第一話 花嫁に選ばれた男 9  -鬼哭の杜-

 『弦月の儀』を執り行うと言うことは、つまり『弦月の奉納祭』があるってワケで、俺たちのように遠い親戚にしかならない連中は『弦月の儀』にはお呼びじゃないそうだ。
 昨夜から異常に機嫌の良い桂が、本日の予定を事細かに説明してくれたが、肝心の『弦月の儀』についてはこれっぽっちも教えてくれない。だから、それとなくおねだりしてみたら、桂自身もその内容がどんなものであるのかは知らないとのことだった。
 うーん、怪しい。
 ムムムッと桂を睨んだところで、ポーカーフェイスが専売特許の桂にとってはどこ吹く風で、仕方なく俺は彼から聞き出すのを諦めることにした。
 裏山、まあ、龍刃山にでも散歩に行って、途中で小手鞠たちに会ったら昨日の礼でも言っておくかなーとか思いながら部屋を出ようとする浴衣姿の俺に、桂はやっぱり無表情のままで言ったんだ。

「蒼牙様にお尋ねになれば、或いは教えて頂けるかもしれません」

「うーん…今朝も試みたけど、怖い顔してダメだ!って切り捨てられちまったよ」

 トホホ…ッと眉を寄せる俺に、桂さんはソッと申し訳なさそうに眉を寄せて言った。

「漸く楡崎様がお心を開かれたのでもしやとは思ったのですが…申し訳ございません、浅はかな考えでございました」

 深深と頭を下げる桂に、俺は思いきり慌てて顔を起こしてくださいと言っていた。
 そんな、朝っぱらからこっぱずかしいこと言わないでくれよ~
 それでなくても今朝だって、目が覚めたら蒼牙のヤツがジーッと顔を覗き込んでいて吃驚したってのに。
 それも開口一番で。

「いつまで見ていても見飽きないな、アンタの顔は。一日だって見ていられる、愛しいからな」

 と、そんなふざけたことを言って俺を真っ赤にさせたんだ。
 耳まで赤くなっていたら、クソ意地の悪い蒼牙のヤツは、クスクスと笑ってそんな俺にキスをしてきた。啄ばむだけの、柔らかいキス。
 それはきっと、俺があの時、照れ臭いとか言いながら嬉しそうな顔をしたからだと思う。
 そう言うところは驚くほど素直なヤツだからなぁ…
 やれやれと溜め息を吐いていたら、無表情のままで桂がジッと見上げてきているのに気付いてハッと我に返った俺は、取り繕うように乾いた笑い声を出していた。

「…蒼牙様に愛されて、どうぞ、健やかなお子様をお授け下さいませ」

 ふと、桂が呟くようにそんな、おいおい勘弁してくれよ的な発言なんかするから、俺はますます顔を真っ赤にして俯かなきゃならなくなっちまった。
 子供なんて…本気で考えてるワケじゃないんだろうけど、それでも村人たちや、一族の願いは蒼牙の子供なんだよなぁと、あれほど馬鹿らしいと考えていたことを今は真剣に考えている自分が現金つーか、なんつーか、穴があったら入りたい気分かな。

「その、そ、それじゃあ、桂さん。俺、ちょっと朝飯まで裏山散策してくるよ」

「はい、お気を付けてお行きくださいませ。ご用がございましたら、いつでもお呼びください」

 一瞬、口許に笑みを浮かべたように見えたんだけど、確認しようとした矢先に、既に桂は頭を下げていた。
 蒼牙にしろ桂にしろ、なんか様子がおかしい。
 俺はなぁ、好きになる努力をするって言ったんだ、そりゃ、今度の晦の儀は覚悟は一応決めてるけど…
 いざその場にきたら、俺はちゃんと蒼牙を受け入れることが出来るんだろうか、なんて、この村に来てからあまりにも色々と起こりすぎたせいか、いや、この村自体がちょっとおかしいのか、俺の脳内細胞もちょっとずつおかしくなっているような気がしてならない。
 蒼牙を受け入れるってことはだな、あの場所に…ひー、俺ってば何を考えてるんだ!?

「光太郎くーん♪」

 派手に赤面してアタオタしている俺の腰に、いきなり背後から誰かがドシーンッと体当たりしてきて、そのまま腕を絡めやがったんだ。
 この村でこんな風に朝からハイテンションの高気圧娘は1人しかない…妖怪娘の繭葵だ。

「な、なんだよ、繭葵」

「んん?あれれ??今日は蒼牙様に抱かれてないね」

「グハッ!!」

 思わず、背後からひょこっと顔を覗かせて眉を寄せている繭葵の顔面を、許されることならぶん殴るところだった。

「なな、何言ってるんだ!?」

「えー、だってさぁ。君、昨夜逃亡したんでショ?」

 う!
 ギクッとして首を竦めそうになった俺に、繭葵のヤツは意地悪そうにニヤニヤ笑いながらんーっと顔を覗き込んできやがる。
 なんでコイツはこんなに耳聡いんだ!?どこかにスパイでも飼ってるんじゃねーだろうな。
 そう思わずにはいられないほど、この繭葵と言う妖怪娘は俺の行動の一部始終を熟知してやがる。もしかして、コイツが時々口にしている『同人誌』とかってのに、何やら俺たちのことを書くんじゃないだろうなぁ。
 侮れないから怖いんだよな。もういっそのこと、民俗学なんか辞めてレポーターとかジャーナリストになればいいのにな、コイツ。
 いや、待てよ。
 コイツがここまで知ってるってことはもしや…

「そそ、それは…」

「あー、みんな知ってるかって思ってるんでショ?たぶんね、知ってると思うけど。蒼牙様の想いが実ったってことも周知することになったと思うよ」

「なんでだ!?」

 愕然として聞き返す俺に、繭葵は腰に回していた腕を解くと、呆れたように肩を竦めて溜め息を吐いたんだ。

「そりゃあ、蒼牙様のあの態度を見ていたら誰だって気付くよー。ボクなんか、え!?誰コイツ!!?とか、真剣思っちゃったからね。いつも通りの顔をされてるけど、鼻歌でも歌い出しそうだもんね~♪」

 蒼牙の野郎…!

「ねね?それで、ちゃんと話せたの?キスは上手にできた??」

 どうして話しがそっちに…と考えて、そう言われてみたら、繭葵のヤツは昨日の夜もそんなことを言ってなかったかな。唐突に思い出して、このニヤニヤ笑いながらも、どこかホッとしているような妖怪娘が少なからず俺のことを考えて気を遣ってくれていたんだなぁと、なんだかちょっとだけ嬉しくなった。
 そんなことはたぶん、口が裂けても本人の前では言えないだろうけど。

「話しは…したな。まあ、そのえっと…」

 言葉を濁す俺に、繭葵はパッと表情を綻ばせると、朝の清々しい雰囲気に良く似合う笑顔を浮かべて俺に抱き着いてきたんだ。

「よかった!うん、ホントに良かったね!」

「…どうせ、お前。婚儀で浮かれている蒼牙に付け入って蔵開き狙ってるんだろ」

 あまりの浮かれ気味に、俺はコイツは~っと胡乱な目付きで見下ろしながら、ヤレヤレと溜め息を吐いた。それでも、もう覚悟は決めているつもりだ。なんだかんだ言ってもたぶん、俺は蒼牙を好きだと思う。
 結婚…なんて考えてもいなかったけど、あの6歳も年下のくせに妙に大人びた年齢詐称の鬼っ子蒼牙が、そんな風に嬉しそうにしているのなら、可愛いじゃないか。期待に応えてやっても悪かないかな…とか。

「でも、協力してやるよ」

 思ってしまう、俺もどうかしてるとは思うけどな。
 困ったように苦笑しながらそんな冗談を言うと、繭葵はムゥッと唇を尖らせながら俺から離れて腰に片手を当ててビシィッと指先を突き付けてきた。

「そんな情けは無用だね!このボクを誰だと思ってるんだい?民俗学会期待の新星!大木田繭葵様だよ!!ボクの辞書に不可能はなーいッ」

「判った判った、俺が悪かった」

 朝っぱらから嫌になるぐらいのハイテンションで宣言されても、思わず退いてしまう俺が悪いわけじゃないと思うぞ。
 だけど、この村にいる殆どの人が、凡そ低血圧なんて知らないんじゃないかってぐらい元気に早起きだ。蒼牙にしたってケロッと目を覚ますし…いや、アイツの場合は寝付きも頗るいいんだけどな。
 眞琴さんも伊織さんも、朝からばっちりメイクを決めてるしなぁ…
 陰気だ陰気だと思っていたけど、よく見りゃ、元気な村じゃないか。
 朝早くから農作業に勤しむ姿なんか…東京じゃ絶対に見られない風景だもんな。

「どーせ、光太郎くんも蒼牙様好きなくせに、意地っ張りなんだから。まあ、蒼牙様のあの表情を見れば、全部上手くいったんだってことは判るけどね。それでもボクは、ハラハラしてしまったよ」

 全く違うことを考えている俺の前で、ああ、良かったぁとで言いたそうにホッと苦笑する繭葵に、いったいどうしてコイツは、こんなに俺と蒼牙をくっ付けたがるんだろうと不思議になった。
 不思議に思ってそのまま直球で聞いてみたら、繭葵のヤツはキョトンッとして、それからすぐにケラケラと笑ったんだ。

「そりゃあ、ボクが光太郎くんを好きだからだよ!」

「はぁ!?」

 ギョッとして目を見開くと、繭葵は驚くほどニコニコして、突拍子もない愛の告白とやらをらかしてくれやがった。

「初めて見た時からビビビッときたもんね。ボク、絶対にこの人を手に入れてやろうって思ったんだけどさ。光太郎くん、驚くほど蒼牙様しか見ていなかったから」

 そそ、それは、いや、なんだって言うんだ!?
 俺が口をパクパクさせていると、繭葵はクスクスと勝気そうな大きな目を細めて笑いながら、嬉しそうに言ったんだ。

「ボクね、好きな人には幸せになってもらいたいんだよ。だから、蒼牙様とくっ付いてくれて良かったなぁって思うんだー」

 エヘへッと笑う繭葵に、でも…と、俺はそんなこと言ってどうなるってワケでもなかったんだけど、それでも言わずにはいられなかった。

「それだとお前は?お前の幸せはどうなるんだ?」

 尋ねる俺の顔をマジマジと見詰めていた繭葵は、それから困ったように眉を寄せて俯きながら笑う。その顔に、ほんの少しだけど、弾けるほど明るい、向日葵みたいな繭葵の顔に陰が差したんだ。
 拙いことを言ってしまったと唇を噛んだところで、一度吐き出してしまった言葉は消しゴムでゴシゴシ消せるってワケでもないから、俺は責任を持たないといけない。
 でも、繭葵は…

「ったくもう、相変わらず他人のことばっかり考えるんだから。それならどうするんだい?蒼牙様を諦めてボクと結婚してくれるの?…違うでショ。そうじゃないんだよ、こう言う時はありがとって言うんだ」

「え?」

 吃驚して、この小さな妹みたいな繭葵を見下ろしていたら、彼女はウシシッと笑って人の悪そうな目付きで俺を見上げてきたんだ。

「まあ、友人として好きってことだから。友達が好きな人と結婚できて幸せそうにしてる姿を見るのは大好物だよ♪」

「…ん?ってことはなんだ、俺のことをその、そう言う意味で好きってワケじゃ…」

「あったりまえじゃーん!そんな、蒼牙様に殺されるようなこと言うワケないでショ?それにボク、民俗学一筋だもんね~」

 弾けるようにゲラゲラと笑って、繭葵のヤツは力いっぱい俺の背中を殴りやがったんだ。
 思わず咳き込んでゲホゲホッと咽る俺に、繭葵はふふーんっと笑いながら腕を組んで見上げてくると、小憎たらしく言いやがるからぶん殴ってやりたくなった。

「そもそも君はさ、何度も言うようだけど他人のことを考え過ぎるよね。そんなだと、ボクはまた心配になってしまうよ。小雛に蒼牙様を攫われちゃうんじゃないか、ってね」

「そんなこと…」

 あるわけねーだろと言いそうになったら、繭葵はフーッと長く溜め息を吐いて、困惑したように綺麗に整えた眉をソッと顰めながら囁くように言ったんだ。

「蒼牙様だって若いんだよ?それに、呉高木は平気でお妾さんを貰っちゃうような家なんだし。安心してたら横からあ!っと言う間に攫われてしまうかもしれないんだ、気をつけなくちゃー」

 誰も聞いちゃいないってのに、声を低くする繭葵の言葉に、唐突に俺はドキッとしてしまった。
 そうだ、すっかり安心していたけど、そうして俺が安心していられたのは蒼牙が揺るぎ無く俺を愛してくれているって言う、そんな不確かな確信だけだった。
 そうだ俺…桂たちが言うように、元気な子供だって生めないって言うのに…結婚なんか。
 つい、黙り込んでしまう俺に繭葵は慌てたように、そんな俺の腕を掴んで顔を覗き込んできたんだ。

「だから!他人のことなんか気にしなくっていいって言ってるんだからね!蒼牙様は本当に光太郎くんを好きなんだし、他の人を不幸にしてまで俺は…なんて考えないでよねってことだよ。光太郎くんの味方である繭葵ちゃんが一緒だし、絶対に大丈夫って言い切れちゃうんだけど。光太郎くんがあやふやな態度だと、ボクが心配しちゃうんだよ」

 すっかり、俺のことをお人好しだと思いこんでいる繭葵に、俺はどんな顔をしたらいいのか判らなくなってしまった。だって、俺が考えているのはそんなことじゃない。
 もっと、もっと暗くて淀んだ…嫉妬だから。

「大丈夫だ。俺はそんなにお人好しじゃないって」

 クスッと笑って見下ろしたら、繭葵はホントかな?っとでも言いたそうに眉を寄せて、それでもやれやれとでも言うように肩を竦めやがったんだ。

「ちょっと脅し過ぎちゃったかな?でも、気を引き締めていないとここは海千山千、どんな化け物が眠っているか判らないからね。ボクは光太郎くんに、本当に幸せになって欲しいんだ」

「アンタが心配しなくても俺がいる」

 不意に声を掛けられて、途端に繭葵はギクッとしたように首を竦めて、それからエヘへッと誤魔化すように笑いながら背後を振り返った。
 ちょうど、俺からも死角になる場所に青白髪の蒼牙が腕を組んで不機嫌そうに立っていたんだ。

「蒼牙様!」

「…蒼牙」

 チラッと、それでも勝気な双眸で見詰める、全く怯む気配もないニコニコ笑っている繭葵を見下ろした蒼牙は、それから不機嫌そうにジトッと俺を睨み付けたんだ。
 繭葵と話したことに腹を立てているのか、さして反論もしなかった俺に腹を立てているのか、どちらにしろ今の蒼牙は、繭葵が言うほど鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌と言うわけではなさそうだ。

「ったく、目を離せば何を話しているんだ。繭葵、晦の儀まで花嫁は気が立つんだろ?静かにしていろ」

「ぅはーい!…でもさぁ、蒼牙様。お妾さんとか貰って、ボクの光太郎くんを悲しませないでよね」

「当たり前だ。そもそも、お前のものではない」

 …と言うか、俺は俺のものだけどな。
 ムスッとして見下ろす蒼牙に、ムッとした繭葵も唇を尖らせて反論している。
 あの蒼牙が、ともすれば煩いと言って斬り捨ててしまいそうな短気も起こさずに、繭葵にはほぼ対等に話をしてやっている。
 もしかしたら蒼牙は、俺がいなければ、本当は繭葵と一緒になってたってちっともおかしくないんだよな…
 そうか、妾か。
 忘れてた、あの狸親父ですら2人も妾がいるんだ。
 蒼牙だって…

「むー!んじゃ、光太郎くん!ボクはもう行くね…あ、そーだ!今夜の弦月の奉納祭。一緒に行こうね♪」

「うん、判った」

 俺が頷くと、繭葵は嬉しそうに笑って手を振ったが、蒼牙はムッとしたようにそんな俺を見下ろしてくる。
 蒼牙の目付きは気になるけど、それ以上に俺は、繭葵が言った言葉が頭を占めていた。
 涼しげなスカートをひらひらさせて行ってしまった繭葵を見送っていたら、不意に、蒼牙のヤツが俺の腕を掴んでグイッと引き寄せたんだ。

「アンタは誰を見てるんだ?」

 その目付きは、俺がここにいるのに!…とでも、怒っているように見える。

「蒼牙に決まってるだろ?」

 ちょっと笑ったら、蒼牙のヤツは何とも言えない顔つきをして、困ったような、ムッとしたような、ヤツにしては珍しくまるで照れてでもいるかのように、その鋭い、男らしい双眸で覗き込んできたんだ。

「違うね。アンタは今、繭葵を見てたじゃないか」

「そりゃ、見送るぐらいはするさ。繭葵はああ見えても…なんか、お前たちは忘れてるようだけど、花嫁候補だろ?仲良くしないとな」

「花嫁候補だと?誰がだ。俺の花嫁はアンタしかいない。判らないなら、今すぐその身体に教えてやってもいいんだぞ」

 う!それはちょっと…思わず引き攣って笑ってしまった俺に、蒼牙のヤツは眉を寄せて、まるで子供っぽい仕種で俺の額に自分の額をコツンッとぶつけながら唇を尖らせた。

「アンタはやっぱり何も判っちゃいないんだ。俺がどれほど光太郎と言う人間を愛してるか…どう言えば、アンタは信じてくれるんだろうな?」

「信じてるよ」

 言葉に出せば呆れるぐらいアッサリとしているのに、言い出すまでが思い悩んでしまう難しい言葉を呟きながら、俺は不貞腐れている蒼牙の頬を確かめるように触れて、それから安心したように笑った。
 どうしたって言うんだ、俺は。
 こんな6歳も年下の男に惚れてるなんて、どうかしてる。
 でも、どうかしてるとは思っていない俺もいる。
 ただ、好きになったのが6歳年下の男で、蒼牙だったってだけだ…なんて、古臭いドラマの常套句みたいな馬鹿な台詞で、納めてしまうにはあんまり強烈な想い。
 心が痛くなる。
 事実は拭えない真実だからだ。

「だったらいいんだがな。光太郎はどこか掴み所がない。指の隙間からするりと抜けて、何処かに行ってしまうんじゃないかと不安で仕方ないよ」

「その台詞、そっくりお前に返してやる。昔ばなしから抜け出してきた鬼っ子のくせに」

「?」

 俺の言葉の意味が判らなかったのか、蒼牙はキョトンッとしてそんな俺を見下ろしてきた。その仕種があんまり可愛かったから、俺は笑いながら蒼牙の胸元に頬を寄せてその背中に腕を回していた。
 結構、積極的だったとは思うのに、蒼牙のヤツが何もしてこないから…いや、何かして欲しいってワケじゃないけど、ああクソ!そうだよ、本当は抱き締めて欲しいとは思ったさ。怪訝に思って眉を寄せながら顔を上げたら、蒼牙のヤツは…なんと言うか、薄っすらと頬を染めて、照れ臭そうに、嬉しそうに破顔して俺を見下ろしていたんだ。
 ドキッとした俺がこの場合は離れるべきなのかどうするべきなのか、メチャクチャ悩んでいると、蒼牙は、ヤツにして驚くほど柔らかく、恐る恐ると言った様子で戸惑っている俺を抱き締めてきた。

「アンタから抱き着いてくるなんて初めてだな。壊してしまいそうで怖いよ」

 どうして壊してしまうなんて発想になるのか判らなかったけど、俺は蒼牙に抱き締められたままで瞼を閉じた。
 まあ、いいや。
 微かに震えるようにして抱き締めてくる蒼牙がお妾さんを何人も迎えたって、俺は結局男なんだから、子供を必要とする呉高木家では仕方ないんだって、諦めてしまえば丸く収まることじゃないか。
 俺にしてはかなり譲歩してるんだ、そのぶん、いつかコイツには言ってやろうと思う。
 よくも俺に、お前を好きにさせやがったな!…ってね。
 そうしたら蒼牙のヤツが、フフンッとした顔をして、やっぱりアンタは俺を好きなのか…とか言ったとしても、その時はニッコリ笑ってぶん殴ってやる。
 この時俺は、この村に来て初めて当主と言う立場にいるはずの蒼牙の、子供のように一途で純粋な本心を知ることができたような気がしたんだ。
 俺は蒼牙を…好きなんだと思う。

 夕暮れ時の山道には先を急ぐ村人たちが、一日の仕事を終えて、それでも活き活きとしたように夜の挨拶を交わしながら歩いている。
 こんな閉鎖的な小さな村には、夏祭りだからって夜店もなくて、子供たちは退屈なんじゃないかなぁとは思うけど、それでも楽しそうに笑いながら登山道を走っていた。
 ともすればノスタルジックな懐かしさが胸に去来するような光景に、低いとは言え立派な山なんだから、登山用にジーンズにTシャツ、スニーカーと言う出で立ちの俺がボーッと突っ立っていると、突然背中に誰かが突進してきたんだ。

「グハッ!!」

 今日はしょっちゅう背中を痛めてるなぁと思いながら、胡乱な目付きで振り返ると、大方繭葵のヤツがわざとぶつかってきたんだろうと思いきり険悪な目で見たって言うのに、目線がやや高すぎたのか、そのまま下に向けると…村の子供だった。
 俺のあまりにも凶悪な目付きに怯えたように言葉をなくしているクソガキ、もとい、村の子供に、俺は慌ててニコッと笑ったんだ。

「走ると危ないけど、転ばないように気を付けて思いっきり走れよ」

 軽く言ったら子供はパッと明るい表情になって、大きく頷きながら俺を見上げてきた。

「呉高木のお嫁様!おめでとうございます!」

「なな!?」

 笑って手を振ると走って羨ましそうな顔をしている仲間の元に戻って行く子供の後ろ姿を見送りながら、思わず仰け反りそうになってしまう俺に、道をボチボチと歩いていたバアちゃんが気付いたのか、皺に埋もれてしまった顔に憎めない笑みを浮かべて恭しく頭を下げたんだ。

「おお、呉高木の嫁様。この度はおめでとうございますじゃ」

「は、はぁ…」

 なんと応えたらいいものか…今まで遠巻きにしか見ていなかった村人たちが、とても親しげに声をかけてくる。その誰もが、「呉高木の嫁様、おめでとうございます」と誰にも憚らずに口にするから、この人たちに世間で言うところの常識ってものはないんだろうか…?
 でも、蒼牙が神なんだから、ヤツが俺を花嫁にすると言えば、それが即ち常識になってしまうんだろうか?

「光太郎くん!…おっと、今日はダメだね」

「は?何がだよ、繭葵」

 後から声をかけてきた繭葵は、ジーンズの短パンに虫刺されを用心した長袖のシャツ、オーバーニーソックス、それから運動靴を履いている。
 いつもはこんなの山じゃないねと言って、可愛い女の子らしい服装をしてるって言うのに、今日の繭葵は俄然やる気を出したハンターの目付きをしている…ってお前、もしかして、何
か企んでるんじゃないだろうな?

「今日は呉高木家の朔の礼の神事の1つだから、ちゃんと光太郎くんのことをお嫁様って言わないといけないんだよ。今日で、本当にお嫁さんになるようなものだからね」

「ええ!?そうなのか??だって、晦の儀ってのが…」

「あははは♪それはだから、今日選ばれた花嫁に子篭りさせる為の神事でショ?今日のはこの人が現当主、蒼牙様のお嫁さんですよって言うお披露目の行事みたいなものだよ」

「そ、そうだったのか…知らなかった」

 知らなさすぎだよと大らかに笑う繭葵の傍を、物珍しそうに通り過ぎる村人が俺に気付くと、厳ついおっさんも柔和な笑みを浮かべて頭を下げて行くんだ。

 「呉高木のお嫁様、おめでとうございます」って言いながらな。

「うわぁ…じゃあ、先輩たちにバレるってワケじゃねーか!それで蒼牙のヤツ、あっさり承諾したんだな。あの野郎~ッ」

 ムキィッと歯噛みする俺に、繭葵のヤツはウシシシッと笑いながら口許に手を当てて笑いやがる。

「なんだよ?」

 ジロリと睨んだら、繭葵のヤツはふふーんっと笑って山道をゆっくりと歩き出した。

「きっとね、弦月の儀はこの村を守るって言う龍神様にご報告する神事じゃないかって、ボクは睨んでるんだよね。確かめたいって思うけど…きっと、同じことを君の先輩も考えてると思うよ」

 そう言った繭葵のヤツが、驚くほど冷ややかな、怖い目付きをして俺を振り返るとその背後を睨み付けたんだ。
 ん?っと思って振り返ろうとした矢先、唐突に背後から伸びてきた腕で肩を抱き寄せられてしまったんだ!
 だ、誰だ!?
 慌てて振り返った先に…

「よお、楡崎!」

 げげ、先輩!…うわぁ、どんな顔して挨拶したらいいんだよ?
 朝とか昼は、低血圧な連中らしくコソリとも起きてこなかったくせに、今は睡眠も足りて活き活きとしたように笑ってやがる。うう、どんな嫌味を言われるか。
 或いは蔑まれるか…考えただけで吐き気がしそうだ。

「驚いたぜ!まさかお前が呉高木の花嫁だったとはなぁ…どうなんだよ?毎晩犯ってんのか??年下の男に抱かれるなんて冗談じゃ…」

「煩いな!君に関係ないでショ?下品な人だなー」

 ムッとしたように繭葵が俺に絡まっている高遠先輩の腕を引き剥がしながら、軽く睨みつけて舌を出した。その小さな身体のどこにそんな力があるのか、俺が驚いていると、ムカムカしてそうな繭葵はフンッと鼻先で息を吐き出した。

「な、なんだとこの野郎!信じられるかよッ、俺の可愛い後輩がホモなんてな!!」

「ムッ!聞き捨てならない台詞だね。恋愛に偏見でも持ってんのかい?今時珍しいほど古臭い考え方だなぁ!人間が人間と愛し合うのにカタチとかあるワケ?そんなんじゃ、いつまで経っても新発見とか望めないね。恋愛でも、民俗学でも」

「なんだと、コイツ!楡崎も楡崎なら呉高木の当主も当主だ!どうかしちまってる、気持ち悪いッ!!そんなヤツを庇っているお前なんかにとやかく言われる筋合いはだなぁ…ッ!」

 先輩の台詞がそこで途絶えてしまった。
 なぜならそれは、俺が繭葵に対して振り上げた先輩の腕を掴んだからだ。

「先輩、それぐらいにしてください」

「ッ!…触るな、気持ち悪いッ」

 さっきまであんたが触ってたじゃねーか…とか、理不尽なことを言われながら腕を振り払われても、俺は溜め息を吐いて先輩を見上げたんだ。
 そりゃ、傷付いてないって言えば嘘になるけど、それでも、繭葵じゃないが、誰かを好きになることに条件なんかないと思うんだ。
 口汚く罵られるならそれでもいい、だが、蒼牙の悪口は言うんじゃねぇ。
 お前に何が判るんだ。
 この村の人たちが一心に信じている当主を、口汚く罵れるほど真っ当な人でもないでしょーが。

「俺のことをとやかく言うのは構いません。でも、蒼牙のことはけして言わないで下さい。貴方には理解できないこともあるんです。理解しろとは言いません、だが、理解してくれとも言いません。先輩のことをとやかく言わないんだ、俺たちのことも放っておいてください。先輩の目的は奉納祭なんだろ?奉納祭をご覧になって帰ってください!」

 いつもは先輩に引っ張られるようにして何も言えずに言うことを聞いていた俺…いや、あの当時は先輩がウザくて、他の連中も何も言わずに愛想笑いで軽く付き合っていた。生真面目ってのもなかなか鼻につくもんで、それが自己中な人なら尚更だ。
 今だって、何も言えずに振り回していたはずの俺の反撃に、驚いたように目を見開いている。
 自分がこれだけ言えば、俺が思い留まるとでも思ったんだろう。
 過ごしてきた時間が、もう違うって事にも気付かずに。

「お、お前…ッ」

「はーい、はいはいはい!高遠くんの負けぇ。それぐらいにしといたら?」

 思わずズイッと近付いてこようとした先輩を、まるで踏み止まらせるようにして、いつからそこにいたのか相変わらずナイスバディの由美子が鼻先でクスッと笑って、豊満な胸元を押し上げるようにして腕を組むと俺をチラッと見たんだ。

「相手がキミじゃ、勝ち目ないもんねぇ。あーん、仕方ないわ。あたしは神事でも楽しもっとぉ」

 残念そうに溜め息を吐いて、大袈裟に両腕を上げて伸びをしたら、由美子はサッサと高遠先輩の腕を掴んで立ち去ろうとした。…んだけど、先輩がそれを拒んだ。

「何を言ってやがんだ。お前は楡崎のことを知らないからそんな風に軽く流せるんだろうけどなぁ、コイツは…」

 先輩だってあれからの俺の生活なんか知らないじゃないッスか、どこから自分の発言に対してそれほどの自信が出てくるのか知りたいんですけど…

「うっさいなー。あたしはさぁ、恋愛なんてそこのお嬢ちゃんと一緒で、楽しければそれでいいのぉ!好きになったら仕方ないじゃん。ったく、高遠くんは昔っからナンセンスよね。昭和初期の大和撫子でもお嫁さんにしたらいいのよ。この時代に処女でも捜してね。そのうち、犯罪者名簿に名前が載ったりしないでよね!」

「ゆ、由美子!」

 由美子が高遠先輩の腕を振り払うようにして腹立たしそうに怒鳴ると、繭葵のヤツが「お、由美子ってば話せるじゃん」と言いたそうな顔付きをして、その通りだよばーかと、火に油を注ぐような発言をさらっとぶちかまそうとする繭葵の口を俺は片手で塞いで厄介の火種を寸前で止めてやった。

「むごごごごー!!」

 なんかやたら怒ってるけど、この際無視だ。

「で?部の部長がどうすんのよ。神事も見ないで昔の後輩の世話でも焼いとくのぉ?あたしはどっちでもいいわよ…でも」

 ふと、由美子は目付きだけは笑ってないくせに、鼻先でクスッともう一度笑いながら、グロスで濡れたように光っている唇を尖らせた。

「まるで、ここのご当主様。えっと、蒼牙ちゃんだっけ?彼に嫉妬してるみたいじゃん。あたしから見たら高遠くんも変わりなく見えるわよ。だったら、気持ち悪いのかしらね?」

 どうでもいいけどね、と吐き捨ててから、俺と繭葵に「じゃあね」とウィンクして豊満なバディを相変わらずくねらせるようにして行ってしまった。
 その、いつもよりも厳重に長袖のシャツを着て、スリムなジーンズを履いている由美子の後ろ姿を見送っていると、不意に高遠先輩が動揺したようにどもりながら何かゴチャゴチャと言ってから、腹立たしそうにどかどかと砂利を蹴って昇って行った。

「なんだったんだ…」

「…ウシシシ」

「…な、なんだよ?」

 唐突に口許から手が離れていた繭葵が、ニヤニヤと笑いながら高遠先輩の後ろ姿を見送っているから、そのあまりに邪悪な表情にゾッとした俺が青褪めて見下ろすと、「失礼だなー」とブツブツ言いながら、俺にヘッドロック紛いなことをされたままで腰に手を当てたのだ。

「あのクソ高遠のおかげでさ、光太郎くんの本心を垣間見てしまった♪蒼牙様に知らせなくっちゃー」

 お前はいつから蒼牙の手先になったんだ…と言うか、クソ高遠って…最早、お前の中では俺の先輩だと言う認識は綺麗さっぱり消えちまったんだな。
 ま、俺も一緒なんだけど。
 あんなこと、自分が言えるなんて思いもしなかった。
 先輩は、なんかウザいと言うよりも、反論できない威圧感みたいなものがあったから大人しく言うことを聞いてきたのになぁ…言い返せるなんて、まあ、これも蒼牙効果なんだろうけど。

「俺たちのことには口出すな…だって。ウシシシ!奉納舞の準備をされている蒼牙様が聞いたら、きっと舞に力が入って今夜は綺麗になるだろうなぁ」

 ウハハハと笑う繭葵に、俺はなんとなく嫌な予感がして、ヘッドロックをかまされても平然としているこの要注意爆裂娘にコソッと言ったんだ。

「蒼牙には言うなよ?じゃないと、高遠先輩がどうかされるかもしれないだろ」

「どうかって、どうされるんだよ?うもー、どうして蒼牙様が喜ぶようなこと言わせてくれないんだよ~。繭葵ちゃんはストレスで死んじゃうかも」

「ストレスで死ぬ前に俺の方が参っちまうよ」

 ウルウルと、口許を覆ってわざとらしく泣き真似なんかするから、お前はたぶん、殺したって死にやしねーよと呆れて繭葵から手を離した。

「光太郎くんがくたばったら大変だから、ボクは諦めるけどね。でも、一連の事情はもう、蒼牙様にはバレてるかもね~」

「え!?なんでだ??」

「バッカだねー、光太郎くん!ここは奉納祭に向かう村人たちが行き交ってるんだよ?誰かが伝えるに決まってるじゃん。君は呉高木のお嫁様なんだからね♪喧嘩ともなれば御身が危ういってさー、少なくとも桂さんにはバレてると思うけど」

 クスクスと笑う繭葵に、うわ!それじゃ大変じゃねーかと、俺は慌てふためいて登山道を昇りはじめた。
 こんなところでグズグズしてる閑はねーぞ!
 そんな俺の後ろ姿に肩を竦めた繭葵はでも、ニッシッシと笑いながら兎のような身軽さでついて来たんだけど、その時の俺は気遣ってやることもできなかった。
 だって、蒼牙ってヤツは、『神堂』と呼ばれる禁域に立ち入るだけで、本気で俺を殺すと言ってのけるようなヤツなんだ。
 先輩に何か遭ったら、先輩はいけ好かなくてもあの優しいお袋さんが悲しんでしまう。
 俺は、「呉高木の嫁様、おめでとうございます」と、ほぼ同じように登山している村人全員から挨拶されて、それに愛想良くニコニコ笑って応えながら山頂の舞の舞台になる神社を目指したんだ。

 弦月の奉納祭は宵宮で、夕暮れに行われる神事なんだそうだ。だから終わるのは17時過ぎぐらいかな…ってことで、もうすぐ始まりそうなのに俺は、慌てたように桂を捜していた。そんな俺の後ろからちょこちょこ着いて来ながら、俺を不安に陥れた張本人はのんびりと笑いながら言いやがる。

「もう、ムリだってば。桂さんは蒼牙様のお付きで宮の控え室にいるんだからね。まあ、光太郎くんなら入れろって言えば、喜んでお手伝いさんたちも入れてくれるだろうけど…神事が遅れちゃうよねぇ」

「判ってるよ、こん畜生!…もうな、一番見易いところを探してるんだ」

 とか、嘘を吐いてみてもバレてるんだろうけど。
 やっぱり判っていたのか、繭葵はぷぷぷ…っと笑いながら俺と繭葵はブラブラと見易い場所を捜すことにしたんだ。
 どうか、龍神様!高遠先輩が無事でありますように、とか柄にもなく願ってみたりしながら。
 奉納舞まで暫く時間が残っていたのか、手持ち無沙汰でもあったから俺はそう言えば…と、繭葵に首を傾げながら聞いてみた。

「そう言えば、繭葵さ。昼間はどこに姿消してたんだ?桂さんが水饅頭をご馳走してくれるって言うから捜したんだけどさ、お前、いなかっただろ」

「うは!水饅頭!!くっそー、食いっぱぐれちゃったよ!!」

 食い意地の張っている繭葵のヤツは悔しそうに地団太を踏んだけど、俺が呆れながらお前の分は取ってるよと言ったら、途端に機嫌を直してニコニコし始めるから…
 コイツって。

「ウッシッシ♪神堂を探していたのだよ、光太郎くん。賢明な君ならもう判ったと思うけど、夕食後に5体の地蔵さんがある場所、知ってるよね?そこに集合♪」

 口許に手を当てて、ニヤッと笑いながら俺を見上げたんだ。

「…って、はぁ!?もしかして弦月の儀を見に行くつもりか?」

 思わず声を潜める俺に、繭葵のヤツはニヤニヤ笑いながら大きく頷くんだ。

「あったりまえでショ?この繭葵ちゃんが何の為にこんな山奥のクソ田舎に来たと思ってるんだい。全ての祭りを見るためじゃないかぁ~♪」

 両手を祈るようにして組んで双眸をキラキラさせる繭葵は、もう俺の知っている繭葵じゃなくて、一般で言うところの変態さんに成り果てていた。
 そりゃあ、俺だって蒼牙とエッチしたりして変態さんの仲間入りだけども、繭葵はS級の変態さんだと思うぞ。ヤヲイ発言に始まって、民俗学では禁忌を冒そうとしてるんだからなぁ…はぁ。

「禁域に入り込んだらお前、殺すって蒼牙に脅されてるんだぞ」

「ふっふーん!脅しは所詮脅しでショ?脅すってことは何かが確実に隠されてるんだよ。綺麗なものには棘がある…って言う、アレと一緒さ!」

 ビシッと指先を突き付けられて、俺は思いきり呆れ果ててしまった。
 真剣を無造作にアッサリと扱う蒼牙のあの、なんとも言い難い気迫のようなものをお前は見てないからそんなこと言えるんだよ。

「いいよ、別に。そんな顔しなくても。光太郎くん、来ないならボク1人でも行くから」

 ツーンッと外方向いてから、繭葵は履きふるしているスニーカーで地面に転がる小さな石を蹴った。そんなお前、身体は小さいくせに言うこととやることと考えることと度胸だけは一丁前だな。
 こんな女の子を1人で行かせてしまったら、たぶん、一生後悔すると思う…はぁ。

「判ったよ!行きますよ、行きます。行けばいいんだろッ?」

 半ばヤケクソで言った俺が繭葵を見下ろすと、彼女は地面をつま先で弄りながらニッシッシと笑ってしてやったりのツラをして俺を見上げた。

「女は度胸、男は愛嬌♪」

 言葉の遣い方、あからさまに間違ってるぞ。
 俺が溜め息を吐いたのは言うまでもない。
 はぁ…

 そんな俺と繭葵の恐ろしい悪巧みが終了した時、もう村人たちも殆ど到着していて、人込みの中に伊織さんの姿を見つけたけど声を掛けられるような雰囲気じゃなかったから、取り敢えず無視することにしたんだ。
 山の上の神社はそろそろ日が落ちて星がポツポツと瞬きだしている。篝火が揺らめく荘厳な雰囲気はどこか空恐ろしくて、静まり返った村人たちの顔が見分けられないのが、余計恐怖心を煽りまくってくれる。
 十三夜祭りの時以来の光景だけど、あの時は昼だったからこんなに恐ろしかった記憶はないぞ。

「やっぱ夜店とかはないんだなー」

 ずっと思っていたことを口にしたら、繭葵が肩を竦めながらそれに答えてくれた。

「こんな山奥の村だよ?的屋さんも来ないんだよ」

 ああ、やっぱりそっかと思っていたら急に腕を引っ張られて、思わず転ぶところだったぞ!
 ムキッとして振り向いたら、ワクワクしている繭葵が高台を指差している。

「たぶん、あそこじゃないかな♪」

 村人にとっても久し振りの、つまり呉木家の当主が花嫁を迎える為に催される祭りだから楽しみにしていたのか、その高台の前ではワイワイと賑やかに集まって何か話していた。その一員になるべく俺と繭葵が行ってみると、楽しそうに何かを話していた村人は俺たちの姿を認めて吃驚したようだった。

「あンれ、呉高木のお嫁さまじゃ」

「ほお~、驚いたのう。別嬪さんじゃのう」

 ニコニコと人の良さそうなジィちゃんやバアちゃんが俺たちの顔を見上げながら話し掛けてきて、繭葵もニコニコ笑いながら俺を見上げてくる。確かに、山道を登ってくるときからずっと「お嫁様」とか「嫁様」と言われ続けてるから違和感も感じない俺もどうかしてるけど、それでも1人ぐらいは繭葵だって言うヤツがいてもおかしくないと思ったんだ。
 だってなぁ、繭葵だって花嫁候補なんだぞ。
 それに、別嬪さんとか言ってるんだし、きっと繭葵だと思っていた。
 そりゃあだって、誰が見ても繭葵のほうを花嫁だと思うだろう?
 それが正しいんだから、そんな顔したらダメだぞ。

「今宵の奉納舞は呉高木の嫁さまを村人たちとご神体に報告するためのもんじゃて」

「お嫁さまがいらっしゃらな意味がなかろうなぁ」

「今宵は蒼牙様も気合を入れて舞いなさる」

「さぁーさ、嫁さま。前へ出なされ」

 そう言ってジイちゃんたちは俺の腕を引っ掴むと、グイグイッと引っ張りながら最前列に連れて行こうとする。うを!?ち、ちょっと待ってくれよ、嫁さま…って、やっぱ俺なのかよ!?
 当然そうにエヘッと笑っている繭葵は、神事に隠された秘密とらやのことでも考えているのか、上の空で頬を紅潮させて…何を興奮してんだよ!?お前はッッ!
 農作業で鍛えている腕に掴まれて強引に前に引き出されてしまうと、集まった村人たちの視線を一身に受けてしまって、なんとも居た堪れない気分に陥ってしまう。それなのに、俺の横に並んできた繭葵のヤツはワクワク以上に興奮したように目をキラキラさせている。

「やっぱり、お嫁様の傍にいると役得だね♪」

「あのなー、お前はいつも俺を利用することしか…ッ!?」

 ポンッと、唐突に鼓の音が響き渡って、ハッと気付いたらそれまで俺を見つけてワイワイ騒いでいた村人たちが水を打ったように静まり返っていた。横笛の音が響くと、奥から姿を現した両手に扇を持った巫女が摺り足で登場したんだ。
 その顔を見て思わず声をなくしてしまう。
 打ち響く雅楽の音色に優雅に舞う巫女は、綺麗に化粧していても見間違えたりしない、キリリとした双眸のその美しい巫女は…蒼牙だ。
 俺はきっと、今夜の奉納舞はあの時のように、蒼牙は鬼の装束で舞うんだろうと思っていた。まさかこんな風に、巫女装束で踊るとは思ってもいなかった。巫女の衣装を身に纏って優雅に静かにそのくせ気迫満点の舞いは、思わず息を呑んで惹き付けられてしまった。それは繭葵もそうだったのか、それまであんなに大層なこと言って強気だった爆弾娘が、まるで憑かれたように食い入るように見入っている。
 一瞬の間を取って舞う蒼牙のヤツは、チラッと俺を見てから、それから神にその身を奉げる巫女のような清廉な表情をして、鼓や笛の音にあわせて優雅に舞う。その雰囲気に飲み込まれてしまうと、もう何も言えなくなってしまうし、行動すらも制限されてしまうような気分になるから…不思議な、不思議な時間だ。
 篝火に揺れ動く影が同じように舞を舞って、まるで光と影が交叉するような不思議な世界を垣間見たような気がした。
 それはまるで、神や精霊たちと対話しているような一瞬───…
 そうして俺は、暫く呆然と蒼牙が生み出すその世界に浸ってしまっていた。
 なんだろう…この胸の奥がざわめくような、懐かしい気持ちは。
 強烈な郷愁に涙さえ出そうになったときだった、不意に繭葵に腕を掴まれて、俺は唐突に現実の世界に舞い戻ったんだ。

「大丈夫?ボーッとしてたけど…」

「へ?あ、ああ。なんでもない…たぶん」

 ハッとして胸の辺りを掴んで俯いたら、繭葵はちょっと眉を寄せて俺の顔を覗き込んできた。

「たぶんてどう言う意味?全く…でも、なんかアッと言う間に奉納舞終わっちゃったね」

「アッと言う間だったか?俺にはそう感じなかったけど…」

 なんだか身体がドッと疲れたような気がして仕方ないけど、繭葵は言葉のようにケロッとしているから、どうやら長い時間に感じたのは俺だけだったようだ。

「でも、ちょっと儲けたって感じだよね♪蒼牙様の巫女さん姿が拝めたもんね~」

 ウキウキして上機嫌の繭葵に「そうかぁ?」と眉を寄せた俺は、それでも唐突にあることを思い出して首を傾げてしまった。

「そう言えば、眞琴さんは舞わなかったな」

「あー、それね。ボクもヘンだなって思ったけど…どうも、当主と巫子が踊るのは『弦月の儀』の神事のほうだったんだね」

「あ、そっちか」

「蒼牙様が巫女装束を着ていたってことは…これはあくまでもボクの想像なんだけど、弦月の儀のほうでは眞琴さんは白拍子の姿なんだろうねぇ」

 奉納舞が終わると全てが終了したのか、村人たちは『今回の奉納舞はいつにも増してよかった』とそれぞれが嬉しそうに笑って呟き合っては、それから俺たちに頭を下げながら下山を始めていた。

「みーたーいー!もう、ホント!!見たいよね?ね?弦月の儀ッ」

 ムキーッと興奮したようにヒソヒソと話してくる繭葵の言葉が聞こえたのか、帰ろうとしていたジイちゃんが立ち止まって俺たちを振り返ったんだ。

「娘さん、悪いこたぁ言わねぇがなぁ…弦月の儀は禁域で行われるだ。立ち入れば命だって保証はないで」

「…ええ?それってホントのことだったのかい??」

「当たり前だぁ。呉高木家の極一部のモンだけが入れる場所だで。いくらお嫁さまでもやめておいたほうがええ」

「は、はぁ…」

 それは確かに蒼牙があの迫力で言ったように、村人たちの間にも浸透していってるのか、その表情は固くて先ほどの柔和さがまるでない。それに気付いたのは俺ばかりでもないらしく、繭葵も少し青褪めてチラッと俺を見た後、やっぱりどうしようと考えているようだ。
 そーだ、思い直すなら今だ!

「蒼牙様が大事にしている花嫁である光太郎くんの命すら危ぶむってことは、やっぱボクの考えに間違いはないね!これはますます、今夜の弦月の儀が楽しみだねぇ」

 どうしてコイツはこんなに思い込んだら捻じ曲がって一直線なんだろう…いや、そうか。コイツは、コイツも唯我独尊なんだろう。この呉高木家に関係する連中はどうしてこう、自分勝手で我が侭なんだろう。
 ん?そう言えば親父も身勝手なヤツだったっけ。母さんは耐え忍ぶような性格で…そう
か、俺は母さんの性格を受け継いだんだろうな。
 だから亭主が蒼牙なのか…ハッ!?何言ってるんだ、俺。

「夕食後に5体の地蔵さんの前だからね!宜しく♪」

 バンッと背中を叩かれて、俺はそれでも嫌々頷いていた。
 どっちにしても繭葵を1人で行かせるわけにはいかないし、何か危なそうだったら助けないと…
 たぶんきっと、蒼牙は怒るんだろうけど。

「あ、そう言えば!ちょっと伊織さんに話があるんだった。ここで、ちょっと待っててくれる?一緒に下山しようよ。どーせ、蒼牙様は弦月の儀があるから一緒には戻れないと思うし?」

「あー、いいよ。じゃ、待ってるから急げよ」

「うは!ありがと♪」

 そう言ってから、繭葵は退屈そうにカーディガンを羽織りなおしている伊織さんのところまで、脱兎の如く走って行った。
 いや、誰もそこまで急げとは言ってないだろ?
 繭葵のヤツはもともとそう言う性格なのか、結構伊織さんと話していても落ち着きなくそわそわして話している。でも、伊織さんもそんな繭葵を嫌ってはいないのか、ちょっと笑いながら言葉数少なに聞いてるようだ。
 そんな風に伊織さんと話す繭葵を待っていたら、不意に、まだ祭りの余韻を味わう傍ら、宵の涼風に涼んでいる残った村人が、いや、ここにいた全ての人間のハッとしたような気配がして、それからザワッとざわめいたから俺は不思議そうに首を傾げた。と、唐突に背後から抱き締められてビクッとしてしまった。
 鼻先を擽るようなお香のいい匂いにハッとしたら、頭上にお雛様のような冠を付けた漆黒の長いカツラを被った巫女装束の蒼牙が、俺の顎を掴むと上向かせやがったんだ。

「そ、蒼牙!」

 そりゃ、吃驚するだろ、普通。
 綺麗に化粧した蒼牙は舞を終えて、着替えもせずに出てきたと言った風情なんだから、その顔は驚くほど綺麗だった。

「ちゃんと舞を見ていたか?アンタはボーッとしているようだったからな」

「ああ、見てたよ!すげー、綺麗だったッ」

 パチパチと、あの朝、蒼牙の朝稽古を見たときのように手を叩いて興奮したように俺が笑うと、蒼牙はニコッと笑って嬉しそうに頷いたんだ。

「じゃあ、いいんだ」

 なんだ、そんなことが心配だったのか。
 ヘンなヤツだなーと思いながら、俺は抱き締めて離そうとしない蒼牙に首を傾げたんだ。

「これから、弦月の儀か?」

「ナイショだ」

 クスッと笑う蒼牙が、どうしても綺麗な巫女さんにしか見えなくて、俺がギクシャクと目線を外しながらそうかとかなんとか言ってたら、不意にヤツは、人目なんか一向に気にしていないとでも言うように上向かせたままでキスしてきたんだ。
 うぎゃー。
 お雛様みたいな冠をつけている蒼牙の、その長い黒髪がサラサラと零れ落ちて、たぶんそんなに周りの人には見えなかったと思うけど、思わずギュッと閉じてしまった目を、蒼牙の触れていただけの唇が離れると同時にソッと開いたら、思ったよりも近くにあの綺麗な顔があった。

「紅がついてしまったな。アンタの方が似合う」

 口紅が似合うとか言われても嬉しくないんだけど、思わず拭いそうになったら、その手を蒼牙に掴まれてしまった。

「拭わなくていい。綺麗だ」

「だからな、蒼牙。何度も言うようだがその言葉をそっくり返してやるって。お前の方が綺麗だよ」

「当然だ。綺麗だから舞っているんだ」

 そんな馬鹿なと目を瞠ったら、蒼牙のヤツが楽しげにハハハッと笑った。

「冗談だ」

 なんだ、冗談かと、一瞬思いきり本気にしてしまった俺はバツが悪くてムッとしてしまう。そんな俺の唇にもう一度口付けたとき、不意に、脇に控えていたんだろう桂さんの低い声がした。

「蒼牙様、お召し替えを致しませんと…」

「ああ、すぐ行く。では光太郎、道中気を付けて戻るんだぞ。夜の闇は魅惑的だからな」

 名残惜しそうに俺から離れた蒼牙はそう言って、巫女装束のくせにやたら男臭い表情で笑うと、そのまま桂を従えて堂々と神社の方に戻って行ってしまった。
 残された俺はと言うと、まだ伊織さんとの話しが終わらない繭葵が何か言いたそうにニヤニヤ笑ってちらちらこちらを見ているし、気のない素振りで伊織さんには見られるし、たまたま居合せた高遠先輩には気持ち悪そうな目付きで見られるし、涼を求めて残っていた村人たちからは微笑ましそうな目付きで見られると言う、4重苦に苛まれていた。
 いくらなんでも遣り逃げはやめてくれ。
 できたら本人に言いたかった。

「…光太郎さん」

 不意に声を掛けられて、慌てて唇を拭っていた俺が振り返ると、こんな山には不似合いなんだけど、それを上回ってとてもよく似合うワンピースを着た小雛が立っていた。宵闇に篝火が揺れて、まだそんなに暗くなってはいなかったんだけど、ちょうど逢魔が時のような薄暗さで、だから小雛の表情はよく見えなくて、でも確かにそこに立っていたのは小雛だった。

「や、やあ、小雛」

 どんな顔をしたらいいんだと悩んでしまうのは、小雛の恋心を知っているから、たった今、その想い人とキスしてしまった俺としては居た堪れない。

「私、ちょっとお話があるんですけれど、お時間宜しいでしょうか?」

 嫌に改まった小雛は、それでも俯いたままだ。
 そうか、そりゃあ、あんな風にキスしてしまった場面を見せ付けてしまったもんなぁ…悪いことしたと思う。
 蒼牙は罪なヤツだ。
 繭葵を見ると、まだまだ話は続いているようだし、どうせすることもない俺は、小雛の憎まれ口ぐらいは聞かないといけないだろうと思ったから頷いていた。

「ああ、いいよ」

 ホッと息を吐くと、小雛は暫く逡巡していたが、思いきったように口を開いたんだ。

「光太郎さんは本気で蒼牙様とご結婚されるのですか?」

「え?」

 ドキッとした。
 そうして、そんな風に驚いている自分に、俺は、俺の中にはまだ迷いがあるのかと目線を伏せてしまう。そんなはずないって思ってるんだけど、どうしても引っ掛かってしまう、たったひとつの蟠り。

「私は…反対です」

「小雛…」

 そりゃ、当たり前だよな。
 なんと言っても、チビの頃からもうずっと、蒼牙しか見ずに生きてきた小雛が、こんなポッと現れた俺なんかに、しかも男なんかに大事な人が持って行かれそうなんだ、反対されて当たり前だ。
 繭葵、俺じゃない。
 ホントに蒼牙を掻っ攫われたのは、他の誰でもない、たぶん小雛だったと思う。

「だって、光太郎さんは子供を産めないじゃないですか」

「うん」

「私は産めます」

 その時初めて、漸く小雛が顔を上げたんだ。
 その顔は、どこか切なくて、痛々しかった。
 俺は男なのに、子供を産めて蒼牙に寄り添って、幸せの道を歩むのは小雛だったのに…彼女から永遠に蒼牙を奪おうとしているんだ。
 いや、この呉高木の血脈を途絶えさせようとしている…それは、俺の中にずっと根付いていた蟠りで、誰も言ってくれなかったら、どこかで大丈夫なのかなとか、馬鹿みたいに思い込んでしまっていた。

「晦の儀の時に、私と入れ替わって戴けないでしょうか?花嫁は光太郎さんでも構いません。でも、あの方の御子を私にください」

 小雛は泣き出しそうな顔をして必死だった。
 そんな顔、一度だって俺はしたことがあっただろうか…

「晦の儀の時に隠れる場所は、直哉小父様が用意してくれています」

 ポツリと、小雛が呟いた。

「私は蒼牙様を愛しています」

 溜め息のように呟いて、そして、小雛の大きな瞳からポロリと一粒、涙が零れた。
 こんな風に女の子を泣かせてはダメだと母さんが言っていた。まさか、1人の男を取り合うような形で女の子を泣かせることになるなんて思ってもいなかった俺は、なんか突然叫び出したくなって頭を抱え込んでしまった。
 ああ、クソ!なんで俺がこんなことで悩まなけりゃいけないんだ。
 ましてやこんな可憐な女の子を泣かせてまで,本当に俺は蒼牙と結婚したいのか?
 先輩が言うように、やっぱり俺はおかしいのかもしれない…
 またしても地団太を踏みたくなっていたが、小雛はそんな俺の態度をどう勘違いしたのか、ちょっと困ったように眉を寄せて俯いてしまったんだ。

「ごめんなさい。私、でしゃばってしまいました」

 そんな、一大決心をして話していたくせに、ハラハラ泣いているくせに、諦めたりするなよ。
 小雛は、俺の持っていない大切なものをちゃんと、持っているんだからさ。

「小雛!…俺はやっぱり蒼牙の花嫁は小雛か繭葵だって思ってるよ」

 小さな嘘を吐いた。
 蒼牙のことは、好きだけど。

「光太郎さん…」

 小雛は困惑したような、まだ信じられないとでも言うような心許無さそうな表情をして、俺を上目遣いで見上げてきた。
 愛しているのか判らないんだ。
 だから、こんな中途半端な想いのままで、俺は小雛を傷付けて、蒼牙を縛り付けられるはずもない。

「晦の儀までに考えておくよ」

 女々しい俺はすぐに断定的な返事ができずに、諦めたように呟いたら、小雛が俺の両手を掴むとソッと握り締めてきた。
 小雛の掌はとても柔らかくて、そして小さかった。守ってあげたくなるはずの彼女から守られているような錯覚を感じて、俺は途方に暮れたように苦笑してしまう。
 この村に来てから俺は、どこか女々しくなっている。花嫁なんて言われて、女扱いばかりされているせいなのかもしれないけど、このままこんな生活が続けばいつか性根まで女っぽくなっちまうんじゃないかと思ったらゾッとしてしまった。
 ハァッと溜め息を吐いた途端、背後から何かが高い声で嫌味ったらしく叫びやがったんだ。

「あっれー!?なーんか、怪しい現場を目撃しちゃったぞ!」

 もちろん、こんなことを言うのはついさっきまで伊織さんとくっちゃべっていた爆弾娘、繭葵に間違いない。

「何が怪しいんだよ。小雛はお前と違って俺のことを気遣ってくれてたんだよ」

 ツーンッと外方向いて言ってやると、繭葵は「なんだとぅッ!」っと言いながら向こう脛を蹴り飛ばしてくれた!いってーッッ!!
 思わず小雛から両手を離して脛を押さえていると、目を白黒させていた小雛がクスクス笑って、それからちょこんっと頭を下げたんだ。

「では、繭葵さん。それから光太郎さん、これで失礼します…光太郎さん、どうぞ、よくお考え下さい」

 切実な双眸で俺を一瞬切なそうに見詰めてから、小雛はもう一度頭を下げて踵を返してしまった。主屋の方に歩いて行く小雛の後ろ姿を、片手をまるで庇のように目の上に翳してムムッと眺めていた繭葵は、それから不審げな目付きをして俺を睨んできたんだ。

「な、なんだよ?」

 ムッとしながらも、なんだか悪さを見られた子供のような気分になってしまった俺が唇を尖らせると、腰に手を当てたまま繭葵のヤツはジロジロと不躾に見回しながら俺の周りを一周している。

「なんかねー、怪しいんだぁ。小雛と何を話してたんだい?考えてくれとか言っちゃってぇ…さては!小雛に告られたとか!?」

「んなワケない」

「うははは♪やっぱり当たり前だよね」

 なんだよ、そのあっさりとした肯定は。
 なんか、良く考えたらお前も大概俺に失礼なヤツだよなぁ。

「まあ、いいけどね。どうせ光太郎くんや小雛如きが何かしたって、蒼牙様には適わないだろうしさ」

「そりゃ、どう言う意味だよ?」

 ムゥッと眉を寄せてニッシッシッシと笑っている繭葵の小憎たらしい顔を覗き込んだら、彼女は小悪魔みたいにふふんっと笑ってそんな俺の鼻先を指で弾きやがったんだ。

「光太郎くんも小雛もどっか抜けてるもんね♪」

「…悪かったな、間抜けで」

「そこまで酷くは言ってないよ♪」

 言ったも同じだろうがよ、と鼻先を押さえてムスッとしていたが、繭葵のヤツが唐突に俺の腕を掴むと腕時計を覗き込んで慌てふためいた。

「やっば、やっべーッスよ!晩御飯に間に合わないッ」

「…繭葵さぁ、伊織さんと何を話してたんだよ?」

「ウッシッシ♪」

 慌てて、まるで小動物みたいに敏捷な仕種で小走りに歩き出した活発な繭葵のヤツは、ピタリと足を止めると、口許に手を当ててニヤッと笑いながら振り返った。

「神堂のことに決まってるでショ?ん、まあ。でも伊織さんもよく知らないんだってさぁ。呉高木家の神事だってのに誰も知らないなんてヘンだよねぇ?…まあ、いっか。さっき言ったこと忘れてないよね♪」

「…やっぱり、行くんだな?」

「あったりまえじゃん!」

「…お前さ、急がないと夕飯も食いっぱぐれるぞ」

 うはははっと笑う繭葵に頭を抱えたくなっていた俺が呆れたようにそう言うと、夕飯目当てで慌てたように山道を駆け下りる爆裂娘の後を追いながら、ふと、空を見上げた。
 煌く小さな星たちに囲まれて、月がぽっかりと浮いている。
 俺はどうしたらいいんだろう。
 まるで立ち竦んだように、答えが見つからなくてそっと眉を寄せた。
 答えのない問題なんかあるワケがないのに、その答えが見当たらない。
 月も、この村の人たちが信じている龍神も、あの可愛い呉高木の護り手である小手鞠たちも、まるで何もかもが答えを教えてくれない。
 暗中模索の手探りに疲れた俺は、溜め息を吐いてトボトボと山道を降りて行った。