辺りは深い霧に閉ざされていて、少し先も見えないぐらいだ。
それなのに、木立ちに隠れるように流れる川の淵で、俺によく似た顔をしたヤツが幸福そうに微笑みながら振り返っていた。その先には…
(まさか、蒼牙?んな、馬鹿な)
一瞬は呆気に取られたんだけど、真っ赤な髪をした、蒼牙と不二峰を足して2で割ったような、威風堂々とした美丈夫が、よくよく見ていないと見落としてしまいそうな静かな微笑を浮かべて佇んでいたんだ。
愛し合っているというにはあまりに物静かな二人は、男とも女とも言えない中性的な顔をした俺に良く似たヤツが大事そうに両手で作った、小さな水溜りに泳がせている小魚を労わるように見詰めているようだ。
放してもいいかと尋ねる彼に、赤い髪の男は不機嫌そうに鼻先で笑っている。
どちらでも、お前の望むように…
折角捕らえたのに、中性的な顔をしたソイツは、それでも嬉しそうに微笑んで小魚を川に放してしまった。
世の中は大飢饉で、全ての災いを山に棲むという鬼のせいばかりにして、何も対策を練ることもしない村人たちは、中性的な面立ちの彼を人身御供のように山に捨ててしまったんだろう。
(あれ?どうして俺は、そんなことを考えてしまうんだ??)
真っ赤な髪を持つ龍の眷属の子孫は、そんな彼を見つけ出し、どう言った理由でかは判らないけれど傍に置くようになったんだろうな。
最初こそ恐れた彼は、それでも、俺のように、いつの間にか『鬼』と噂される『龍の子孫』に恋心を持つようになったのか。
何もかも判らないと言うのに俺は、そんなことを漠然と考えていた。
考えながら、それが起きたままに見る夢、まるで白昼夢のようなものなのだと悟ったのは、真摯な双眸をしている青白髪の龍の末裔、俺の『鬼』が心配そうに覗き込んでいる顔を見つけたからだ。
「蒼牙…」
「どうした?まるで目を開けたまま眠っているのかと思ったぞ」
「…なんだよ、それは」
ちょっとムッとして唇を尖らせば、少しホッとしたように頬の緊張を緩めた蒼牙が、僅かに苦笑しながら色気もない俺の髪に口付けてきた。そう言う、些細な仕種が様になっていて、ああコイツは、本当に神聖で神秘的な、誰もが崇めるだろう龍の末裔なんだなぁと思って見蕩れてしまった。
俺に良く似た人間を、仕方ないヤツだと静かに笑っていたあの燃えるような赤い髪をした龍の子孫だって、こんな風に、一途に想いを寄せたに違いないのに、どうして…運命は冷たいんだろう。
「あれ?」
「どうしたんだ?!」
ふと、ほろほろと目尻から頬に雫が玉を結んで零れ落ちると、蒼牙のヤツが、まるで呉高木家の若き当主には似つかわしくないほど、僅かに眉尻を上げて動揺したように覗き込んできたりするから…俺はなぜ自分が泣いているのか判らないと言って、涙を拭うことも忘れて蒼牙の胸元に額を押し付けていた。
「ごめん…、きっと安心したんだ」
「俺がアンタに夢中だって知ったからか?それじゃあ、今までの努力は実を結んだと言うことだな」
蒼牙…
「お前でも努力とかするのな」
「なんだ、その言い様は」
心配しながらもそんな軽口を叩けてしまえる俺の旦那様に、呆れ半分、冗談半分でプッと噴出して言い返してみたら、やっぱりちょっとホッとしたように蒼牙は俺を抱き締めてくれた。
何処にも行かないから心配するな。
その力強い腕が、まるでそんなことを伝えているような気がして、俺は酷く安心してしまっていた。
この腕を、俺は手放さないだろう。
たとえ何があったとしても、蒼牙だけは守ろう。
そんな風に考えて、唐突にハッと我に返った。
どうして、こんな幸せな時に不幸なことばかり考えてしまってるんだ、俺?!
よくよく考えてみたら、蒼牙にこっぱずかしい愛の告白とやらを仕出かしてから、俺は少しおかしくなってしまったような気がする。
これも鬼哭の杜の亡者どもが見せている幻なんだろうか…そこまで考えて、俺も随分とこの村の毒気に馴染んじまったなぁと嬉しいような悲しいような、苦笑が漏れてしまった。
でも、いやそうか。
「なぁ、蒼牙」
「なんだ?」
「ちょっと聞きたいんだけどさ、十三夜祭りで踊る舞の、あの鬼と巫女さんに纏わるさぁ。何か言伝えとかないかな?」
月下に浮かび上がる幻想的な日本庭園を背景に、青白髪の、それこそコイツこそがあの『鬼』が具現化して人間になればこんなモンじゃねーのかと思えるほど、キリリとした意志の強そうな面立ちの蒼牙を見上げて首を傾げたら、俺の誰よりも綺麗な、本当は鬼なんて呼ぶには畏れ多い、龍の末裔は驚いたように一瞬だけど目を瞠り、それから少し考えるような仕種をしたんだ。
「先程からどうしたと言うんだ?アンタらしくないな。ボーッとしているのかと思えば泣き出し、泣き出したかと思えば不思議そうな顔をする…まぁ、だが。そんな可愛らしいところが、アンタらしいと言えば、一番アンタらしいのかもしれないがな」
「…あのなぁ」
思わず眉間に眉を寄せて、頬を真っ赤にして胡乱な目付きで見上げたものの、どうもそれが、ただの照れ隠しなんてことは、とっくの昔に蒼牙にはバレてしまっているみたいで、ちょっとむかついてしまった。ははは。
「だが、どうしていきなり十三夜祭りが気になったんだ?」
「えーっと、それは…」
それで俺は、つい今し方見たばかりの夢現の幻か、それとも白昼夢なのか…よく判らない体験を蒼牙に話して聞かせたんだ。そうすると、それまで随分と余裕をかましていたはずの蒼牙のその顔付きが、なんつーか、なんとも形容し難い表情になったから吃驚した。
ど、どうしたって言うんだ?
「蒼牙?」
「なるほど、それで十三夜の舞か。あの話は…そうだな、光太郎」
微妙な表情をしていた蒼牙は、何か意を決したような顔で俺の名を呼ぶから、何か、とんでもない秘密を暴露されるのかと、ドキドキしながらゴクンッと息を呑んでしまった。
「なんだよ?」
「身体の具合はどうだ?」
結果的には拍子抜けだったんだけども、それでもどうして突然、蒼牙のヤツが俺の身体の心配なんかし出したのか良く判らなくて、俺は半信半疑の目付きをしたままで、まるっきり質問に答えちゃくれない蒼牙に頷くぐらいしかできなかった。
いやまぁ、確かに身体は随分と良くなったし、これなら今からでも元気に山登りだってできるぜ!いえーい…ぐらいは頷きながら言ってやったんだけど、蒼牙はそれを聞くと「そうか」とだけ、一言呟いてから、何か思い詰めたようならしくない双眸をして長い青白髪の睫毛を伏せたんだ。
ありゃ、俺何かヘンなこと言っちまったか!?
思わず呆気に取られたものの、不意に不安になって慌てて蒼牙の顔を覗き込もうとしたんだけど…その前に蒼牙のヤツが、何かを決意したような真剣な眼差しで見詰め返してくれたりするから…なんだよ、やっぱり俺は、蒼牙に惚れちゃってるんだなぁとか、今更ながら再認識されられちまったじゃねーか!
いや、問題はそんなことじゃないんだから、確りしろよ俺!
「そうか。では、少しご足労願おうか」
「へ?」
蒼牙のヤツが、やっぱり蒼牙らしいシニカルな笑みを口許に刻んで、そんなことを抜かしてくれたりするもんだから俺は、思わずポカンッと、間抜け面して首を傾げるしかなかったんだ。
◇
「…ご足労ってよぉ、本当にご足労なんだな!」
別に怒ってるってワケじゃねーんだけど、流石に股間から流れる血をやわらかい綿(?)のようなモンに吸わせたまま、腰のだるい身体での登山は悲惨とまでは言わないものの、結構身に応えながら手を繋いだままで一緒に真夜中の山登りを楽しんでいる亭主を見上げて悪態を吐いていたら、件の俺の龍の末裔は真っ直ぐに月下の道先を見詰めたままで口許に微かに笑みを浮かべた。
笑うだけの余裕があっていいよな、全く。
身体がだるいせいで、辛辣になっちまってるのか俺?う、ヤな奴になってんな。
気をつけよう。
「そうだな。弦月の奉納祭を執り行った神社は覚えているか?」
「へ?あ、ああ。あの山頂にある…」
あの神社に行くつもりなのか。
ああ、やっぱり十三夜祭の鬼と巫女は、この龍刃山に縁があったんだなぁとか、俺が少し息を弾ませながら頷いていると、蒼牙は全く別のことを抜かしてくれたんだ。
「いや、あそこは山頂ではないんだ」
「ええ!?」
なぬ!?ち、ちょっと待ってくれよ。
俺は確かに繭葵や桂から、あの神社がある場所が山頂だって聞いたんだぞ。
桂はともかく…って、あの人の場合は状況によっては平気で嘘を吐くからな、その辺だけはいまいち信用できないから別としても、繭葵は違う。あの民俗学の亡者が間違えることなんてない、つーか、ネス湖にネッシーがいないってことよりも有り得ないほどの信憑性の高さだぞ。
「そんなワケないだろ?だって繭葵のヤツが…」
「ああ」
蒼牙のヤツは、繭葵と聞くと何かと子供みたいにムッとしてたってのに、今夜の蒼牙は、それこそしてやったりの顔つきをしてニッと笑いやがったんだ。
まぁ、子供みたいな部分には変わりはないんだけど…なんか、引っ掛かるぞ。
繭葵のこと、嫌いなワケじゃないんだろうけど、何か引っ掛かってんだろうなぐらいは判るけどよぉ、今夜の蒼牙の方がちょっと危険な匂いがする。
うう、なんか繭葵が細胞分裂したみたいで嫌なんだがなぁ…
「繭葵も知らない、呉高木家の秘密ってワケだな」
クスッと鼻先で笑ったりするから、ますます俺の疑心みたいなもので眉間に皺が寄る。
訝しんだところで話は進まないんだけど、それでもやっぱり、なんか胸の辺りがモヤモヤして嫌なんだけどな。
繭葵の知らない呉高木家の秘密…か。
でもまぁ、よく考えてみたら多いよな。繭葵の知らない秘密ってさ。
手近なところだと『小手鞠』たちがそうだし…って、あの場合は、繭葵が可愛い小さな地蔵さんたちの群れに手を合わせて、ウキウキしているように俺と蒼牙の朔の礼が恙無く執り行われて『蔵開き』できますようにと、それこそ邪悪な笑みを浮かべて両目をビカァッと光らせながら呪術でも唱えているように拝んでいる背中をモノも言えずに息を呑んで見守りながらも俺、いつも『民俗学に縁のある地蔵』なんだけどなぁと思ってるんだよな。
それだけじゃないや、『座敷ッ娘』だってそうだし…何より、目の前にいるこの、青白髪が神秘的な綺麗な呉高木家の当主ですら、民俗学者が、いや、考古学者だって誰だって、一度は拝んでみたいと思ってるに違いない、架空の生き物であるはずの『龍の末裔』なんだから、繭葵の知らないことは山ほどあると思う。
それなら、繭葵が知らなくても仕方ないのか、そうか。
独りで納得していたら、蒼牙のヤツは小さくクスッと笑って肩を竦めたんだ。
「俺たちが向かっているのは神社の奥をもう少し登った、本当の頂上だ」
「まだ歩くのか?」
「きついか?」
げ、それはちょっときついかもなーとか思って聞いたってのに、逆に質問されてしまって、俺は仕方なく溜め息を吐いてしまった。
正直に言えば…
「ちょっとキツイかも」
素直に言えば、無言で蒼牙のヤツが抱き上げようとかするから…
「バ!バカだろ、お前!?俺なんか抱えて頂上に登ってたら、夜が明けちまうって」
その手から逃れながら慌てて言ったんだけど、本当に言いたいのは、蒼牙が疲れてしまうってことだ。
コイツは、高校生とは思えないほど、ハードな毎日を送っている。
睡眠時間だって、平均2、3時間程度なんだぜ?
そんなヤツに、喜んでお姫様抱っことかして欲しくない。
だから暴れたってのに…畜生。どうしてこう、俺って非力なんだろうな。つーか、一部とは言えその、女になってからますます体力的に衰えちまったような気がする。
それもこれも、小林さんが言っていた『初潮』ってヤツのせいだとは思うんだけど。
「…蒼牙は本当にバカだ」
「呉高木家の当主に向かって『馬鹿』と罵れるのは、後にも先にも唯一人、アンタだけだろうよ」
ハァッと溜め息を吐く俺をまるで無視して、蒼牙はまるで平気そうに呼吸も乱さずに皮肉っぽく言いやがるから、この際、お望みとあれば何度でも『馬鹿』を連呼してやろうかとムッとして、そんな仕種が子供っぽくて、ちょっと蒼牙化してきている自分にハッとしてしまった。
そうか、惚れると似ちまうのか、癖とか…そこまで考えて、独りで派手に照れてしまった。
まだちゃんと、その、え、えっちもしてないってのに俺、何一人で浮かれあがってんだ。
うぅ、これじゃ恋に恋してる乙女ちっくでうんざりしちまうぞ。
何度目かの溜め息を吐いている間に、今や篝火さえも燈っていない、それこそ昼や夕暮れに見るのとはまた違う、月明かりの下に浮かび上がる神社は何処か荘厳で神秘的でそして…なんつーか、やたら不気味だ。
内心で「うあぁぁぁ…」と、声にならない悲鳴を上げながらも、何も言えずに息を呑んだまま社を見上げている俺を、やっぱり無口な蒼牙はまるで無視して、神社を抜けた奥…って、本当にあった道とも言えない獣道を進んで山頂を目指している。
山頂に何があるのか。
ただ、単純に聞きたかった鬼と巫女との悲恋物語の謂れが、何故かどこかに転がって、思わぬ方向に転げだしたような錯覚に陥ってしまう。
それともやっぱり、鬼も巫女も、呉高木家に因縁があるんだろうか。
或いは…楡崎の家に纏わることなのかな。
どちらにしても俺は、息を呑みながらも、蒼牙が与えてくれる全ての呉高木家に纏わる話を全て吸収して、いつか、蒼牙に相応しい嫁になろうと…柄にもなく、そんな恐ろしいことを考えていたりした。
…そうでもしていないと。
あの幻覚に視た赤い髪の鬼と、両性のように神秘的な雰囲気を持つ人間の、悲しい運命
の顛末を、いや、そうじゃない。
或いは、俺と蒼牙の行く末の顛末を知ってしまいそうな気がして…怖かったんだ。