Level.5  -冷血野郎にご用心-

 その日、俺はウキウキしながら甲斐の後を追ってヤツの暮らすマンションに向かっていた。
 何度もコッソリ来ては躊躇して、溜め息を吐いて帰った道を甲斐と連れ立って歩けるなんて…
 これは夢じゃないだろうな?
 良いところで唐突に目が覚めて、枕を濡らしてもう一度ギュッと目を閉じるのなんて絶対に嫌だぞ、俺は!経験あるからな、悔しいことに。
 今日の俺はボロボロだった…らしい。
 授業中でもボーッとして、数学の田宮に睨まれてもヘラヘラ笑っていた俺を、クラスメイトの宮下は気味が悪そうに眺めては退いていたっけ。
 ヘンだよとあっさり言いやがって、アイツ、一発だけ殴っておいた。
 ヘン…か。
 いいんだよ、それでも。
 これが夢じゃないんだと判るのなら、両頬を洗濯バサミ5個で挟まれても構わないんだ。んで、それを同時に引っ張って、無理に外されたって笑ってるだろう。
 痛みを感じるのならオッケーだ!

「気持ち悪いねぇ。ニヤニヤして…僕のマンションに来ることがそんなに嬉しいのかい?」

 肩越しに振り返って呆れたように呟く甲斐の口許は、微かだけど笑っていた。
 暫くそうして、俺の様子を窺っていたんだろう。
 う…悪趣味だぞ。

「う、うるせーな、仕方なく!行ってやってるんだ」

「ふーん?」

 クスッと笑う。
 その顔がすごく好きだと思うんだ。
 肩を竦めてもう前を向いてしまった甲斐の背中を眺めながら、ムズムズと、口許がまただらしなく緩んでしまう。
 間もなく見えてきた、夕暮れの中でも悠然と佇む瀟洒なマンションを見上げながら、俺は、確かに幸福を噛み締めていた。甲斐と一緒にいられるってだけでも嬉しいけど、あんなことがあったから家で会うのも引け目を感じていたんだ。それでも会えるのならそれはそれで良かったけど…今日は甲斐の家に行けるんだ!
 ああ、マジで嬉しい。
 甲斐は無言でオートロックを外し、中に入ってエントランスホールを抜けてエレベーターに乗り込むと、階数のボタンを押して、そして突然俺を抱き締めてきたんだ。ギュッと、驚くほど力強く。
 いつもは気が向いたように腕を引っ張ってそのままエッチに傾れ込むか、キスだけで終って抱きしめてもくれないのに…こんなチャンスを逃す手はねぇッ!
 俺は躊躇わずに甲斐の背中に腕を回した。
 本当は、途中で誰かが乗り込んでくるんじゃないかとドキドキしたけど、構うもんか!

「…あっ」

 不意に甲斐のヤツは俺の首筋に口付けてきたんだ。
 グイッと押されて磨き上げられたエレベーターの壁に押しつけられたまま、貪るようにキスをした。俺は縋りつくように甲斐の背中を必死で掴んで、まるで溺れている奴のように空気を求めるみたいに甲斐のキスにのめり込んでいた。
 チンッ…と音を響かせて、甲斐の押した最上階から3番目の階数で止まったエレベーターは静かに扉を開いたけど、甲斐はキスを止めようとはしなくて…でも、漸く離れた唇はもう一度俺の首筋に吸いついて、痕を残すつもりで吸い上げた。
 ゾクゾクする…嬉しい。
 マジで、嬉しい!
 どうして、今日の甲斐はこんなに優しいんだろう?
 俺には、そっちの方が心配になったんだ。
 そう、唐突に俺の中で不安の雲が膨れ上がってきた。
 甲斐の縁なし眼鏡の感触が肌にときおり触れてドキッとするけど、嬉しいけど…なんだろう、この不安は。
 嫌だ…本当に嫌だ。

「甲斐…俺…」

「しー」

 眼鏡の奥で濡れたように煌く双眸を悪戯っぽく細めた甲斐は、口許に小さな笑みを浮かべて言いかけた俺の口許に人差し指を押しつけてきた。
 普通のヤツがこんな仕草をすれば躊躇いなく殴りつけて、鳥肌を立てた身体を抱き締めながら逃げ出していただろうけど、甲斐がやればなんだって様になる。
 うっとりと見惚れる俺を複雑な表情で笑った甲斐は、そうやってエヘラ~ッと笑う俺の腕を引いてエレベーターから降りたんだ。向かう先はひとつ。
 いちばん奥の、突き当たりにある好条件のマンションの一室。
 甲斐が暮らす、俺の知らない秘密の部分だ。

□ ■ □ ■ □

 甲斐の部屋は驚くほど広くて、そして閑散としていた。
 無機質と言うか、生活臭のない…ベッドだけが寝てるんだと物語ってるだけで、整然と片付いていた。フローリングの床にはチリ1つなくて、なんだか尻がムズムズするような、妙な居心地の悪さがあった。
 そうか、もしかしたら甲斐がこの部屋に誰も連れ込まないのは、この寒さを見せたくないのかもしれない。

「いつも通いの手伝いが来てくれるんだ。汚れはしないが、ウザいことは確かだな。だから寝室には入らないように言い付けてるのさ」

 微かに開いていたドアから覗き見していたことがバレたんだろうかとギクッとして振り返ったら、紅茶の入ったマグカップを二つ持って立っていた甲斐が不貞腐れたように笑っていた。目線を少し下げた顔には、まるでトレードマークのようなあの縁なし眼鏡がなかった。

「何をヘンな顔をしてるんだ?ああ、家ではコンタクトにしてるのさ」

 紅茶にマグカップかよ…と呆れながらも、こんなギャップを見つけうだよられたことにニンマリしながら、苦笑する甲斐の言葉に浮かれあがる。
 ああ…今日は本当にどうしたって言うんだ?
 甲斐の知られざる顔を垣間見られるなんて。

「なあ、本当に何かあったんじゃないのか?なんか、俺…」

 俯く俺の傍らに屈むようにして腰を下ろした甲斐は、俺の顎に繊細そうな指先を掛けてクイッと上向かせる。

「不安なのか?いったい、何がだ」

「甲斐…」

 何がなんて聞くなよ。
 全部だよ。
 不安なんだよ、すごく。
 冷血野郎のくせに…急に優しくなんかするな。

「男同士に不安も何もないだろう。所詮、こんなものはお遊びだ。お前も判ってるんだろう?」

 不意に、それまで柔らかく細めていた双眸を冷たく凍りつかせた甲斐は、まるで憎々しげにそう呟いて、息を飲む俺の顎をグッと強く掴みやがった!

「…ぅ…」

「痛いか?フンッ、男好きには似合いの顔だな」

「何…」

 がなんだか…甲斐のヤツは唐突に酷く怒っているようだ。
 思った以上の力強さに顔を顰める俺を覗き込みながら、甲斐は冷やかに、冷めた双眸で見下ろしながらニッと笑ったんだ。

「首筋のキスマークは誰がつけたんだ?」

「首…?甲斐が…お前がさっき…」

 甲斐はクスッと笑った。
 でもそれは、さっきみたいな優しい笑顔じゃなかった。だからと言って、今までの人を小馬鹿にしてる表情でもなくて、切羽詰ったような、悔しそうな…今までで一度も見たことのない複雑な表情だった。
 俺の好きな…甲斐の顔は、それでも綺麗だった。
 下唇を軽く噛んだ口許には白い歯が覗いていて、細めた眉の下の男らしい双眸も、こんな時なのに惚れ惚れするほどかっこいい。

「甲斐…」

「誰につけられた?」

 もう1度、念を押すように聞いてくる声音は低くて…俺はない知恵を絞りながら首を傾げた。
 舐めるように首筋に口付けたのは甲斐だ。
 軽く吸い上げて、痕を残したのもお前じゃないか…
 他に誰が…

「…あ!」

 唐突に思い出して、俺は見開いた目で甲斐を見て、それから慌てて視線を逸らしたんだ。
 でも、甲斐はそれを許さなかった。グイッと加減なく引っ張って俺の顔を自分に向けると、痛みに生理的現象で浮かぶ涙で潤ませた双眸を覗き込んでくる。

「やっぱりな。心当たりがあるんだろう…嘉藤か?」

「違う!」

 即答で答えた。
 きっと、甲斐が舐めるようにキスをした首筋には、最初からキスマークがついてたんだろう。
 俺が知らない内につけてしまっていた…たぶん、匠の口付けの痕だ。
 や、やべぇ!弟と致しました…なんかぜってぇに言えねぇってば!
 そうか、コイツの奇妙な態度はキスマークだったんだ!
 俺のバカ!
 どうして家を出るときに確認しなかったんだろう!?このままだと、絶対にヤバイ。
 くそう…匠のヤツ、覚えてろよ!

「違う?そうか、じゃあ誰だ?」

「い、言えない…」

「言えないだと?お前が?へえ、庇いたいヤツなのか」

「そう言うワケじゃないけど…」

 口篭もる俺を見下ろしていた甲斐は、不意にズボンの尻ポケットから何かを取り出してニコッと笑った。何かを企んでいる時の、いっそ爽やかなほど綺麗な顔で。

「言うことを利かない奴にはお仕置きが必要だよな?」

 言うなり、甲斐はあっという間に取り出した紐で俺の腕を拘束してしまった。それも外しにくいように背後で。ついでのように両方の足首も拘束してくれる。暴れて倒れてしまった俺を見下ろしながら、甲斐はゆっくりと立ち上がって、それこそ嫣然と微笑んだ。
 うっとりするほど綺麗な顔をして、形の整った唇から漏れた言葉に愕然とする。

「大人しく言うことを聞くまでは…帰らせないからな。幸いなことに、ここは防音だし。明日は土曜だ」

 俺は甲斐を見上げながら息を飲んだ。
 それでも、嬉しい…と思ってしまう俺は、やっぱり変態なんだろうか?