第一話 花嫁に選ばれた男 6  -鬼哭の杜-

 『望月の儀』と言うのは、十五夜の日に行われる神事の一種で、この呉高木家は代々月齢を遣って神事を執り行っているらしい。月齢…と言っても独特なモノらしく、俺にはよく判らないんだけど巫女の神託?のようなもので決められた月齢を初めに、それぞれの神事を順々に執り行うんだそうだ。
 話は戻るけど、そんなワケで『望月の儀』が花嫁を選出する為の神事で、特別に行われる『弦月の儀』と言うのは本家の限られた一族しかその内容は知らないらしく、『晦の儀』と言うのがまあ、俗に一般で言うところの初夜らしい。
 そして新月である『朔の礼』が婚礼の行事のことだそうだ。

「げげ!?ってことは何か、呉高木の方針だと婚礼の前に初夜をするのか!?」

「うん、そーらしいね」

「そーらしいって、お前…」

 暢気に広縁に腰掛けて足をブラブラさせながらジュースを飲んでいた繭葵は、大したことでもなさそうにケロッとした顔で笑いやがった。

「えーっと、ちょっと待てよ。じゃあ、晦の夜に花嫁を選ぶってワケか?」

「うーん…それはちょっと違うね。晦の夜に花嫁候補、まあボクたちの場合だと3人を当主が抱くんだよ。その中で身篭った人が花嫁になるんだけど、婚礼のお式では気に入った娘を正妻にするんだってさ」

「…現代の日本じゃ果てしなく信じられん話しだが、つまり、たとえ正妻になっても子供を身篭ったヤツが別人だったらソイツが正妻になるってことか?」

 カランッと、小気味良い音を立てて勝ち割り氷がグラスの中で転がって、麦茶の体積を少しばかり増やしたようだった。
 ミーンミーンッと蝉時雨が降り注いで、田舎の夏はどこか懐かしい匂いがする。

「あれ?言い方がおかしかったかな。だから、身篭った娘が正妻になるってことは、当主は正妻にするつもりの娘しか抱かないってことでショ?どっちにしても、ボクたちの場合だと正妻は光太郎くんしかいないってことだけど♪」

 突き抜けるような蒼い空に入道雲が白い姿を見せて、遠い翠なす山々をまるで覆っているようだ。そんなのんびりとした光景にまるで似つかわしくない溜め息を吐いて、俺は思わず項垂れそうになってしまった。

「まあねー、助平な当主なら全員抱いて愛人にするんだろうけど~」

 ニヤニヤ笑いながら平然と言いやがる繭葵に頭を抱えそうになった俺はだが、気を取り直して口を開いた。

「んー…まあ、じゃあこうだな?普通と違うのは婚礼の夜が初夜じゃないってだけか」

「あー、そうそう!それだよ、光太郎くんってばあったまいいじゃーん♪」

 喜べない誉め方でありがとうよ。
 何にでも当り散らしたい気分の今だと、思わずジトッとした目付きになりそうで、別に繭葵は何にも悪かないんだから無節操な自分が恥ずかしくなって頭を掻いてしまう。

「はぁー…世の中にまだ、こんな村があるなんてなぁ」

「ん?それはちと、聞き捨てならない発言だね」

 繭葵は眉を寄せてキョトンッとしている俺を睨むようにして覗き込んできた。

「な、なんだよ?」

「あのねぇ、光太郎くん。キミは知らないだろうと思うけど、日本の各地にはこんな風に、文明から隔離されたような閉鎖的な村は結構多くあるんだよ~?ここを離れた後、ボクが今度行きたいのは神寄憑島なんだよねぇ。あそこには御霊送りって言う儀式があるんだってさ。面白そうだよね~♪」

 ワクワクしたように大きな瞳をキラキラさせながら話す繭葵の内容に、ハッキリ言って興味もない俺としては「そーですかい」程度で聞き流してしまった。
 今、俺にとって大事なことは、どうやら神事の一部始終は粗方判ったものの、やっぱどうしても逃げ出すわけにはいかないのかと言うことだったからな。
 広縁に胡座を掻いて座っていると、冷えて水滴のついたグラスからカランッと小気味良い音を立てて氷を口に流し込む繭葵が、ガリガリと噛み下しながらその目付きを獲物を見据えたハンターのようにギラギラさせて興奮気味に言ったんだ。

「あうぅ~!!龍刃山の中腹にある、あの神堂に入ってみたいよね!?『弦月の儀』って何をするんだろ?う~気になるッ!!」

「別に気にならねーけどな。どうせ、呉高木の神事なんざ碌なことしないって」

「そうかな?なんか、鳩尾の辺りがゾワゾワするんだよね。これって絶対何かある証拠なんだけど…」

 確信でもあるかのようにニヤリと笑う繭葵を、ああそうか、コイツも妖怪の一種だったんだと思いながら俺は溜め息を吐いた。
 自分のグラスの氷を食い尽くしてしまった繭葵は、手持ち無沙汰に足をぶらつかせて、そのくせどうでもいいような顔をして下唇を突き出して見せる。

「あーあ、見たいなぁ。巫子さんの舞」

「巫女さんの舞?」

「なんだ、そー言うことも知らないのか。自分が嫁ぐ村の情報ぐらいはリサーチしておくべきだゾ~♪」

 嫁ぐ気なんかさらさらなかったんでねと、俺が意地を張って軽く睨むと、繭葵は肩を竦めながら「はいはい」と言って笑いやがる。くそー、現に養子になるつもりで来ただけだい。
 まあ、養子も一緒のことか。

「どーせ、光太郎くん。今、巫子って言ったら女の付く巫女さんだと思ったんでショ?呉高木家の巫子は違うからね。男も女も指す巫子なんだよ」

「へえー、知らなかった」

「ふっふーん♪そう言うことはホント、ボクに聞くべきだよ!」

 ピンクのチェニック姿で胸を張る繭葵は確かに女の子らしいけど、どうしてこう、口調はボーイッシュなんだろうなぁ。小雛みたいに楚々とすりゃあいいのによー まあ、そんなこたぁ俺に言われる筋合いはないんだろうけどな。
 ああ、じゃあ月齢を決めるのも『巫女』じゃなくて『巫子』さんね、ふーん。

「蒼牙の婚礼ではその『弦月の儀』が特別に執り行われるんだろ?じゃあ、誰が舞うんだ?」

「へ?そりゃモチロン、眞琴さんでショ」

「眞琴さん?」

 キョトンとしていた繭葵はそれから、思い出したようにハッとした。
 それから嬉々として俺を振り返ると、嬉しそうにガシッと俺の両手を掴んでブンブンッと振り回す。
 うを!?コイツ、意外と力が強いぞ!

「そーだ、忘れてた!もう、どーしてこんな大事なこと忘れちゃうかな、ボク!弦月の儀の時って、奉納祭が同時に行われるんだよね。弦月の儀自体はいつ行われるか一部の一族しか知らないからボクは知らないんだけど、でも折角だから奉納祭ぐらい見に行こうよ♪」

 腕を振り回されて顔を顰めている俺を楽しそうに誘う繭葵の申し出に、どうせ暇人の俺はそうだなーと頷いていた。

「弦月の儀と時間をずらしてるみたいなんだよね。だって、奉納の舞も巫子と当主が舞うんだから♪」

「へー、蒼牙も舞うのか」

「うん、ってゆーかさぁ。十三夜祭りの時も蒼牙様、舞ってたでショ」

 十三夜祭り…って、へ?アイツ、いつ舞ったって言うんだ??
 ああ、そっか。
 あれからもう何年も経ってるんだ、あの後、きっと俺の知らない時間の中で、当主になった時にでも舞ったんだろう。
 確か、あの祭りは鬼と巫女の悲恋を物語った昔話なんだけど、その鬼と巫女の魂を慰めるとかで決められた月の一番最初の新月から数えて13日目、つまり十三夜に奉納の舞いを踊るんだよな。

「ふーん、アイツも当主だからな。なんでもできなきゃ駄目なんだろう」

「はぁ?何言っちゃってるんだよ。もうずっと、十三夜祭りは蒼牙様が踊ってるんだよ」

「…マジで?」

 うんっと頷く繭葵のキョトンッとしている表情に嘘を吐いているような感じは見えないし…ってことはじゃあ、あの17の夏に一緒に舞を舞ったのが蒼牙だったのか?
 そう言われて思い出してみれば、目許に幼さを残していたけど、キリッとしたあの双眸もキュッと引き結んだ意志の強そうな唇も、蒼牙と言われればそんな気がしなくもない。だがもし、俺と明らかに同じ年に見えたあの少年が蒼牙だったとすれば、うわー、なんだ俺、6歳も年下のヤツにビビッてたってことかよ。
 ガックリと項垂れる俺に、繭葵は水滴が結露した俺のグラスに入っている氷を問答無用で奪い取って、やっぱりガリガリ食いながら思い出したように噴き出したんだ。

「そーそー!そう言えば。今から6年前だったかなぁ?光太郎くん、巫女さんになってたでショ?」

 その古傷を抉り出すな。

「おっかしかったー♪たどたどしい舞いだし思わず転びそうになったりとか、そしたら蒼牙様がさり気なくフォローするんだよね。いつもは知らんぷりの蒼牙様にしては珍しいなーと思ってたけど、小雛の代打が男の人で可哀想だなって思ったんじゃないかな」

「俺、小雛の代打だったのか」

 そうだったのか、知らなかったな。

「うん。通常は許嫁が巫女さんの役をするんだけどね…初のお披露目の場だってのに、小雛のヤツ階段から落ちて足を折っちゃったんだって」

「嘘ん!」

「嘘じゃないよ。あの祭りに小雛も参加してたけど、やっぱちょっと悲しそうだったなー…でも、それで光太郎くんは見初められちゃったワケだし、こうして花嫁候補になってるワケだから、案外あの十三夜祭りはこうなる暗示としての予言だったんじゃないのかな♪」

 頼む、繭葵。
 寝言は寝てから言ってくれ。
 ニコニコ笑っている繭葵には悪いけど、やっぱり俺は、あの日死んでも巫女役なんか引き受けるんじゃなかったと唇を噛み締めた。
 小雛は笑ってた。
 でも、それはとても悲しげな微笑だった。

「光太郎くんさー、小雛に悪いことしたなって思ってるでショ?」

「え?あ、まあ、そだな」

 いきなり図星をさされてムッと眉間に皺を寄せながら頷くと、繭葵は「甘チャンだなー」と言って呆れたような顔をした。繭葵から奪い返した氷が溶けて薄くなった麦茶を飲んでいると、彼女は両足を伸ばして突っ掛けた下駄をブラブラさせながら、なんでもないことのようにポツリと呟いたんだ。

「蒼牙様とセックスして気持ちいいんでショ?」

「ブホッ!!」

 思い切り噎せて麦茶を吐き出してしまった俺に、繭葵はあからさまに嫌そうな顔をして、ポケットからハンカチを取り出すと背中を丸めて咳き込んでいる俺に投げつけたんだ。

「きったないなー!別に愛し合う2人がセックスすることなんて当たり前じゃない」

 唇を尖らせる繭葵に、まだ咳き込んではいたけど彼女のハンカチで口許を押さえながらも胡乱な目付きで睨みつけて冗談じゃねぇと思った。
 だから、寝言は寝てから言えって!

「あ、愛だと!?どこをどう見たら俺たちが愛し合ってるように見えるんだ!!?」

「え?なんだ、違うのか。でも、こっそり見ちゃったんだよねー♪お風呂場から蒼牙様にお姫様抱っこされて出てくるとこ」

「ななな…ッ」

 アワアワしていると、繭葵のヤツはクックックッと何やら企んでいそうな顔付きで笑うと、さも知ったような顔をしてシャアシャアと言いやがるのだ。

「うは!安心した顔しちゃってぇ♪もう、なんて言うの?こうヤヲイ魂に火が点くってゆーか、ヒッヒッヒ…コホン!すっかり信頼しきった顔だったよ。2人はもう、戸籍上はまだでも、確り心のなかでは結びついてるんだなぁって思いました♪」

 ウッシッシと笑う繭葵の頚椎を真剣に叩き折ってやろうかと考えなくもなかったけど、それよりも俺は、そんな風に第三者から見られていたのかと言う事実のほうに竦んでしまっていた。

「だからきっと、蒼牙様とのセックス気持ちいいでショ?女の子も男の子も一緒だよ。本当に心から愛している人とするセックスは蕩けるように気持ちいいに決まってる。だからね、小雛にも、もちろんボクにも気兼ねなんかする必要はないんだよ♪ボクなんて更に早く結婚式も見ちゃいたいぐらいなのだ~♪」

 他人事だと思いやがって、いやまあ、繭葵にしてみたら確かに他人事なんだろうけど、ウキウキしたように話すその横顔は、まるで小雛とは正反対の喜びに満ちた活き活きとした表情が綺麗だった。
 そうか、本当に繭葵は蒼牙のことをなんとも思っちゃいないんだな。

「そんな風にいつも他人のこと気にしてたら、本当に大事なものを失くしてしまうよ。なんだか光太郎くんって、いつも自分を我慢してるみたい。少しは我が侭言ってもいいと思うんだけどな♪んで、早く結婚するんだよ!その慶びに心が緩んでいる蒼牙様に付け入って、蔵開きさせちゃうんだからさぁ…ヒヒヒ」

 クックックッと笑う、あまりにも邪悪な繭葵のその表情の急激な変化に、女って恐ろしい生き物だとつくづく思い知りながら、俺は広縁からまっすぐに開けた展望を眺めていた。
 どこまでも続く青い空のその遠くに、この胸の動悸の答えがあるんだとでも言うように…
 繭葵は言った。
 屈託も他意も見受けられない純粋な瞳をして。
 他人の事を気にしていたら、本当に大事なものを見失ってしまう?
 大事なもの?まさか、蒼牙が??
 嫌よ嫌よも好きのうち…なんだか嫌なフレーズが脳裏を渦巻いて、俺はブルブルッと首を振って恐ろしい妄想から逃げ出そうとした。
 俺が蒼牙を好きなはずないじゃないか、だって俺は、親父の借金の身代わりで花嫁になったんだ。
 ああ、そっか。
 俺は親父の借金の身代わりだったんだ。
 違うよ、繭葵。
 俺は遠い昔、蒼牙が大事にしていた場所に知らないとは言え無断で入っちまって、あの傍若無人で天上天下唯我独尊野郎から仕返しとして惨めな女の代用として扱われてるに過ぎないんだ。繭葵の言ってるのは幻想にすぎない、俺は借金がなくて大事な場所を荒らさなかったら見向きもされないただのヤローだ。
 蒼牙は俺を誰にも見せたくないと言った。
 だけど男同士なんだぜ?誰だってそんなこたぁ、とんでもない悪い冗談だと笑い飛ばすに決まってる。そうじゃなかったら…そう、俺のような立場の人間にしてみたら、それこそ最大級の屈辱的な言葉だ。
 それは、抗うことも出来ない俺に向けての、雁字搦めにするための嘘だ。
 現に蒼牙は、俺に「愛している」と言ったことはない。
 アイツだって、戯れに遊んでいる人間にそこまでおべんちゃらを言うつもりなんてないんだろう。蒼牙はそんなことしなくても、誰もが崇めて崇拝する立場なんだからな…
 十三夜祭りで見初められたんじゃない。
 十三夜祭りで、取り返しのつかないことをしたんだろう。
 それがなんだったのか思い出せないで瞼を閉じたら、小気味良い音を響かせながら氷を口に含んだ繭葵はガリガリ噛んで底抜けに明るい声で人の気も知らずに言い放った。

「弦月の奉納祭、楽しみだねぇ!きっと一緒に見に行こう♪」

 俺がドツボになる種を植え付けておいてお前ってヤツぁ…
 ガリガリ氷を噛みながらニコニコ笑う繭葵を見つめていたら、なんとなく心の中にあった蟠りが少しずつ消えていくような気がした。そうして俺は、漸くこの時になって初めて、自分がここに来た理由を思い出したんだ。

 シーンッと静まり返った夕食の席で、俺はどんな面をしていいのか判らず、食器が触れ合
う微かな音だけが響く広間で居心地悪く味噌汁を啜っていた。
 う~、こうなるともう、どこに飯が入っていってるのか判らん。
 もともと小人数の家族だったけど、その分、地声の大きい我が家は常に会話で溢れ返っていた。まあ、親父のヤツは金銭面にだらしなくて、そう言った話題は敢えて避けてたから借金があそこまで膨らんでることに気付かなかったんだけどな。
 そんな風に会話に慣れている俺としては、こんな葬式か通夜かと聞きたくなるほど静まり返った食事の席ってのにはどうしても慣れることができなくて、知らず箸の運びも遅くなっていたんだろう。

「あっれー?光太郎くんってば、もう食べないんだ。体調悪いとか?」

 相変わらず静寂をぶち破る暢気な声を上げて、俺の横に座って悩みもなさそうな顔してパクパク白いご飯を口に運んでいた繭葵が、静けさにストレスを感じている俺の手元を覗き込んでそんなこと言いやがったから箸を取り落としそうになっちまった。

「いや、そんなんじゃねーけど…」

 ムゥッと眉を寄せて心配そうにしている繭葵に曖昧に返事をしていると、上座でキチンと正座をして飯を食っていた蒼牙のヤツが心持ち顔を上げて怪訝そうに俺を見つめてきたんだ。

「大丈夫なのか?」

「もちろん、元気に決まってる」

 俄かに注目されて、そう言うことに慣れていない俺が早く切り上げようと素っ気無く言ったら、ホントかな?とでも言いたそうな顔をした蒼牙のヤツが、軽く溜め息を吐きながら言ったんだ。

「大事な身体だ、用心しろ」

「わ、判った」

 頷くと、蒼牙の視線が外れてくれて、それに倣うように皆の視線も思い思いに散ってくれたから俺は心底からホッとした。いや、沈黙が心地よいなんて思うのは、この妖怪屋敷ぐらいだろう。

「ウシシシ!蒼牙様が大丈夫かだってさ!大事にされちゃってるねぃ♪」

 諸悪の権化がニヤニヤしながら俺を覗き込んできたから、たぶん、誰も見ていなかったらその鼻面に拳を減り込ませるぐらいのことはしていたと思う。そう思わせる何かが確実にある!この繭葵ってヤツには。
 それぞれに配されている膳の下で、醜い攻防を繰り広げている俺と繭葵になんか気付きもしない連中は、黙々とやっぱり飯を胃袋に収めている。
 コイツら、これで本当に飯が旨いと思ってんのかな…
 初めて顔を突き合わせて飯を食うことになったんだけど、最初は、それぞれにお膳があることに吃驚した。それでなくても歴代の当主の遺影がズラリと並んで睨み付けてくる広間で居心地悪いってのに、まるで無表情で取り澄ました顔の連中と雁首並べるってのは三流のホラー映画より怖いかもしれない。
 これから先、一生こんな不味い飯を食わなきゃいけないのかと思うと、なんだか腹が一杯になっちまって箸が進まないのは仕方がないと思うぞ。
 繭葵との攻防で何とか勝った俺が溜め息を吐いていると、不意に箸を置いた蒼牙が一同を見渡した。ヤツらはどうも、黙々と飯を食いながらも当主である蒼牙の動向を備に観察しているのか、その一瞬の仕種で俺と暢気な繭葵を除いた全員が、静かに箸を置いて当主に注目したんだ。
 パクパク飯を食っていた繭葵が慌てたように箸を置いて口をモグモグさせる横で、俺も焦ってまだ半分以上残っている魚の皿に箸を置いた。いや、実は魚は苦手なんだよね。
 食欲不審の理由はそれかよ!?とか言われたくないから、繭葵には内緒なんだがな。
 一同が注目したのを確認した蒼牙は、実に面倒臭そうに口を開いたんだ。

「突然で悪いが、明後日の弦月の奉納祭を見学したいと言う一行が明日早くに来るらしい。大学関連の連中だそうだが、適当で構わん。あしらってくれ」

 尊大なモノの言い方だが、それでも居並んだ一同は軽い目礼をして頷いたようだった。ただ、たった1人だけはあからさまに不機嫌そうだが…

「繭葵、注目されるぞ」

 コソッと言ってみると、繭葵のヤツは腹立たしそうに、それでも嫌な注目のされ方は性格上合わないのか、やっぱりコソコソと話してくる。

「だってさー、大学生って言ったらボクと同じ民俗学の人たちだと思うよ。この村は宝の宝庫でボクが最初に目をつけたのに、横取りされそうで嫌だなぁ…クソッ、欧くんたちを連れて来ておけば良かった」

 ブチブチ悪態を垂れる繭葵のヤツは、そうか、なんかを狙ってるとか言ってたからなぁ。

「確か、蔵開きだっけ?それを狙ってるんだろ」

「そーそー!蔵開きって言うのはね、その家に代々伝わる家宝のようなものを、初めて大衆の目に晒すことを言うんだよ。だから、誰も見たことのないお宝が拝めるってワケ♪」

「…でも、そんな予定はないんだろ?」

「ぐふぅ!そんな、現実を叩きつけること言っちゃダメだよ。でもね、絶対ボクのこの力で蔵開きさせて見せる!!」

 …お前のその執着心でだろ。
 思わず退きそうになった繭葵の台詞に項垂れそうになったとき、ふと、上座に座る蒼牙と目が合ってしまったんだ。
 ドキッとしていたら、ヤツは心持ち顎を上げて「ふん」とでも言うように視線を逸らしてしまった。
 どうもあの、キリリとした眼差しに見つめられてしまうと、蛇に竦んだ蛙のように金縛りになってしまって、胸の動悸が激しくなって目を逸らせなくなってしまう。
 多分それは、ヤツの威圧感のようなものに気圧されてしまうからなんだろう。
 …でも、俺ならまだしも、あんな風にアイツが視線を逸らしたことはないんだけど。
 うーん、こりゃ天変地異でも来るか?

「だから、早く蒼牙様と祝言を挙げてねん♪」

 ウヘヘヘッと人の気も知らないで笑いやがる繭葵に、出来れば俺は言ってやりたかった。 お前、少しは他人に気を遣え、ってな!
 蒼牙の態度も気になるし、明日から来ると言う民俗学か何か知らないけど、その関連の大学生連中もかなり気になっちまう。
 …男でありながら男に嫁ぐ俺のことを知ったら、その連中もさぞかし痛快な表情を見せてくれるんだろう。畜生ッ!
 蒼牙のヤツはどうするんだろう。
 小雛や繭葵のことは尋ねられたとしてもキチンと答えることはできると思うけど、問題は俺だろうなぁ…まさか男の俺を堂々と『花嫁候補だ』とか言わないだろうし、となると答えは1つか。
 たぶん、養子か、或いは夏休みに遊びに来ている親戚です、とでも言っておけばいいんだろう。
 仕方ないなぁ、気は進まないけど、今夜蒼牙に聞いてみるか。
 味気もしない、いや、たぶんそんじょそこらのレストランなんかよりも数倍は旨いはずの日本料理を、俺は黙々と腹に収めて、そして今日、何度目かの溜め息を吐いた。

 キチンと整えられた布団の上で、寝巻き代わりに用意されていた浴衣を着た風呂上りの俺は正座したままで、一番風呂をすませて離れで仕事をしている蒼牙の帰宅を待っていた。
 学校には行っていないようで、蒼牙のヤツはほぼ四六時中と言っていいほど離れに篭って仕事をしているらしい。それは伊織さんが煙管で煙草の煙を燻らせながら、退屈そうに教えてくれた。
 朝稽古で疲れた身体を風呂で癒した後、朝食を採って離れに行く。そこで当主としての仕事を終えると、今度は呉高木光陰流のお弟子さんたちに居合を教え、少し遅めの昼食を採る。それから、蒼牙が受け持っている呉高木の会社の仕事をやっぱり離れでこなして、
それから夕食で風呂に入ってまた就寝まで離れで仕事…凄まじいバイタリティーで淡々と仕事をこなす蒼牙の姿が目に浮かぶようで、アイツが俺にチョッカイ出してからバタンキューで眠る理由がなんとなく判ったような気がした。
 大人の俺でさえ、そんな量の仕事を任されたら裸足で逃げ出したくなる。なのに、アイツはまだ17歳だと言うのに、大人の仲間入りをして、大人よりも大量の仕事をしているんだ。
 …いや、そもそも。
 そこまで疲れてるんなら俺にチョッカイをださなければいいんだ。
 アイツのそう言うところが、俺には到底理解できないところなんだけど。
 ムーッと考え込んでいると、廊下を歩く堂々とした足音を聞いて俄かに緊張してしまった。蒼牙の歩き方は独特で、あんな風に、躊躇いもなく威風堂々とした歩き方をするヤツを俺は知らない。
 だから、この村に来て一番始めに覚えた音は、この蒼牙の歩く足音だ。
 音もなく障子が開くと、俺は月光を浴びて立つ青白髪の不思議な髪を持つ当主を見上げた。それでなくても電気もないし、こんな古い行燈の明かりぐらいじゃ蒼牙の顔が漸く判るぐらいで、これだったら行燈を消して月明かりでもいいんじゃないかと思った。
 蒼牙は俺を見下ろすと、それから何も言わずにズカズカと室内に入ってきて俺の傍らにドッカリ胡座を掻いて座ると軽く溜め息を吐いた。
 近付いて良く見ると、やっぱり少し疲れてるんだろうなぁ。
 着流し姿の青白髪の男は、少し草臥れた様子で頬杖をつくと、桂が用意してくれていた水差しを引っ掴んでそのまま乱暴に飲んだんだ。

「…お疲れさん」

 その様子を見ていたら思わずそう言ってしまって、ジロッと睨まれて浮かべていた笑いが引き攣ってしまった。コイツはどうしてこう、いちいち俺を睨むんだろうな。
 途端にムッとして睨み返すと、蒼牙のヤツは大人びたツラをして鼻先でフッと笑うと、水差しを乱暴に投げてそのまま俺を布団に押し倒した。
 うわ、ちょ、ちょい待ち!

「ま、待ってくれよ、蒼牙!今夜はちょっと、その、話しがあるんだけど…」

「ふん!俺もだ」

 頬から首筋に唇を這わせながら、わざとらしくチュッと音を立てて口付ける蒼牙も、そんな俺の困惑した表情を上目遣いで見上げると不機嫌そうにキスしてきた。

「…ん」

 蒼牙の体重をゆっくりと受け止めながら、その胸元に押し返すつもりじゃなく添えるだけに手を置き、瞼を閉じて自分から口を開いて肉厚の舌を迎え入れると、蒼牙が驚いたように目を見開いたから、なんとなくしてやったりと思ってしまう。
 俺の突然の態度の変化に、それでも不信感を拭い去れないのか、蒼牙は中途半端にキスを切り上げて額を擦りつけるようにして俺の双眸を覗き込んできたんだ。

「どう言った心境の変化だ?」

「どうって…こうすることが俺の本来の姿なんだろ?」

 頬に口付けられても嫌がらずに目を閉じたら、勝手が違い過ぎたのか、蒼牙は薄気味悪そうな表情をしてゴロンッと俺の上から退くと横になってしまった。目を開いて蒼牙を見ようとした俺を抱き締めて、ヤツはなんとも言えないツラをして額にキスしてきた。

「繭葵に何か吹き込まれたな」

 だからその断定的なものの言い方はやめてくれ。
 子供のくせに、育った環境のせいとは言え不遜で小憎たらしいぞ。

「別に、繭葵は関係ないよ」

「嘘だな、そのわりにはやけに親しいじゃないか」

 素っ気無く言ったらムスッとした目付きで覗き込まれてしまって、悔しいけど軽くビビッた俺はブツブツと悪態を吐いた。だってなー、親しいって、そんなの一緒に暮らしてるんだから世間話ぐらいするだろ?特に俺なんかは、呉高木家のことなんてそんなに詳しく知らないし…

「呉高木家についてレクチャーしてもらってたんだ」

「呉高木についてだと?だったらどうして、この俺に聞かない。俺は当主なんだぞ」

 ますますムムッとする蒼牙に、その子供っぽいツラに思わず頬が緩んでしまって、俺は困ったように眉を寄せて笑ってしまった。

「だってよー、お前って何か聞こうにもすぐこんな風にチョッカイ出してくるだろ?エッチの方のレクチャーはしてもらえるけど、呉高木家とか、俺の知らないことについては野放しじゃねーか」

 クスクス笑っていたら、蒼牙のヤツはそんな俺をジッと見つめていたけど、やっと思い当たる部分を認めてくれたのか、照れ臭そうな不機嫌面で俺を抱き締めたんだ。

「ふん!…で?今夜の話しってのはなんだ」

 おお、俺の話しを聞いてくれる気になったのか。
 これはラッキーだなぁと思いながら、俺は蒼牙の胸元に額を摺り寄せながら口を開いた。

「明日、大学生たちが来るんだろ?その、俺はまさか花嫁候補ですとか言えないからさ。夏休みに遊びに来ている親戚だって紹介してくれよ」

「なぜだ?」

 なぜだとか聞き返すなよ。
 そんな返事が返ってくるとは思っていなかったから、俺は慌てて蒼牙の顔を見ようと頭を上げようとして、大きな掌に押さえつけられてしまった。蒼牙の胸に顔を押し付けるような形になって…うう、ちょっと苦しいんですけど。

「アンタは俺の花嫁候補じゃない。俺の妻だろ?なぜ、遊びに来た親戚などと紹介しなければいけないんだ」

「…この大馬鹿野郎。そりゃあ、呉高木家では日常茶飯事のことかもしれないけど、一般人に男が妻ですなんか言ってみろ。それこそワイドショーのカッコウの餌食にだってなりかねないんだぞ。ましてやこんな閉鎖的な村だ、一気に注目浴びて明日から大スターだ、嫌な意味で。お前は良くても俺は嫌だ…呉高木の当主ともあろう蒼牙様は、いたいけな花嫁のお願いも聞いちゃくれないのか?」

 蒼牙の胸元に顔を押し付けられたままでも、俺はモガモガと反論してやった。そりゃあ、繭葵が言うように反抗できない威圧感があるヤツだけれども!こればかりは一歩だって引き下がれない、男の沽券ってヤツだ。
 蒼牙はそれでも暫く考えているようだったが、花嫁…なんて口が裂けても言いたくなかった俺が必死に甘える姿に仕方ないと思ったのか、やれやれと溜め息を吐いて俺の色気のない黒髪に唇を寄せてきたんだ。

「仕方ない、今回だけはそうするとしよう。だが、今回だけだぞ。俺は別に、ワイドショーの餌食になろうと構わん。裏でいくらでも手は打てる」

「あ、悪党かよ…」

 呆れたように俺が呟くと、蒼牙のヤツはクスッと笑って「そうかもな」と言って抱き締めてきた。
 その腕が心地いいなんて思うのは、心のどこかでケジメをつけたから余裕が出てきたのかもしれない。
 そっか、簡単に考えればいいんだ。
 そうすれば、この腕に抱き締められるのも苦痛じゃない。
 それは酷く、簡単なこと。

「んで?蒼牙の話しってのはなんだ」

「いや、もういい」

「はぁ?いいのか、ヘンなヤツだな」

 頬を寄せながら呟いたら、顎を掴まれて上向かされた。お互い横になったままのだらしない格好だけど、2人だったら恥ずかしくないよなぁとか思っていたら、すぐに少しかさついた唇が降りてきた。
 触れ合うだけのキスをして、それから少しずつ馴染んで、深く深く…溶け合うみたいに濃厚なキスになって、俺がうっとりと瞼を閉じた時だった。
 ゴトッ!!
 何か重い物が落ちたような物音に、俺よりも先に蒼牙が起き上がって耳を欹てる。
 この呉高木家の敷地内には、お手伝いさんや庭師とか、色んな人が共同で住んでいるんだけど、この蒼牙の部屋がある奥の間に面した庭には誰も近付けないようになっているのに…なんの音だったんだ?
 驚いて起き上がろうとする俺を制して、蒼牙は音もなく立ちあがると、その無礼者の顔でも拝んでやろうと思ったのか、唐突に障子を開け放ったんだ!
 おま、お前…相手が銃とかナイフだとか持ってる泥棒だったらどうするんだよ!?
 この命知らずが~ッと、ムキになって起き上がろうとした俺の目の前の庭に、昼間見かけたあの可愛い地蔵たちがちょこんっと佇んでいたんだ。それも、山盛りの夏野菜と山葡萄、木苺や野苺なんかの果物も一緒に。

「…あれ?昼間の地蔵さんたちがなんでここに??」

「…小手鞠(コテマリ)どもか。なんの用だ」

「は?」

 突然の来訪者がただの地蔵で、しかも誰がこんな悪戯をしたんだとてっきり怒鳴るもんだとばかり思っていた俺は、困ったように眉を寄せて腕を組む蒼牙の言葉に首を傾げてしまった。
 おいちょっと、何を言ってるんですか??

『儂らは龍の子に用はないのじゃ』

『嫁御殿にのぉ、お礼を言いに来たんじゃぁ』

『見てみよ、綺麗になったじゃろう?』

『あの忌々しい草もなくなりよったわ』

『干菓子がのう、美味しゅうてのう』

 それぞれがホクホクしたようにふんわり笑った表情のままで語り出すから、俺は思わず青褪めて絶句してしまった。ななな…いや、待て。
 この声は…聞いたことがある。

「俺の嫁に?…光太郎、アンタ小手鞠どもに何をしたんだ」

「な、何って…えーっと、草を毟って本体を磨いて、それからお水と干菓子をお供えしたけど」

 呆れたように俺の話しを聞いていた蒼牙は、眉をヒョイッと上げると庭先でひっそりと佇んでいる5体の地蔵を見下ろして、仕方なさそうに呟いたんだ。

「それで礼と言うワケか…どこの畑から盗んできたんだ?」

『失敬な輩じゃ!!』

 左端にいた地蔵さんがニッコリ笑顔のままで怒鳴ると、残りの4体の地蔵さんたちも先を競うようにして口々に蒼牙を罵った。その光景を、確かに信じられない光景なんだけど、驚いて絶句して見ているよりも、いつ短気な俺様野郎の蒼牙がぶち切れて1体残らず石ころにしちまうんじゃないかとハラハラする方が先だった。

『礼がてらの祝儀じゃぞ!』

『そのような不吉なものは持って来ぬわ!』

『これらは龍神の賜り物じゃぞ!』

『有り難く受け取れぃ!』

 まるでにほん昔ばなしのナレーターをしていた爺さんの声のような、ほんわりした口調でわーわーと話している地蔵さんは、一見すれば薄気味悪いけど、こうして慣れてくると見ていて楽しくなるのは俺だけなんだろうか?

「判った判った!煩い奴らだッ。龍刃山の作物は呉高木家のものであると同時に、古からの護り手である小手鞠、アンタたちのものでもある。喜んで戴こう」

『判っておりながら言う奴よ』

『おお、嫁御殿がおるぞ』

『蒼牙などどうでも良いわ』

『嫁御殿、嫁御殿』

『月明かりに美しいのぅ』

 小手鞠たちは呆れた挙句に困惑している蒼牙をまるで無視して、俺の方に身軽にピョンッと飛び跳ねるようにして向くと、口々にわいわいと話し掛けてくる。誰に応えていいものやら判らない俺は、仕方なくハハハッと笑って曖昧に濁していた。
 あ、でも。

「今夜はどうもありがとう。どうせ俺、暇人だからさ。これからはこんなことしなくてもいいよ」

 ニコッと笑ったら、地蔵さんたちは驚いたように飛び跳ねて、それからお互いの石でできた身体を寄せ合いながらしみじみと呟いている。

『良い嫁御殿じゃなぁ』

『龍の子には勿体無いのう』

 なぬ?ッと俄かに不機嫌そうに眉を寄せる蒼牙など、やっぱりまだ無視しっぱなしで、小手鞠たちは溜め息を吐いている。

『今夜は良い月明かりじゃて』

『さて、そろそろ退散するとしようかのぉ』

 身体を寄せ合うようにして話していた小手鞠たちは、来た時と同じように勝手に整列すると、ピョンピョンッと飛び跳ねるようにして元来た道を戻り始めた。一番後方にいた地蔵さんが飛び跳ねると同時にくるっとこちらを向いて。

『嫁御殿をあまり無理させるでないぞ』

 そう言ってまたくるっと向き直ってピョンピョンッと飛び跳ねながら、庭から出て行ってしまった。
 …なんだったんだ、今の。
 その時になって漸く、この非現実的な状態に気付いた俺は青褪めながら畳の目に視線を落としていた。
 まるで狐にでも抓まれた気分だ。

「…ったく、煩い連中だ」

 極平然と腕を組んで広縁に佇んでいる蒼牙を見上げたら、月明かりの下、着流しを着ている青白髪のキリリとした横顔が余計に幻想的で、もしかしたら山にいたと言う噂の鬼が具現化するとしたら、きっとこんな風に美しい男だったんじゃないかと思った。
 だから巫女は恋をして、身分違いの想いに儚く散ってしまったんだろう。
 ボケッと見惚れていた俺に気付いた蒼牙は、小さく溜め息を吐いて「風邪を引くぞ」と言いながら座り込んでいる俺の肩を掴んだ。

「蒼牙、今の地蔵さんってのは…」

「龍刃山、ひいては我が呉高木家を代々見守っている護り手である小手鞠どもだ。日頃はただの地蔵だが、たまにああして道に迷った旅人などを導いたり、親切にしてくれた者に対して礼をしたりするのさ」

「それって、もしかして…」

 部屋に戻って障子を閉めている蒼牙に向かって、恐る恐る引き攣った笑顔で首を傾げると…

「知られたところで、笠地蔵と言う昔話があるだろう?あの一種だ」

 やっぱりか!
 しかも、一種ってのはなんだ!?一種ってのは!!
 そんなに笠地蔵は日本中に増殖してるのか。
 思わずガックリと布団に両手をついて項垂れていると、そんな俺を引き寄せながら蒼牙のヤツが疲れたように溜め息を吐いたんだ。

「蒼牙?」

 不思議に思って顔を上げたら、蒼牙はなんとも言えない複雑な表情をしてそんな俺を見つめ返してきた。

「アンタ、夕食の時も顔色が悪かったな。俺はアンタに無理をさせているんだろうよ」

 …ん?あー、なるほど。
 さっき地蔵さんに言われたことを、珍しくも気に病んでいるのか。
 へー、コイツでもこんな可愛いところがあるんだなぁ…そりゃ、毎晩悪戯されて喘がされて、寝るのも夜明け前なら起きるのも早朝なんだぞ。家にいた頃はそれこそ、不摂生を絵に描いたような生活を送っていたからな。かと言って、無駄に睡眠はとるタイプだから…寝不足なんだろう。
 でも、面白いからもうちょっと黙っていようっと。

「だが、アンタを見ていると無性にキスしたくなる。それはアンタが俺を誘っているからさ」

 そう言ってクスッと笑った蒼牙は、何を言いやがんだとムッとして睨む俺の手を掴むと、その甲に口付けながら呟いた。

「それは強ち嘘ではないんだぜ?今夜だって抱きたい気分なんだがな。小手鞠は呉高木の護り手。その小手鞠どもが無理をさせるなと言ったんだ。それは即ち忠告でもある」

「…ふーん、お前でも誰かの忠告とか聞くんだな。吃驚した」

 素直に驚いていると、蒼牙のヤツは「こいつめ」とでも言いたそうに俺を引き寄せて抱き締めると、色気もない黒髪に口付けながらクスッと笑ったんだ。
 蒼牙のヤツ、今夜は良く笑うなぁ。なんだかそれが嬉しくて、俺は蒼牙の腕の中で安心していたんだ。もう、別に抱かれてもいいか…とか、そんな恐ろしいことまで考えながら。

「なぁ、今夜はもう休まないか?…だってさ、お前も顔色悪いぞ」

 そのくせ、蒼牙の疲れているような表情を見上げたら、やっぱりできることならこのまま休ませてやった方がいいんじゃないかと思っちまった。どーせ、言うことなんか聞いちゃくれないだろうけど、それでも首の辺りを揉んでくる蒼牙の仕種を素直に受け入れていると、幻想的な青白髪を持つ呉高木の当主は溜め息を吐きながら俺を道連れにして布団にダイブしやがったんだ!
 やっぱ、聞いちゃくれねーのな。
 蒼牙の胸元に覆い被さるようにして倒れ込んだ俺が、あーあと溜め息を吐いていると、背中を撫でる優しい仕種の腕に抱き締められた。

「アンタも眠れ。ぐっすりとな。明日は賑やかな連中が来て、一段と疲れるだろうよ」

「ゲッ、そうだった」

 ぐはー、それは嫌だなぁと眉を寄せる俺をクックックッと笑う蒼牙の胸元に頬を寄せたら、規則正しい胸の鼓動が聞こえて暫くその音を聞いていた。
 思った以上に、もしかしたらこの場所は、心地よいのかもしれない。
 借金も何もなかったら…ふと脳裏を過った言葉を振り払うように、俺は着流しの胸元をギュッと掴んでそのまま瞼を閉じたんだ。