかった。
 聞き分けの良い花嫁に満足したのか、蒼牙は俺の頬に掠めるぐらいのキスをしてから、改めて不機嫌そうな表情をして、不二峰を促しながら客室を後にしたんだけど…その時、呉高木家の現当主を追おうとした不二峰が、ふと立ち止まって、ムスッとしたまま見送っている俺を見るなり、何やら意味ありげな含めた笑みを浮かべやがったんだ。

「な、なんだよ?」

 思い切り警戒して…って、それでなくても、肝心な部分を聞き逃してこの上なくムカついているってのに、さらに煽るように意味深な笑みを向けられれば悪態のひとつだって吐きたくなっても仕方ないだろ?
 なのに、俺と違って大人の不二峰の野郎は、事も無げに肩を竦めると「蒼牙を借りるよ」と、何食わぬ顔で言ってさっさと立ち去りやがったんだ!
 くっそー、なんか知らんが、思い切り胸糞悪いなぁ!!
 手当たり次第に物を壊してしまいたい凶悪な感情が沸き起こったものの、実際に実行に起こすとなると、それでなくても日頃からあんまり運動らしいものをしていない俺だ、思うだけで行動を起こせないまま溜め息を吐いて、仕方ないから小手鞠たちに愚痴でも聞いてもらおうと、裏山を目指すことにしたんだ。
 たとえば…ほんの僅かな嘘に、酷く傷付くことってあるんだろうか?
 その答えさえ知らない俺は、まんまと、何かの思惑が手繰り寄せる蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶のように、無駄に足掻きながら永遠の地獄のような苦しみを知ることになる。
 そんな未来を知りもしないで、俺は小手鞠たちに会いたくて山に登っていた。

 繭葵を誘おうかとも思ったけど、それでなくても民俗学的なモノに目のないアイツのことだ、小手鞠を見れば垂涎モノで学会とかに発表でもしやがるだろうから、忙しそうに立ち居振舞っているからと自分に理由をつけて、繭葵を誘うことは諦めた。
 だいたい、繭葵のヤツにはロマンがないんだよな。
 未知のもの…たとえばUMAだとかを発見しても、見られただけでもよかったと思ってさ、害がないのならソッとしておくべきだと思うんだよ。学会に発表してどうなるって言うんだ?
 大方、大勢の研究家たちが押し寄せて、荒らすだけ荒らして、自分たちが上だと言って言い争うぐらいで、ソイツらの為になんかこれっぽっちもならないんだぜ。
 それなら、見て見ぬ不利を決め込めることこそが、俺はロマンだと思うんだけどなぁ。
 繭葵はやっぱり、歴史に名前を残すことがロマンだと思ってるのかな?
 ハァ…どうでもいいことなのに、俺ってばどうしてこんなことに真剣になってるんだ。
 いや、何か考えていないと、せっかく蒼牙が話してくれようとしたことを邪魔しやがった不二峰に、果てしなく恨み言をブチブチ言いそうな気がするからなんだろう。
 俺、こんなに愚痴っぽくなかったし、物事にそれほど執着するヤツでもなかったんだけど…
 どうしたワケか、今の俺は、ひとつひとつがいちいち気になって、なんにでも当り散らしたくなるんだよな。そうかと思えば、急に泣きたくるし…どうかしてるよなぁ。
 まぁ、その辺のことも小手鞠たちに聞いてみようかな。
 いつもの登り慣れた山道をブラブラと歩いていたんだけど、ふと、小脇に入る、それこそ獣道のような細い道を発見して、どうせ何かすることもないんだ、興味本位だけでその道を探検するのも悪かないかな。
 高遠先輩たちの一行は、先ほどコソリと覗いた時には既に出発してしまった後だったのか、もう誰もそこにはいなくて、ただ忙しなく、珍しいことに眞琴さんが動き回っていて、その後を害がありまくるってのに、まるで無害な小動物みたいにクルクルと繭葵がついて回っているだけだった。
 だから、もう本当に、高遠先輩たちはあのまま、この村を去ってしまったんだと寂しくなっていた。
 蒼牙や繭葵が言うように、先輩たちは自分から好きでこの村に来て、取り返しのつかない罰を受けて帰っただけなんだろうけど、それでも、俺はそんな先輩たちを放ってはおけなかった。
 だからと言って、何ができるんだと聞かれても、やっぱり蒼牙たちが言うように、結局、何もできやしないんだ。
 溜め息を吐いたと同時に、ポロリ…ッと、頬を涙の粒が転がり落ちていった。
 何時の間にか涙腺まで弱くなっていて…まるで、自分自身が内側から奇妙に捩れて、変わっていくような錯覚がして不安になっていた。
 こんなのは俺らしくないって言うのに。
 はぁ…と溜め息を吐いていたら、ボソボソと何か声を潜めている話し声が聞こえた。
 大方、この山の聞かせる、お馴染みの空耳だろうと肩を竦めたんだけど…俺はその空耳が気になって、何処から聞こえているのか探ることにしたんだ。
 だって、その声が…俺が良く知っている蒼牙と、不二峰のものだったから尚更だってのは仕方ねーだろ?
 この辺りはどのヘンなんだろう?と、首を傾げながら藪を掻き分けるようにして進んでいると、空耳だとばかり思っていた話し声がだんだん近付いてきているのか、声が大きくハッキリ聞き取れるまでになっていた。

「…なんのつもりだ?直哉が待ってるんじゃなかったか??」

 蒼牙の声は低くて、少し不機嫌そうだった。
 それに相反するように不二峰の声は機嫌がいい。

「知っていて、来たのではないのかな?」

「…ふん」

 漸く藪を掻き分けて覗いた先、俺は、あまりの衝撃に声を上げることも、目を逸らすこともできなかった。
 そこにいたのは、確かに蒼牙と不二峰だった。
 でも、蒼牙は着流しの胸元を肌蹴た姿で太い木の幹に押し付けられて、そうしている不二峰は呉高木家の威厳あるはずの現当主の腰を引き寄せながら、その顎に指先を当てて口付けをせがんでいる。
 コンナノハウソダ。
 どこかで空ろな声が響いて、それが俺の頭の中で信じられないと叫ぶ自分の声だと気付くのに暫くかかっている間に、不二峰の唇は不貞腐れている蒼牙の唇を塞いでいた。
 それは挨拶で交わすようなライトキスだとは到底思えない濃厚なキスで、蒼牙はあれほど嫌がっていたくせに、蒼牙の面立ちに良く似ている不二峰龍雅の背中に両腕を伸ばすと、まるで縋り付くようにして抱き締めやがったんだ。
 吐き気がする。
 これは嘘だと、誰か肩を叩いてゲラゲラ笑ってくれよ。
 何が起こっているのか…もう、何がなんだか。
 いや、キスだけだったら、俺だってこんなに動揺はしないさ。
 蒼牙は…亡き祖父と養父に犯されていたんだと、眞琴さんの手紙で知っていたし、どうも不二峰とは只ならぬ関係だったんじゃないかって、鈍い俺だって邪推ぐらいしていたからな。
 実際に、2人のキスシーンを見てしまったからと言って、ここまで自分がショックを受けるとは思ってもいなかったんだけど…それでも、立ち直るだけの根性ぐらいはあったさ。
 その言葉を聞くまでは…

「…ッ、相変わらず色っぽいね」

「フンッ、貴様も相変わらず減らず口が多いな」

 蒼牙の双眸は濡れたように妖艶に煌いていて、その顔はまるで女のように艶を帯びていた。
 ともすれば蒼牙は、そのままそうして立っていれば、日頃のキリリとした男らしさがまるで嘘のように、憂いを秘めた妖艶な美女のようなんだ。
 これは…どう言うことだ?
 あの蒼牙が、女に見えるなんて!俺はどうかしてる。
 こんなシーンを見てしまったからかもしれないけど…

「こんなにも心も身体も私を求めているのに…そんなに、楡崎の血が必要なのかい?」

 不二峰は、横顔しか判らないけど、酷く寂しそうに呟いたんだ。
 …え?『楡崎の血』??
 濡れた唇を親指で撫でられて、まるで女のように誘う眼差しで蒼牙はうっとりと不二峰を見上げたけれど、その口調はまるで不似合いなほど厳しかった。

「もう決めたことだ。我が呉高木には楡崎の血は掛け替えのないモノだ」

「その為に、私を諦めて君は男であることを選ぶのか…?」

「…アンタが先に裏切った。あの日から俺は、呉高木の当主になることを決めた。今更だ」

 不二峰の指先を弄うように首を振ったけど、その指先は所在をなくしたまま、蒼牙の首筋をゆっくりと辿った。
 目尻を朱に染めている、この世のものとは思えないほど淫らで、妖艶な雰囲気を醸し出す蒼牙に、不二峰は押さえ切れないと言った感じで激しく掻き抱くと、その首筋に唇を這わせた。
 その感触を感じながら蒼牙は、淫らに濡れ光る双眸で天を仰いだまま、どこか痛そうな表情をして下腹に指先を這わせる不二峰の背中に回した両腕に力を込めた。

「…楡崎の血の為だけに君は、望まない婚姻を結ぶのか」

「光太郎は…」

 自分の名前が出て思わずギクリとしたけれど、蒼牙のなんとも言い表せない複雑そうな、自嘲的な双眸を見てしまったら、俺は泣きたくなっていた。

「思う以上に優しい。光太郎となら俺は、きっと生きていける」

 心を隠したままで?
 不二峰はそんなことは言わなかったけど、俺は、愛し合う2人を見つめたまま気付いたら両目から静かに涙を零してそんなことを思っていた。

「呉高木の為だけに、その生涯を捧げるんだな」

「それは大袈裟だよ、龍雅」

 蒼牙は自嘲的に笑ったけど、大袈裟じゃねーじゃねーか。

「これは、俺が心から望んだことだ」

 キッパリと言い切って、蒼牙は挑むような、えらく色っぽい双眸をして不二峰の頭をガシッと引っ掴んで言った。
 その言葉を聞いて、不二峰は、あれほど不遜そうに見えたあの蒼牙に良く似た面差しの男は、どこか痛いような顔をしてギュッと双眸を閉じると、蒼牙の身体をこれ以上はないほど愛おしげに抱き締めたんだ。

「これで最後だ。『女』としてアンタに抱かれるのは」

 ゆっくりと肌蹴られた着物の裾からすらりと伸びた足の付け根には、ちゃんと男としての象徴がぶら下がっていた…でもその奥に、俺は信じられないものを見ていた。
 蒼牙の下腹部には、『女』の器官もあったんだ。

 そうか、蒼牙は両性具有だったから、最後まで俺を抱かなかったんだな。
 そんなどうでもいいことを考えながら、気付いたら俺は、ボタボタと涙を零して山道を彷徨っていた。
 呉高木の家に帰る気にもなれないし、こんな顔で小手鞠たちに会う気にもなれない、だから、俺は時間なんか腐るほどあったから、トボトボと龍刃山を彷徨うことにしたんだ。

(楡崎の血の為だけに君は、望まない婚姻を結ぶのか…)

 不二峰の言った言葉が脳内にリフレインして、そうなると俺の涙は比例するようにさらにボタボタと零れ落ちる。
 あの言葉を聞いても蒼牙は、それを否定しなかった。
 蒼牙の心はきっと、十数年前から不二峰のモノだったんだろう。
 どう言った理由でかは判らないけど、不二峰は蒼牙を裏切ってこの村を出て行ってしまったんだろうな。
 だから蒼牙は、その胸の奥に不二峰への気持ちを隠して、当主になる為に…『楡崎の血』を持つ俺を娶って暮らすつもりなんだ。
 そんなのは悲しいよ、蒼牙。
 俺を愛してくれとは言わないけど、心を隠したまま、愛しているようなふりをされるのは、嘘を吐かれるよりも辛いよ。
 俺の血でよければ、そんなことをしなくても幾らでもくれてやれるんだけど、きっとあの意味はそんなことじゃないんだろう。
 どうしよう、俺は…こんな心のまま、蒼牙の花嫁にはなれない。

「きゃぁ!」

 涙で視界が滲んでいるせいで、何が起こったのかだとか、目の前に何があるかだとか、そんなことは気にもならない心境だったからか、俺は誰かに思い切りぶつかったって言うのに、そのまま無視して行こうとしちまった。

「こ、光太郎さん?!ど、どうなさったんですか!」

 俺の腕を、思うよりも強く掴んで引き留めたのは…声だけを頼りにするなら、きっと小雛だ。

「小雛?」

「そうですわ!光太郎さん、そんなにお泣きになって…どうかなさったんですか?」

 自分に蒼牙の子供をくれと言った、気丈で…そして可憐な少女。
 俺は、ずっと蒼牙の花嫁は小雛か繭葵だって思っていた。
 でも、蒼牙の心は不二峰のものだった。
 それでも、この可憐で気丈な少女は蒼牙を愛せるのかな…

「小雛…蒼牙は、不二峰を…」

 そんなこと言うつもりじゃなかったのに、俺の口は驚くほど油を塗りたくったようによく滑った。
 小雛が差し出してくれたハンカチで涙を拭いながら、そう声に出してしまえば何故か涙が溢れてくるから、必死で耐えて小首を傾げる小動物のように可愛らしい少女を見下ろしたら、彼女は殊の外、キッパリとした表情で力強く微笑んだ。

「ええ、知っていますわ」

「…知って?」

「はい。ほんの小さい頃、婚約者としてこの村に来たときに、ハッキリと蒼牙様に言われましたから」

「そう、だったん…ッ、だ」

 そうか、小雛は全てを知っていて、それでも蒼牙を愛しているんだ。
 俺には何一つ言わなかった蒼牙…お前にとって俺は、やっぱり借金の形ぐらいでしかなかったんだろうなぁ。
 俺は、彼女ほど割り切れないし、心を隠したままの蒼牙の傍にいられるほど、肝っ玉も据わっちゃいない。
 はは、なんだ、結局簡単な話なんじゃねーか。
 元鞘におさまるべきなんだよ、蒼牙。
 『楡崎の血』なんつー、得体の知れない迷信に振り回されて、生きていくのなんか味気ないだろ。
 だから、だから俺は…

「小雛…呉高木蒼牙の花嫁は君が適任だよ」

「え?」

 小雛は驚いたように、まるでお人形みたいな顔で信じられないとでも言うように長い睫毛が縁取る大きな双眸を見開いて俺を見上げてきた。
 大の大人の男が、ボロボロ泣きじゃくりながら言う台詞でもないんだけど。

「俺は降りる。晦の日に村を出るから、それまで隠れておける場所を直哉さんに教えて欲しいんだ…ッ」 

 涙が止まらないからいまいち信用がないだろうけど、このまま何処かに行ってしまいたいんだよ。
 何処かで静かに泣きたいし、アイツを諦めたいんだ。

「光太郎さん…」

 小雛には悪いんだけど、きっと俺じゃなかったら、蒼牙はこの『望まれていない』結婚を諦めるだろう。
 その時にこそ、なぁ、蒼牙。
 心なんか偽らずに、きっと、お前が一番好きなヤツと添い遂げるんだぞ。
 俺はチビのお前と約束したから。
 きっと守ってやるってさ。
 それがこの時なら、俺はお前を諦めることができる。
 蒼牙…
 きっと俺は、妙に大人びているくせに子供っぽい仕種が可愛かったお前を、愛していたよ。
 だから、今度はちゃんと、大人として俺が行動を起こさないといけないよな?
 今ならきっと言える。 
 さようなら、蒼牙…