天女の羽衣は夜風を受けていると言うのに、まるで重力を無視するかのように、ふんわりと俺の身体に纏わりついている。そのおかげで、寒さを凌げているんだけど、それでもやっぱり、こう言う雰囲気はいつまで経っても慣れるもんじゃないよなぁ。
龍の思考なんて判りゃしないんだけど、相手はただの幻想の龍ってだけじゃない。
なんだか、凄い運命とか、そんな目に見えない奇妙な縁で繋がった俺の旦那様である蒼牙なんだ。
コイツの考えてることぐらい、判ってやれる伴侶になれたらいいのに。
ふと、溜め息を吐いたら、蒼牙は俺の気配で何かハッとしたようだった。
どうも、やっぱり蒼牙のヤツも思案にくれていたんだと思う。
でもどうして、遠い昔の話に、そんなに悩んでいるだろう?
「蒼牙さぁ、本当は紅河のこと話したくないんじゃないのか?」
コイツが口篭るのは、だいたい、聞かれたくない話だって判る。
ここに来て、本当はそんなに時間は経っていないはずなんだけど、俺にとって、もう随分と長いこと、この村に暮らして蒼牙の傍にいるような気持ちになっていた。
だから、話したがらない蒼牙の気持ちも判るから、聞かないでいるべきならそれでも構わないと思えるんだ。
その、やっぱり…愛してるヤツが苦しんだり悩んだりする姿は見たくないしな。
《…そう言うワケではないんだがな》
夜風に靡く髭がピクリと動いて、何故だか判らないんだけど、蒼牙のヤツが少し嬉しそうな気がした。
声だけでは判らない、微かな変化だけど、俺はそれを感じていた。
《一族の中でも、紅河は風変わりなヤツだった》
ポツポツと語る蒼牙に、俺はクスッと笑って茶々を入れた。
「お前以上に風変わりなヤツとかいたのか」
《酷い言われようだな》
ちょっとムッとしたような声音だけど、実際はそんなに怒っちゃいないことが十分判るから、俺は風に揺れる蒼牙の背ビレ(?)を掴んだままクスクスと笑ってその背中に上体を倒して頬を摺り寄せた。
だってさー、お前みたいに男の俺を愛してくれて、ついには両性具有にしちまうのなんか、蒼牙ぐらいしかいないって絶対思ったもんな。その蒼牙に風変わりなんか言われるんだ、どんなヤツか非常に興味はある。
《…ふん。風変わりに決まっている。紅河は天女の末裔である楡崎の者を欲しなかったからな》
「え?」
ふと、楽しげな雰囲気の中で、蒼牙の声のトーンが低くなったような気がして、胸の辺りがドキリとしてしまう。
そりゃ、大飢饉の年、生贄として求めた…ってぐらいだから、心の何処かではここぞとばかりに天女の末裔である楡崎の人間を所望したんだろうと思ってたんだ。
それが、まるで当たり前だと思っていた。
だから、きっと、蒼牙は俺を嫌いになったりしないなんて、どうして思えるんだろう。
《紅河が望んだのは、山に捨てられた名もなき人間だったのさ》
蛟龍にだって、それぞれの性格があるはずなのに。
《両親を戦で亡くし、口減らしに山に打ち捨てられた人間を一目で愛してしまった紅河が何よりも必要としたのは、その人間の存在だったんだろう。だが勿論、一族はそれを許さなかった》
そりゃそうだ、呉高木の一族にとって、天女の血は悲願だったに違いない。
なのに、その当主は、楡崎ではない血の持ち主を愛してしまった。
《全てが失われていく飢饉の最中で、それでも、紅河はその人間を匿って傍に置き、慈しんでいた》
それは、幻のように見た、あの幻影の中でもよく判った。
見守る双眸の切なさも、まるで自分のことのように辛かった。
その視線の意味を知っているあの青年は、心の奥深いところにソッと気持ちを隠したままで、幸せそうに笑っていた。悲しいことばかりが渦巻いていたのに、どうして、そんな顔ができるんだと不思議だった。
《だが、一族の執拗な詮索はすぐに楡崎ではない人間の存在を嗅ぎつけてしまった》
別れの瞬間が近付いていると知っていたはずなのに、どうして、あんな風に幸せそうな顔をして笑えたんだろう。
《たった二人きりで、生きていくにはあまりに辛い時代だった。にも拘らず、紅河は二人で生きることを望んだ。だが、人間はそれを望まなかった》
「…愛する人が幸せになってくれるのなら、俺だって、喜んで崖から落ちるさ」
それ以上聞かなくても、十三夜祭りでその先は知っている。
《確かに、追い詰められた人間は崖から身を投げた。来世の出逢いとやらを信じたんだろう。だが、話はそれでは終わらなかった》
「へ?」
至極真面目な蒼牙の台詞に応えるには、俺の返答はあまりに間抜けなものだったと思う。
《ソイツを救えなかった、守ることもできずに一族を選んでしまった自分に怒り狂った紅河は、こともあろうに、けしてしてはならないことをしたのさ》
なんだと思う?と、あれほど真面目な口調だったくせに、蒼牙のヤツは話の重大さのわりには、意外と軽い調子で聞いてきたりするから、どんな顔をしたらいいのか判らない俺は首を傾げるしかない。背ビレでそれを感じたのか…ってのもヘンな言い方なんだけど、蒼牙のヤツはひっそりと笑ったようだった。
《楡崎の一族を滅ぼそうとしたのさ。全ての原因は、そこにあると思ってな》
「…それは」
本当は、俺自身、そう思っていることは蒼牙には内緒だ。
もし、天女が悪戯に舞い降りさえしなければ、人間の男は恋をすることもなかっただろうし、天空に住んでると言う偉い人だって蛟龍を地上に行かせたりはしなかっただろう。
全ての歯車が天女から始まっているのだとしたら、その罪は、やっぱり楡崎の血にあるんじゃないかなぁ。
《それは違う。アンタはやはり、優しすぎるんだよ》
「そうかなぁ~…って、俺、いま口に出してないんだけど。どうして、お前が応えるんだよ!?」
ずっと気になってたことなんだけど、ジトッとぼんやり光る不思議な白銀の龍の背中を睨んで呟いたら、蒼牙は一瞬黙り込んだけど、軽く溜め息なんか吐きながら言いやがったんだ。
《なんだ、気にしていないのかと思っていたが…本体に戻ると、だいたい、人間の考えていることは判るようになる》
おお!ソイツは便利だ~♪…とか言うと思うなよ。
「なな、なんだって!?じゃぁ、俺が考えてること、ずっと判ってたってことなのかよ!?」
俺の動揺を隠し切れない声に、蒼牙のヤツがニヤニヤと笑っているようだ。
うひ~っ、たぶん、スゲー恥ずかしいこととか考えてたと思うぞ。
口に出しては言えないあんなこととか、こんなこととか…その、大半が、蒼牙のこと、愛し
てるとか…ぎゃーっ!!穴があったら入りたいぐらいだッッ。実際に、穴があって入ったらも
っと恥ずかしくても、それ以上の恥ずかしさだ、こんちくしょーーーッッッ!!
思わず蒼牙のぼんやりと月明かりにキラキラ光る背ビレに突っ伏すようにして、耳まで真っ赤になった俺が声も出せずにアワアワと慌てふためいていると、蒼牙のヤツはやれやれと溜め息を吐いて苦笑なんかしやがった。
うう、殴りたい。すんげー殴りたい…
《心配するな。言っただろう?だいたい、こんなことを考えているだろうと判る程度だ。明白に理解してるわけじゃない》
「そ、そうなのか?じゃあ、なんとなくのニュアンスってことか?」
《…まぁな》
う、今の微妙な間はなんだ!?
なんなんだ、今の微妙な間は!!?
《はっはっはっ、気にするなよ。俺を愛していることは、アンタが思わなくても端から判ってることだ》
あ、なんだそうか。
そうだよなー、はははー
「って、違うだろ!?おま、やっぱ、俺が考えてたこと全部判ってるんじゃねーか!!」
《ニュアンスだ、ニュアンス》
ぐぅ~…なんか、非常に理不尽なんだけどよ。
不思議な青白い白銀の龍は、殊更、機嫌が良さそうで、ともすれば鼻歌なんか口ずさむんじゃないかと不安になるほど上機嫌だ。
「…そりゃ、その、まぁ…口に出さない方が悪いとは思うけどよ。俺だって恥ずかしいんだ!」
ムッスーと不機嫌そうに唇を尖らせて悪態を吐けば、蒼牙のヤツは軽い調子で《判った判った》とか言いやがるから、これじゃあ、いったいどっちが年上なのか判りゃしねーよ。
「でも、その…思ってることは確かだから、その通りだと思う」
思ったよりもやわらかい背ビレに頬を寄せて、俺は顔を真っ赤に茹で上がらせたままで、瞼を閉じて心を込めて口に出さずに囁いた。
本当は、今は天女に感謝してるんだ。俺と蒼牙を結び付けてくれたのは、この頼りない宿命めいたもののお陰だから…
《いや、それは違う。俺が紅河と同じ立場だったとしても、やはり俺は天女の末裔である楡崎の血を…》
その台詞の続きは聞かなくても判ってる。
火照る頬を夜風がやわらかく撫でて、蒼牙の背中に抱きつくようにして凭れている俺は、そっと目線を伏せて吐息した。
あれほど、俺を愛してくれている蒼牙だから、楡崎の血を何よりも大事にしてくれてる。
俺が天女の末裔じゃなかったら…いや、考えたって仕方ない。
この、まるで儚い、頼りない因縁のおかげで、俺は蒼牙に愛してもらえるんだから…欲張っちゃダメなんだよ。
《違うと言っているだろうが。アンタはいつも、独りで突っ走るからな。放っておけないんだ》
蒼牙が憤懣やるかたなさそうに鼻息を荒々しく吐き出すと、長い白銀の髭をピクリと動かして、それでも機嫌が良さそうな気配に、俺はムッとした。
当たり前じゃねーか。
どうして、こんな物悲しいのに、蒼牙だけ1人幸せそうなんだよ。
《楡崎の血を滅ぼそうと考えるだろう…これも違うか。俺の場合は、まず一族を選んだりしないからな。アンタを手に入れる為に当主になったんだし、アンタが楡崎の血じゃなければ、喜んで龍雅に当主の座なんぞくれてやったさ》
ははは…っと、蒼牙にしては、凄く上機嫌そうに笑った。
俺の為なら、女になってもいいとすら言ってのける蒼牙だから、もしかしたら俺がたとえ楡崎の血じゃなくても、いつか出逢えていたのかな…とか、まるで恋する乙女みたいに喜んでしまっている俺って。
「んで、蒼牙は葵姫のまま、俺を愛してくれるのか?」
《勿論だ。アンタが楡崎の血じゃなければ、アンタの性別はそのままだからな。そうすれば、俺が女じゃないと駄目だろ?アンタがそれを許さないはずだ》
「…そんなこと、ないと思う」
たとえお前が男だったとしても、きっと俺は、お前を愛してるよ。
《は?》
俺がポツリと呟いたら、蒼牙は一瞬、本気で呆気に取られたような、間抜けな声を出したんだ。
いったい、俺が何を言い出すんだと、訝しんでいる気配が手に取るようによく判る。
だってさ。
「俺、両性体になったから蒼牙を好きになったワケじゃねーだろ?俺、ちゃんと俺のままで、蒼牙を好きになったんだぜ?」
クスクス笑ったら、蒼牙は《ん?》と眉間に皺を寄せて考えているようだったけど、唐突にムッツリと黙り込んじまったんだ。
ふふーん、俺から一本取られたからってさ、凹むこたないと思うんだけどな♪
ニヤニヤ笑いながら蒼牙の背中…じゃないんだろうけど、鱗の覆われた部分にキスしてやった。
蒼牙はちょっと擽ったそうだったけど、それでも、暫くは黙ったままだった。
その沈黙は、驚くことにスゲー心地好かった。
いや、してやったりで心地好い…とかじゃないんだ。
なんつーか、その、幸せだと噛み締めるような嬉しさだとか、そんな感じだ。
《…なるほど、そう言われてみればそうなんだろうな。アンタは別に、性別が変わったから、俺を愛したワケじゃない。最初から、俺に惚れたんだったな》
うんうん…って、ハッ!?
俺、もしかして今、とんでもないことを告白しちまったのか!!?
…グハッ!俺、とんでもねー恥ずかしいことを言っちまった。
たぶん、この夜風と最高に綺麗な光景のせいで、心が緩んじまったんだよ。
月明かりにたゆたうように浮かぶ白銀の龍は泣きたくなるほど綺麗だし、陰影が見事な山も田んぼも何もかも、どれもが懐かしくて、俺の心を開放しちまうから、なんでもペラペラ喋っちまうんだ。
もう、気分的には身から出た錆に転げ回りたいほど恥ずかしがる俺を無視して、蒼牙は吸い込まれそうなほど綺麗な星空を見上げているようだった。
《紅河も、この気持ちを忘れなければ或いは…》
「…?」
ポツリと呟いた台詞の語尾は夜風に攫われて、俺の耳にまでは届かなかったんだけど、蒼牙は嬉しいような悲しいような、なんとも言えない雰囲気を醸し出していた。
龍の姿では計り知れないんだけど…でも、ふと俺は思うんだ。
どうして、蒼牙はこんなに紅河のことを案じているんだろう。
もう、百年以上も前にいなくなってしまった、この山の守り神であった紅河を。
蒼牙はどうして、我がことのように傷付いているんだろう。
胸の辺りにチクリと、何かが刺さったような気がした。