どれぐらい寝ていたのか、小林さんの姿は既になく、開け放たれた障子からは立派な日本庭園が広がっているし、良く晴れた夜空にポッカリ浮いている月まで見えた。
そして、俺の眠る部屋の前の廊下に、どうやら胡坐を掻いているんだろう、誰かの背中。
それを、俺はもう何度も見てきたなぁ…と、静かに見詰めてしまった。
「目覚めたのか?」
ふと、声をかけられてハッとしたけど、聞き慣れた声音は不安がる心をゆっくりと落ち着けさせてくれたから、俺は優しい気持ちになりながら頷いていた。
「ああ」
布団に横になったままで見詰めた先の広い背中は、何時もならすぐに、その小生意気そうな勝気な青みがかった双眸で振り返ってくれると言うのに、どう言うワケか、今日の蒼牙はなかなか振り向いてくれないんだ。
それが何故か、とても不安で、何かあったのかと俺が思わず起き上がりかけると、その時になって漸く、蒼牙のヤツは少し逡巡しているようだったけど身体ごと振り向いてくれた。
ホッとして笑いかけたら…なんだ、ヘンなヤツだな。
蒼牙のヤツは珍しく目線を逸らしやがったんだ。
「…?どうしたんだよ??」
訝しくて眉を顰めたら、まるで貝にでもなったつもりのようにキュッと一文字に口を引き締めていた呉高木家の若き当主は、それでも、ふと頬の緊張を緩めて照れ臭そうに笑ったんだ。
「身体の調子は、大丈夫か?」
俺をドキッとさせる魅力的な笑みを浮かべながら、どうやら蒼牙のヤツは、それを聞きたかったらしい。
「へ?あ、ああ…その、もう大丈夫だ」
唐突に、俺は夕方に小林さんと話していた内容を思い出して、途端に瞬間湯沸かし器みたいに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
そそ、そうだった!俺、その、なんかワケの判らん秘薬とかで、なんとも中途半端に一部分だけが女になっちまったんだったッ!!
それで、子供を授かるために初潮がきて、そのせいで貧血になってたんだっけ…うーん、女って大変なんだなぁとか、暢気に考えている場合じゃないぞ。
顔を茹でタコみたいに真っ赤にして、あまりに反応を見せない蒼牙に不安を感じて目線だけ上げたら、胡坐を掻いて腕を組んでいる蒼牙も、やっぱり顔を真っ赤にして不機嫌そうに俯いたりしてるから、俺は一瞬だけど呆気に取られちまった。
あの不遜の大魔王みたいな蒼牙が、照れ臭さを不機嫌で誤魔化しながら、真っ赤になってるなんて!
…おい、天変地異とか起こるなよ。
つーか、俺の身体には天変地異よりも凄まじいショックは起こってるんだけどなぁ。
お互い、まるで初めて恋をしたクソガキみたいに真っ赤になったまま言葉を失くしてるから…こんな時にこんなことを言うのもなんだけど、ほんの少しでも蒼牙のヤツは、俺が(一部でも!)女になったことを喜んでくれているんだろうか。
こんな出来損ないの身体なのに、それでも、蒼牙は俺を愛してくれるんだろうか…
「あ、あの…」
不安が嵩じたのは俺の方だったから、思わず上半身を起こして声をかければ、ふと、眉根を寄せて険しい表情になった蒼牙が訝しげに俺を睨んだんだ。
う、なんか間でも悪かったか??
「起き上がるな。アンタは極度の貧血を起こしてるんだ。今はゆっくり休んでいろ。俺がいて気になるのなら…」
「そんなこたないさ」
そのまま立ち上がろうとした蒼牙に、俺は上半身を乗り出すようにして、何故か、今は独りにして欲しくなかったから慌てて引き留めていた。
その目付きが、どうも縋るような目だったのかもしれない。
と、思うのも、蒼牙のヤツが驚いたように目を瞠ったからだ。
「蒼牙!あの…俺、その…なんて言えばいいのか」
「判っている。アンタは、俺の花嫁になることを選んだんだ」
口許に掌を当てて、結局、俺は何が言いたかったのか、目線を逸らしながら動揺して口を噤んでいたら、即答のように蒼牙は頷いて、それから目が覚めるような会心の笑みを浮かべたんだ。
あの時、小林さんに見せたのと同じ笑顔に、それだけで、現金なもんだよな。俺はホッとしたように、蒼牙に腕を伸ばしていた。
「蒼牙…その、俺、うまく言えないんだけど」
俺の腕を掴むようにして引き寄せてくれた蒼牙は、その胸元に頬を寄せて安心したように瞼を閉じて話し出す俺の言葉を、静かに聞いてくれているようだった。
だから安心して、俺は今、俺の中に渦巻いている言葉をスラスラと口に出すことができたんだ。
「こんな、見てくれは立派に男なんだけどさ。お前の…子供を産める身体になっちゃったらしいんだよ」
不安で、少し息を呑んでしまったけど、それでも俺は、何故かどうしても自分の口で言いたくて、着流しの胸元をギュッと掴んで呟いていた。
見てくれが男らしいってのもどうかしてるんだけどなぁ…と、何気なく呟いたら、蒼牙のヤツが、グイッとわざと乱暴に顎を掴んで上向かせたりするから、俺は痛みよりも吃驚して目を見開いてしまった。
「外見と言うのはな、光太郎が光太郎のままなら、俺はそれだけで構わないんだ。そのままのアンタを愛しているんだから、俺にとってはとてもラッキーなことだと、そうは思わないのか?」
蒼牙らしくないラッキーなんて言葉を聞いて、俺はまたしても驚いたんだけど、それよりも、一番不安に思っていたことをサラリと否定してくれたから、どうしてだろう?そんなつもりはないのに、ポロリと頬を目尻から零れた雫が滑り落ちたりするから、蒼牙のヤツがギョッとしたような顔をしたんだ。
「男らしいくせに子供を産めるなんて、おかしいよな?」
「…何を聞いていたんだ?俺は、アンタがアンタのままでいて、尚且つ、子供まで授けてくれることをラッキーだと言ったんだぞ。ちゃんと、俺の話を聞いているのか??」
ムッとしたように、子供っぽく唇を尖らせる蒼牙の背中に腕を回して、俺はポロポロと涙を頬に幾粒も零しながら、嬉しくて嬉しくて…笑ったままで男らしいその唇に口付けていた。
不安が渦巻く心の霧が、まるでパッと晴れ渡ったかのようなこの高揚とした気分を…なぁ、蒼牙。
お前に判って貰えるだろうか?
お前を愛していこうと決意したあの時から、少しずつ蓄積されていた不安が、その言葉で、一瞬で消え去ってしまったんだってことを、どんな言葉でお前に伝えたら、心まで届くだろう。
俺は、俺は…
「蒼牙」
「なんだ?やっと判ったのか??」
突然のキスにちょっと面食らったような蒼牙だったけど、それでも俺からの口付けを受け取ってくれた俺の、未来の旦那様は、名前を呼べばクスッと笑って顔を覗き込んできたりするから…
「俺は、蒼牙を愛しているよ」
その愛しい顔を確りと見詰めて、あの時決意したように、ちゃんと俺の口で言ったんだ。
もう、迷いも躊躇いもしない。
俺はこの村で、蒼牙と共に生きていく。
◇
蒼牙は驚いたのか、それとも何も感じなかったのか、暫く真顔のままで俺を見下ろしてきたから、俺は…何か悪いことを口走ってしまったのかと、思わず眉を顰めてしまったんだけど。
「うわ!?」
不意に蒼牙に思い切り抱き締められて、素っ頓狂な声を上げちまった!
どど、どうしたって言うんだ!?
「…初めてだ。アンタが俺に愛を告白するなんて」
「へ?そ、そうだったっけ??」
「そうだ!アンタは、いつもはぐらかしてばかりいたからな」
ギュウッと抱き締めていた蒼牙は、ムスッと不機嫌そうに眉を顰めていたけど、それでも、ふと、頬の緊張を緩めたように微笑んで、俺の涙に濡れている頬にソッとキスしてくれた。
「そ、うだっけ…ごめん。俺、照れ屋なんだ」
「だろうな。そう言うことにしておいてやる」
なんだよ、その言い方は。
そんな風にムッとするはずだったのに、今の俺は、馬鹿みたいにポロポロ涙を零して、微笑む蒼牙に笑い返したりするんだから…今の俺は、大概、どうかしてると思うよ。
「一生に一度の愛の告白になるのか。ならば俺は、随分と苛々しなければいけなくなるんだろうよ」
俺を胡坐を掻いた足の上に乗せて抱き締めながら、蒼牙のヤツは不機嫌そうにそんなことを言いやがるんだ。
いったい何時、俺が生涯一度の愛の告白だなんて言った!?
「生涯一度のワケないだろ!」
「へぇ?そうなのか。では、たっぷりと聞かせて欲しいものだ」
「う!」
しまった!!
顔を上げたら、月の光を反射した蒼白髪を庭から吹き込む風に遊ばせて、蒼牙のヤツがしてやったりの顔をして笑ってやがるから…これは、何かとんでもないことを言ってしまったのではと、俺が動揺したって仕方ない。
現に、ヤツの口調はそれを如実に物語っている。
「そ、それは…特別な日にだな」
「では、その特別な日は今だ。そうは思わないか?」
クスッと、意地悪く蒼牙は笑って、動揺して戸惑っている俺の頬に唇を落としながら呟いた。
擽ったくて片目を閉じながら首を竦めつつも、そんな風に、愛しそうにキスしてくれる蒼牙に、そりゃあ何度だって言いたいって思っちうさ。
そうだよ!俺は流され易いんだよッ!!
「蒼牙…愛してるよ」
「ふん」
「愛してるよ、蒼牙…」
子供みたいに素っ気無く瞼を閉じる蒼牙に、俺は思わずクスクス笑ってしまって、それから、男らしい頬に片手を添えて頬や瞼や鼻先なんかにキスの雨を降らせてやったんだ。
おお!俺にしてはすげーサービス精神だ。
そんなささやかな悪戯に夢中になっていたら、蒼牙のヤツが、閉じていた瞼を開いて、思わずドキッとするほど真摯な双眸で見詰めてきた。だから俺は、突然、おかしなもんなんだけど、胸の高鳴りを覚えてドキマギしながら呉高木の若き当主を見上げていた。
「…俺は、生涯、楡崎光太郎だけを愛し続けるだろう。これだけは誓うよ。俺は、光太郎以外の誰をも娶らないし、誰をもこの心に入れるつもりはない」
それは…以前、俺が不安から呟いた言葉を、愛人は何人作ってもいいから、男は俺だけにしてくれと言ったあの言葉を、確りと覚えていた蒼牙の、コイツらしい愛の告白だったんだと思う。
だから、ガラにもないってのに俺は、モノも言えずにただ静かに蒼牙を見詰めていた。
ポロポロと零れていた涙は、何時の間にか細い筋になって頬を滑ると、顎から雫を落としている。
「泣くなと言っただろ?俺は、アンタの涙には弱いんだ」
たった一つの弱点だな…と呟いて、まるで俺を宥めようとでもするように、そのくせ、まるで初めてみたいにソッと、ぎこちなく俺を抱き締めてくれた。
こんな風に、男に抱かれて、そうして愛の告白を受け入れるなんて…少し前の俺なら想像だってしていなかったし、もし、こんな場面に遭遇でもしようものなら、ソイツの鼻面にパンチをかまして、サッサと逃げ出していたに違いない。
でも、運命と言うのは…なんて、不思議なんだろう。
蒼牙の少し早い心臓の音を聞きながら、俺は涙を零しているのに、こんなに幸せなんだ。
「愛してる」…って言葉は、運命と同じぐらい不思議だ。
胸の辺りに蟠っていた何かドロドロとした気持ちが、一気に晴れて、なんだ、こんなことならもっと早く言っておけばよかった…とか、思えちまうほど気持ちよくて素直な、そして、幸福な気分になるんだから。
「そ…が。俺……うぇ…たぶん、きっと、スゲー嬉しい。あ、愛して…る」
ヒクッとしゃくり上げてしまって、うまい具合に言葉にならないってのに、俺にまるで甘い蒼牙のヤツは、俺の後頭部に掌を当てて、泣きじゃくる俺を閉じ込めようとでもするように抱き締めたまま、ムスッとした口調で言いやがったんだ。
「なんだ、その『たぶん』だとか『きっと』って言うのは。素直に嬉しいと言えないのか!?」
クッソー!俺の精一杯の喜びの言葉をぶち壊しやがってッッ!!
ムキッと腹立たしく思ったものの、やっぱり、愛する人に『たぶん』だの、『きっと』ってな不明瞭な表現を言うのは良くないよなと思い直して、俺は、それこそ一世一代の台詞を吐いたんだ。
「俺は…呉高木蒼牙を、愛してるし。この身体も心も全て、お前にやるよ」
グハッ!!こんな台詞は、きっと、将来の俺の可愛いお嫁さんにこそ言ってやるんだとばかり思っていたんだけどなぁ…ああ、でも。
愛しいと想う相手にハッキリと愛してるって言えるのは、豪いこっぱずかしいんだけども、ましてやそれが、理想に思い描いたお嫁さんから随分とかけ離れていたとしても、こんなに嬉しくて、ハッピーな気持ちになれるもんなんだな。
着流しの胸元をギュッと掴んで、朔の礼より一足早く、俺は…いや、俺たちは、永遠の愛を誓い合っていた。
身体はまだ本調子じゃなくてだるいけど、蒼牙が、初めて見る穏やかで優しい笑みをゆったりと浮かべて、頬を赤らめながら嬉しそうにキスしてくれたりするから…ああ、天にも昇る気持ちって、きっとこんな気分のことを言うんだろうなぁ。
蒼牙の少しかさついた唇は、俺の唇をしっとりと濡らしてくれる。
このまま、時間が止まっても、それでも俺はいいとさえ思っていた。
漸く手に入れた宝物を、今度こそ手放さないように、俺はまるで縋りつくように蒼牙の背中に腕を回して抱きついていた。
この温かなぬくもりを、けして手放しやしない。
でも。
どうして俺は…今度こそ…なんて、思うんだろう…