月が、まるで手に届くような近さに感じて、俺は一瞬、眩暈すら覚えた。
だって、こんな浴衣姿でそんなに高くまで登って来ていないはずの山頂を照らす月は、今まで見たこともないほどの大きさで、もし月光浴とか楽しみたいんだったら、絶好のスポットだなぁとか、そんなどうでもいいことばかり考えている俺は、ふと、思うんだ。
深夜に仕事部屋から戻ってくる蒼牙は、もしかしたら、こんな風に、夜毎この月を見上げて村の行く末を案じていたりするんじゃないかと、そのまだ若い双肩の重い使命のようなものに、やっぱり俺は、ソッと眉を寄せて傍らに立つ綺麗な呉高木家の当主を見上げていた。
「月光浴には最適だな」
本当は心地好い沈黙だったんだけど、何時間だって、こうして蒼牙と二人きりで月を見上げていたい気分だったんだけど、それでも俺は、おどけたように、たゆたうように穏やかな沈黙に水を差しちまった。
「…月光浴だけではないよ。月の光は時に人を狂わせるが、一様に、真実を映し出す無常の光でもある」
蒼牙が何を言いたいのか判らなくてソッと眉を顰めてその真意を探ろうと、間近にある男らしいキリリとした相貌を見上げたら、何処か自嘲気味に笑う蒼牙の顔を見つけてハッと目を瞠ってしまった。
物言いたげなその眼差しには閃くような決意が浮かんでいて、俺は唐突に一人取り残されるような、心許無い不安から蒼牙の着物をギュッと掴んでいた。
「どうした?」
決意しているくせに、揺ぎ無い想いを秘めているくせに、殊更なんでもないことだとでも言わんばかりの顔つきをして笑うなよ。
お前は覚悟していても、いつだって腰抜けの俺は不安で仕方ないんだ。
まさか、これで、お別れだとか言うんじゃないだろうな??
垣間見たに過ぎない幻想を真実のように思い込んで俺は、どうしてこんなにも不安になるんだろう。
結末がたとえ同じだったとしても、俺自身がそれを阻止してしまえばどうってこたない。
そんなこと、判り切っているはずなんだけど、それでもやっぱり、『運命』なんて言う陳腐な言葉の持つ重みに意気地なしの心が震え上がってるのかもしれない。
真夏だと言うのに、山は寒い。
それとも、頼りない気持ちが感じさせる錯覚なんだろうか…
「なんて顔をしているんだ?まるで、取り残された犬みたいな顔だぞ」
蒼牙が静かに笑った。
17歳の若き呉高木家の当主は、いつからこんな笑い方を覚えたんだろう。
俺が17歳の頃なんて、戸惑いながら手探りで生きる…なんて、んな殊勝な真似はできなかった。いつだって向こう見ずの無鉄砲さで、なるようにしかならないと思って生きていた。
その点で言えば、蒼牙もその通りなのかもしれない…いや、コイツの場合は、その上に傲慢不遜大人顔負けってのまでついてくる。
って、よく考えてみたら、とても戸惑いながら手探りで生きているようには見えないな。
でも、違う。
蒼牙は、同じ年の少年の持つ奔放さがないんだ。
思慮深い面差しで静かに笑みを湛えた姿は、その眼差しに見詰められるだけで、俺は泣きたくなるほど切なくなる。
「蒼牙…その」
何が言いたいんだろう?
何が言えるんだろう?
逡巡して躊躇って、でもそんな余裕はないから、俺は引っ掴んでいる着流しを思い切り引っ張って…って、俺如きの力なんかじゃビクともしない蒼牙だから、反対に俺はその胸元に飛び込むようにして頬を寄せたんだ。
「…光太郎?」
突然、抱きついた俺に一瞬だけ驚いたようだった蒼牙は、それでもまるで安心でもさせようとするかのように、そんな俺をやんわりと抱き寄せてくれたんだ。
「俺を!」
馬鹿みたいに怒った口調のままで、俺は両手でギュッと着物の胸元を握り締めながら、両目を瞑って思い切り言ってやった。
「俺を独りになんかするんじゃねーぞ!絶対に、俺より先に死んだりとか、何処か遠くに行ったりとかしたら駄目なんだからなッ。それに、お前は生涯、俺だけを好きでいるんだ。愛人とか…他の誰かを好きになったりしたら…俺が何処かに行くんだからな!」
子供みたいに駄々を捏ねているのかもしれない。
子供を授かる身体を手に入れてしまったのだとしたら俺は、それまで、仕方ないと諦めていた呉高木家の古い因習の『愛人を認める』なんてこと、考えられなくなっていたってのは否めない。
だからこそ、蒼牙が言ったことが正しいのなら、真実を映し出す無常の光である月光の下で、俺は言っておきたかったんだ。
醜い我が侭なのかもしれないけど、たとえそれが、守られない約束だったとしても、俺は俺の意思をキチンと伝えておきたかった。
そうじゃないと、これから聞いてしまう何か大変なことを、受け入れられないかもしれないから…俺はきっと、凄く弱い人間だから。
ごめんな、蒼牙。
カタカタと、意気地なしの肩が震えて、蒼牙が今、どんな顔をしているのかを見る勇気すらなくて、俺は目を閉じたままでその答えを待っていた。
ふと、蒼牙はまた、あの笑みを浮かべたようだった。
はにかむような、照れ臭いような…雰囲気が、あんなに張り詰めていた空気が、まるでフッと肩の力が抜けたように軽くなったから、俺は恐る恐る顔を上げようとして、反対に蒼牙のヤツに頭を押さえ込まれてしまった。
と言うことはだ、つまり俺の顔は必然的に蒼牙の胸元に押さえつけられる形になったワケだから、その珍しい表情を見ることはできなかったってことだ。
「俺は言わなかったか?生涯、アンタだけを愛し続けると…なるほど、それだけでは納得できないんだな?では、すぐにでもその身体にじっくりと教えてやってもいいんだぞ」
「グハッ!」
思わずギョッとする俺に、蒼牙のヤツはクスクス笑うと、あちゃーっと眉を寄せている俺の肩を掴んで顔を覗き込んできやがったんだ。
「…だが、それは晦の儀まで取っておこう。楽しみは引き延ばされれば引き延ばされるほど、喜びが倍増するからな」
「なんだよ、それは」
ウヒーッと顔を真っ赤にしたままでムッと唇を尖らせると、今夜は機嫌が頗る良いのか、蒼牙は相変わらずクスクスと笑いながら尖らせたまんまの唇に啄ばむようにキスしてくれた。
思わず目を閉じてしまったら、蒼牙は懐から何時の間に取り出したのか、何かふわりとしたモノを俺の肩に羽織らせてくれたんだ。
寒くはないんだけど…そのふわりとしたモノは、心地好い温もりを与えてくれる。
なんだろ、これ。
ふと、閉じていた瞼を開いて、間近にある蒼牙の顔を見詰めながら首を傾げたら、件の青白髪のご当主様は、何処か困ったような、複雑な表情で微笑んだまま、そんな俺を見下ろしてきたんだ。
「なんだ、これ??」
ふわりとした、半透明の桜色の不思議な布は、まるで羽根のような軽さで、いや、乗っかっているのかも判らないほどの存在感のなさで、俺の肩に引っ掛かっている。
「判らないのか?」
「…いや、布ってのは判るけど」
俺のすっ呆けた返事に、流石の蒼牙も呆れたのか、仕方ないヤツだとでも言いたそうな顔つきをして俺の色気もクソもない髪に唇を落としたんだ。
「これは…遠い昔に、俺の先祖が隠してしまった【天女の羽衣】だ」
「へ??」
座敷ッ娘が言っていた、おっちょこちょいの天女が失くしてしまった羽衣が、これだって言うのか??
「んな、まさか」
「それがまさかじゃないのが、呉高木家であり、楡崎家なんだろうよ」
クスクスと蒼牙が笑えば、俺もなんだか可笑しくなって笑ってしまう。
そうだよな、なんでも有りが龍の末裔の呉高木家であり、天女の末裔の楡崎家なんだろう。
「天女が失くしてしまったと思い込んでいた羽衣は、実は天空に帰したくなかった蛟龍が必死に考え出して導き出した得策の成せる業で、呉高木家の蔵の中に眠っていたと言うワケだ」
「なるほど。ってことは結果的に、楡崎の当主と引き合わせることになったんだから、得策どころか、とんだ愚作になっちまったってワケだな」
「そこまでは蛟龍も考えてはいなかったんだろうよ」
蒼牙はそう言って笑うと、少しだけ目線を伏せてしまった。
もし、何事もなく天空に帰していたら、或いは、こうして永い時を超えて連綿と受け継がれてきたこの不毛な連鎖など起こらなかったのかもしれない。
そんなことを、蒼牙は考えたんだろうか…?
ギュッと掴んでいた着物を握る手に力を込めたら、青白髪の神秘的な長い睫毛を瞬かせて、蒼牙は不思議な青みを帯びたドキリとするほど真摯な双眸で見下ろしてきたから…俺はちょっぴり頬を染めながら、それでも確りとその目を見据えて言ったんだ。
「それでも俺は、そんなお茶目な蛟龍に感謝してるんだぜ。こうして、俺は蒼牙と出逢えたんだ。たとえそれが、先祖の因縁だとかそんな不確かな原因であっても、やっぱり俺は、感謝する。うん、絶対だ」
「…そうか」
何が嬉しいのか、切なくなるほどホッとしたように、蒼牙は俺を見下ろして微笑んだ。
「たとえ俺が、今在る姿ではなくなっても、同じ言葉を誓えるのか?」
「…へ?」
不意に、やっぱりドキリとするほど真摯にそんな言葉を呟くから、俺はビックリして蒼牙の顔をマジマジと見上げてしまった。
蒼牙の青みを帯びた不思議な瞳の中にポカンッとする間抜け面の俺が映っているんだけど、俺の色気も取り得もない黒い瞳の中に、蒼牙は少し辛そうな自分の顔を見出しているんだろうか?
それはとても、切ないよなぁ、蒼牙。
「おう!誓えると思う…いや、そうじゃないな。誓えるさ!俺は、俺と蒼牙を出逢わせてくれた運命にすら感謝してやってるんだからなッ」
ヤケクソってワケでもなかったんだけどさ、フフーン!っと胸を張って言ってやったら、何をそんなにお互いで心配しあっているのか、馬鹿な俺たちはどちらからともなく笑ってしまう。
まるで今までのしこったモノが嘘のように消えてしまって、愛し合っている…なんて言ったらこっぱずかしいんだけど、俺たち二人は、明るい月光の中で幸せそうだ。
「たとえば蒼牙が、ふためと見られない姿になったとしても、俺は蒼牙だけを愛するよ」
抱き付いたままでフフンッと笑ってやったら、蒼牙のヤツは、今まで見たこともないほど照れ臭そうに笑ったりしたんだ。
そんな顔されたら俺…惚れ直しちまうだろうが!
ドキドキ高鳴る胸を抱えたままで、このままキスされるんだろうかとか、期待している自分がちょっと恨めしかったりするんだけどな。
「天女は羽衣を…」
でも蒼牙は、そうじゃなかった。
キスしてくれずに、不意に口を開いたんだ。
俺の必死の愛の告白に照れ臭そうな顔をしたくせに、それには応えてもくれずに、今更天女の羽衣なんか俺には関係ないってのにさぁ…キスもしてくれないなんて、酷いんだぞ。
ムッとしている俺なんかお構いなしに、蒼牙は不貞腐れている自分の花嫁を抱き締めたままで、まるで素朴な疑問を口にしたんだ。
「どうして必要だと思う?」
「はぁ?えーっと…それは、空を飛ぶ為だろ?」
「そうだな、簡単に言えばそれが正解だ。だが、厳密に言えば違う」
「ふーん?」
でも、遠い昔の物語なんかだと、天女の羽衣は天空を浮遊する為に必要な物だって言われているんだぞ?羽衣がないから、空を飛べなくて、天女は人間の男の許に留まってしまったんだ。
あれ?違ったっけ??
「半信半疑だな。だが、それも仕方のないことだ」
蒼牙はそんな訝しそうに眉を寄せている俺にクスッと笑ってから、肩からずり落ちている羽衣を綺麗に直してくれた。
「ああ、でもそうだな。こうして羽織っているのに、俺は空を飛べないや。やっぱり何代も後になると、血が薄くなりすぎて浮遊力をなくしちまったのかな??」
首を傾げていたら、蒼牙のヤツはそうじゃないと首を左右に振ったんだ。
「天女の浮遊する力を受け継がなかっただけさ。そもそも、その羽衣にはそんな力は宿っちゃいない」
「そうなのか?」
「ああ、羽衣自体には浮遊する力などないんだ。だが、天女とて身体そのものは人間に近い。と言うことは、天空の冷気は身体に堪えるんだろう」
んん??…ってことは羽衣って言うのは。
「この羽衣は、空を自在に飛翔する天女たちの防寒具だったのさ」
「なんだ、それ??」
呆気に取られる俺に、蒼牙のヤツはシニカルに笑いやがるから、できれば殴りたくなった。
きっとそんな話は嘘だろうって思ったからな。
でも、真実はまるで違っていた。
「でも、そう言われてみればこの羽衣、あったかいな」
そうか、でも案外、蒼牙の言うことは嘘じゃないような気もする。
あの薄着で空を飛翔するってのもなんか胡散臭かったんだけど、羽衣が防寒着になってるんだったら、なるほど優雅にふよふよ飛んでてもおかしくないってワケだ。
「…あれ?でも、どうしてイキナリそんな話をして、俺にこの羽衣を貸してくれたんだ??」
「貸したんじゃない」
蒼牙はそう言ってから、名残惜しそうに俺から身体を離してしまった。
羽衣は暖かくて、月も綺麗な真夏の夜だと言うのに俺は、蒼牙が離れてしまっただけでどうして、こんなにも薄ら寒さを感じてしまうんだろう。
思わず、我が身を抱き締めるようにして腕を組んでそんな蒼牙を見詰めたら、呉高木家の当主として常に威厳に満ちた、自信に溢れた表情をするはずの俺の旦那さまは、照れ臭そうな、寂しそうな、なんとも言い難い複雑な表情をして間抜け面で立ってるに違いない俺を見詰め返していた。
月を背景に、綺麗な青白髪の美丈夫の表情なんか、本当は朧げにしか見えないってのに、それでも蒼牙の、そして俺の、心許無い気持ちが手に取るようによく判る。
「それはもともと、アンタのものだ。数百年以上も経ってしまったが、漸く持ち主の手に戻っただけのことさ」
俺は…羽衣なんか欲しくない。
こんなモノを貰ってしまっても、俺は今更天空に戻るワケでもないし、そもそも、本当は俺、自分の体内に天女の遺伝子があるなんて思ってもいないんだ。
そう言う好都合をただ利用して、蒼牙の傍にいたいなんて…柄にもなく思っただけで、これじゃあ、天女に恋焦がれて自分のものにしたがっていた蛟龍と、なんら変わりないよな。
実は俺の方が蛟龍の末裔だったりして…なんつって。
そんな恐ろしいことを意味もなく考えながら、俺は何故か不安に駆られちまって、肩から力なく垂れている羽衣の裾をギュッと両手で握り締めていた。
「俺…羽衣とかいらねーよ。だって、今の俺には必要ないから」
「いや、必ず必要になる」
「は?」
妙に自信たっぷりにそう言った蒼牙は、青白髪の神秘的な睫毛をソッと伏せてから、小さく自嘲的に笑ったみたいだった。
「まずは、鬼と巫女の御伽噺を物語る前に、アンタには呉高木家の、いや、俺に纏わる秘密について知っていて貰わなければいけない」
「…蒼牙の秘密?」
「ああ、そうだ」
そう言ってから、蒼牙は…あれ?どうしたんだろう。
なんだか急に周囲がグニャリと歪んで、蒼牙の姿がぼやけたような気がする。
俺が慌てて目を擦っている間にも、こんなに狭い山頂だって言うのに、蒼牙との距離がどんどん離れて行ってしまうような錯覚に、急に不安になって俺が走り出そうとしたまさにその時、一瞬、目を覆いたくなるような閃光が辺りを真昼のように照らし出したんだ!
「!?」
きっと、遠くからこの龍刃山を見た人がいたなら、一瞬だけど山頂が光り輝くのを目撃したに違いない。
それほど、閃光は眩しくて、真っ白だったから。
「…そ、蒼牙?」
何が起こったんだと、閉じていた瞼を恐る恐る開いた俺の目の前。
月明かりが静かに照らし出す、あれほど眩しかった閃光は今は鳴りを潜めてしまった、周囲を木々に囲まれた静寂の山頂で…俺は呆気に取られたようにポカンッと目の前を見詰めていた。
蒼牙が立っていたはずの場所から、そう遠くない空に、ソレは優雅に立っていた。
そう、立っているって表現する方が正しいと思うんだけど、両手を身構えるように胸元の辺り(?)で構えている、青味を帯びた白銀の龍は、夜風に長い口許の髭を棚引かせながら、金色の双眸で俺を見下ろしていたんだ。
龍が、月を背景にゆったりと浮かんでいる…なんてこと、いったい誰が信じるって言うんだ?
蒼牙は何処に行ったんだ!?
目の前に在る、コレはなんなんだ!!?
いや、伝説上の龍ってのはよく判る、判るけど、信じられん!
突発的な出来事に対応するにはあまりにも考えることが多過ぎて、声も出せなかった俺は、不覚にもそのまま目を回していた。