前編  -あなたのとりこ-

 一目惚れって言うのは、きっと本当にあるんだと思う。
 たとえそれに全く縁のない俺だったとしても、ある日突然、まるで落雷するように襲い掛かってくるに違いない。
 恋だ愛だってのは、そんな風に凶暴で、ハッキリ言って迷惑以外のなにものでもない。
 いわば交通事故のように偶発的に、1人の人間と1人の人間がすれ違い様に思い切りぶつかるような、そんな確率なのかもしれないが…俺にはよく、判らない。
 ただ、迷惑で厄介なものだと言うこと以外は。

「…は?」

 思わず呆気に取られて聞き返すと、ソイツは小生意気そうな顔付きをしてニコッと笑った。
 笑えば少し子供っぽくなる双眸が、ともすればチャーミングなんて言うのなら、冗談じゃねぇ。
 剃った眉は細く、その下で煌く強い意思を秘めていそうな釣り上がり気味の双眸はいつでも喧嘩を売ってるような鋭さで、外見も見事な今時のヤンゾーってヤツだ。
 大方、ニートだとかしてるんだろう、俺より2、3コぐらい年は下なんだろうがな。
 こんなヤツとは一秒だって一緒にいたくはないのに、なんだって言うんだ。

「なんだと?」

 難聴でも起こしたか、はたまた、ただの空耳だったのか…どちらにせよ、耳に届いた言葉がするりと抜けて、鼓膜までは届かなかった。
 困惑して顎を掻いていると、ソイツはまた、勝気な双眸を細めるようにして笑いやがった。

「だから、俺のお嫁さんになってよ」

「…黙れ」

「はー?なんだと聞いてみたり黙れって言ってみたり、北条さんってばヘンな人だな」

 クスクスと、そのくせ全然気にした風でもないくせに、ソイツは呆れたように笑いながらカチリと音を響かせて、煙草に火をつけた。
 空に吸い込まれるようにして、猛毒の紫煙が立ち昇るのを目線で追うソイツの手から、気付いたら俺は煙草を?ぎ取っていた。
 こんなの吸いやがって!金と健康の無駄遣いだ!…ハッ、そうだった、それどころじゃなかった。
 親の仇でもあるように靴底で煙草を踏み消しながら、唐突に俺は自分の置かれている現状に気付いた。

「…ふふ、北条さんらしいや。煙草、相変わらず嫌いなんだ」

 ゆったりと、人影のない路地裏のビルの壁に凭れかかりながら、ソイツは鼻先で笑うように呟いて俺をジッと見るんだ。

「まあ、騙されたと思って俺と付き合ってみなよ」

 ふざけるなと食って掛かろうとしたその矢先、ソイツは凭れていた上半身を起こすなり、グッと下から俺の顔を覗きこんでニッと笑ったんだ。

「薔薇色の世界に連れてってやるからさ」

 ソイツはまるで小悪魔みたいにニヤッと笑ったが、どんな悪い夢なんだと頬を抓りたくなった俺の行動が言葉通りに伴わないのは、その射竦めるような双眸に、もしかしたら…完全に囚われていたからなのかもしれない。
 全く、冗談じゃないんだが。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「北条さーん!」

 それから毎日のようにソイツは、俺のバイト先に現れては元気よく名前を連呼してくれた。

「ねね、まだバイト上がらないの?」

 ウキウキしたようにしゃがみ込んでレジに頬杖をつきながら覗き込んでくるソイツは、初めて声をかけて来たときの様に、クソ生意気な顔をして笑いやがるから…殴りたくなっても仕方ないよな。

「…あのな、俺はここの雇われ店長なんだよ。上がるのは夜だ」

「へー、夜か。んじゃ、それまでお店手伝ってやるよ」

 ヨッと、まるでおっさんのような掛け声をわざとらしく上げて、ヤツは敏速に立ち上がりながら伸びをして笑うんだ。

「はぁ!?そんなの構わん!いいから、帰れ」

「酷いなー…どうせ、バイトもいないんでしょ?独りじゃつまんねーでしょうし、別に俺、バイト料なんていらないよ」

「そんな問題じゃないだろ?…って、おい!」

 どんな問題だよ、とでも言いたそうに笑ったソイツは、そのくせ俺の言葉など聞いちゃいないんだな。
 勝手にレジの奥に続く部屋に入って行くなり、制服を引っ掴んで戻ってきた。
 その速さと言ったら…追いつけない俺のこの伸ばした手をどうすりゃいいんだ。

「よーし、じゃあ店長さん?まずは店内でも掃除しましょーかね?」

「…なんで、お前」

「なんでって…愛する婚約者が頑張ってるのに、夫になる者がボーッと見てるわけにいかないじゃん」

 思わず、ガックリと項垂れてしまいそうになった俺は、それでも只管落ち込んでいく思考を引き戻しながら、キョトンッとしているソイツの肩を掴んで溜め息を吐いた。

「…あのな、ちょっと頭に春が来てるのはよく判る。でも、これだけは言っておいてやるよ。俺は男でお前も男だ。男同士で結婚なんかできるわけないだろ?学校で習ってこなかったのか??」

「…情報遅れてんね!北条さん。外国には男同士でも結婚できる州があるんだぜ?大丈夫、ちゃんと俺、リサーチ済みだし。なんだ、北条さん。もしかしてそんなこと心配してたの?可愛いなぁ~」

 ニコニコと嬉しそうに笑うソイツの頭を、蒼褪めたままでニッコリ笑いながら打ん殴れたら少しは溜飲も下がるんだろうけど。仕方なく俺は、渇いた笑い声を上げながらソイツの肩をポンポンと叩いてやったのだ。

「は、はははー…そーかそーか、まあそんなこたどうでもいいんだがな。先月、煙草を吸ってるのを見咎めて勝手に取り上げたのは謝る。大方、それが原因なんだろ?」

 この嫌がらせは。

「はー?ああ、うん。あの時かな~、一目惚れしたのは♪」

「ブホッ!」

 思わず吐きそうになって、咽た俺はよろけながらキャッシャーの向こうにある椅子に腰を下ろした。

「…あのなぁ、冗談も大概にしろよ?お前、見た目なかなか男前っつーのにな、そんなバカみたいな冗談ばっか言ってると女の子にモテないぞ」

「はぁ?別に女にモテなくても関係ないし?だって俺、北条さんだけ!見ててくれたら満足だもん♪」

 ニコニコ笑いながらそんなふざけたことを抜かすソイツに、ズキズキするこめかみを押さえながら思い切り溜め息を吐いちまった。

「お前なぁ、だいたいどこで俺の名前を知ったんだ?」

 俺のことを嫁にすると言ってきかないそのふざけた野郎は、一瞬パチクリと目を見開いてから、キョトンッとしたままで俺の胸元を指差したんだ。

「ネームプレート。北条ってちゃんと書いてるじゃん」

「…あ」

 自分の胸元を見て、ああ、これだったのかと一人納得する俺を見ながら、ソイツは不意にケタケタと笑い出したんだ。

「やっぱ、すげーや。北条さんは♪」

「あぁ?」

 ムッとして眉間に皺を寄せて見上げると、唐突にソイツは抱き付いてきやがったんだ!

「なな、何を…ッ!?」

「無敵の可愛いさだもんな♪だから俺、もうメロメロなんだよ」

 嬉しそうに頬にチュッチュッとキスしてきやがるソイツの態度に、一瞬凍りついてしまった俺は愕然としたままで動けずにいたが、唐突にハッと我に返って慌ててソイツの身体を突き飛ばそうとして…ギクッとした。
 そう、思った以上にガッシリとした身体つきのソイツは、柔な外見とは裏腹に随分と身体を鍛えているようだ。学生時代に柔道で腕を鳴らしたこの俺が、さっさと払い除けることもできないんだ。 

「あ、そーか。北条さん、俺の名前知らないんだっけ?あんまり可愛くて大好きになっちゃったもんだから、一番大事なこと忘れてた。迂闊だな、俺!」

 ギュッと俺の首に抱きついたままでハタと自分の失態に気付いたとでも言うように呟いたソイツに、俺は蒼褪めたままで頬を引き攣らせながら見た目より逞しいその背中をポンポンッと叩いてやった。

「はははー、そうだったな。名前も知らなかった!ところで、俺は仕事に戻りたいんだが…」

「もー!そう言う大事なことは、北条さんもちゃんと言ってくれよなー」

 身体を起こして顔を覗き込んでくるソイツは、上目遣いに甘えるような仕種をする。
 瞬間、ドキンッと胸が高鳴ったのはたぶん気のせいだ。
 ドキドキするのは悪寒に違いない。
 顔が暑いのは熱が出たんだろう。
 そうだ、これは風邪なんだ!!
 …早く帰って寝よう。

「俺は南條虎丸!北と南で何か縁を感じるよね。これはもう、運命なんだよ♪」

 ニコ~ッとまるでガキみたいに笑ってそんなワケの判らんことを言いながら、虎丸と名乗ったソイツはまたしてもギューッと抱きついて来た。
 動悸も早いし、頭も暑い。
 こりゃ、いよいよ風邪だなと思いながら俺は、いつまでもコイツに抱き付かれていて、もしお客でも来たら事だなと思うとヤレヤレと溜め息を吐きながら背中を軽く叩いたんだ。

「…判った、なんか良く判らんが、判った。取り敢えず、仕事に戻らせてくれ」

「あ!そーだね、愛する婚約者の仕事の邪魔をしちゃいけないね。俺、手伝うとか言いながらごめん」

 エヘヘヘッと笑いながら身体を起こした虎丸は、その反動を利用するようにして俺の腕を掴むとグイッと引っ張って引き起こしやがったんだ。余計なお世話なんだが、立ち上がる気力もなかった俺には正直少し、有り難かった。
 そうして俺は、精神的にヘトヘトになりながら仕事に取り掛かったのだが、箒を持って軽く掃きながら店内をウロウロしている虎丸と、事あるごとに目が合うたびにドキドキしてしまって仕事が手につかない。なんなんだ、これは!?
 ふと、虎丸の姿が見えなくなったと思って店内を見渡して、防犯用の鏡を見たときだった。

「!」

 座り込んだままこちらをジーッと見ているキツイ双眸の男と目が合って、俺が見ていることに気付いた虎丸がパッと嬉しそうに笑って立ち上がったんだ。それから、レジをしめてる俺の許へバタバタと走って近寄って来やがるから、なぜか照れ隠しにぶっきら棒になってしまう。

「お前は何をやってんだ」

「えへへ。テレパシーだよ」

「…は?」

 いや、聞き返しちゃいけないとは判っていたんだが、虎丸のヤツはその凶暴そうな外見とは裏腹で、ニッコニッコと嬉しそうに笑いながら俺の手を取ったんだ。

「こっち見ろ、こっち見ろ、こっち見ろ~!…ってね。こっちを見たら、俺と北条さんは相思相愛だって思ってさぁ」

「…勝手に思ってろ」

 蒼褪めながらレジしめをしようとしたけど、気付けば虎丸のヤツから手を掴まれたままだった。

「離せよ」

「…嫌だ」

 ハァ、と溜め息を吐いて首を左右に振った。

「レジがしめられんぞ。婚約者を手伝うんじゃなかったのか?」

「!」

 バッと鋭い双眸で見詰めてきた虎丸の視線に、一瞬、怯んでしまった俺だったが、虎丸がどんな思いでそうやって俺を見たのかいまいちよく判らない。

「えへへ…俺ね」

「んー?」

 取り敢えず片手でレジしめをすることにした俺の、その握っている手に瞼を閉じてソッと口付けながら虎丸は幸せそうにうっとりと呟いた。

「北条さんのこと、ホントに好きだよ」

 腕を離してくれぇぇ…と、鳥肌を立てている俺の気持ちなんかまるで無視しやがって、虎丸のヤツは口付けたまま上目遣いで俺を見上げてきやがるのだ。
 その真摯で一途な目付きは、本気で俺のことを好きだとか言ってるのか。
 切なそうに双眸を細められても、それに応えられるほど俺は寛容な男じゃねぇ。
 もしコイツが、俺がその気になった途端に「ウソだよん!あったり前じゃん。キモイなぁ、バカじゃねぇ」とか言い出さないとも限らない。
 信じられるかそんな話。

「あー、判った判った。判ったから手を離せ」

 振り払おうとしたら余計強く握られてしまって、俺はムッとしたように眉を寄せながら虎丸を軽く睨んだんだ。そんな俺の目力なんか、悔しいが虎丸のキツイ双眸に比べれば牙のないライオンぐらいなんだろうがな、それでも虎丸はビクッとしたようだった。

「なんにも判っちゃいねーよ、北条さんは。俺がどれほど、アンタを好きなのか」

 判れと言うのか?
 28年間、男として暮らしてきたこの俺に?

「だって、俺は北条さんのこと───…ッ」

 語尾を言い終わらない間に、まるで被さるようにして虎丸の腹がグーッと盛大な声を上げて鳴いたんだ。

「…ぷ。そう言やお前、昼から何も食ってなかったな」

「…くそー、カッコつけてたのに」

 ブツブツ言ってるその間も、虎丸の腹はグーグーッとまるで田舎の蛙の合唱のように鳴り響いてる。仕方なさそうに溜め息を吐いた虎丸は、情けなさそうに眉を八の字にして上目遣いに俺を見上げてきた。

「北条さん、俺バイト料はいらないからさ。その、弁当貰って帰っていい?」

「…家で用意してるんじゃないのか?」

 あーあと、決め所を逃したとでも思っている虎丸は頭を掻きながら、なんでもないことのように言いやがったんだ。

「ウチ、母ちゃん死んでいないんだ。親父は今夜も夜勤だし。これから帰って飯作るの面倒臭いんだよなぁ」

 でも、弁当が貰えないなら仕方ないけどと、そのキツイ双眸の男はまるで待てと言われたワンコのようにジッと俺を見上げてその判断を待っているようだ。
 恐らくこの男は、その外見通り喧嘩っ早くてきかん気の強いヤツに違いないんだろうけど、俺の前ではまるで従順な犬のように静かで人懐こい。初めて煙草を取り上げた時は、何しやがるんだとそれはそれは恐ろしい目付きで睨みつけてきたのになぁ。
 あの迫力はどこにいったんだ。
 ははは、まさか本気で俺のことを好きだなんて言うよな。

「ダメかな?んー、じゃあ仕方ねーや。帰って…」

「弁当なんか身体に悪いだろ?今日は客も多くて手伝って貰って助かったし、よかったら俺んちで飯を食ってかないか?」

「…ッ」

 どーせ、いつも1人で食ってるんだ。どうせなら二人分作ったほうが旨いに決まってるからな…ん?
 どうして虎丸のヤツはこんなポカンとしてるんだ?

「あ、そっか嫌だよな。じゃあ、弁当持って行ってもいいぞ」

「あ、あ、いや。その、いいの?北条さん家に行ってもいいの??」

「ああ!いいに決まってるだろ?ヘンなヤツだな。味に保障はねーけどよ」

 ハハハッと笑ったら、虎丸のヤツはまるで極上の笑みを浮かべて、嬉しそうに首を左右に振ったんだ。

「俺、誰かの手料理なんて久し振りだ。久し振りが一番好きな人の手料理なんて、俺って幸せ者だよね?嬉しいなー」

 ニコニコと笑いながらそんなことを呟く虎丸に、またしてもドキッとしてしまう俺もどうかしてると思うが、それでも、たかが俺なんかが作る飯をこんなに喜ぶ虎丸もどうかしてると思うぞ。

「そうと決まれば早く帰ろうよ!俺、腹ペコペコだよ」

 嬉しそうにまたしても俺の腕を掴んだ虎丸は、着ていた制服を脱ぎながらいそいそと帰り支度を始めやがったんだ。
 なんだ、そんなに腹が減ってたのか。
 バカなヤツだな、あんなワケの判らんことをしてないで、パンでも食ってりゃいいのによ。
 俺はそんな暢気なことを考えながら、この虎丸と言う風変わりな男に促されるままに帰り支度を始めるのだった。