番外編 : 花 前編 -永遠の闇の国の物語-

『この国には花は咲いてねぇ…つーか、咲かねーんだ』

 シューはどこか思い悩んだような表情をして、立派な鬣から覗く丸い耳を伏せていた。
 強面の獅子の頭部を持つ、2本の角が禍々しい魔物が、実はそれほど恐ろしげではないことを、もう光太郎は気付いていた。
 魔王の寝所に鎖で繋がれたまま、ふかふかのカーペットの上でごろ寝していた方が遥かに寝易かったけれど、それでも、狭いベッドで反対を向くシューの大きな背中に抱き付いて眠る方が、数百倍も安心できるなんてこと、どうして思ってしまうんだろうと首を傾げながらも光太郎は、そんな獅子面の魔将軍のぶっきら棒な優しさを面映く思いながら感謝していた。

(…なのに、また困らせちゃったな)

 花が欲しいと言った時のシューの金色の双眸は、僅かに細められながら、そんなことあるはずがないとは判っているのに、見落としてしまいそうなほど微かに申し訳なさを含んでいた。
 この闇の国に召喚されたとき、本当は震えるほど怖かった。
 生れ付きの気の強さで対峙した魔王との遣り取りも、気を抜けば平気でお漏らししていたに違いないと頷けるほど恐怖を感じていたと、自分でも判っている。
 震える膝に誰も気付くなと念を込めながら、唇を噛み締めて見上げた大柄な魔物は、最初から光太郎を嫌っているように見えた。虫けらでも見るような目付きは鋭くて、身体こそガッシリとした体躯の人間と寸分変わらない体型をしていると言うのに、その顔だけが、百獣の王と恐れられる獅子の面構えだった。
 ゴクリと息を呑んで見上げた魔物は、彼が仕えている絶対的な君主の命令に、恐らく完璧なポーカーフェイスだってできたはずなのに、困惑したような表情を浮かべて人間の少年を見下ろしていた。
 シューを、なぜか怖いなんて思えなかった。
 それが光太郎の偽らざる気持ちだ。
 強面なのに、シューなんて可愛らしい名前の魔物は、その日から半ば強制的に光太郎のお守り役になった。
 それからイロイロと時間は流れて、ますます、シューの魅力にグングンと引き寄せられていた人間の少年は、シューが傍にいることにスッカリ安心しきって、本来の持分を存分に発揮して闇の国に溶け込んでいった。

(それもこれも全部シューのおかげなんだ…俺、シューのために何かできないかな)

 いつも通り、曇らなくなった窓硝子を丁寧に拭きながら、光太郎はぼんやり考えていた。
 考えて考えて…それでも、今更ながら彼はシューの好みや趣味などを、これっぽちも知らない事実に愕然としてしまったのだ。

「俺、シューのこと何も知らないや…ッ」

 雑巾を握り締めて瞠目している人間の顔を映し出す窓硝子に、呆れたような表情をした小柄な少女のようにあどけない顔をしたシンナがクスクスと笑っているのが映って、光太郎は飛び上がるほど驚いた。

「びび…吃驚した。なんだ、シンナか」

『なんだじゃないのン。どうしたのン?なんだか悩める乙女みたいよン♪』

 シンナにしては珍しいジョークに、光太郎の羞恥に緊張していた頬が僅かに緩んで、心を許せるほど仲良くなった魔軍の副将に笑いかけた。

「俺ね、すっごい重大な事実に気付いてしまったんだよ!」

『ん~??あらン、それは大変そうねン』

 ぷっくらした可愛らしい桜色の唇に指先を当てて、唇を尖らせるシンナに窓枠から軽く飛び降りた光太郎が困惑したように眉を顰めて、どうやら今にも泣き出しそうだ。

「シューって何が好きなんだろう?どんなことをするのが趣味なんだろう??」

 詰め寄るようにして顔を覗き込まれたシンナは、面食らったようにキョトンッとしてしまったが、なんだそんなことかとでも言いたげに、何でもないことのようにクスクスと笑った。

「もう!ちゃんと聞いてよ、シンナ!!俺は真剣なんだよッ」

『ちゃんと聞いてるわよン。要するに、シューのことをもっともっと知りたいってことねン』

「う、うん。簡単に言えばそうなんだけど…あれ?なんでこんなに照れ臭いんだろう??」

 それは貴方が…と、そこまで開きかけた口をムグッと噤んで、ゴクンッと言葉を飲み込んだシンナは、恐らく今自分が言おうとしたことを聞いてしまったら、人間も魔物も平等に恐れている、この魔軍が誇る二大将軍の1人があっさりと卒倒するだろうと容易に予想できて、笑いたくて笑いたくて仕方なかった。
 だが、それができないのは目の前にいる、何処か遠い異世界からワケも判らないまま召喚されてしまった少年が、あまりにも真摯な表情で訴えかけているから、その想いを笑うようで嫌になったのだ。

「いや、そんなのはどうでもいいんだ!ねえ、シンナ!シューって何が好きなんだろう??」

『シューの場合はねン。食べられるものなら何でも好きよン。そうだン!あの時、光太郎が言っていた【かれーらいす】ってのを作ってあげればいいのよン』

「カレーか…食べ物もいいよね。でも、俺はここの材料ってまだよく判らなくて…」

『材料ン?』

 ふと、シンナの顔色が曇った。
 それもそのはずだ、光太郎がこの闇の国に来てからと言うもの、俄然張り切るベノムが腕によりをかけてご馳走を作るけれど、その厨房にはたとえ魔軍の副将と言えども立ち入ることは禁じられている。言わば、ベノムの聖域である神聖な厨房に、ましてや人間の少年が入れるはずもないのだ。
 迂闊なことを言ってしまったとシンナが反省する傍らで、残念そうに溜め息を吐く光太郎を見ていると、まさか『人間殺しを何よりも楽しんでるわよン』などとは、到底冗談でもアドバイスとしては言えないだろうと、泣く子も恐れる魔軍の副将は人間の少年の純粋さを恐れて息を呑んだ。

「…何か、心が休まるものがあればいいんだけど」

『…』

 そんなものがこの闇の国の何処にあると言うのだろうか。
 神々でさえ見捨ててしまった暗黒の世界に、希望などはないのだ。
 シンナがソッと溜め息を吐いたその時、ふと、何かを決意したように俯いていた光太郎が顔を上げた。
 一瞬、嫌な予感がしたシンナに、光太郎は照れたようにえへへへっと笑うのだ。

「この闇の国には花は咲いていないんだよね?」

『花ン?花なんか見つけてどうするのン??』

 光太郎の屈託のない笑顔に興味を惹かれたのか、シンナは少しだけ笑いながら小首を傾げて見せた。

「この殺風景なお城を飾りたいんだよね。綺麗なものを見たらさ、偏屈なシューももう少し、笑ってくれるんじゃないかなって思って」

 ニコッと笑う光太郎に、シンナの頬が引き攣ったのは言うまでもない。
 あのシューが、花を見たぐらいでヘラヘラ笑うのなら、人間たちはそれほど苦戦もせずに済むんだろうけどと、まさかシンナが思っているなどとは露知らずの光太郎は、この瘴気に満ち溢れた闇の国の何処かに、必死に咲いている花がないかと首を傾げているのだ。

『きっと、こんな闇の国ですものン。花なんて咲いていないと思うわン。可哀想だけどン』

 シンナが少しだけ眉を顰めて、それから申し訳なさそうに目線を伏せてしまった。
 その顔は、シューが花の所在を言った時に見せた、彼の表情によく似ていた。

(どうして…)

 光太郎は首を傾げてしまう。
 どうして闇の国の住人たちは、花に対してそんなに寂しそうな顔をするんだろう?
 光太郎はシューやシンナが見せる、一種の躊躇いのような一抹の寂しさのような、そのなんとも言えない表情の意味が判らなくて困惑していた。
 この闇の国の住人にとって【花】は禁句なのだろうか…それならば、光太郎はもう二度と花に関してのことを、せめて闇の国の住人たちの前では話題にしないでおこうと決意するのだった。
 そのくせ、この闇の国に在って唯一の天真爛漫で無鉄砲な人間の少年は、どうやら自力で【花探し】を始めることにしたようだ。

ψ

『どーも、胡散臭ぇ…』

 魔獣の鋭敏な嗅覚で何かを嗅ぎ付けたのか、日頃はそんなこともしやしないと言うのに、その日のシューは鼻をひくつかせながら人間の少年をヒョイッと腰ベルトを掴んで持ち上げると、クンクンッと匂いを嗅いだりするのだ。
 それでなくても、シューやシンナに内緒で【花探し】なる破天荒な冒険を目論んでいる光太郎にしてみたら、その全てにハラハラと内心で冷や汗を掻かざるを得ないのだが、勿論、闇の国の将軍がその大それた陰謀に気付くはずもない。

「な、何が??俺、別に何も隠してないよッ」

 エヘッと笑って、胡乱な目付きで覗き込んでくる、相変わらず鈍感なシューの顔を覗き込みながら光太郎は笑ったが、それで許してくれるほど魔獣の将軍は鈍感だが優しくはない。

『別に…何か隠してやがる。なんてこた、これっぽっちも言っちゃいねぇけどな、俺は』

「あう!」

 あからさまに怪しげに細められた黄金色の双眸で軽く睨まれただけで、危うくゲロしかけた光太郎はだが、一度決意したことは絶対に貫いてやると言う意志の強さでもって、滑りそうになる口にチャックした。

「だってさ!シューが胡散臭いとか言うからついつい、俺も言葉に力が入っちゃったんだよ。シューには、なんにもないってちゃんと信じて欲しいからね」

『いーや、胡散臭ぇ!お前の場合は「何もない」って時が一番胡散臭ぇーんだよッ!!』

 一生懸命、なんでもないことのように取り繕って笑う光太郎に、電光石火、まるで雷でも落ちたような勢いで魔軍の大将は吠え立てた。

「あうぅ~」

 思わず首を竦める光太郎の背後の窓に、シューの怒りを具現化するような稲光が閃光を放って天空を貫いた。
 両手を合わせて拝むように魔獣を半泣きで見つめる光太郎と、そんな人間の少年を胡乱げに睨みつけながらも何故か丸いチャーミングな耳を欹てるようにして呆れているシューの背後で、思わず…っと言った感じの苦笑が漏れた。

『あーん?誰だよ??』

 それでなくても、面倒で厄介な者を押し付けられて苛々しているシューは、できれば問答無用で無闇矢鱈に周囲に当り散らしたい気分を、どうやら解消してくれそうな対象が現れたと内心で北叟笑みながら、その哀れな犠牲者を拝んでやろうと振り返った。
 振り返って…一瞬硬直する。
 硬直したそのワケを、誰でもない、今まで魔獣に睨まれて思い切り怯んでいた人間の少年があっさりと口にしたが、それでも魔将軍は開いた口が塞がらない。
 何故ならそれは…

「あれ?どうしてここにゼインがいるんだ??」

『私がここにいてはおかしいか?』

 いや、普通に有り得ないだろうとシューが額に汗をだらだら浮かべながら、しかし一見しただけでは無表情を装える獣人面のライオンヘッドの魔物は、慌てて光太郎を下ろすと片膝をつく騎士の最敬礼をしながら怖いものなしで向かうところ敵もいないんじゃないかと思える人間の少年の頭部を押さえて平伏させたのだ。

『ま、魔王。このような場所にお出でとは如何いたしましたか??』

 できるだけ動揺を悟られないように片膝をついて顔を上げたシューは、畏れながら口を開いて疑問を問うのだった。
 それも致し方ないことで、何故なら、この回廊はシューでさえ光太郎がいなければ足を踏み入れないだろう、下層階級の魔物たちが徘徊する場所なのだ。その様なところに、どうして魔族の最高位にいる高貴な身分の魔王ゼインがいるのか、シューでなくても聞きたいぐらいだった。

『…判らぬのか?』

 ふと、ゼインがクスッと笑う。
 何かを含んだように紫紺の双眸を細める主に、その忠実な家臣であるシューは唐突にハッと目を瞠った。

『おお…では本日から?』

『左様』

 軽く閉じた双眸を開いて肯定する魔王に、シューはそうかと、ふと目線を落としてしまう。その傍らで、この回廊がシューや魔王の来るべき場所ではないことを、既に理解している光太郎は、そのことよりも何をこの魔族の2人が話しているのか、そちらの方が気になって仕方なさそうだ。

『そうか…もうそんな時期か』

 思わず…と言った感じでポロッと漏れた言葉を、だが魔王は気にした様子もなく、大柄な体躯を畏まらせている将軍の傍らで、不思議そうに様子を窺っている人間の少年に目線を移して小首を傾げて見せた。
 まるでブリザードのように冷たいはずの魔王の声音は、それでもどこか、今日は落ち着いているように思うのが気のせいでないのなら、どうやら魔王の機嫌は良い方なのだろう。
 そんなことを光太郎が考えていると、魔王は青褪めた顔の中で、唯一ゾクッとするほど生々しい印象を与える口唇をゆっくりと笑みに模って、怯えることもしない果敢な光太郎に言うのだ。

『何やらサッパリだ…と言いたげな顔付きであるな。だが、其方が思い煩うほどのことでもあるまいよ』

 魔王の淡々とした口調にシューがハッと気付くよりも先に、向こう見ずな人間の少年は、困惑でもしたかのように眉を顰めると唇を尖らせた。

「でも!俺もこの闇の城に住んでいる以上は魔族の端くれなんだろ?何のことかぐらい、知る権利があると思うんだけどッ」

 ムッとする光太郎に、シューは内心で溜め息を吐いていた。
 たとえば、その話が下級の魔物どもが知らないとする。そうすると、魔族でもないくせに魔族の端くれなどと嘯いている人間如きが知る権利などあるはずもないのだが…と、シューがうんざりしたように首を竦めていると、ほんの僅かに面食らったような魔王は、次いで、何がおかしかったのか握った拳の人差し指の第一間接に唇を押し当てて、珍しいことにクスクスと笑ったのだ。

「!」

 そんなゼインを見たことのなかった光太郎は、思わずパクパクと言葉にできない衝撃をやり過ごそうとでもするかのように、シューの服の裾を掴んで見上げている。もちろん、魔将軍は相手もしていない。

『矢張り、其方は興味深い。だが、委細はそれ、其方の守り役に聞くが良かろうよ』

 今日はとても機嫌がいいのか、魔王は楽しげにチラリとシューを見下ろした。
 魔王と言う地位もなく、何よりも絶対的な信頼がないのであれば、できればシューは相変わらず人の悪い魔王を殴りたくて仕方なかった。いや、魔族の首領であるのだから、確かに人が良くても大変困るのだが、この闇の国を統べる主は些か悪戯っぽいところがあると、シューはやれやれと溜め息を吐いた。
 溜め息を吐いて見下ろせば、さっきまではあれほど驚いていた光太郎が、好奇心に双眸をキラキラさせながら見上げていたから、さらに魔将軍はこの場所から逃げ出したくなっていた。
 そんな2人を交互に見遣っていた魔王は、御付の衛兵を引き連れて、悪戯っぽく笑いながら片手を挙げて別れを告げると足音もさせずに行ってしまう。
 蝋燭の頼りない灯火に浮かび上がる回廊に、魔王の姿は良く似合っていたが、それでも違和感は拭い去れずに光太郎は握り締めていたシューの服をグイグイッと引っ張ると首を傾げて見せたのだ。

「…シュー、どうしてゼインはこんなところにいたんだろう?それに、あの意味深な会話ってなんだったんだい!?」

『俺は知らね』

 立ち上がってフンッと外方向く魔将軍の態度の豹変っぷりに、光太郎はハンマーででも頭を殴られたかのようなショックを受けたのか、却って何が何でも聞き出してやると好奇心に油が注がれたようだった。

「知らないワケないよ!ゼインが聞けって言ったんだ。あ、それとも何?シューはゼインが直々に言った指示に逆らうってワケ??」

『…お前さぁ、結構、闇の城の住人どもに染まってないか?』

「え!?それホント!!?うは~、嬉しいなぁ…って、騙されないからな!もう、そんな時期かって言ってたじゃないかッ、今日は何があるの??」

 騙せなかったかと、浅はかなシューはチッと舌打ちしながら目線を泳がせたが、その胸元に噛り付くように両手を伸ばした光太郎は、思い切り垂れている鬣を引っ張ってギョッとする獅子面の顔を覗き込で唇を尖らせた。

「教えてよ、シュー!じゃなかったら、この城中のあちこちを探検してでも探るんだからな!!」

『…それはちょっと勘弁。その後を追っかける俺の身にもなれ』

「じゃあ、教えるべきだよ♪」

 小悪魔…とまでいかなくても、十分迫力のある笑みをニッコリ浮かべる光太郎を見下ろして、シューはやれやれと溜め息を吐いて首を左右に振るのだった。

ψ

『今日から3日間、一年に一度、魔王の計らいで太陽が顔を出すんだ』

「…え?太陽??」

『ああ、そうだ』

 フーッと大きな溜め息を吐いたシューは、噛り付くように掴んでいた光太郎の両手を、ゆっくりと鬣から外させると、やれやれと首を左右に振りながらポツポツと話し始めたのだ。

『この世界には太陽がねーだろ?それでも、以前は晴天だった日もあるんだぜ』

 太陽を懐かしむように黄金色の双眸を細めて見下ろしてくるシューに、太陽など当たり前のように見上げていた光太郎は、まるでシューの黄金の鬣や顔なんかが、お日様そのもののように思えてソッと眉を寄せてしまった。
 何故、それほどまでに太陽の存在を求めているのか…闇を愛する眷族なのに、太陽を求めて恋しがるなんて、それはおかしいんじゃないかと思っていたのだ。

『だが、魔王は太陽を永遠に奪い去ることにした。人間にとって太陽は、なくてはならない身体の一部のようなもんだったからな』

「…えーっと、それは朝と夜を分けるため、身体的なものだからだよね?」

『いや、違うだろ?太陽は作物を育て、魚を育み、森林を息衝かせるのに欠かせねーんだ。云わば人間にとっての生命そのものってヤツだな。なんせ人間はそれまで、ずっと自然と共生してきたワケだから、それこそ、太陽を奪われた後の人間どもなんてのは見ちゃいられなかったってのが本音だ』

「じゃあ…太陽はずっとなくなっている方が魔族にとってはいいことなんじゃないのかな?なのに、どうして?」

 訝しそうに眉を顰めて首を傾げる光太郎に、シューは黄金色の瞳をクルリとさせてから、仕方なさそうに笑ったのだ。

『太陽は…俺たちにだって必要なんだぜ?』

「え…?」

 キョトンッとする光太郎に、シューは肩を竦めてやれやれと首を回して肩凝りを解すような仕草をして見せた。

『お前はさ、俺たちを何だと思ってるんだ?』

「え!?…えーっと、魔物だけど」

『だろうな』

 頷いて、シューは首を左右に振るのだ。

『だが、根本的には違うんだ。もともと、森で生きていた獣人であったり、動物だったりするんだよ。だから、本当は俺たちは、人間となんら変わるところなんて何もなかったのさ。自然と共生する…そんな生き物だったんだ』

「…」

 光太郎は言葉もなくシューを見上げていた。
 それまで、常識的には魔物と言えば魔王が創り出したなんちゃらだとか、いつの間にか発生した悪の塊のような生き物だと…信じて疑っていなかったのだ。だからこそ、シューの説明がよく判らなかったのかもしれない。
 いや、判っているのだが、脳が理解できないとでも言うか…

「えっと…だから……」

『太陽が必要ってワケだろ。それで、魔王は一年に3日間だけ、俺たちの為に太陽を戻すってこったな。俺たちはその日のことを【太陽の日】と言って、その日ばかりは人間も魔物も無礼講ってことで戦もしない。なんせその日は、この闇の国にも緑が戻ってくるからな』

「え!?…ってことは、花も??」

『あ?ああ、花も3日間だけは咲く…って、お前』

 ふと、シューが胡乱な目付きになって、頬を高潮させる少年をグイッと睨むようにしてその顔を覗き込むと、牙をむいて軽く威嚇したようだ。

『まさか、あの時言ってたように宝器に飾る花を採りにいこうなんざ…』

「考えてない、考えてないってば!俺だってそんなに馬鹿じゃないよ」

 精一杯の嘘を、矢張りシューは信じていないようだ。疑い深そうな目付きで睨んでいたが、屈めていた上半身を起こして腕を組むと、フンッと外方向きながら言い放ったのだ。

『花を摘みに行くんだったら、俺を連れて行け。1日だけなら、許してやらんことも…ッて、うお!?』

「シュー!ありがとうッッ!!」

 魔将軍の言葉も終わらないうちに、光太郎は飛び上がるようにしてシューの首に抱き付いたのだ。
 それだけ、その信じられない申し出が嬉しかった。

『…やっぱり花を摘みに行く気だったんじゃねぇか。ハァ…太陽が出ている間は、聖なる陽光に弱い下等魔物どもは徘徊できねーし、何より、その3日間は俺たち魔族にとってはお祭り騒ぎだしな。まあそれは人間にも変わりねぇから、色んな意味で無礼講になるってワケなんだが…まあ、いい。1日ぐらいだったら付き合ってやるよ。だから、一人で行こうなんざ思うなよ?』

「うんうん。俺、シューがいてくれたら心強いもん!」

『俺はお前のせいでこれ以上、モノが咽喉を通らなくなるのを精一杯防ぎたいってだけのことさ』

 ギュウッと抱き付いてくる光太郎の華奢な身体をぶら下げたままで、この闇の国に来て初めて見せるシューの、それは不器用な優しさだったのかもしれない。

ψ

 お祭り騒ぎだとシューが言っていたように、確かに、魔王が祭儀の宮で両腕を広げて長い詠唱を始めると、俄かに雷光を閃かせていた曇天が、まるで嘘のように晴れ出すと同時に、俄かに城内が賑やかに活気付き始めたと光太郎は目を白黒させていた。
 今日から3日間、城はまるでお祭り騒ぎのように宴会が催され、遠出の薬草採りに女たちは嬉々として出掛け、これから1年分の食料を調達する為に魔兵たちがそれぞれ弓矢を手にして猟に出掛けるのだ。
 生気を取り戻すのは魔族や人間たちばかりではなく、両種族の身勝手な諍いに巻き込まれて、とんだとばっちりを受けている森や川や海で息衝く生き物たちも、その日は長らく胎に抱えていた子供たちを出産したり、新たに交尾して新しい命を宿したり、木々の葉は息を吹き返したように灰色から緑に衣替えをしたかと思えば、瘴気が漂っていたはずの魔の森が色とりどりの花で覆いつくされ、大地の全てが活気付き始めるのだった。
 闇の国に来て初めて見る日差しに、懐かしさを感じながらも、太陽の尊さのようなものをヒシヒシと感じていた光太郎は、いつも何気なく見上げていた太陽を、その日ばかりは感慨深そうに見守るように見詰めていた。
 何処も彼処もが全て、モノトーンから色を取り戻したように穏やかで美しかった。
 ワクワクしたように城内の窓から見下ろしているその背後で、呆れたような声音で、ちゃっかり外行きの格好…つまり、頭には麦藁帽子、首にはタオルを掛け、手には薬草摘みに出掛ける女たちから借りた花切り鋏を持った光太郎に、声を掛ける者がいた。
 それは…

『驚いたな、光太郎。その出で立ち、四方や本気で花を摘みに行くと申すのではあるまいか?』

「あ、ゼィ!うん、シューが連れて行ってくれるんだよ♪」 

 ウキウキしたように振り替えれば、声の主が呆れたように魔族特有の長い耳を伏せて、微かに眉根を寄せて見下ろしてくる。
 この陽気な晴天の中にあっても、何処か禍々しいほど美しい魔物のゼィは、苛立たしそうに溜め息を吐いては光太郎の背後から疎ましそうに晴れ渡った空を見上げて口を開いた。

『また、なんと物好きな。この闇の国にあって太陽など必要もあるまいに、シューも浮かれておると言うワケか…』

「あははは♪シューは浮かれてなんかいないよ。俺のお目付け役だから勝手な行動をしないように見張っているんだよ」

 背後のゼィにケタケタ笑いながら嬉しさを隠し切れない光太郎が言えば、闇こそが似合う魔性の魔物は呆れたように肩を竦めてしまうのだ。

「あれ?そう言えば、シンナを見ないけど。ゼィと一緒じゃないのか?」

 いつも影のようにシンナに寄り添っているゼィが、珍しく、こんなお祭り騒ぎの場所で一人と言うのも変な話だと思ったのか、訝しそうに眉を顰めて光太郎が首を傾げると、魔将軍の片割れはそれこそうんざりしたように眉間に派手な皺を寄せて見下ろしてくる。
 もちろん、ビビらなかったと言えば嘘になる。

『シンナは今し方、狩猟に出掛けおった』

 忌々しそうに言うのは、きっとゼィも着いていきたかったに違いない。

(そうか。でも、置いてきぼり食らっちゃったんだな)

 ハネッかえりでお転婆なシンナに、振り回されても離れないほどには、ゼィも少なからずあの魔軍の副将にしては儚げな、小柄な少女に恋をしているんだろうと光太郎は少しだけニンマリした。
 どうか、シンナのあの切ない想いがゼィに届けばいいのに…と、思いながら。

『それにしても…』

 ふと、ジーッと光太郎を見下ろしていたゼィが、訝しそうに首を傾げてポツリと呟いた。

「?」

 キョトンッとする光太郎に、魔王の右手と謳われる魔将軍の一人は、どうでもよさそうに首を左右に振ると、相変わらず来た時と同じように唐突に興味が失せてしまったのか、踵を返しながらついでのように言うのだ。

『シューのヤツめ。今年は森に赴くのが些か早いのではあるまいか?大方、3日目にこそ赴くのであろうと思っておったのだがな』

「え?シューはこの時期になると森に行っていたの??」

 思わず、聞き捨てならない台詞に、いつもなら奇妙な威圧感を漂わせたゼィの背中をホッとしたように見送るはずの光太郎が、慌てて漆黒の外套をむんずと掴んで引き留めた。

『うむ…どのような所用でかは知らぬが、シューは【太陽の日】には必ず魔の森に赴いておるぞ。光太郎の件も、恐らくは序でなのであろうよ』

 引き留められたゼィは、それでも別に気分を害したワケではなさそうだったが、面白くもなさそうにそう言ってから、魔の森に赴くための準備をしているシューが来るのを待っている光太郎に、肩を竦めながら別れを告げて行ってしまった。

「…そうだったんだ。あ、だから1日ぐらいならって言ったのか」

 別に、だからと言って花摘みの件がなくなると言うワケでもないのに、光太郎は胸の奥に何か、澱のようなものが降り積もるような錯覚がして眉を顰めた。
 なんにせよ、花摘みに出掛けられるのだから光太郎にしてみれば【太陽の日】様々なのに、何故か浮かれることができない自分が不思議で仕方なかった。

「シューは、いったい魔の森で何をしているんだろう?」

 特に、こんな風に晴れ渡った青空の下で、命の灯火に満ち溢れた、魔の森と呼ぶには申し訳ないほど煌く陽光の森の中で、いったい何をしているのか…

「……意外と、日光浴とかしてるだけだったりして」

 そんなまさか、独りで言って苦笑していると、勇ましい獅子の頭部を持つ魔族に在ってもその力を謳われる魔将軍が、仕方なさそうな表情をして姿を現したから、人間の少年はホッとしたように笑った。
 笑って…良ければ聞きたいと思っていた。
 恐らくは、『人間なんかには関係ねぇ』と一喝で切り捨てられてしまうのだろうが…

『なんだよ、ニヤニヤして…いいか、最初に言っておくが!絶対に俺から離れるんじゃねぇぞッ…つーか、単独行動はご法度だからなッ』

 一抹の不安を抱えたのか、シューは眉間に皺を刻みながら、黄金色の双眸を細めて威嚇するように牙をむいて見せた。
 最近の光太郎は、だからと言ってそれに怯むこともなく、エヘヘッと笑って「うんうん」と頷いて見せるから、却ってシューの心臓を縮み上がらせたりする。しかし、その内心など知る由もない光太郎は、ハラハラしている魔獣の心などお構いなしで、嬉しそうに破顔してシューの大きな掌を掴むのだ。

「ほら、手を繋いだら逸れないだろ?大丈夫、迷子になったりしないから」

 所構わずお構いなしに抱き付いてくる光太郎の存在を疎ましく思っているシューだったが…と言うか、部下の前でも平気で懐かれてしまうと、彼らに将軍としての威厳だとか、シメシと言うものがつかなくなってしまう。
 身分などに囚われる性格ではなかったのだが、これではあまりに自分が滑稽だと思ったのか、シューはそんな無邪気な【魔王の贄】を邪険に振り払うことに決めていたのだ。
 魔王の為に召喚された【魔王の贄】であるはずなのに、驚くほど光太郎はシューに懐いてしまった。
 あろうことか、魔軍の最高位である魔王の信任厚い魔将軍であるシューに、異世界から導かれた【魔王の贄】と言うだけで、何処にでもいそうな平凡な人間の少年如きが、外聞も憚らずに【好き】を連呼した挙句、巨体によじ登って抱き付いてくると言う有様なのだから…シューの忠実な部下たちは、遠巻きにしながらも、そんな微笑ましい2人をソッと、祝福しているなどと言うことにこれっぽっちも気付かない魔将軍は、馬鹿にされているだろうと思い込んで、鬱陶しくて仕方なかったが魔王の命令には逆らえずに傍に置いているが、できれば早く魔王が召してくれればいいのにと心底から思っていた。
 こうしてまた、どうして人間如きと仲良く手など繋がなければならないのか…と、シューが耐え難い葛藤に苛まされながら歯軋りしている傍らで、光太郎はエヘッと笑って見上げている。
 その笑顔を見れば、魔王からくれぐれも…と託された【魔王の贄】を危険に晒すこともできずに、シューは溜め息を吐きながらガックリと項垂れるしかない。

『う!…うぅ~…ッ、クソッ!今日だけだからなッ』

 掴んでいる小さな掌を、折れない程度にギュッと握り締めるシューに、ハッとしたように顔を上げた光太郎は、まるで、見たこともない花が咲き誇るような、鮮烈な笑顔を浮かべたから、朴訥としている魔将軍は胸の辺りがドクンッと跳ね上がるような、奇妙な感覚を覚えてギョッとしてしまう。

「♪」

 嬉しそうにぎゅぅっと握り返す光太郎に、シューは呆気に取られたような顔をして、自慢の鬣からヒョッコリ覗く丸い耳を伏せるようにして、それでも、先ほどの衝撃的な感覚に、未だ胸がドキドキしていることは悟られないように内緒にすることにしたようだ。

(なんだったんだ、俺?…はぁ、光太郎が来てから調子が狂いまくってんなぁ)

 シューの、声に出せない諦めのような感情を、全く気付けない光太郎は嬉しそうに見上げたままで、魔獣の大きな掌を幸せそうに掴んでいた。

ψ

 魔の森には陽射しが溢れていて、光太郎は何故か、それは梅雨明けの夏の陽射しに似ているなぁ…と、どうでもいいことだったが考えていた。
 手を繋いだままで前を行く大柄な魔物、魔族の将軍シューの背中を見詰めながら、光太郎は嬉しそうにエヘヘッと笑っている。その仕草を、気配で感じているシューは、半ばうんざりしながらも、久し振りに見る晴れた空を見上げてしまえば、どうでもいいかと思えるから不思議だなぁと、これまたどうでもいいことだったが考えているようだ。
 それまではけたたましい悲鳴のような声で啼くことしかできなかった森の鳥たちが、まるで誘うように、歌うように囀れば、高い木の枝にちょろちょろと動き回る見たこともない小動物が小首を傾げて、鼻をひくひくとひくつかせている。
 その、あまりにも平和な光景が、本当にこの世界に戦争なんて起こっているんだろうかと、光太郎に思わせていたとしても、それは仕方なかった。
 それほどまでも、森は穏やかで、静かだったのだ。

『くそー…あの場所にだけは連れて行きたかねーんだけどよー』

 大柄な魔獣のシューがブツブツと悪態を吐けば、ポカンと澄んだ大気に穏やかな静寂が広がる森を見渡していた光太郎が首を傾げた。

「あの場所…って、もしかしてシューがいつも行ってるって場所?」

『グハッ!なんでお前がそれを…って、シンナに聞いたのか』

「違うよ!」

 半ば引き摺るようにしてズカズカと歩いていたシューに胡乱な目付きで肩越しに見下ろされても、光太郎は怯まずに慌てて無実の友人を護る為に首を左右に振って否定する。
 が、そんな態度でシューが信じるはずもなく、あのお喋りなディハール族には一度、懇々と説教をしてやらねばいかん!…と、シューが思ったかどうかは別として、そう思い込んでしまった光太郎が慌てて空いている方の手で魔将軍の服を引っ張った。

「違うってば、シュー!…もうね、どうしてシンナがそんなこと教えることができるんだよ?俺なんて、今日!シューから【太陽の日】って聞いたばかりなのに。それからシンナには会ってないよ」

『…あー、そう言やアイツ、魔王の詠唱と同時に弓矢を持って城を飛び出して行ったっけか』

「ほら!」

 やっぱりなぁっと眉を寄せてホッと息を吐く光太郎に、それならば、とシューは訝しそうに首を傾げて人間の少年を見下ろした。

『じゃあ、誰から聞きやがったんだ?』

「…えーっと、誰だっていいだろ?それよりも、どうして隠すんだよ。シューはちょっとさ、秘密主義なところがいけないと思うんだよね。だいたい、すぐに…」

『判った!判ったから、それ以上は何も言うんじゃねぇ。お前の話はうんざりするほど長くなるから正直、勘弁して欲しい』

 うんざりしたように息を吐き出したシューに、光太郎はシメシメとでも思ったのかすぐさまニヤッと笑うと、その大きな腕を胸に抱き締めるようにして魔将軍の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、教えてくれるよね♪」

 エヘッと笑う魔物もビックリの小悪魔に、シューはできれば一発でいいから殴らせて欲しいと、額に血管を浮かべると頬を引き攣らせて笑いながら見下ろした。

『仕方ねぇヤツだなー…俺が【太陽の日】に行ってる場所ってのはな』

「うんうん」

 ワクワクしたようによく晴れた夜空のような双眸を煌かせて見詰めてくる光太郎に、俺の行き先なんか何が面白いんだと、シューは好奇心に頬を上気させている少年を見下ろして、呆れたように軽い溜め息など吐いた…その時。

《シュー様!》

 ふと、声が聞こえたような気がして、光太郎と顔を見合わせていたシューはだが、すぐに声の主に気付いたのか、緊張していた肩の力を抜いて振り返ったのだ。
 【太陽の日】とは言え、全く凶悪な下級魔物がいなくなっている…と言ったワケではないのだから、シューがピリピリと警戒していたとしても仕方のないことだった。

『なんだよ、驚かせるんじゃねー』

《シュー様……ッ!!》

 不意に、まるで大気から滲み出るようにして姿を現したのは、キラキラと陽光を反射させて煌く、薄い衣を幾重にも纏った、煌く黄金の髪が滝のように零れ落ちては華奢な頤を隠しているようなその顔立ちはとても高貴で、見ている光太郎をポカンッと間抜けな顔にするには充分だった。
 だが、その神々しいまでに美しい満面の笑みを浮かべていた精霊は、そんな間抜け顔の光太郎に酷く怯えたように狼狽え、彼を連れて来た魔獣の将軍を非難するように眉を顰めて睨み付けるのだ。

《シュー様…どうして貴方が人間を?》

『んあ!?…あー、コイツはその、魔王の客人だ』

《魔王様の…?》

 訝しそうに、見事な柳眉をソッと顰めた美しい精霊は、困惑したように惚けている光太郎を見下ろした。
 だが。

「シュー、この人は誰?」

 ハッと、唐突に我に返った光太郎は、どうやらその美しい精霊がシューにとって親密な人物のようだと察知したのか、嫉妬とも、不安とも言えぬ綯い交ぜした表情で魔将軍の顔を見上げながら、掴んだ腕を軽く引っ張ったのだ。
 些か賑わしい少年ではあるが、それほど害があるワケではないのだから用心する必要はないと、この花のようにたおやかで麗しい精霊に説いたところで、人間を何よりも憎んでいる精霊には詮無きことだと知っているから、シューは困ったように丸いチャーミングな耳を伏せるようにして光太郎を見下ろした。
 黄金の双眸は、困惑したように細められている。
 だからこそ、光太郎は途端にハッとするのだ。
 シューを、困らせてしまう…それは、光太郎が尤も嫌っている行為なのに。

(それでも聞きたい…と思うのは、俺の我侭だから。きっと、シューは俺を嫌うんだろうな)

たとえシューを困らせたとしても、光太郎は中空に浮いている儚げに美しい精霊との関係を知りたいと切実に思っている。

『コイツは…まあ、俺の古い知り合いだ』

《シュー様はわたくしの命の恩人でございますのよ》

 ふわりふわりと漂うように薄衣を靡かせてソッと小首を傾げる精霊の、その声音はほんの少しだけでも、堅いんだなぁ…と、光太郎は眉を顰めていた。
 命の恩人…それはずしりと胸に圧し掛かるような重い言葉だったから、光太郎はほんの少し動揺して、困ったなーとでも言いたそうな、魔将軍の顔を見上げていた。
 久し振りに見上げる真っ青な空と眩しいぐらいの太陽の下で、不似合いで然るべきはずの魔獣の面立ちは、百獣の王だと謳わしめるほど毅然と見据えた双眸が力強くて、太陽の下であっても、シューに不幸な翳りなど見出せなかった。
 だからこそ、光太郎はそんなシューが好きだった。
 太陽も闇も、矛盾なくシューの中に当たり前のように存在しているのだから。
 光太郎はふと、目線を落としてしまう。
 キラキラと煌びやかな美しい精霊は、ハッとするほど、シューと並んでも違和感がない。
 それはきっと、魔獣であるはずのシューの、その凛とした面立ちに怯みがないからなのだろう。

『命の恩人ってなぁ、大袈裟だぜ』

《本当のことですから…今も、昔も》

 寄り添うように舞い降りた美しい精霊は、まるで空気のようなさり気なさで、仄かに発光する指先を差し伸べてシューのゴツゴツした大きな掌に触れたのだ。
 人から、たとえば光太郎が触れた時ですら、邪険に振り払うような魔将軍のその態度は、きっと他人に触られるのが嫌だからに違いないと、自分に言い聞かせていた光太郎の儚い希望を打ち砕くように、精霊の指先を振り払うことをしないシューは、どうも精霊が触れていることすら気にしてもいないようだ。

(そ、そうだよな…俺はシューたちが憎んでいる人間なんだから。気に入って貰えるなんて、思っては駄目なんだ)

 ジワリ…ッと、鼻の奥がツキンと痛んで、思わず目尻に盛り上がってしまう涙が溢れそうになった光太郎は、唐突に黙り込んでしまった人間の少年を、訝しそうに覗き込む魔獣の将軍と麗しい精霊を見上げると、まるでこの世界を包み込んでいる太陽そのもののような、あまりにも明るい表情でニコッと笑ったのだ。 

「なんだ!命の恩人っていったら凄いことだよ、シュー。だったらきっと、積もる話もあるんだろ?俺、1人で花を探してくるから、その間、ゆっくり話してていいよ♪」

『な!冗談じゃねぇッ。お前を独りにさせられるかってんだ!』

「独りでも大丈夫。だって、太陽が沈むまでは低級魔物は襲ってこれない…って、ゼインも言ってたからね」

 険悪な形相でグワッと牙をむく獅子面の魔物に、光太郎は顔を覗き込まれたままで屈託なくニコッと笑った。
 その言葉は嘘だったけど、どうもシューにはピンッとくるものがあったのか、光太郎の言葉をそのまま受け取ったようだった。

『ったく、また魔王のお赦しはとってある…って言うつもりなんだな?』

「うん、その通り♪」

 引き止めて欲しい…いや、せめて。
 一緒に花を探したい。
 でも。

(あの精霊はきっと、シューのことを好きなんだ)

 光太郎は噛み締めたくなる唇をソッと歪めるようにして、素直になれない自分を自重しながら笑っていた。
 悲しい表情に気付けない鈍感な獅子面の魔物の傍らで、縋るように指先を絡める精霊が無表情のままそんな光太郎を見下ろしている。
 その鋭い双眸から少しでも早く逃げ出したくて、光太郎は半ば強引に、自らが掴んでいた指先を振り払っていた。いつの間にか、シューが握り返していた温かな掌の不在に、心許無い不安を覚えていたとしても、それでも光太郎は、太陽に似た花が咲いたような笑顔を浮かべたままで、やれやれと溜め息を吐きながらも腕を組んで不安そうにしている魔将軍に手を振って短い間の別れを告げたのだ。
 一分でも一秒でも早く、あの2人の見えないところ、ほんの少しでも遠くへ行きたいと思いながら。

ψ

 シューと別れてトボトボと歩いているうちに、光太郎はほんの少しだけ元気を取り戻していた。
 と、言うのも。
 結局、嫌がっていたシューに無理に頼み込んだのは自分だし、彼が隠したいと思っていた真実を目の当たりにしたからと言って、それに傷付いてしまうのはお門違いなのではないか…と、思い始めていたからだ。

「それに、命の恩人なら、なおさらシューのことを好きになっても仕方ないよね。あんな態度を取ってしまって、俺、なんだか悪いことしちゃったなぁ」

 相変わらず、お人好しを絵に描いたような光太郎が、良く晴れた青空に精一杯、光合成しようと枝を伸ばした木々の隙間からチラチラと光る木漏れ日の中を歩いていると、ふと、そんな少年の背中に呆れたような溜め息が零れた。

「?」

 不思議に思って足を止めた光太郎は、溜め息に釣られるようにして振り返って、次いで驚いたように目をまん丸にした。
 視線の先に立っていたのは…

「シンナ!」

 ゼィの話では空が晴れ渡る頃から弓矢を持って飛び出して行ったらしい元気なディハールの勇敢な副将は、キラキラと光る木漏れ日を全身に浴びて、不貞腐れたような表情には珍しく、可憐な彩りを添えていた。
 その、ドキッとするほど女らしい相貌に、見慣れていたあどけなさを見つけることができなくて、名前を呼んでみたものの、その後の二の句が告げられないでいる光太郎に、シンナらしきその人物は呆れたように溜め息を吐いた。

《ゼルディアスに気を遣うなんてどうかしてるんじゃない?見たとこ、アンタもシュー将軍を好きなんでしょ》

 彼女は可憐な頬にサラリとした髪を散らし、小悪魔ちっくな釣り上がり気味の勝気な双眸で軽く睨むと、馬鹿にしたように大袈裟に溜め息など吐いて腕を組んだ。
 豊満な胸元が盛り上がり、それでなくてもお年頃の光太郎には目のやり場に困ってしまう。
 シンナは…こんなに色っぽい身体をしていただろうか?

「…」

 まるで、顔だけは良く知っている知人なのに、身体も雰囲気もまるで別人のようになってしまった目の前の良く知っているはずなのにまるで知らない人のような少女に、光太郎は何故か急速な焦燥感を覚えて胸の辺りをギュッと掴みながらソッと眉を顰めると小首を傾げていた。 

《アイツ、シュー将軍のこと大好きなんだよね。一年に一度だけ逢える今日を楽しみにしているのに…馬鹿みたい。どうせ精霊は誰とも添い遂げることなんかできないのにさッ!》

 シンナの顔をした少女は、まるで憎らしそうに自らの背後を肩越しに睨みつけて、それから、戸惑っているように立ち尽くしている光太郎に気付くと、組んでいた腕を解いて腰に当てて、スタスタと近付きながらその顔に人差し指の先端を突きつける勢いで詰め寄るのだ。

《そもそもさぁ、シュー将軍が悪いのよ!煮え切らない態度ってチョームカつくんだよねッ。アンタもシュー将軍のことが好きなら、さっさと掻っ攫っちゃいなよ。じゃないと、ゼルディアスは本気なんだからねッ》

「え?え??」

 ぐにっと鼻の頭を押し上げられて、それこそ、まるで青天の霹靂にでも遭遇したかのように目を白黒させる光太郎に、少女は唐突に何かに気付いたのか、ハッとしたように両手を降参でもするように挙げると、ケラケラと笑いながら言ったのだ。

《アッハ!ごめん、ごめん!突然こんなこと言われちゃったら、正直ワケわっかんないよねー》

「え、えーっと…シンナ、じゃないよね?」

《うん》

 少女はクスッと笑うと、小首を傾げるようにして肩を竦めて見せた。
 サラリとした金の髪が、頬にハラハラと散って…矢張りこの少女は、光太郎が良く知る、あの元気いっぱいのシンナではないのだ。
 シンナがもし、もっと女の子っぽい少女だったとしたら、こんな風に大人の魅力を持っているんだろうなぁと、光太郎はどうでもいいことなのにそんなことを考えてしまった。

《魔軍の副将さまのお顔を借りてるだけ♪あたしはニモカ。ゼルディアスと同じ精霊よ》

「顔を借りる…って、良く判らないんだけど。俺は光太郎って言うんだ。その、人間なんだけど…」

《あはは!人間なんて見れば判るわよ。でも安心して、あたしはゼルディアスのような人間嫌いじゃないから》

 ニモカと名乗った精霊は、太陽のように陽気に笑って肩を竦めると、わざとらしくコホンと咳払いなどした。

《えーっと、初対面なのに失礼なこと言っちゃってごめんなさい。花を探してるんでしょ?》

 素っ気無い口調は、どうやら照れ隠しのようだ。

《取って置きの場所を知ってるんだよね。どう?一緒に来る??》

「いいの??」

 パアッと嬉しそうに笑う光太郎に、ニモカは勿論だとでも言うように頷いて見せた。 ふんわりとした薄い絹のヴェールは風を孕んでニモカの小柄な身体を包んでいたが、何処か物寂しげな表情を、光太郎はいつか何処かで見たことがあると思っていた。
 どこで見たのか思い出せなかったが、その表情は陽気な口調とは裏腹に、物寂しげで儚くて、少しでも気を緩めたら消えてしまいそうなほど脆そうだった。
 思い出せない気持ちが、光太郎に一抹の焦燥感を覚えさせていた。