Act.32  -Vandal Affection-

 暗闇に陥りかけた意識を引き戻すように頬を張られて、俺は刺すような痛みにハッと我に返った。
 目の前には相変わらず、煌々と白熱灯が眩しいぐらいに照らす埃っぽい室内には似合いのフィリップの顔があって、俺を興味深そうにマジマジと覗き込んでいた。

「やっとお目覚めかい、子猫ちゃん?」

 クラクラする頭に響く耳障りな金切り声に、俺は…そうか、意識を失いかけていたんだ。
 とんだ悪夢に逆戻りだ、クソッ!
 頬を張られたせいでグラグラと回る視界の中、フィリップの汚い顔を見据えて睨み付ける俺を、さっきまでとは違った表情で見下ろしてくるヤツの…その目付きはなんだか違うように見えるのは気のせいだろうか?

「なんだ、お前…けっこういい匂いがするなぁ。ムラムラするよ、足も身体も適度に筋肉がついてるようだし。締まりもよさそうだしなぁ、ええぇ?」

 ニヤニヤ笑いやがって…気持ち悪ぃーんだよ!
 不意に、腿にカサついた肌の感触がして、この馬鹿な俺は、その時になって漸くフィリップに片方の足を持ち上げられてることに気付いたんだ。

「や、…やめろッ!」

 ハッとして、信じられないものでも見るようにフィリップを見返すと、ヤツはやたらニヤニヤ笑って、視線だけでT-シャツを肌蹴させられた下半身を見下ろすから、俺は釣られたようにその視線を追って自分たちの身体が密着している部分を見下ろしてしまったんだ。

「…ッ!」

 いつの間に下ろしたのか、発情期の高校生でも真っ青なほど勃ち上がっているその部分を見せつけるようにして、俺自身と、その奥まった部分に隠されてる場所にこれ見よがしに擦り付けてくるから…濡れて湿った感触に思わず吐き気がした。
 確かに、散々指先で尻を穿たれて蹂躙されていたせいで俺だって先走りぐらいは流してるけど、そんなモン、比べられないぐらいダラダラと垂れ流すフィリップのソレが、俺自身を淫らに濡らしていて白熱灯の光をグロテスクに反射させたりするから…
 すっげぇ、気持ち悪い!!
 ベタベタする先っぽを抱えあげた足の中央、まあ、俺の尻の部分に塗り込めるようにグリグリと擦りつけながら、フィリップのヤツは空いている方の掌で俺の尻の肉を揉みしだきながら恍惚とした顔をしてハアハアと生臭い息を荒く吐き出している。伸びている無精髭が俺の頬を掠めて痛いし、その痛みが、あの変態野郎から受けた屈辱的な行為を思い出させるから、悔しいけど恐怖心に震え上がっちまう。
 でも、アイツは…
 アイツはもっといい匂いがして、それで、それで…
 コイツなんかよりも凄まじい殺気のような、狂気があった!

「…ぉ、願いだから!や、めてくれ…ッ」

 嫌々するように首を左右に振って抵抗しようと身体を捩ると、宛がわれていたベタベタの先っぽがぬるんっともぐり込みそうになって、俺は小さな悲鳴を上げて竦みあがってしまった。

「くっくっく…お前ぇ、誘ってんのかぁ!?自分から擦り寄ってきたり、忙しいヤツだなぁ、おい?ボクのは大きいからなぁ…慣らさないと切れちまうぞぉ」

 ヒッヒッヒッと咽喉の奥から漏れるような奇妙な笑い声を上げて、俺の首筋にねっとりと舌を這わせて吸い付いてくる。
 得体の知れない生き物が這うような錯覚に俺が身震いすると、いい気になったフィリップは更に執拗に舐めまわしてきやがるから、ジン…っと、沁みるような疼痛に眉が寄っちまう。その吸い付かれている部分からジワジワと熱が広がって奇妙な感触に下腹部がソワソワとしてきた。

「お前…思ったよりも柔らかい肌をしてるんだなぁ…体毛も少ないし、きめ細かくて吸い付いてくるようだぞぉ。胎内はどうなってるんだろうなぁ…熱くてぇ、きもちいいだろうなぁ」

 どうやら自分の持っているファンタジーの世界にどっぷりと浸り込んでいるらしいフィリップの、その虚ろな双眸に欲情を感じた俺はゾッとして鳥肌を立てながら、この馬鹿はいったい何を考えているんだと寒気がした。でも、男の身体ってのはどうしてこんなに素直なんだか…促される快楽に素直に反応した股間部は熱く勃ち上がっていて、これじゃ嫌だって否定しても誰かに見られたら悦んでるんだと勘違いされちまうんじゃねぇのか!?うう…こんなに嫌なのに、どうして反応なんかするんだよ、俺!

「…ん、…ッ…んぅ…ッ」

 フィリップの灼熱で肛門を擦られながらやわやわとアレの先端を握られると、押し殺した声が嫌でも漏れてしまって、却ってこの変態を喜ばせちしまうって判ってんのに…俺ってヤツは。

「そろそろいいかなぁ…?お前の穴ぁ、ぐちゅぐちゅして、ヒクつきだしたからなぁ」

「や!…嫌だ、それは嫌だ!!」

 俺は与えられる快楽にどっぷりと浸かりながら、それでも明確な意思を持ったフィリップのソレがグイッと押し付けられた瞬間、ハッと我に返ってめちゃくちゃに抵抗したんだ!
 嫌だ、もうあんな苦痛は嫌だ!あんな屈辱的な…

「…お前さぁ、もしかして男に抱かれたことがあるんじゃないのかぁ?」

 不意に突拍子もないことを言われて、俺は思わず暴れるのも忘れてポカンとフィリップを見上げてしまった。
 たぶん、この施設がどうしてこんな状況になったのかは判らないが、当時、まだ最盛期だった頃は、この男もこんな風に狂うこともなく、エリート街道をまっしぐらに驀進していたに違いない…まあ、その反動でこんな風に狂ってしまったんだろうけど。生気の欠けたボサボサの髪、生彩のない虚ろな双眸…そのくせ、獲物を捕らえる凶暴な肉食獣のように油断なく罠にかかった俺を品定めしている、その狂った双眸の中に秘められてる感情は…なんだ?

「…挿れるとなると暴れやがってぇ。その気になってるくせに暴れるのはぁ…犯された経験があるからだろぉ!?」

 決まってる、狂気だけだ!
 もういい加減、いい年だってのにこの野郎は…クソッ、どうしたらいいんだ!
 突拍子もなく調子っぱずれた金きり声で叫んだフィリップは、顔を歪めている俺の顎を力一杯引っ掴むと、唇をべろりと舐めてニヤニヤと笑いやがった。
 どうしてそんな、根拠のない仮定を断定的に言っちまえるんだ、コイツは。

「ヒーッヒッヒッヒ!いいねぇ、怯えながら抱かれてみろよぉ!犯されたヤツってのはぁ、始めは怯えてるくせにぃ、その気になった途端すぐに腰を振るそうだからなぁ…手っ取り早くて処女を犯るよりはいいんだぁ!!」

 グイッと力を入れて…あっ、と思った瞬間に灼熱の杭が、問答無用で先端を俺の胎内に潜り込ませてきやがった。

「…ッ、う…ッ」

 ほぼ反射的に、俺は縛り上げられた両手に力を込めて吊り下げている紐を力一杯握り締めていた。
 アイツに、何度犯られたのかは覚えていないけど、俺のその部分は、男を銜えこんだ時の記憶をさほど忘れてくれてはいないようだ。
 しっとりと絡み付いて、そのくせ、拒絶するように内壁を収縮させるもんだから、痛みがチリッとこめかみを焼いて歯を食いしばってしまう。
 ずる…っと、どんなに拒絶しても並じゃない先走りに濡れた先端は易々と潜り込んできて、はぁと息をつく俺の呼吸にあわせるようにして虫が這うような速度で進んでくるから、たまらずに首を左右に振るとフィリップのヤツはそんな俺の頬を捉えて口付けてきた。

「…ッ!」

 肉厚の舌で歯列を舐めて、割開くように突付いても俺が応じないでいると、胎内でゆるゆると動く灼熱の杭をグイッと押し込んできて悲鳴を上げさせ、口腔内に舌を潜り込ませてきた。縦横無尽に口内を舐めまわすフィリップの舌は、引っ込んで縮こまっている俺の舌を引きずり出してムリヤリ絡めて濃厚なキスを繰り返す。溢れる唾液を飲み下しても、含みきれない分は唇の端から零れて顎から胸元を濡らしていた。
 一度、男に抱かれた身体はすぐにフィリップを受け入れて、思ったよりもヤツが酷くしないせいか、それほど出血もせずに、だからこそ俺に自責を嫌と言うほど思い知らせる。
 こんなことなら…アイツみたいに酷くしてくれた方がいい。
 散々めちゃくちゃにされて、嫌と言うほど痛みを感じれば…コイツを殺してやろうと憎むことだってできるのに…これじゃあ、俺はどうしたらいいのか判らなくなる。

「ヒッ!…ぅあッ…ッ、あぅ!…んぅ、…ッ…ふ、い、いや…ッ…だッ!」

 フィリップの口付けに応えながら腰を摺り寄せる浅ましい自分の姿に泣きたくなって、気付いたら生理的な嫌悪の涙を零していた。
 助けて欲しい…誰か!
 こんなのは嫌だ!…誰か、俺を助けてくれよ…
 お願いだから…誰か…
 ガツンッ!
 不意に、剥き出しになっているダクトの中央部で派手な音がして、一心不乱に腰を蠢かしてハアハアと荒い息を繰り返していたフィリップがギクッとしたように頭上を振り仰いだ。腰の動きが止まってくれても、まだ止まったことに気付いていない括約筋は収縮を繰り返していたけど、俺もそんなことになんか構っていられなかった。
 この施設に来て俺が知った教訓は、どんな時にだって物音がすればそれは化け物がいる証拠で…と、どうやら俺を犯しているこの変態もそれだけは理解しているようだ。

「な、なんの音だぁ!?…畜生!いつもこうだッ!ボクばかりがッ、くそう!殺してやる、殺してやる!キヒヒヒ…ッ」

「…ッ」

 ズルッと、俺の胎内から長大な灼熱の杭を無造作に引き抜いたフィリップは喚くように叫ぶと、投げ散らかしている銃やコンバットナイフを手当たり次第に引っ掴んで頭上を振り仰ぎながらワケの判らないことを喚き散らしている。
 そうしている間にもダクトを這いずるソレはガツンガツンと金属音を響かせながら、速度を速めて移動しているようだった。ダクトはこの部屋をグルッと一周すると、下を向いている出口が扉の傍らに設置されていて、恐らくその場所から出てくるんだろうと思う。
 うう、フィリップじゃあダメだ!…とか思っても、コイツはずっと逃げ続けてきたヤツだ。大丈夫なのかもしれないけど…不安だ。
 自分を支えている紐、と言うか腕に体重をかけて肩で息をして散々蹂躙されてクタクタの身体を休ませながら、ダクトを這う得体の知れない化け物に意識を集中させていると、フィリップのヤツは俺の前に立ちはだかるように背を向けて銃を構えた。下半身丸出しで白衣ってのも笑えるけど、今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ!
 そうだ、そんなことを言ったり休んでる場合じゃないんだ!

「フィ、フィリップ!これを解いてくれ!早くッ」

 ジタバタと暴れながら腕の紐を解こうとする俺を肩越しに見たフィリップは、その目に狂気の色を浮かべてニヤニヤと笑いやがった。

「い・や・だ・ね!そうやって逃げる気なんだろぉ!?そうはさせるかぁ!ボクの大事なおもちゃ…こんなフザケタ場所に閉じ込められて、やっと見つけたおもちゃ…」

 ブツブツと呟きながら口の端から泡を吹くフィリップは、この異常事態に対応できるほど精神が正常ではない。そんなこた判ってる!判ってるんだけど…クソッタレ!

「何言ってるんだ!?得体の知れない化け物なんだぞ!お前が、お前たちが創った化け物なんだろうが!どれだけ強いか…」

「うるさい!」

 フィリップは唾の泡を飛ばして喚くと、振り向き様に俺の頬を左手に持っていたコンバットナイフの柄で殴りやがったんだ。

「…グッ!」

「ぎゃあぎゃあ喚きやがって!ボクたちがあの化け物を創っただとぉ!?ボ、この、ボクがぁあの化け、バケモノをぉ!?この野郎ぉ!お前、お前たちはいつもそうだぁッ!抱いてやると言えば喚きやがってぇ!!散々その気にさせて…ちくしょおぉぉ!!!こんなボクだけこんな場所でぇ…ッ」

 鼻血がボタボタッと薄汚れた床に零れ落ちて、この野郎…力いっぱい殴りやがって!
 クラクラする脳裏にはフラッシュバックするように大毒蛇にやられてる栗田が浮かんでいて、なんだってんだ、いったい!?あの恐怖をなんで今さら思い出しちまうんだ!
 グイッと顎を掴まれて上向かされると、霞む目の前にフィリップの狂ったような、奇妙な表情をした顔が見えて…ああ、きっと俺はここでこの狂った男と死ぬんだろうと思った。
 あれほど生きようと思っていた俺の脳裏に、この時になって初めて芽生えた絶望感は…
 メキッ!ギギギッ…
 そんな絶望に半ば諦めている時だった。
 狂っているせいか、俺ばかりに執着するフィリップの背後の方でダクトが奇妙な形に 弛 んで、バキッ!と嫌な音を立てて中央部が欠損すると、何かがダクトの残骸と一緒に落ちてきた!

「…くっ!」

 まずい、まずいまずいまずいまずいまずい…!!
 クソッ!何を弱気になってたんだよ、俺!
 こんなヤツと心中なんてごめんだ!

「畜生、フィリップ!背後だ!撃てぇッッッ!」

「うるせぇっつってんだろうがぁぁぁ!!」

 轟音が室内に響いて、口許から泡を撒き散らしながら俺めがけてコンバットナイフを振りかざそうとするフィリップのその手から鈍い光を放つナイフが弾け飛ぶと、ヤツは悲鳴を上げてその場に蹲ってしまった。
 な、何が起こったんだ…
 ピュッと尻上がりの口笛が響いて、俺は呆気にとられたように床に着地してゆっくりと立ち上がるソイツを呆然と見つめていた。

「おやおや。お楽しみのところを邪魔しちまったかい?」

 日に焼けた褐色の肌と短く刈った黒い髪、目付きの悪さは人並み以上だってのに、なぜか好青年に思えていたのは屈託のなさそうな笑顔と白い歯で…それがニヤリ笑いに変わると、やっぱりただの悪党に見えるソイツ。
 俺の目の前に奇跡のように現れたソイツは。
 俺があんなに捜していた…そうだ、俺はずっと信じていた。
 ずっと、生きてるって信じていたんだ。

「タユ!」

 思わず叫ぶようにその名前を呼ぶと、タユは床でのた打ち回っているフィリップに長靴の靴音を重く響かせて近付きながら、手にした短銃を腰のベルトに挿して怪訝そうに俺の方に視線を向けてきた。
 変態野郎に拷問されてるような知り合いはいねーよとでも言いたそうに、不貞腐れた表情をして俺の顔を確認したタユは、一瞬だけど驚いたように目を見開いて、それから床で喚くフィリップを見下ろしたあと呆れたように腕を組んで顔を上げた。

「なんだ、この変態野郎と拷問ごっこでもして遊んでたのかい?確か、アンタはコータローだ」

「へ?あ、いや。ソイツにその…」

「背後だ、撃て!…とかなんとか言ってなかったか?」

 小馬鹿にしたように意地悪く笑われて、う…ッと声を詰まらせて俯く俺を観察していたタユに、床でのたうちながらジリジリと投げ出していた短銃に手を伸ばしていたフィリップが、けたたましく笑いながら立ち上がるとその銃口を向けたんだ!

「ひゃぁっはっはっは!!死ね死ね!みんな死んじまえぇぇッッッ!!!!」

「た、タユ!」

 俺は叫んだけど…タユのヤツは酷くクールな顔をして、フィリップが引き金を引くよりも早く銃口から火を噴かせていた。

「うるせーよ、おっさん。貴重な銃弾を無駄にさせやがって」

 タユはうざったそうに舌打ちした。

「ぎゃぁあああ!!」

 銃弾はフィリップの腕と足を撃ち抜いていて、放って置いたら失血死するんじゃねーのか?
 驚いて見ていたら、軽く溜め息をついたタユが重い靴音を響かせて近付いてくると、ギチギチに巻き付いたザイルのような紐を腰に挿していたコンバットナイフで切ってくれた。

「ありがとう、タユ…って、うわ!?」

 自由になった…とは言っても、なぜか切り落としたのは天井から伸びて俺の腕を繋ぎ止めていた紐だけで、両手を戒めている紐は切ってくれずに、それどころかタユのヤツはそんな俺を抱え上げたんだ。

「よ…っと」

「な!?あ、歩ける!歩けるったら、タユ!」

 足をばたつかせてもタユのヤツは下ろしてくれず、それどころかあの切れ長の鋭い目で俺の顔を覗き込んできてフンッと鼻先で笑いやがったんだ。

「大人しくオレについてくるか、それともここに残るか…選ばせてやるから早くしろ」

「え?…っと。ついていく、モチロンついていくけど…」

 だって、お前を捜していたんだ。
 絶対に生きてるって信じていたから。
 お前を見つけ出したら…全てがうまくいく。
 冗談みたいな希望が、ずっと俺を動かしていたんだ。

「タユ、ところでお前…なんで英語を喋ってるんだ?」

 抱き上げられていることに少なからず抵抗は覚えるものの、どうやら降ろしてくれそうな気配もないから諦めて我慢することにして、俺はさっきからどうしても納得できない質問をしてみることにした。

「へ?…ああ、いやまあ。その…生まれがアリゾナだからなー」

「ええ?だってお前、地元のレンジャーだって紹介されてたじゃないか…」

 俺の台詞に、鋭い突っ込みだなーとでも言いたそうな表情をして視線をそらすタユに、俺はワケが判らなくて眉を寄せたが、不意にブルブルと震える手で何かを白衣のポケットから掴み出したフィリップの姿に気付いて声を上げてしまった。

「タユ!フィリップのヤツが…」

「あぁ?」

 俺を両腕で抱えたままで振り返ったタユと俺の目の前で、フィリップのヤツは恨めしそうな、常軌を逸した真っ赤に充血した目をして憎々しげに俺を、そう、タユではなく俺を睨み据えたんだ。
 ぶるぶる震える手に握り締めていたのは赤いカプセルで…

「ぐ、ぐぅ~ッ!ふ、ふざけやがってぇぇ!ボクを、このボクを馬鹿にしやがってぇ…見て、みてろよぉおぉお!こ、このHR-9さえあればぁぁ」

「HR-9?」

 タユの眉がピクリと動いたけど…それよりも今、ヤツはなんて言った?
 『HR-9』と言わなかったか?
 アレは、あの時、あの変態野郎が燃やしてしまったあの紙切れにも『HR-9』と書いていた。それは細菌だとか遺伝子だとか、そんなモンのコードネームだとばかり思っていたのに…
 ガリッ…と、音が聞こえたような気がした。
 でもそれは錯覚に過ぎなくて、ただ単にフィリップが毒々しい赤色のカプセルを口に含んで飲み下しただけだった。

「はぁっはっはっはッ!!これで、これでボクは最強だぁ~!見てろぉぉ…」

 ぐっと腕を突っ張らせて上半身を起こすフィリップにタユは警戒したように鋭い双眸を眇めて見据えているようだったが…俺が心配するようなことは何も起こらなかった。

「どうやら、その薬は失敗作だったようだな」

 タユが鼻先で笑いながら呟いて、俺は本当にそうだろうかと思った。
 何か、何か不吉なことが起こるんじゃないかって…今までの経験が気を抜くなと警鐘を鳴らしているような気がして仕方なかったんだ。しかし、どうやらそれはタユも同じだったようで、余裕の表情を浮かべながらも、その双眸は油断なくフィリップの動向を観察しているようだった。

「…!?し、失敗作だとぉ!?そ、そんな馬鹿な…クソ!何もかもボクを馬鹿にしやがって!このボクをッ!ボクばかりが貧乏くじを引くんだ!!し、死んぢゃえ、みんな死んぢゃえばいいんだぁぁ」

 両手を髪に突っ込んで掻き毟りながら口許から泡を飛ばして喚き散らすフィリップには、なけなしに縋り付いていた理性が完全に滑り落ちちまったようで、どうやら完璧に意識を消失してしまったようだ。狂ったように頭を振り乱すそんなフィリップを、タユはただ無言で見詰めていたが、何も言わずに一瞬だけ目を閉じた。

「行くぞ」

 呟いて、踵を返そうとしたまさにその時…不意にポトリと、何かが蹲ってしまったフィリップの上に落ちてきた。こんな場所だ、もう何が起こったって平気なんだけど、それが蠍だってのには正直ビビッてしまった。
 こんなモノが平然とあちらこちらにいるってのかよ…とか、本当はそんなことはどうでも良かったんだけど…本当の意味で俺が目を瞠ったのは、フィリップが突然断末魔のような悲鳴を上げた途端、その大人の拳を2つ合わせたぐらいの大きさの蠍がグチャリと溶け出したんだ。
 タユと俺は思わず顔を見合わせて、目の前で展開している奇妙な光景に釘付けになってしまった。

「な、なんだってんだ、いったい…」

「ひぃぃぃッ!!あ、熱い、身体が熱いぃ!た、助けてくれぇぇッ!身体が熱いぃぃ~ッ」

 息を飲むタユが思わず洩らした言葉に被さるように叫んだフィリップは、全身を掻き毟るようにして身体を抱き締めながら床の上を転げ回って足掻いていたが、そのフィリップの身体もまるで溶け出した溶岩のように指先からドロリ…ッと溶け始めたんだ!
 そうして、俺たちの目の前でフィリップはどろどろと溶けながら…蠍と…

「ゆ、融合してるってのか!?」

 俺の思いを信じられないと言った口調でタユが代弁してくれた。
 そうだ、今まさに目の前で、フィリップと蠍が融合しようとしていたんだ。

「こいつぁ、ヤバイことになりそうだな…」

 呟いて、タユは不意に俺を肩に担ぐようにして片手を空けると、床に落ちていた幾つかの武器を掴んで踵を返し、その部屋の出口である扉の鍵を手にした銃で弾き飛ばすと、その扉を足で蹴破るようにして飛び出したんだ。

「た、タユ!?」

 大の男、それもタユに比べれば確かにヒョロッちぃかもしれないけど、それでも標準よりは逞しいはずの俺の身体を担いでるくせに、タユの走る速度は結構速くて、俺は肩の上で揺られながら無言で走る精悍な横顔を必死で見ようとした。

「HRなんたらが、どうも失敗作だったとして。それを飲んだあの男は蠍と融合しようとしている。こんな施設だ、もう何が起こっても驚きゃしないが…あんな状況をポカンと見てるほど余裕はなさそうなんでね。逃げるが勝ちってワケさ」

 凄い速さで壁が流れて行って、幾つかの角を曲がりながら、幸いなことにそれまでにゾンビ化した研究員と鉢合わせにはならなかったけど、背後で何かが爆発するような音が聞こえて、俺はビクッとして前を見た。タユから見たら後方になるんだけど。
 何かがあの部屋の中で暴れたんだろうか…?
 こんな所まで聞こえるほどの音を立てて、あれからだいぶ走ったってのに。
 フィリップに何が起こっているんだ?
 『HR-9』ってのは、いったいなんだってんだ!?
 グルグルグルグル、まるで凄い速さで流れていく壁のように、俺の頭の中で奇妙に溶け出したフィリップと蠍が何度も現れては消えていく。
 何がなんだか…もう本当は何も判らない俺は、ただ不安で、無意識に縛られた腕でタユに縋り付いていた。
 タユがいる。
 なぜだろう?
 ただそれだけのことなのに、あんなことが起こった後だと言うのに俺は、酷く安心している自分が不思議で仕方なかった。