Act.36  -Vandal Affection-

 どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
 カチャカチャ……
 キーボードを忙しなく叩く音と、聞き覚えのある声に俺は意識を呼び戻されたようだ。
 冷たい床に蹲るようにして座る俺の体温は床に吸われ、冷たくなった身体は今までのハードな行動から急激な休息に対応し切れなかったのか、節々がギシギシと音を立てるような錯覚を感じながら重く閉じた瞼をゆっくりと開いてみた。
 覚醒したばかりの意識はまだハッキリしていなくて、暫くぼやけた目で虚ろに周囲を見渡していたけど、景色が漸く輪郭を整え始めると、自分の置かれている状況を把握しようと脳がフルピッチで動き出し始めたからか、少し頭痛がしてきた。
 兎に角、この冷え切った尻を何とかしなくっちゃなぁ…
 冷たく凍りついてしまいそうな尻を持ち上げた俺はニ、三度頭を振って様子を見たが。
 よし、大丈夫そうだな。
 身体を起こして立ち上がると、少し眩暈を覚えたものの、そう軟にできちゃいない身体はすぐに環境に慣れたらしく、俺に考える力を取り戻させてくれたようだ。
 俺はハッキリしてきた視線を目の前に居る人物の方へと向けた。

「…電力の供給は全て整っておる」

 最初に耳に飛び込んできた声は、アレックス博士のようだ。 

「じゃぁ、“準備OK”って事でいいのかい?」

 せっかちに相手に答えを求めているタユが、どうやら俺の目覚めに気付いたのか後ろを振り返って確認すると肩を竦めて見せた。

「まぁ、そう言うことになるな。後はそこで休んどる相棒にでも…おお、目が覚めたかね」

 同時に博士も気付いて椅子から立ち上るとこっちを見ながら言ったんだ。

「ちょうど今、システムの起動に成功したようだぜ」

 タユはいつの間に覚えたのだろうか、モニタに映し出された分厚いあの扉の操作パネル部分にレンズを移動させると、そこを拡大して表示させた。
 博士の説明によると、このフロアから送られる電力は次のエリアの20%分しか補うことが出来ないらしい。しかも、設備を稼動させるにはタービンを回す為の火力を熾す燃料に時限があるというのだ。

「少なくとも8時間持てば良い方じゃろうな……」

 8時間。
 俺たちはその時間内に須藤たちを救い出せるだろうか…

「8時間だって?簡単に言ってくれるぜ」

 タユが諦めたように肩を竦めると、それを聞いて聞かないフリをしているアレックス博士が背後から声を掛けてきたんだ。

「さて、君らにはこの先のシステムについて話しておかねばならない事が幾つかある」

 薄暗い部屋にはモニターの光に照らされた俺たち三人の他に温かみを感じられるものは何もない。
 その空間の中でアレックス博士の落ち着いた声がやけにハッキリと俺の耳に響いていた。

「今度は何だよ?」

 タユはその雰囲気が苦手なのだろうか、いつもよりトーンの低い声でアレックス博士の方を見るなり子供のように下唇を突き出して促した。
 アレックス博士はそんなタユをチラッと一瞥しただけで、その視線は俺を見据えたまま言葉を続ける。

「ここの管理体制は複雑でややこしい面が多い…が、人間の手を煩わすような所は自動オペレーションシステムが賄っておってな。その分、システムは細分化されることが無い……」

 そこまで言った時、頭を掻いていたタユがその手で大振りなジェスチャーをしながらアレックス博士に急き立てるように言ったんだ。

「あー、そのややこしい説明は後回しでいいから単刀直入に説明してくれ!」

 タユの言葉に少しムッとしたようなアレックス博士だったが、所詮若造がとでも思ったのか、その事には何も言わずに俺たちの間に割り込んで端末の操作を始めた。
 この部屋の端末は各階のフロアに置かれたサーバーと直結されたオンラインを持っていた。
 それは、この部屋の操作室が各フロアの電力を補助する際の司令塔にもなれるように設計をされているからだった。
 どうやらそれが幸いして、俺たちに多くの情報を提供してくれそうだな。

「まずはコイツが必要じゃろう」

 アレックス博士が端末を叩くと、そこにはオンラインから呼び出されたここの所員名簿が表示されていた。

「誰か知り合いでも紹介してくれるのかい?」

 腕を組んだタユがヒョイッと、俳優が良くやるように眉を上げて博士に茶化すように言った。
 アレックス博士はそんな俺たちの顔を見るとニヤッと笑ってモニタを指さしたんだ。

「何を寝惚けた事を言っているんじゃ。ここから先に進むんじゃったら必ず知っておかなくてはならん相手の顔を、教えておいてやろうと言っているんじゃよ」

 そう言ってあるファイルを開くと、そこに映し出された男の顔を見て俺たちは身を乗り出した。
 博士の真剣さが、その人物の要注意度を割増させているようで、どうやら放っては置けないんだろうなぁ…またなんだかややこしい事にならなけりゃいいんだがな。

「エドガー・マクベル。このエリアの総責任者じゃ。お前さんたちがもしもこの先で出会うような事になった時、最も注意せねばならん人物でもあり、最も危険な男じゃろうからな」

 俺たちはモニタへと身を乗り出したまま食い入るようにその顔を見た。
 そこには何ともパッとしない、冴えない中年男が世の中の全てを恨みでもしてるかのようなしょぼくれた目付きをして映し出されていた。モニタの中に羅列されたバストアップの写真の中でも、ソイツはアレックス博士の言うように、ここの責任者なんだろう、一人だけ偉そうに一段上に一枚だけ貼り付けられている。

「へーえ?大したこたなさそうなおっさんぽいがな?コイツはどんな馬鹿げた研究をやらかしてたんだ」

 タユが腕を組んだままで馬鹿にしたように肩を竦めると、アレックス博士が素早い動作でキーを叩くと幾つかの情報がエドガーの顔写真の横に並べられていった、けど、思ったほど凄い情報は一つもないようだ。

「ワシの端末ではこの程度かのう…大元がロックされておるから、ワシのIDでは深層部までは立ち入れないんじゃ」

「ま、何もないよりはマシだな爺さん」

 タユがおどけたように肩を竦めながら気楽に言うと、アレックス博士も肩を竦めながら息を吐くだけだった。

「…博士の端末で特定の人物を割り出すこととかできるのかな?」

 暫く考えた末に、傍らにいるアレックス博士に俺がそう言うと、タユは俺の目を見ながら首を少し傾げて眉をヒョイッと上げて見せた。

「まあ、雇われ博士のIDで判る範囲でならの」

「それでいいんだ。苗字までは判らないんだけど、フィリップって言うんだ」

「フィリップじゃと?ホッホ…」

 何がおかしいのか、その名を聞いてアレックス博士は笑いながらキーボードで何かを打ち込んでいた。
 俺が何を言いたいのか判ったんだろう、タユは『ああ、あの変態野郎のことか』と思い当たったのか、肩を竦めて苦笑したんだ。

「コータロー、フィリップって名前だけじゃ、あんまり情報が少なすぎるんじゃねーのかい?」

 それを聞いて、俺はハッとして頭を掻いてしまった。
 ああそうか、それで博士のヤツは笑ったんだなぁ…フィリップなんてどこにでもある名前だ、この広い研究所でいったい何人いるだろうな。
 その答えを簡単に博士は導き出してくれた。

「これがこの研究所で勤務しておった”フィリップ”と言う名を持つ者のリストじゃ」

 200、いや300人はいそうなリストにうんざりして、俺は素直に博士に謝りながら、ヤツの身体的な特徴を言ってみた。

「ふむふむ、蠍との融合かね…なかなか興味深い話しではあるがワシの専門外じゃなぁ。そもそもワシは、外から召喚されて来たに過ぎん。今現在、この研究施設で何が起こっておるのかもよく判らんのじゃよ」

「逃げ出そうとは思わないのかい?」

 マシンの乗っているデスクに凭れながら腕を組んだタユが博士を見下ろして、からかうようにそう言うと、博士はご冗談をとばかりに両腕を上げて見せた。

「ワシはお前さんたちほど、もうそんなに活きが良くないんじゃよ。この年になると、無駄に逃げ惑うよりも大人しく時間が過ぎるのを待つ方が楽じゃからなぁ」

「なるほど」

 タユは肩を竦めながら頷いたけど、どうもこの博士を気に入っているようで、爺さん博士を連れて、さてどうやって逃げるかなとでも考えているようだった。

「まあ、そんなことをやらかす連中と言えば、恐らくマクベル博士の助手であるフィリップ・スタングレーのことじゃろうなぁ」

 独り言のようにブツブツと呟きながら、博士は検索欄を呼び出すと手早くその名前を入力した。
 ポンッと小気味よい音を鳴らしてモニタに映し出された顔写真は、こざっぱりと短く刈った金髪に、神経質そうな目付きをした男で、とてもあのフィリップを想像することはできなかった。

「へーえ!アイツ、結構男前な顔立ちしてたんだな。今じゃ見る影もなかったが、まあこんな状況じゃ仕方ないんだろう」

 タユが感心したように尻上がりの口笛を吹いてそんなことを言うぐらいだ、じゃあこの顔写真の男はフィリップに間違いないんだろう。
 あんまりにも相好が変わり果てていて、断定することができないでいたんだけど…そうか、フィリップはこんな顔立ちをしていたのか。

「フィリップ・スタングレー、エリアα(人体実験コードは全てα記載)勤務。実験体管理担当……と、なんじゃそれ以上は部外者のアクセスは拒否されておるのう」

「まあ、権限が決まってるIDなんだろ?じゃあ、仕方ないさ」

 タユが肩を竦めて俺を見たが、俺だってそんなに期待していたわけじゃないんだ。それに、取り敢えずフィリップが勤務していたエリアが判れば、その周辺のどこかに須藤たちがいるだろうと予想できるし、強ち博士の検索は的外れだったわけでもない。
 それに、検索できることが判ればそれでいいんだ…だって、俺が本当に知りたいのは。
 アイツだ。
 あの冷徹な眼差しをした、あの男だ。
 俺の勘が正しければ、この研究所のことを唯一まともに知っているのは、あの男しかいないんじゃないだろうか。

「…博士、名前が判らないと検索は難しいかな?」

「んー、やってできないことはなかろうが、人数が人数じゃからなぁ…特徴などを言ってくれれば、ワシが判る範囲でなら教えてやれんこともないぞ」

 タユが下唇を突き出すようにして首を傾げたが、そうか、タユには言ってなかったんだったな。

「金髪で、スカイブルーの眼をした、眼鏡の似合う結構ハンサムなヤツだった…でも、残酷そうなヤツだなとも思った」

 印象を率直に言うと、博士は渋い顔をして腕組みをして考えているようだった。
 やっぱりこれじゃ情報が少な過ぎるかな…

「ああ、そうだ。博士、あんたはラット事件ってのを知っているかな?その書類を見つけて、余計な物だって言って燃やされちまったんだ。どうも、その事件に関係している人物じゃないかなーと思うんだけど」

「ラット事件?…おお、あの事件のことか。あれは酷かったぞ。1990年の秋も終わる頃じゃった、この施設に妙な病が流行ってのう。だがそれは、通常の細菌に因る病ではなく、人為的なミスが招いた災いだったんじゃ」

「へえ?」

 タユは特別興味深そうに博士を見下ろして先を促したが、俺はその話しで漸く、あの書類に書かれていた内容を思い出していた。
 そうだ、あの事件で確か『HR-9』ってのが出てたんだよな。

「ワシは専門外じゃから詳しくは知らんが、ある研究部門で特殊な薬を扱っておってな。その薬には副産物のようなものがあって麻薬のような効果があったんじゃ。その効果を悪用した粗悪な薬が出回ったんじゃがな、当局は最初、それに気付かなくてのう。全てが水面下で取引されておったんじゃが、日を追うごとにそれが蔓延していって、とんでもないことになったんじゃよ」

「とんでもないことってのはなんだい?」

 タユが興味深そうに食い付いたが、アレックス博士は渋い顔をして首を左右に振ったんだ。

「死人が出た。ワシらの所にはそれぐらいしか回ってこんかったからな、詳しくは判らんのじゃよ。当局に談判に行ったのが…」

 そこまで言って、徐に博士はハッとしたような顔をして俺を振り返ったんだ。

「おお、そうじゃった。お前さんの言っていた特徴は、確かに彼に似ておるな」

「彼ってのは?」

 俺が尋ね返すと、博士は頷きながら何かを打ち込み始めた。

「直接談判に行った張本人じゃよ」

 博士がそう言った直後、モニタに映し出された顔写真を見て俺は思わず唸ってしまった。
 気にしていない、気にしていないとは思っていても、俺の中にある何かがヤツを拒絶しているのか、その顔を見た途端にガクガクと身体が震え出したんだ。

「ん?どうしたんだね、顔色が悪いようじゃが…」

 アレックス博士が肩に触れた瞬間だった、どうしたのか、俺はビクッとしてその手を振り払ってしまったんだ。
 何故かなんて説明はつかないけど、突発的な行動に何故だろう、怯えてしまったと言った方が早いのかもしれない…怯える?なぜ俺が??
 カタカタと震えながら博士を見上げたら、突発的な俺の態度に驚いたように眉を跳ね上げた博士の傍らで、タユのヤツは、ヤツにしては珍しく神妙な顔つきをして近付いてきた。

「彼は一体どうしたのかね?」

「…まあ、大方予想は付くけどな。何か恐ろしい目にでも遭わされたんじゃねーのかい?こんな場所だしなぁ」

 タユのヤツは曖昧に誤魔化すようにそんなことを言ったんだが…まさかお前、俺の身に起きたことを知っているんじゃねーだろうな。
 それは、嫌だ。
 あんなこと、犬に噛まれたんだって思って忘れようと思ってるのに、どうしてこんな、唐突に思い出しちまうんだ。
 蹲るようにしてへたり込んでいた俺が、唇を噛み締めて、震える指先で額に張り付く前髪を掻き揚げて動揺を誤魔化そうとしたその時、思ったよりも大きな掌で誰かが背中を擦ってくれたんだ。
 誰か、それはなんとも形容のし難い眼差しをしたタユが、アイツらしいお気軽そうな笑みを口許に浮かべて傍らにしゃがみ込んでいた。

「大丈夫だよ、コータロー。大丈夫だ」

 何が、とか、どうしてタユがそんなことを言うのかだとか、そんなことはどうでも良かった。
 タユが何気ない仕種で、俺の考えていることなんか大したことでもないだろ、こんな所で生き抜けているんだ、気にすんな、とでも言いたそうな眼差しで、多くを語らずに背中を擦ってくれていたら不思議とそんな風に思えてきた。
 タユのヤツがきっと、能天気だからなんだ。
 きっとそうだろう。
 だからこんな風に、落ち着けてしまうんだ。
 タユのおかげなんかじゃない、ヤツの能天気な性格のおかげなんだ。
 でもどうしてなんだろう、博士の手はあんなに恐ろしく感じたのに、タユの手を優しく感じるなんて…でもそのおかげで、俺は少し落ち着いてモニタを見ることができるようになった。

「こんな場所だじゃからなぁ、何があったのかとは聞かんでおこう」

 そんな俺の様子を見ていた博士は、それ以上何かを詮索するようなことはせずに、肩を竦めるだけだった。

「コイツだ、確かにコイツだ」

 モニタを覗き込んだ俺が呟くようにそう言うと、博士が頷いた。

「そうかね?やはりそうだろうと思ったんじゃ。彼はその当時、その薬の研究部門に招かれていた博士でな。癌研究の権威じゃよ。当時その薬の研究を反対していた彼は、当局に押し切られる形で口を噤むように言われてのう、悔しい思いをしたんじゃなかろうかね」

 博士は殊の外、あの男のことに詳しいようだった。
 古い記憶を思い出しているのか、その視線は壁に貼られた一枚の古惚けた写真に向けられているようだ。

「あの若さで権威か…でも、いったい何を考えているのか判んねーや」

 厳しい、世の中のことに冷めたような表情をしていたあの男の顔と、目の前のモニタに映し出された意志の強そうな眼差しで銀縁眼鏡の奥からひっそりと見つめている男の顔を比べながら、思わず呟くようにして俺が言うと、それを聞いた博士がちょっと驚いたような顔をして振り返ったんだ。

「若いじゃと?博士がまだ生きておるのなら、彼は今年で53になるはずなんじゃがな…」

「53歳だって!?そんなはずはないよ、どう見ても30代後半ぐらいにしか見えなかったけど…」

 そうだ、外国人は年齢よりも老けて見えることがよくあるのに、もしアイツが本当に53歳の男だとしたらあまりにも若過ぎるんじゃないか??

「ワシは老い耄れてはいても記憶力はいい方じゃぞ。彼がこの研究所に来た時が1984年で32じゃったからな、あれからもう20年以上経つからのう、どう計算しても30代後半は有り得んのじゃよ」

「嘘だ…」

 俺は思わず呟いて、フラフラと後退さってしまった。
 どう言うことだ?
 俺が見たアイツは過去の産物だったとでも言うのか?
 そんな馬鹿なことが…

「どうでもいいけど、その博士ってのは誰なんだ?」

 黙って事の成り行きを見守っていたタユが、不意に組んでいた腕を解いて頭を掻きながら面倒臭そうに聞いてきた。すると博士は、おおそうじゃった、とモニタに向き直ると手早く操作して弾き出したんだ。

「彼の名はアンディ・ジャクソン。ワシと同じように招待されて来た博士でな、癌の研究分野では世界に名の知れた博士じゃった。分野違いではあったが、ワシも会ってみたいと思っていた博士でなぁ。当時は奥方のマデリーヌが癌に冒されていて研究に没頭していたと聞いたが、その後はどうなったのか…」

「奥さんがいたのか…」

 別にどうでもいいことなんだけど、奥さんがいるのに、俺にあんなことするなんてのは…許せないとか言うのは偽善なのかもしれないけど、それでもやっぱり、なんだか納得いかないんだ。
 それともこの研究所にいる間に、徐々に精神を侵されていったのだろうか…
 あのフィリップみたいに。
 こんな、異常な場所では、やっぱり仕方ないのかな…

「彼にはラット事件の起きた当時、5歳になる娘さんもいたんじゃがな…ルビアと言う可愛らしい女の子じゃったが、彼女はそのラット事件とほぼ時を同じくして飛行機事故で亡くなってしまったんじゃよ」

「そうか、なんとも気の毒な話しだぜ」

 タユがしんみりしてそんなことを言った。
 気の毒…そうか、そんな風に大切な人を亡くしたのであれば、何もかも全てが嫌になって、あれほどまでに残酷そうな、冷徹な表情になっても仕方ないのか。

「マデリーヌの身体を気にしておってのう。この研究所に来るのを渋っておったそうじゃが…どう言う成り行きで来るようになったのかは、口の重いジャクソン博士から聞くことはできなかったんじゃ」

「…でもまあ、ソイツとコータローの言ってる男は別人なんだろうがな。良く似たヤツもいるんだろう。まあ、オレたちが東洋人の見分けがつかないように、西洋人の見分けもつき難いからな」

 タユが肩を竦めながらそんなことを言うから、俺は少し考えて、ああそうだったのかもしれないなと思うようになった。
 良く似ているし、本人に違いないとも思うけど…アレックス博士の言葉は嘘じゃないだろう。
 アイツはどう見ても50代には見えなかったし、大切な誰かを失って絶望に打ちひしがれているようにも見えなかった。なんと言うか、外界を無視しているような、ただただ冷酷に事の成り行きを見ているだけで、我関せずの態度はどこか空々しくて人間らしさを感じなかったからな。
 そうだ、アイツには、亡くなった娘さんを偲んで奥さんを気遣うような、そんな人間らしさはこれっぽっちもなかったじゃないか。

「タユの言う通りだ。俺の見間違いだったんだろう。だってアイツは、そんな家族を思うような生易しい感情を持ってるようには見えなかったし」

「そうかのう?まあ、ワシはここから然程出たことがないからのう、同じような顔をした者もいたんじゃろう」

 博士はそう言って納得したようだった。
 アンディ・ジャクソンか、この人はこんな迷宮のような異常で閉鎖的な空間で、何を思い何を考えていたんだろう…奥さんを想いながら、悔しさを噛み締めて死んでしまったのかな。

「まあ、その話しはそのぐらいでもういいだろ?そんなことより、今はヨシアキとヒトミの件が先じゃねーのかい?」

 タユが両手を上げるジェスチャーをしながら俺たちにそう言って、少し不機嫌そうな顔をすると顎をしゃくったんだ。

「この先のエリアについて、詳しく聞かせてくれよ爺さん?」

 そうだ、アイツのことは今はいい。
 俺たちには待ってくれている人がいるんだ。
 アイツを捜し出して俺は、いったい何をしようと思ったんだ。
 この研究所のことを聞くのか?それとも『HR-9』について?
 いいや、違う。
 俺は、なぜアイツが、俺を犯したのか聞きたいだけなんだろう。
 理由もなく、凶悪な捌け口に使われただけなのかもしれないけど…それでも俺は、アイツを捜し出して聞きたいんだ。なんだろう、この気持ちは…
 恐怖とか、憎しみが入り混じったこの感情は、いったい何なんだろう。
 事の最中でも冷めた声で俺の名を呼んだ、あのうそ寒い雰囲気を持った冷酷な男。
 会って聞き出して、それからどうするんだ?
 …殺そうと、思っているのか?
 不意に、自分の中で渦巻く凶悪でおぞましい感情に気付いた俺は、背筋が凍るような錯覚がして震え上がってしまった。

「コータロー?どうしたんだ…って、ハイハイ。オレは触ったりしないよ」

 わざとらしく大袈裟に両手を降参のポーズで上げて片目を閉じたタユは、そのくせ、ちょっと心配そうに眉を寄せて震える俺の顔を覗き込んできたんだ。

「本当に、大丈夫なのか?」

「タユ…」

 さっきは惚けたようなふりをして、そのくせ心配しているくせに…そんなタユを見て、俺はなぜか今凄くホッと落ち着いている。
 そうだ、この研究所の上にある、あの遺跡に入る時だって俺は、タユを目指していた。
 眠れないでいる俺に、気軽にコーヒーを勧めてくれて、見つかれば怒られることは判りきっていたのに、夜の遺跡にも連れ出してくれたのはタユだったじゃないか。
 コイツは俺の希望だった。
 なぜかは判らないけど、タユがいればいい、彼に会えさえすれば万事上手くいく…なんて、根拠もない思いだけを信じて、俺はこの研究所に来たんだ。
 照れ隠しにお気軽性格のおかげなんだとか思っちまったけど、俺ホントは、たぶんきっとタユが好きなんだ。
 アレだな、目が開いたばかりのヒナが初めて見たものを親鳥だって思い込む、アレなんだろうな。

「大丈夫だ、うん、ごめん。そうだな、タユの言う通りだ。俺たちは須藤たちを助けに行かなくちゃな」

「だろ?そうこなくっちゃな。なんせ相手は人間をモルモットにして研究してるような連中なんだぜ?弱みなんか見せたらこっちが食われちまうんだ。何はともあれ、そんなヤツは忘れちまえよ」

 無理かもしれないけどな、と一言いって、屈託なく笑うタユは、どこにそんな強さを秘めているんだろう。
 こんな常識離れした異常な研究施設でも、タユだけは変わってなかったじゃないか。
 そうだ、タユだけは変わってねーんだ。

「まあ、何かしらあるんじゃろうが、今は君の友人たちが心配じゃな」

 そうだ現実に戻れ、佐鳥光太郎!
 タユが言う通りだ、相手は人間をモルモットにして平気で実験しているようなヤツなんだ。あのフィリップがその助手を努めていたって言うんだから…須藤たちの身の保証は全くなくなったってことになるんだろうけど、そんなことで諦めるわけにはいかないだろ。
 どうせこんな命の保証なんてまるでない異常な場所なんだ、希望なんてのは自分で感じて信じるものなんだ。
 最後の最後まで、その絶望的なシーンを見ないうちは、たとえ1%の望みしか残っていないとしても、俺は必ず須藤と桜木のもとに辿り着いてやる。
 今はうだうだと考えている場合じゃない、須藤たちを見つけ出すためにも準備が必要だ。
 俺は、立ち竦みそうになる心を奮い立たせて自分に言い聞かせた。
 たとえそこが地獄だろうと、須藤と桜木にもう一度出会える場所は。
 もうそこしかないんだ…