Level.10  -冷血野郎にご用心-

 まず始め、インターフォンで少しだけ驚いたような声を出した甲斐は、玄関のドアを開けて、飛び込むように入って来た俺を条件反射で抱きとめながらさらに驚いたような顔をした。
 声が出なくて、普通ならすぐに突き飛ばすくせに、甲斐はそうしなかった。
 背後で静かにドアが閉まって、オートロックのドアはカチャリッと鍵を下ろした。
 全くの密室で、俺は泣きたくなるほど大好きな甲斐の背中に伸ばした両腕で、その温かな身体を抱き締めた。もう離れるもんか、絶対だ!

「…身体は、辛くないの?」

 的外れな言葉が漸く、よく響く玄関の壁に反響して床に零れ落ちた。

「甲斐に会えたら、身体なんてなんともない」

 それに答えてギュッと抱き付くと、甲斐は最初、躊躇っているようだった。
 何が起こったのか、そのパソコンみたいに正確な答えをはじき出す頭脳で考えているみたいだ。
 それから、唐突にハッとしたんだろう。
 慌てたように俺から身体を引き離したんだ。

「何をしに来たんだい?」

 まるで冷たい声音は取り繕うように響いて、心の秘密に気付いてしまった俺は、ああ、なんでもっと早くこんな簡単なことに気付かなかったんだろうと後悔した。
 だってさ、ほら。こんなに甲斐の冷たい声の動揺が判るんだ。
 一瞬見せた、幻のような真実の姿が、俺に鮮烈な衝撃を与えたのは確かだ。
 甲斐はきっと、俺のことが好きなんだろう。
 でもな、お前よりも100倍も好きなんだぜ、俺は。

「忘れ物を取りに来たんだ」

「忘れ物?ふぅん、いいよ。上がりなよ」

 俺の言葉を疑うような表情で聞いていた甲斐は、それでも肩を竦めると部屋に入れてくれたんだ。
 まあ、疑うのも仕方ないか。俺がこの部屋を出た後、コイツはさっさと掃除したに違いないからな。忘れ物があったら目障りだ、きっとそう考えていたに違いない。
 あう、そう考えるのはまだ辛いな、俺。
 自分で落ち込みそうになってハッと思い直して、あの時は酷く辛くて泣きそうになりながら後にしたフローリングの部屋に腰を下ろした。

「…ッ」

 それでも身体は限界なのか、悲鳴を上げるように軋んで声が出そうになった。

「本当は辛いんじゃないのかい?わざわざすぐに来なくても、明後日学校で言ってくれればいいのに」

 面倒臭そうにそう言って、甲斐は青いグラスに冷たいコーラを入れて持ってきた。
 熱いお茶もいいけど、熱を持った身体を冷やすように気を遣ってくれたんだろう。こんな風に、ちょっとした優しさに気付かなかったなんて、ホント、俺はいったい何をしていたんだ!
 甲斐は、俺が熱を出していることに気付いたんだろう。

「それで?忘れ物はなに?」

「…甲斐」

「え?」

 コーラの入ったグラスの中で、犇めき合った氷が窮屈そうにカランッと小気味良い音を立てた。
 甲斐は訝しそうに眉を寄せて、その綺麗な顔で、俺が何を言いたいのかを見極めようとしているみたいだ。俺は緊張で渇いた唇を何度か舐めて湿らせながら、握っていたグラスを床に置いて立っている甲斐を見上げたんだ。

「俺、甲斐を忘れたんだ」

「…笑えない冗談は嫌いだよ。何をしに来たって?」

 不機嫌そうに俺を見下ろして腕を組む甲斐を見上げて、いつもは怯んでばかりいる俺はニッと笑って見せた。

「冗談じゃない。俺は甲斐を取り戻しに来たんだ」

「僕を?そんな傷付いた身体で?」

 クスッと笑った。
 でも、その両目は笑っていない。
 きっと、動揺してるんだろう。判らないけど、俺はなんとなくそう思っていたんだ。

「お前は俺じゃないと駄目なんだ」

「…やれやれ」

 不意に甲斐は溜め息をついて首を左右に振った。
 その一連の動作をドキドキしながら見守る俺を、甲斐は呆れたような、酷く冷めた目で見下ろしてくるんだ。

「たいした自信だね。でも知ってる?僕はね、そんな台詞、何人からも聞いてるんだよ。うんざりするほどね」

「でも…ソイツらはお前を見ていなかったじゃねぇか。俺も人のことは言えないんだけど、でも、俺は気付いたから」

 恋心にも、お前のその冷めた目の奥で動揺に揺れてる激情の欠片にも。
 好きだよ、甲斐。
 気持ちってのは不思議だよな、気付いちまうともう止められなくなるんだ。

「何に気付いたの?」

 甲斐はまるで馬鹿にしたように笑いながら、それでも興味を示したように俺に近付いてきて顎を掴んだ。クイッと仰向けながら、興味深そうな面白そうな目をして、ドキドキする俺を覗き込んでくる。

「お前の恋心だよ」

 ニコッと笑ったら、甲斐は面食らったような顔をして、それでもクスクスと楽しそうに笑いながら俺の前で屈み込んだ。

「全く…君は本当に面白い。予想外の行動ばかりして…だからかな?手放す時になって、急に惜しくなるんだ」

 急に真面目な顔をして、甲斐は唇を舐めた。
 もしかしたら、コイツも緊張してるんだろうか?
 珍しいな、人を馬鹿にしてばかりいるお前が、緊張するなんて…それって、俺のせい?だったら、すごく嬉しいな。
 俺を、やっと個人として確認したってことじゃねーか。
 その他大勢から、ちょっとした格上げだ。

「惜しいんだろ?だったら、モノは験しにもう少し傍に置いてろよ」

「だったら、結城くん。ずっと僕の傍で言い続けるつもりなのかい?」

 クスッと鼻先で笑うだけで、まるで無駄なのに、とでも思ってるみたいだ。

「うん。ずっと言うよ。俺は甲斐が好きだよ。甲斐も俺が好きだってさ」

「ヘンな人だね、君って」

「ずっと傍にいて気付かなかったのか?」

 俺だって甲斐のことは言えないんだけど…

「気付かなかったよ。ってことは、このまま傍にいても同じじゃないのかい?」

「気付いただろ?今、気付いたじゃん。少しずつでいいんだ。俺を見てくれたら…」

「冗談じゃないよ」

 不意に馬鹿にしたように掴んでいた顎をきつく握って、甲斐は苦しそうに眉を寄せた俺の顔を冷めた双眸で覗き込みながら冷たく言い放ったんだ。
 ドキッとしたけど、そんなことぐらいで諦めるもんか。
 俺はお前が好きなんだ。
 いつもなら怯んでいるけど、俺は甲斐から目を逸らさなかった。
 ジッと見つめていたら、マジマジと覗き込んでいた甲斐が、唐突にキスしてきたんだ。
 ビックリしたけど、俺はその口付けを素直に受け入れた。嫌がることなんて何もない。嬉しい誤算に甲斐の服を掴んで引き寄せるようにしながら、俺は目を閉じた。
 甲斐は閉じていなかったけど、でも、俺は閉じた。
 いいんだ、どんなことだって受け入れてみせるから、試したいだけ試すといい。
 俺はけっこう、チャレンジャーなんだぜ?

「…って思ったんだけどな。いいよ、傍にいるといい。でも、僕は君を見ないよ。それでも僕を振り向かせるだけの自信があるなら、ずっと僕の傍にいるといい」

 唇を離して、俺の唇を微かに舐めた甲斐はそう言った。
 よく感情を窺わせない表情だったけど、俺は嬉しくてニコッと笑ったんだ。

「覚悟してろよ、甲斐。絶対に振り向かせてみせるからな!」

「それは楽しみだ」

 冷たく笑って、もう一度キスしてきた。
 どんな意味が含まれてるのかよく判らないけど、俺は舌を受け入れながらその口付けに身を任せていた。
 まずは第1歩を踏み出したってワケだ。