第一話 花嫁に選ばれた男 8  -鬼哭の杜-

 いつまでもボンヤリと月を眺めているわけにもいかず、俺は溜め息を吐いて首を左右に振ると、仕方なく蒼牙の部屋に向かったんだ。できるなら、もしかしたら、俺はこのまま逃げ出したいとさえ思っていたのかもしれないけど…
 そもそも、俺はなんで蒼牙の部屋に行こうとしているんだろう…?
 ああ、そっか。
 俺は親父の借金の形でここにいるから、この家の当主の機嫌を損ねるわけにはいかないのか。
 なんだろう、この虚しさは。
 頭では判っているのに、胸の辺りが酷く苦しい。
 息苦しくて、忌々しく舌打ちしたら、もっと自分が惨めになったみたいで悔しかった。
 俯き加減にトボトボと歩いている間に、広いとは言え、所詮家の中の話だ。すぐに蒼牙の部屋がある場所まで辿りついた、顔を上げて、不意にギクッとしたんだ。

「…蒼牙」

 そこには、腕を組んで月を見上げて突っ立っている、不思議な青みを帯びた青白髪の美丈夫がいた。
 いつだったか、コイツを見たときに思ったんだよなぁ。
 山に棲んでいる鬼ってのは、ともすれば蒼牙のような男だったんじゃないだろうかってさ。
 こんな月明かりの下だと、まるで幻想的で、儚い想いに命まで散らしてしまったあの巫女が、惑ったとしても仕方ないし、きっと止めることなんか誰にもできなかったと思う。
 俺自身、この綺麗な龍の子に惑いそうになっていた。
 蒼牙のヤツが、そんな俺にゆっくりと目線を移して、月の光よりも冷たい眼差しで俺を見るまではな。

「何をしに来たんだ?」

 皮肉気な顔をして、蒼牙のヤツは微動だにもせずに鼻先で笑いやがる。
 なんだよ、その言い方は。

「別に、ここは俺の部屋だからな」

 お前に逢いに来たんじゃねーよ、俺は眠りに来たんだ、とか、ついつい、繭葵に言われたこともスッカリ忘れちまって、憎まれ口を叩いてしまった。叩いてしまって、内心で「しまった」と、自分自身に舌打ちしたけど後の祭りなんだろうな。

「…ふん、ならばぐっすり眠るといい」

 そう言って、蒼牙のヤツは瞼を閉じるともう一度鋭い眼光で俺を睨み据えて、まるで何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしやがったんだ。
 そんな行動を取るとか思ってもいなかったから、俺は慌てて脇を通り過ぎようとする蒼牙の着物の袖を掴んでしまった。
 引き止めて、何を言うつもりなんだ。

「どこ、行くんだよ?」

 そんな在り来たりな台詞しか出てこなかったけど、それでも俺は、このまま蒼牙がどこかに行ってしまうんじゃないかと言う、この村で蒼牙こそ神だと言うのに、そんな有り得ないことを考えて動揺してしまったんだ。
 慌てて腕を掴んだ俺が見上げると、月明かりを受けてぼんやりと輝いている青白髪の蒼牙は、ふと、何とも言えない複雑な表情をして見下ろしてきた。
 何か言いたくて、でもできない、そんなもどかしさが伝わってくるような複雑な双眸で…

「今夜は仕事部屋で寝る。アンタには関係ないんだろ?」

 そんな小憎らしいことを言って、蒼牙のヤツは掴んでいる俺の腕を振り払ったんだ。

「待てよ!どうして俺に関係ないんだ!?」

 蒼牙が何に腹を立てているのか、俺はもう気付いていた。
 口ほどにも俺が呉高木家の花嫁になることを望んでいるわけじゃないって、蒼牙のことを疑っているんだって、そう思ってるんじゃないかな。
 そりゃ、俺だって男なんだ。
 そんな話、できればご免被りたいってずっと思っていたさ。
 でも、蒼牙に抱かれるたびに、どこかでこれじゃダメだって思っていた。
 溺れてしまいそうで、冗談じゃないんだよ。
 6歳も年下の男に抱かれて、惹かれてしまったなんて誰に言える!?
 いや、別に言わなくてもいいんだけど、俺の中で変わらずに蹲っている常識だとか世間体ってヤツが警鐘を鳴らして、この村にいたらダメだって言うんだ。
 お前はただの、借金の形で、この村を統べる当主のストレスを発散するためだけに買われた、憐れなただの男なんだぞと言われてるようで…そんなこた、俺だって判ってら。
 お前が、心を許した途端に掌を返すことだって、本当は判っているんだよ。
 お前といるのは楽しかったから、いつまでも気付かないフリをしていたんだけど…それも限界かなぁ。 

「俺はお前の、その、花嫁なんだろ?奥さんを置いて、どこで寝るんだよ?」

「…ッ」

 一瞬、一瞬だったけど、蒼牙がちょっと哀しそうに見えたんだ。
 慌てて見詰め返したら、途端に力いっぱい顎を掴まれて、痛みに眉を寄せる俺の顔を憎々しげに睨み付けながら、今まで聞いたことのない低い声音で蒼牙のヤツは囁くようにして凄みやがった。

「花嫁だと?いい加減、俺を馬鹿にするのも大概にしろ。アンタは花嫁になる気なんか、端からなかった。父親の作った借金の肩代わりに、仕方なく俺に抱かれてるだけなんだろ?アンタは…これっぽっちも、俺の事など考えちゃいないのさ」

 それだけ言って、蒼牙はマジマジと睨むようにして俺の顔を見詰めていた。
 どこか痛いような、寂しそうな顔をして…どうしたんだよ、いつものあの不遜な態度は?
 俺がそんなことを思っていると、蒼牙はすぐに腕を離して、それから何かを吹っ切るようにして吐き捨てたんだ。

「明日、実家に帰れ。俺は留めやしない」

 ほらみろ、やっぱりそうだったんじゃないか。
 頭の奥で、誰かがそんなことを言った。
 それはたぶん、間違えることなく俺なんだろうけど。

「…お前こそ、俺なんか本当はどうでもよかったんだろ?」

 掴まれていた顎がじんと痛んで、俺は途方に暮れたように目線を伏せてしまった。
 頭がガンガン痛くなって、耳の辺りがボウッとしていた。
 俺が何を言っているのか理解できないとでも言いたそうな顔付きをした蒼牙に、その時になって漸く、沸々と湧き上がってきた怒りに奥歯を噛み締めながらその顔を睨みつけたんだ。
 ふざけるな。

「どうせ、ああそうだよ!俺なんか借金の形で、からかって遊ぶには丁度良かったんだよな!?」

「…何を言ってるんだ?」

 うるせーよ!どうせ、最初からそのつもりだったんだろ。
 もう間もなく、弦月の儀が執り行われるから、本当は小雛か繭葵だって決めてたくせに、面白半分で俺をからかっていたんだろーが!
 頭が何かで押さえつけられるような、握り潰されそうな痛みに何もかもが煩くて、許せなくて俺は見境なく叫んでいた。

「俺はもうお役ご免だもんな!ストレス解消できたかよ、ご当主様?婚儀の日に、俺なんかがいちゃ、そりゃ目障りだよなぁ!?」

「光太郎?アンタ、何を言って───…」

 いきなり怒鳴り出した俺に怪訝そうな顔をした蒼牙は、訝しそうに眉を寄せながら俺の頬に触れてこようとしたんだ。だから、俺はその手を叩き落した。
 それは殆ど無意識だったんだけど、呆気に取られたように、吃驚したように一瞬目を見開いた蒼牙は、それから途端に腹立たしそうに俺の頬を強引に引っ掴んだんだ。
 いつもなら、この威圧感のある男に情けないことに怯えてしまって、何もせずに黙って事の成り行きを見守っていたけど、今の俺は違う。
 ブチ切れてるからな。

「何を言ってるか判らんぞ!?」

「判らない?ふざけるな!図星を刺されりゃ誰だって腹が立つよなぁ!お前に言われなくてもこんな村、今すぐにでも出て行ってやる!俺はもう、お前の花嫁じゃないからなッ」

 強い力で掴んでいる蒼牙の手を無理矢理引き剥がして、俺は、蒼牙の顔なんかもう見たくなかったからそのまま裸足で庭に降りると、何かを怒鳴っている蒼牙を無視して脱兎の如く走り出したんだ。
 足には自信がある。
 それだけは、蒼牙にだって負けやしない。
 見られたくなかったんだ、バカみたいにボロボロ泣いてる姿なんか。
 自分の思っていた、怖れていたことを突きつけられたような気がして、俺は月明かりの下を泣きながら走っていた。もう、涙で目の前なんかぼやけちまって、どこをどう走ってるのかも判らなくなっていたけどそれでも走って走って、思い切りこけてしまって漸く俺の足は止まっていた。

「…イテテテ…ッ、ふ…くそ、…う~」

 強かに地面に擦り付けてしまった膝小僧からは血が出ていたけど、そんなものが痛くて泣いてるんじゃない。どうしてなのか判らないけど、胸が苦しくて、胸の奥に突き抜けるような痛みが走って、鼻の奥がツキンツキン痛んで涙がジワッと盛り上がってくるんだ。
 止めようもなくて子供みたいに拳で拭いながら、声を出して泣く俺は、知らないうちに龍刃山の登山道を裸足で歩いていた。

「ふぅ…くッ、…はぁ…どして、俺…ひッく…こんなとこ歩いてんだろ?」

 バカみたいにボンヤリ見上げた空には、無情の光を投げ掛ける、何もかも知り尽くしたような月が浮かんでいた。
 ふざけるな、バーカ。
 そうやって、騙された馬鹿な男を笑ってるんだろ。
 なぁ…蒼牙。
 今頃、屋敷じゃせいせいしたように、明日の弦月の儀の用意でもしてるんだろ。今夜は小雛と寝るのか…それとも繭葵とかな。
 俺なんか、最初からからかって馬鹿にして…そうだよ、繭葵。
 先輩は何も悪くない、笑われるようなことをしてるのは俺なんだ。
 …様ぁねーよな、これが本来のかたちだって言うのにさ。
 俺は、何を信じていたんだ?

「は、…なよめ、とか…ふ…ッ、言いやがって!…うぅ…借金のッ…形には丁度いい…ぅくッ…結末じゃねーか」

 バカみたいだ、バカみたいだ。
 こんなに泣いて…どうしたんだよ、俺。
 こんなに、蒼牙を信じていたのか?
 こんなに、胸が張り裂けそうなほど…アイツを信じていたのか?
 あんなに、信じるなって言ったじゃないか。
 この想いはまやかしなんだから、鬼が巫女に託した、あの清廉とした心とは違うのに。
 俺は何を期待していたんだ。

「ふ…うぅ…ッ」

 泣いても泣いても、頭が痛くなるぐらい泣いても、答えなんか判りきっているのに、それでも俺は、今日を限りに全てを忘れるつもりで泣いていた。
 早朝のバスで帰ろう。
 あんなに望んでいた結末なんだから、楡崎光太郎!綺麗サッパリ忘れて帰ろうな。
 だから、今だけは泣こう。
 だってこれは、失恋なんだから。
 俺はあの巫女のように、潔くもなければ、儚くもない。
 だから大丈夫だ、明日も明後日もきっと、普通の顔をして生きていけるはずだ。

『嫁御かのぉ?』

『おお。嫁御じゃ、嫁御じゃ』

『こんな夜更けにどうしたことか』

『儂らの大切な嫁御が』

『泣いておるではないか』

 ふと、耳に流れ込んできた心がほっこりするような声に、俺はしゃくり上げながら足許を見下ろした。
 普通の地蔵よりも小さい石の塊が、滲む目の前でモゴモゴと動いていて、ああ小手鞠かと思い至った。そうしたら、余計に哀しくなって、俺はその場にしゃがみ込んで地蔵さんたちに話しかけたんだ。

「う…ひぃ…ッく。…めんな、小手鞠たち…俺、…うぅ~…そ、がの…花嫁じゃ、ない…ッ……だ」

 優しい口調で『嫁後嫁御』と言ってくれる小手鞠たちの一体の、その小さな石の身体を見境もなく抱き締めながらそう言ってしまえばもっと泣いてしまうと言うのに、それでも明日にはいなくなってしまうのだから、小雛か、繭葵のためにも訂正しておかなければと思ったんだ。

『何を言うておるのじゃ?』

『うぬ、ぬしだけ抱かれとるのぉ』

『なんと!嫁御殿は怪我をしておるぞ!!』

『それに、裸足ではあるまいか!?』

『なな…何をしておるのかッ、龍の子めはッッ』

「違う…ッ」

 しゃくり上げながら首を左右に振る俺を、それでも小手鞠たちは労わるように口々に言いながら、そのくせ忌々しそうに蒼牙を罵っている。
 違うんだ、これは当然の結果なんだ。
 アイツの大切な場所を踏み躙って、許されるなんて思ってしまった俺の罪なんだ。

「最初…から、俺は…ッ、花嫁なんかじゃなかったから…ふぅ…ッ、明日、帰るよ…」

 ひんやりと冷たい小手鞠の石の身体を抱き締めていたら、ゆっくりゆっくり落ち着いてきて、それでもその台詞を口にする時にはやっぱり、胸の辺りが突き刺さるように痛かった。
 俺、心臓に持病でもあったかな…なんてな。

『ぬぬぅ…龍の子め!!』

『儂らの嫁御を泣かせおってッ』

『桂はどうしたのじゃ!!』

『儂らの大事な嫁御をッ』

『最早、龍の子には渡さぬッ』

 口々に喧しく話す小手鞠の話を聞いていると、これだけ、小手鞠たちのほんの少しでも、蒼牙が俺を想ってくれたらなぁ…とか、そんな有り得ないことを考えたら笑いたくなった。
 もう、手に入らないものだってのにな。
 泣き過ぎたせいで頭が痛くなって、俺は真っ暗な山道だって言うのに、まるで見えているかのように小手鞠たちの影に隠れるようにして横になったんだ。

「ご、めん。小手鞠たち…ッ、明日には…いなくなるから…ここで、ちょっと…ぅ、寝かせて欲しいんだ…ッ」

 誰かと一緒に寝ている蒼牙がいる同じ屋敷の中で寝たくなんかない、これは俺の我が侭だったけど、なぜかこの山にいる時から俺は、恐怖心なんかこれっぽっちもなかった。
 小手鞠たちが傍にいてくれるからかもしれないけど…俺の涙声で、どこか調子っぱずれて奇妙に跳ね上がる話し方でもしんみり聞いていた小手鞠たちは、身体を丸めるようにして横たわる俺を取り囲むようにして何者からでも護ろうとしてくれているようだった。
 それが嬉しくて、俺は「ありがとう」と呟きながら、安心したように瞼を閉じたんだ。
 明日はきっと、瞼がこれ以上はないぐらい腫れてるんだろうなぁ…とか、思いながら。

 ふと、人の話し声が聞こえたような気がして意識が覚醒した。
 きっと、俺のことを心配して小手鞠たちが何か話しているんだろうと思ったけど、それにしては声が遠くにあるように感じてしまうのは気のせいなのか?
 ふと、目覚めると、周囲はまだ暗くて、瞼を閉じてからそれほど時間が経っていないんじゃないかと思わせるのは、傾いていた月が真上に来ていたからだ。
 瞼を開いて前を見たら、月明かりに煌く鱗がチラチラと見えていて、思わず俺が飛び起きそうになったその時…

「返して欲しい。それは俺の花嫁だ!」

 耳元で聞こえたんじゃないかと疑いたくなるほど大きな声が聞こえて、ビクッとしながらも俺は慌てて上半身を起こしてしまった。
 その声に、聞き覚えがあったからだ。
 いや、忘れられるはずなんかないんだけどな…

「…蒼牙」

 思わず呟いたら、散々、俺を捜し回ったのか、肩で息をしながら何やら不気味な鱗に覆われた巨体を睨みつけている青白髪の、まるで山に棲む鬼が具現化したらこうもあろうってな、相変わらず神秘的で男前の蒼牙が立っていた。
 思わず呟いた声にハッとしたように、蒼牙は俺の姿を認めると、ホッとしたように溜め息を吐いている。
 バカだな!こんなどうでもいい相手を、呉高木家の当主ともあろう男がこんな夜中に捜さなくてもいいんだよ!!…それとも、タクシーでも呼んでくれたのかな。
 そんなことを考えていたら、またジワッと涙が盛り上がってきて、気付いたらポロポロと泣いていた。
 そんな俺を、蒼牙のヤツは息を呑んだようにして見詰めてくる。

『嫁御を泣かしおったな、龍の子!』

『理由など聞かぬ』

『嫁御は最早渡さぬ』

『己が塒に帰るが良い!』

『龍の神に差し出すのじゃッ』

「断わる!それは俺の、俺だけの妻だ…」

 ハッと見上げた頭上に、うねる首を5本も乗っけた、まるで龍のような姿をした何者か…いや、声だけを聞けば小手鞠たちの頑なな言葉に怯んででもいるのか、蒼牙は俺に近寄ってこようともしない。
 そんな風に俺を嫌うのなら、もう捜しになんて来なければいいんだ。
 いや…もしかしたら、この龍の化け物に怯えてるのか?
 それならそれで、頷けてしまうんだけど。
 その姿はまるで、八岐大蛇そのもののようだった。
 いや、首は5本しかないけどな。
 でも、声だけを聞けば大好きな小手鞠たちの声だったから…ああ、あの地蔵さんは龍神の化身だったのかと、この現状だとどうでもいいことを考えていた。
 いや、けしてどうでもいいことはないんだけど、今の俺の脳味噌だと、もうそこまで考えるだけの力が残っていないって言うか…でも。
 そんなことでも考えていないと、考えたくないもない事柄ばかり、次から次へと脳裏に浮かんできて後から後から涙が零れちまうんだ。

「蒼牙…小手鞠たちの言うとおりだ。俺はもう、お前の許には戻らない。俺は…明日帰るから」

 漸く落ち着いた声だったけど、泣きすぎたせいか少し掠れていた。
 ハラハラと涙が零れるのを拭うのも忘れて、俺は内心でもう帰ってくれ!と叫びながら、それでも静かに落ち着いて蒼牙を見上げていた。
 コイツよりも6歳も年上なんだぞ、少しは落ち着いたところだってみせたいよ。
 未練がましいとか…思われたくないからな。
 ヘンなプライドなんだけど、それでも、お前には最後に見せるプライドだ。

「…ッ」

 まるで息を呑むようにして俺を見下ろしてきた蒼牙に、何を今更そんなに驚いているんだよと、できれば言ってやりたかった。

「お前の言うとおりだよ。俺はずっと帰りたかったんだ。それで、いいじゃねぇか」

 溜め息のように呟くと、不意に、蒼牙はその眼光に思わぬ力を込めて俺を、そして小手鞠たちを睨みつけたんだ。

「アンタは俺にふざけるなと言った。その言葉、そっくりそのまま返してやるッ」

「…どうして?」

 俺はもう、お前の言ってる意味が判んねーよ。
 俺のことは、いらなくなったんじゃないのか?どうしてこんなことするんだ、もう放っておいてくれればいいのに!

『龍の子よッ』

「なんだ!小手鞠どもッ」

 忌々しそうに見上げる蒼牙の只ならぬ怒りに、それでも怯むことなく、その昔ばなしから抜け出してきたような龍たちは俺の前に立ちはだかるようにして、長い首をうねらせながら蒼牙を睨み返しているようだ。

『龍の神は嫁御を気に入った』

『心音の優しい嫁御』

『この村で独りぼっちは憐れじゃのう』

『儂らが慈しんで育てよう』

「ダメだ!何度も言わせるな、それは俺のものだッッ」

 ビシッと、空気が炸裂するような音を立てて緊張した大気が揺れると、蒼牙はまるでどこか痛いような表情をして俺を見つめてきたんだ。

「来い、光太郎。アンタは俺の花嫁だ!」

 そう言って、堂々と立っている蒼牙は片腕を差し伸べてきた。
 その手を取りたかった。
 どうせ、意思の弱い俺のことだ。本当は、その腕を取って蒼牙に言って貰いたかった。
 でもそんなこと、俺の見る馬鹿な夢だ。
 顎からボタボタと涙を零しながら、瞼を閉じた俺は力なく首を左右に振った。

「どうあっても、俺の許には戻らないというのか?」

 念を押すように呟く蒼牙は、差し伸べていた掌をこれでもかと言うほど思い切り拳に握り締めたんだ。
 もう、涙腺がぶっ壊れたんじゃないかってぐらい涙を零している俺は顔を上げると、真摯に見詰めてくる青白髪の綺麗な、これ以上はないってぐらい腹を立てている蒼牙を見上げていた。
 弱気になる俺の心を、どうかもう、これ以上掻き回さないでくれ。
 そんな俺の返事をじっと待ちながら、それでも蒼牙は、不意に小さく息を吐いたんだ。

「…あの日。この山のあの場所で眠っていたアンタは、俺を見るなり【鬼だ!】って言ったんだ」

 蒼牙は握り締めていた拳をチラッと見て、仕方なさそうに下ろしてしまった。

「…へ?」

 唐突に蒼牙のヤツが、何を話し出したのか判らなかった。
 この山のあの場所って…それは、初めて俺が本当は蒼牙に逢った時で、この絶望的な関係を作った切欠になったあの日のことを言っているのか?

「そりゃあ、あの時は神事の最中だったからな、俺もそれなりの格好をしていたが…ショックだった」

「嘘だろ!?だってお前…」

 そんな風に全く見えんし、そんなことでショックを受ける柔な性格じゃないだろーが!
 それぐらい、心臓に毛が生えてるんじゃないかってぐらい、お前は飄々としてるじゃないか。

「相変わらず、失礼なヤツだな。面と向かってそんな事を言われたのは、アンタが初めてだったんだ。真剣に俺を鬼だと信じていたのか、アンタは硬直したように動けなくなっていて…」

 そ、そんなことがあったっけ?
 あ、でもなんか、そう言われるとそんな気がしてきた。
 それで、俺の中の鬼のイメージが蒼牙なのか…?

「それから…俺はアンタを騙してキスをした」

「…!?」

 ギョッとして目を見開くと、照れたように頬を朱に染めた蒼牙は、言い難そうに先を続けたんだ。

「震えるアンタに口付けた時、一瞬で、俺はアンタに恋をしていた。俺のものになれと言ったら、自分は男だと断わった。構わない、アンタが俺のものになるのなら、家族には永劫の幸福をくれてやると言ったら、アンタは暫く考えて仕方なさそうに笑ったんだ」

 どうして急に、蒼牙がそんな話をし出したのか、その時になって漸く気付いたんだ。
 いや、あの時の記憶を思い出した…と言った方が早いのかもしれないけどな。

「お前が俺を愛してくれるなら、俺もお前を好きになる。努力する。その代わり、高校を卒業するまで待ってくれ…って、俺はそう言ったんだよな」

「思い出したのか?」

 ホッとしたように、蒼牙は呟くようにそう言った。
 そうだ、俺は確かにあの日、蒼牙が大切な場所だと言ったあの場所で、慣れない着物とか着てヘトヘトになって木に凭れて眠ってしまったんだ。
 人の気配がして、歩く足音だったっけ…まあ、そんなものが聞こえて、俺の出番かなとか思いながら目を開けたらそこに、青い髪をした男が立っていた。
 けして派手ではない着物だったけど、とてもよく似合ってて、ひっそりと立ち尽くしている不思議な青い髪の男を見た途端に俺は、思ったことをそのまま口にしていたんだ。

 「鬼だ!」ってね。

 そしたらその鬼は、首を傾げて、それからニヤッと笑いやがった。

「ここは聖なる場所、殺されたくなければ目を瞑れ」

「…そう言ったと思う」

 俺が確信を持てずに頷くと、蒼牙は「そうなんだ」と言って、それからふと、あれほど強い眼差しを伏せたんだ。

「アンタは震えていた。俺の言うことを素直に信じ込んで、本気で俺を鬼などと思っていたんだ。最初は腹立たしくて虐めてやろうと思ったのさ。どうしてやろうか…そう思っていた時に、ほんの気紛れだった」

 気紛れで、男にキスをできるお前って…
 溜め息を吐きそうになった俺の前で、蒼牙のヤツがちょっと自嘲的に笑ったんだ。

「震えるアンタにキスをして、唇に頬に…そんなつもりなんかなかったのに、キスをしてしまってから止まらなくなっていた。アンタはあの日、まんまと俺の心を掻っ攫ったままで逃げたんだ」

「!?…どうしてそうなるんだよ?」

 ムッとして眉を寄せると、その時になって漸く目線を上げた蒼牙は、慈しむように、愛しそうに俺を見詰めてきた。もちろん、そんな目付きをされれば意思の弱い俺なんか、ついついよろけてしまっても仕方ない。
 うん、仕方ない。

「アンタは当時、17だった。だからずっと待ってたんだぜ?いつになったら戻ってくるのか…でも、戻っては来なかった。だから俺は、最終手段に訴えたってワケさ」

「それが、親父の莫大な借金ってワケか」

「ご名答」

 クスッと笑って、蒼牙は仕方なさそうに溜め息を吐いたんだ。
「まさか、それが。こんな結果を生むなどとは思っていなかった…俺も浅はかだった。すぐにでも、アンタを欲しかったからな」

「!」

 そんな直接的な表現を言われてしまうと、毎晩俺を抱いていた蒼牙の切ない指先の甘さを思い出して、さっきまであれほど泣いていたってのに現金なもので、俺は顔を真っ赤にしてしまった。

「あの日の約束を思い出したのなら、俺の手を取るべきじゃないのか?アンタは俺に言っただろ。愛してくれるなら、自分も好きになるだろうと」

 そう言って、蒼牙は絶対的な、あの揺ぎ無い自信を持って俺に向かって腕を差し伸べたんだ。
 そりゃ、あの時は…親父がもう、既に借金ばっかりしてて、返す当てなんかなかったからヤケクソでそんなことを承諾したんだと思う。
 あれから驚くほどイロイロとあって、この村で出逢った、あの夢みたいに綺麗な鬼のことなんかすっかり忘れていたんだ。
 だってあの鬼が…巫女すらも突き放したあの鬼が、小雛の代理ってだけの取り得もない普通の俺なんかを、まさか本気で愛してくれるなんか思っていもいなかったから。
 愛されるなんて、思いもしなかったから。

「…努力するって言ったんだ。でも、お前が俺を突き放したんじゃないか」

 あの鬼みたいに。

「だから、何を言ってるんだ?俺はもうずっと、アンタを愛していた。約束は守っていたぞ。それを言うなら、アンタこそ約束を破ったんじゃないのか?」

「…う」

 思わず言葉を飲み込んでしまった俺に、荒々しく溜め息を吐いた蒼牙はもう、問答無用で近付いてくると腕を掴んで立ち上がらせるなり抱き締めてきたんだ。 

「アンタが、光太郎が屋敷から飛び出したとき、どれほど俺がその身を案じたかアンタに判るか?この俺が、心臓が潰れるかと思った」

 掻き抱くようにしてギュッと力いっぱい抱き締めてくる蒼牙はホーッと長く息を吐き出して、その表情は思い切り安堵していたんだろうとその顔を見なくても判った。

「夜の闇は時に人間には厳しくさえあるんだ。小手鞠が護っていなかったらと思うと、ゾッとする」

「心配して、捜してくれたのか?」

 躊躇いがちに聞いたら、後ろ頭に当てていた手でグッと更に強く押し付けられて、ちょっと俺、苦しいんだけど…な。

「当たり前だ。見失ったときは我を忘れそうになっていたよ。だが、よかった。小手鞠が報せてくれたんでね」

 ホッと、もう一度息を吐く蒼牙の台詞で、俺はハッとあの八岐大蛇もどきを捜したんだけど、その時にはもう、小手鞠たちは小さな地蔵に戻っていて、ニコニコニコニコ、ただただ笑っているように見えた。
 蒼牙と小手鞠に護られて…俺は、蒼牙の肩に頬を寄せながら信じてみようかとか、思い始めていた。
 この鮮烈で強烈な温もりを、蒼牙が手離そうとしないのと同じように、俺も恐る恐る躊躇いがちにその背に腕を回していたんだ。

「光太郎…?」

 そんな従順な仕種に驚いたのか、それとも安心したのか、蒼牙は腰に回した腕と頭に添えている手に力を入れながら、何の取り得もない俺の黒い髪に頬を寄せてきた。
 俺のこと、本気で好きなのか?
 そんなの、嘘だろ?

「蒼牙、俺…俺も、お前を好きかもしれない」

 ポロッと、また一しずく涙を頬に零しながらもう少し強く抱き締めたら、蒼牙のヤツがムッとしたように呟いたんだ。

「かもしれない?曖昧な言い方だな…まあ、今はいい。そのうち、俺じゃないともうダメだと言わせてやるから覚悟しておけ」

 フンッと笑う蒼牙の、その蒼牙らしい台詞に俺は泣きながら笑っていた。
 こんな6歳も年下の男に、惚れちまうなんてどうかしてるけど、でも、もしかしたら俺も、あの小さな花が咲き誇っていたあの場所で、初めて目にした鬼に、とっくの昔に心を奪われていたのかもしれない。
 そんなこと、悔しいから教えてはやらないけど。
 俺は蒼牙を…好きなのかもしれない。
 まだ、そんなところだ。
 それで、いいと思う。

「その、な?俺、1人で歩けるけど…」

 突発的に至極当たり前だと言わんばかりに抱き上げてきた仏頂面の蒼牙に、俺は引き攣った笑みを浮かべながら必死に抵抗してみた。
 ムッとしている蒼牙はそんな俺をチラリと見て、それから腹立たしそうに言いやがったんだ。

「裸足で歩いて帰るのか?冗談じゃない、よく見れば膝も傷付いているじゃないか。俺は自分自身にうんざりしている」

「蒼牙…?」

 キョトンッとして見上げたら、蒼牙のヤツは苛々したように歯噛みして、俺を抱き上げたままでちょこんと肩を並べて立っているちっちゃな地蔵さんたちを見下ろした。

「では、小手鞠。騒がせたな」

『ふん!嫁御を貰い損ねたわ』

『二度はないと思うのじゃな』

『嫁御の涙はもう見とうないのぉ』

『いつでも貰い受けてやるわい』

『嫁御を気遣って戻るが良い』

「そうすることにしよう。だが、まあ…アンタらが光太郎を嫁にすることは永遠にないだろうがな」

 ハハハッと、珍しく声を立てて笑う蒼牙に、小手鞠たちは不機嫌そうにブーブーと何か悪態を吐いているようだったが、柔和な笑みを浮かべる地蔵さん顔で抱き上げられている俺の方を全員で見上げているような仕種に俺は首を傾げて見せた。
 ああ、そうだ。

「ありがとう、小手鞠たち。その、迷惑かけちゃったな…」

 はにかんで、そう言えば、恥ずかしい場面をあまりにもたくさん見せてしまった小手鞠たちに、顔を真っ赤にしながら俺は感謝の言葉を述べたんだ。

『なに、案ずるに及ばんよ』

『うむうむ。儂らは呉高木の護り手』

『嫁御は既に呉高木の者』

『誰が認めぬでも儂らが認めた』

 いつもは五人が五人、思い思いに口を開いてはワイワイ騒ぐ小手鞠の、一番端に居るほっこり笑っている地蔵さんだけが無口に俺を見上げている。

「どうしたんだ?小手鞠…えーっと、E?」

「小手鞠E?なんだ、それは」

 RPGの敵キャラみたいな呼び方をして悪かったんだけど、ボキャブラリーの少ない俺にはそれが精一杯なんだって。
 ムッとして真上にある、何故かとても機嫌の良さそうな、そのくせムーッとしている蒼牙の顔を見上げて眉を寄せていると、ふと、小手鞠Eは何やら言い難そうにモジモジしているようだ。

『儂らの本性を見てしまったのぅ、嫁御よ』

 あ、そう言えば。
 俺が頷くと、唐突に小手鞠たちはこれ以上はないぐらい肩を寄せ合ってなんと言うかその、怯えているようだったんだ。
 どうしたんだ、小手鞠たちは?

「…見たけど、それがどうしたんだ?」

「…ぷ」

 思わず、と言った感じで蒼牙が噴出した。
 噴出した、とは言ってもこの年齢詐称青白髪の鬼っ子野郎は、咽喉の奥でクックックッと笑うぐらいでそれほど爆笑ってのはしないから、馬鹿にされてるんだとばかり思ってしまっても仕方ないだろ。

「なんだよ、なんで笑うんだよ」

 ムッとして見上げる俺を、月明かりを背に受けて、輝くような青い白髪を持つ蒼牙はふと甘く滲むような微笑を浮かべている。男らしい口許が笑みを浮かべ、キリリとした眉の下の不思議な青みを帯びた双眸も細められているからドキッとしても、ホント仕方ない。
 お前への恋心を覚えてしまった俺に、それは反則だと思うぞ。

「理由は小手鞠どもに聞いてみろ」

 ムーッとしながらも真っ赤になっている俺の、色気もない髪に唇を寄せながら蒼牙のヤツがそんなことを言うと、小手鞠たちがギクッとしたように身体を寄せ合っている。
 どうした、地蔵さんたち!

『あの姿を見て、村の外から参った嫁御は怯えぬのか?』

『儂らは地蔵ではないのじゃ』

『儂らは龍の神の使い』

『この村を護る秘めたるもの』

『蛟なのじゃ』

「ミズチ…?いや、俺はよく判んないけどな。なんか、特撮の怪獣みたいで格好よかったぞ」

 ニコッと笑ったら、蛟だと名乗った小手鞠たちは、互いの顔を見合わせながらどうも驚いたような、嬉しそうな仕種でピョンピョンッと飛び跳ね出したんだ。

『龍の子よ!』

「なんだ、小手鞠ども」

 蒼牙が閃くような、ハッとする会心の笑みを浮かべて問い返していた。

『嫁御を無碍にするなッ』

『嫁御を常しえに護れッ』

『嫁御を大事にするんじゃぞ』

 それぞれの言葉を聞きながら、蒼牙のヤツはフフンッと笑ったままで当たり前だとその表情は物語っていたけど、言葉には出さなかった。
 そして…

『嫁御を…愛してやるのじゃ』

 まるで諭すような、どこか愛嬌があった小手鞠にしては珍しく、低く深みのある声音で最後の地蔵さんがポツリと呟いた。

「無論、そのつもりだ」

 頷く蒼牙に一安心したのか、小手鞠たちは『では気をつけてのー』と口々に言いながら、ぴょんこらぴょんこら山の中に消えて行った。
 いったい、どこに行っちまったんだ?
 そんなことを考えて、ふと顔を上げたら、思ったよりも明るい月明かりの中で、まるで昔ばなしから抜け出てきたような幻想的な青白髪の蒼牙が、不思議な青みを帯びた双眸を細めながら見下ろしてきていたのに気付いたんだ。

「な、なんだよ?」

 思わずドキッとして首を傾げると、蒼牙はフッと笑いながら、無言のまま顔を近付けてきて…それから、柔らかく口付けてきたんだ。

「…ん」

 俺はそんな優しい、まるで小鳥が啄ばむようなキスに思わずクスクスと笑ってしまった。
 なんだろうな、この幸せな気分は。
 くすぐったいような、照れ臭いような…

「なんだか、照れ臭いな…」

 俺が思わず呟いたら、蒼牙はそうか?とでも言いたそうな表情をして、啄ばむようなキスを唇から頬、それから涙にまだ濡れている瞼、そして額へと移しながら俺をケタケタ笑わせたんだ。

「やっと笑ったな」

「は?」

「もう、泣くな。お前が泣くと、俺はどうしていいのか判らなくなる」

 そんな、まるで殺し文句みたいなこと言うなよ、泣かせた張本人がよー
 それこそ照れ照れしながら俺は、モジモジして蒼牙の着物の胸元をグイッと掴んだんだ。

「俺は、別に意味もなく泣いてたわけじゃない。お前が、もう俺はいらないみたいな態度を取ったから…」

「そんな態度は取っていない!」

 突然、ムッとしたように怒鳴った蒼牙は、いつもの調子でも取り戻してくれたのかとヤレヤレと半泣きしそうになっていた俺の顔を覗き込むと、いつもの蒼牙らしくもなくニヤッと笑ったんだ。

「だが、よく判ったよ。要は俺に捨てられたくなかったと言うワケだな?」

「グハッ!」

 なな、なんでそう言う方向になるんだ!?いや、待て俺!
 もしかしたら、そんな風に聞こえるような言い方をしちまったってことか!?
 蒼褪めて俯いてしまう俺の髪に唇を寄せながら、蒼牙のヤツは機嫌が良さそうに呟いたんだ。

「アンタを、もうずっと欲しいと思っていたんだ。要らない、なんて捨てられるほど、俺はまだ大人じゃない」

 抱き上げたままで疲れすらも知らないかのような蒼牙は、そんな砂でも吐きそうな台詞をしゃあしゃあと言って、さらに強く俺を抱き締めやがるから、俺はどんな顔をしたらいいのか判らなくなる。

「大人になったら捨てるのかよ?」

 ムッとしてそんなことを言ったら、蒼牙はハハハ…と、また声を立てて笑った。

「アンタにだけは、俺は永遠に大人にはなれないだろう?色んな意味でな…まあ、たとえ物分りのよい大人になったとしても、光太郎を手放すつもりはない」

 いやまあ、それはそうなんだけどなー…なんか、いまいち言い包められたような気がして俺は、フンッと外方向いてやった。

「あー…要らなくなったらすぐに言ってくれ。いつでも出て行くからな」

 悔し紛れに、いやホントは、照れ隠しにそんな憎まれ口を言ってみただけなんだけど、思いの外怒らなかった蒼牙は口許にキリリとした笑みを浮かべて力強く言ったんだ。

「光太郎がその台詞を聞くことは、たとえアンタが死んだ後でもないだろうよ」

 そんな、嬉しいこと…ハッ!?何を言いそうになったんだ、俺は!!

「明日は愈々、弦月の儀だ。それから晦まで一週間。光太郎が欲しいよ…」

 ワタワタと慌てている俺の耳元に、まるで切羽詰ったような蒼牙の男らしい声が囁かれた。その声に、俺は何故か背筋がゾクゾクしたんだ。
 寒いとか、怖いとかそんなものじゃなくて…たぶん、感じたんだと思う。
 顔を真っ赤にした俺は、そんなバカみたいな顔を見られたくなくて、蒼牙の胸元に隠れるようにして着物の襟を掴んで顔を埋めてしまった。う、耳まで赤いような気がする。

「顔を…見せてくれ。光太郎の顔が見えないのは寂しい」

 ふと、蒼牙はそんなことを言って俺の髪に唇を寄せてきた。
 俺は…どんな顔をすりゃいいんだよ!?と、自問自答しながらも蒼牙の胸元から顔を上げて、その切ないような表情をしている蒼牙を見上げたんだ。
 キスされる。
 そう思ったけど、不思議と嫌な気分はしなかった。
 それどころか、どこかで蒼牙の唇を待っている自分がいるのには驚いた。
 あの、少しカサついた唇が、戯れるように遊んでいた先ほどのキスとは大きく違って、深く深く、魂まで交じり合うような深い口付けをくれるのを待っている。そんな自分が浅ましいとも思うし、気恥ずかしいし、何もかも全てに驚いた。
 そんな自分がいるとは…本当に驚きだ。

「光太郎、ずっと言わなかったが、それでアンタを不安にさせていたのならすまなかった」

「なに、言ってんだよ。俺は別に不安なんか…」

 キスをする寸前で、ポツリと蒼牙が呟いたから、俺は照れ隠しに唇を突き出してブツブツいい訳なんかしてみた。結局、もしかしたら、不安がってたって取られても仕方ないのかもしれないけどな。

「愛している」

 呟いて、俺が驚いたように何か言おうと開きかけた口に、蒼牙は噛み付くようにキスしてきたんだ。

「…んッ!」

 ずるいぞ、蒼牙!
 自分ばかり言いたいことを言って、俺にだって言わせろー!!…と、思ったけど、ああそうか。
 コイツはさっきの話を気にしてるんだな。
 好きかもしれない…そんな意地を張った台詞を。
 いや、だからと言って蒼牙に面と向かって同じようなことを言えるかといったら…たぶん、答えはノーだ。

「そ…がッ!ま、…んぅ…ア…ん、んん…ッ」

「…ッ…」

 深く、深く…まるで何もかも吸い込んで、互いの唾液が交じり合うように、そのまま魂すらも交じり合おうとするような…そんなキスに、俺はクラクラしていた。酸欠状態に陥るような、一瞬の酩酊感…そのくせ、もっともっととせがむ俺がいる。
 蒼牙の首に腕を巻きつけるようにして抱き付きながら、蒼牙がそう思うように、俺だって蒼牙の全てを飲み込んでしまいたいと思っていた。
 もっともっと…蒼牙が望むのなら、もっと。

「ん…んぁ…ふ…ッ」

 蒼牙、ああ、俺はお前のこと…

「蒼牙様?」

 ふと、激しいキスに溺れてしまいそうになっている俺の背中に、まるで冷水でも浴びせるような低く、よく通る声音が蒼牙の名を呼んで、俺は思わず目を見開いてしまった。
 ぎゃあ!離せ、離せ蒼牙!!

「んぅ…ッ!!」

 慌てて離れようとする俺を器用に押さえつけながら思う様口腔内を蹂躙した蒼牙は、俺は誰だよと顔を覆いたくなるような甘い溜め息を吐いてしまう俺の唇を舐めながら低く応えたんだ。

「…桂か」

 俺を思う様味わって唇を舐める舌を呆然としている俺の口腔内にもう一度挿し込んだかと思うと、そこに桂がいると言うのにさらに深い口付けで俺の舌を弄ぶと、漸く満足して唇を離す蒼牙の舌を追うように、乱れてしまっていた俺が無意識に伸ばした舌には唾液が月明かりに銀色の光を反射させて…って、マジですげー恥ずかしいんだが!! 
 あわわわ…

「楡崎様はご無事でしたでしょうか?」

「目を放した隙に傷付けてしまった。口惜しいことだ。足を痛めている」

 低い声で蒼牙が説明すると、桂は一瞬眉を顰めてから、相変わらずのポーカーフェイスで膝を付いたままあの魅力的な低い声で言ったんだ。

「それはいけません。化膿すると大変ですので、どうぞお屋敷にお戻りくださいませ」

「ああ、そのつもりだ」

 いや、だから。
 いつからそこにいたんだ、桂!?
 俺が顔を真っ赤に、いや、キスの余韻もあるんだろうけど…いやいや、取り敢えず顔を真っ赤にしたままで畏まっている桂を見下ろしたら、彼は俺に一瞬目線を移すと、ふと、嬉しそうに口許に笑みを浮かべたんだ。それは、ともすれば見落としてしまいそうなほど一瞬だったんだけど…
 そうだ、思い出した。
 桂は蒼牙の花嫁は俺しかいないと、無表情で熱っぽく語っちゃうような、ちょっとアレな人だった。
 一瞬で消えてしまったあの嬉しそうな笑みを見ると、どうやら早い段階からここにいたのであろう桂は、蒼牙を受け入れてしまいそうな俺に満足しているんだ。
 影もなく神出鬼没で現れてしまう桂、恐るべし!…だ。
 うわー、もう明日からどんな顔して桂に会おうかと、思わずメソメソ泣き出しそうになっている俺をまだまだ平気で抱え上げている蒼牙のヤツは、それこそ嬉しそうにニコッと笑って桂に言ったんだ。

「大事な身体だからな。桂、薬を用意しておいてくれ」

「畏まりました。お熱が出るかもしれません、氷嚢も用意致しておきます」

「ああ、何か栄養になるものも必要だな。血が出たようだ」

「…それは、いけませんね」

 そんな、勝手なことを勝手に言い合っている蒼牙と桂に、俺は立ち眩みのような眩暈を覚えてしまった。
 どんな重症なんだよ、俺は!?

「いや、そんなに必要ないって。ただの掠り傷だ」

「それを決めるのは俺だ。アンタは大事な花嫁なんだからな…俺が護ってやる」

 そう言ってペロリと唇を舐めてくる蒼牙に真っ赤になる俺を、ヤツは満足したように覗き込んで額にキスしてきた。そんな、蒼褪めている俺を無視すれば、桂ヴィジョンでは仲睦まじい当主とその花嫁の姿に大変ご満悦ではないのかと思えるほど、寡黙な執事は無表情で喜んでいるようだ。
 まるで某法律系の番組に出演している弁護士みたいな人だなーと思いながら、俺はとうとう調子に乗ってチュッチュッと戯れるようなキスをする蒼牙の顔を引き剥がそうとして悪戦苦闘した。

「では、蒼牙様。私は先に失礼致します。道中、お気を付けてお戻りくださいませ」

 ここは蒼牙の庭なのだから、そんな心配はしてやる必要ないんだけど、流石は執事の鑑のような桂は「キスすんな!」「なぜだ?」と言って無用な攻防戦を繰り広げている俺たちに頭を下げると、サッサと山を降りたようだった。
 まあ、たぶん。
 折角仲睦まじくなってくれた当主とその花嫁を、そっとしておいてやろうと言う、何とも恐ろしい気を遣ってくれたのかもしれないけど…勘弁してくれ、桂。
 そんな桂を見送った後、啄ばむような優しいキスの雨を頭髪に降らせている蒼牙の衿を引っ張って、俺はそろそろ眠くなったことを伝えたんだ。

「もう、家に帰ろう。俺、クタクタだ」

 お前だって本当は、随分と草臥れてるだろうに、さっきから俺を抱き上げたままで突っ立っているんだ。もう、下ろしてくれたらいいのに…そんなことを考えていたら、蒼牙がそうだなと殊の外あっさりと頷いて、そのまま下山を始めたんだ。
 うお、こんな所まで昇ってきていたのかと吃驚したけど、それでも俺は、無言のまま蒼牙に抱かれていた。こう言うとヘンな感じに聞こえてしまうけど、口が裂けても言えないじゃないか。
 お姫様抱っこしてもらってるなんてな。
 ハァ…と溜め息を吐く俺に、迷うことなく、いや、こんな月明かりだけを頼りだって言うのにスタスタと歩いている蒼牙が、前を向いたままで何でもないことのように言ったんだ。

「疲れたのならこのまま眠るといい」

「いや、でもお前が…」

「構わん」

 重いだろう…と気を遣おうとしたのに一方的にそう言われちまって、そうすると俺の素直な脳味噌は、蒼牙の言葉どおりサッサと瞼を重くしやがった。いや、俺の脳味噌!ちょっと待て、呆気なさ過ぎないか?
 無駄に足掻いて抵抗しても、強烈な睡魔は許してくれるはずもない。
 なんにせよ、真夜中なワケで、睡眠を無駄に貪る俺はウツラウツラと舟を漕ぎ始めてしまった。
 蒼牙の身体のぬくもりに包まれて、その少し早めの心音を聞いていると、まるで揺り籠の中にいるような錯覚を覚えて、俺の根性のない瞼はゆっくりと閉じてしまう。
 今日はイロイロあったなぁ…とか、そんなどうでもいいことを思いながら瞼を閉じると。

「早く俺を好きになるんだぞ」

 そう言って、誰かが半開きの口許に何かを押し当ててきた。
 少しかさついたその柔らかな感触に、俺は夢でも見ているように小さく笑ってしまった。
 明日は弦月の儀だ。
 明日も晴れるといいな…